道具屋を営む彼が「面白いもんを手に入れました」と言って、包みをふたつ取り出した。
包みを開くと、それは香炉とお香だった。香炉は美しい装飾が施されているものの、どこからどう見ても普通の香炉とお香。これのどこが「面白い」ものなのだろう。もしかしたら珍妙な香りがするのかもしれない。
はしたなくもお香に顔を寄せ、すんすんと鼻を鳴らすと、彼はくすりと笑って、このお香について話してくれた。
「これは反魂香というもんです。なんでも、焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるとか。これを焚いたどこぞの国の皇帝が、煙の中に亡くならはった奥さんの姿を見たそうです」
なるほどそれは面白い。でも「へぇぇ」と大袈裟に相槌を打ったせいか、彼は「信じてませんね?」と、その涼やかな目を細めた。
信じてはいる。むしろ信じたい。死んだ誰かにまた会うことができるなんて夢がある。死が今生の別れではあっても、永遠の別れではないと、思うことができる。
「まあお遊びやと思うて、使うてみてください」
彼はそう言ったけれど。
「お遊びでなんて使えまへん。これっぽっちしかないんやから、ここぞというときに使わんと」
「ここぞ、ですか?」
「へぇ、ここぞ、です」
「ほな、僕が死んだら、使うてください」
そんな彼の一言は、和やかな雰囲気に似つかわしくないもので。私は顔を強張らせて、彼に視線を移した。
それでも彼は和やかに笑っていた。まるでいつも通りの他愛のない会話をしているような、そんな表情だった。
そんな態度で恐ろしいことを言う彼に、私は「お断りします」と意地悪をした。
「いけずやなぁ」
それでも彼は笑顔だった。いけずは彼のほうだ。まるで自分が近々死んでしまうと、言っているように聞こえる。
「適当な所で使うてください。あんさんが珍しいもんを持ってはるようやと話が漏れて、みんなが譲ってくれと押し寄せたら、えろうおうじょうしますよ」
使わないなら使わないでいい。往生するのなら往生してもいい。
とにかく、近々彼が死んで、彼に会うために使うということだけは避けたい。願わくはこの人とは、ずっと一緒にいたい。彼も同じ気持ちでいてほしい。
小さく息を吐いて香炉とお香を包み直し、徳利が乗った盆を引き寄せた。彼もこれ以上は何も言わずに、楽しそうにお酒を呷った。
私が攘夷派の内偵であると疑いがかかり、夜の闇に乗じて長く暮らした花街から逃げ出したのは、それから間もなくのことだった。
彼からもらった香炉とお香は、長い間お世話になった揚屋の旦那さんに託すことにした。それらがどうなったのかは分からない。追手に捕まり拷問を受けるのは構わない。情報を漏らす気は毛頭ない。けれど知らない誰かの手によって命を落とすことだけは嫌だった。
それならば貴方さまの手で終わらせてほしい。彼にそう頼み込んだ。追手から逃げ切ることは難しいだろう。幼い頃から花街で生活してきた私が、追手の目を掻い潜り京から脱出するのは至難の業だ。ならば私は、ここで役目を終えることにする。
彼はそれを拒否し、逃げ道と潜伏先の説明をしたけれど、とても現実的だとは言えなかった。彼はそれが理解できないわけではなかった。私をどうにか逃がしたい、けれど無理な逃走で捕縛され拷問を受けることになってしまったら……その狭間で揺れ、苦悩し、嘆き、憐れみ、そして最後には、刀を抜いてくれたのだった。
脇差の切っ先が、胸に突き刺さる。彼は空いている左腕を私の背中に回し、優しく包み込むように抱いてくれた。こんなに幸せなことはない。花街に売られた私が、愛しい相手の腕の中で生涯を終えるだなんて。思わず笑みがこぼれた。
けれど彼は泣いていた。いつもの柔らかい表情はどこにもなく、ただその涼やかな目から、ぼろぼろと涙をこぼしていた。そして気付く。私は最期の最期で、取り返しのつかないいけずをしてしまったのだと。
私は幸せでした、だから泣かないで。それを伝えるために彼の震える喉元に頬を摺り寄せる。彼は何度も私の名を呼び、背中を擦って痛みを紛らそうとしてくれた。
それでも彼は、いけずな私を許さないだろう。でももし許されるなら、願わくは……願わくは来世では、一緒になりたい。こんな動乱の時代ではなく、誰もが平和と幸福を享受できるような時代に出会って、一から恋をしたい。
――来世で会いまひょ。
出かかった言葉を寸でで飲み込み、静かに目を閉じた。私の最期の頼みを聞いてくれた優しい彼を、死にゆく私の呪いじみた言葉で縛りたくはなかった。だからただ静かに、彼が呼ぶ私の名を聞いていた。それもまた、幸せなことだったと思う。愛しい相手の声は、何よりも安らぐ子守歌なのだ。
そうやって生涯を終えた私には、この後彼が、国が、攘夷志士たちがどうなったのか、知る由もない。もしかしたらあの後すぐに動乱の世が終わり、安寧の時代が始まり、彼は私ではない誰かと結ばれ、幸せな生涯を送ったかもしれない。
今生を終えた私にできるのは、彼が反魂香を使ってくれる日を待つことだけだった。
けれど彼と再会する日は、ついぞやって来なかった。
(琴里の章・了)
二十六歳、春。六年付き合い結婚間近だった婚約者に振られ、仕事を辞め、母の実家がある京都へやって来た。
母の実家は江戸時代からあるという立派な門構えの大きな旧家で、使っていない部屋が多数ある。婚約破棄を聞き心を痛めた祖父母と伯父夫妻が、気分転換にと誘ってくれたのだ。柔和な雰囲気の祖父母と伯父夫妻は温かく迎え入れてくれて、ささくれていたわたしの心をたいそう癒した。
結婚が無くなったのも、仕事を辞めたのも、まあ良い。いくらでもやり直せる。でもどうして急に、京都に来る気になったのか。それだけが不思議でならない。
誘われたからとはいえ、そこまで思い入れがあるわけではない。母の実家のため数年に一度は遊びに来ていたけれど、それは子どもの頃の話だ。大きくなるにつれ部活や勉強やアルバイトで忙しくなったため、遠く離れた京都へはなかなか足が向かなかった。特に成人してからの六年は、一度も来ていない。高校の修学旅行は沖縄だったし、大学の卒業旅行は北海道へ行った。
それなのに祖父母からの連絡をもらったとき、行かなければと思ったのだ。むしろ、今行かなければならない気がした。
とにもかくにも久しぶりの京都だ。お寺巡りでもして、しばらくゆっくりして、心を静めて。それからまた職探しをすればいい。新しい恋だっていつか見つかるはずだ。
祖父母宅に到着して数日は、のんびり過ごした。祖父母とおしゃべりをしたり、伯母と一緒に家事をしたり買い物に出かけたり。
そして週末。伯父が朝から蔵の掃除をしていたから、手伝うことにした。どうやらあまりの古道具の多さに横着して、ここ数十年、一度も掃除をしていなかったらしい。
足を踏み入れた蔵は、なるほど確かに埃にまみれ、見るからに古そうな道具でいっぱいだった。
この多くはもう売ってしまうか捨ててしまうか、歴史的な価値があるものなら施設や団体へ寄付するか。そうでもしないとせっかくの大きな蔵なのに新しいものが入れられないし、どこに何があるのかすらも分からない。だから気に入るものがあったら持って行ってもいいよ、と。伯父は蔵の惨状に苦笑いしつつ言った。
しかし気になるものと言っても。これだけ古く、乱雑に置かれた道具の中から「これぞ」というものを見つけるのは難しい。わたしも苦笑いしつつ「そうします」と返しておいた。
蔵の掃除は難航していた。
伯父たちも昼間は仕事があるし、手を付けられるのは仕事が早く終わった夕方からか休日のみ。
それ以外の時間帯はわたしがちまちまと手を付けたけれど、如何せん物が多い。マスクが意味を成さないくらい埃っぽい。とりあえず手前の棚や木箱にある、明らかにもう使えなさそうな物を処分していく。
でもさすが江戸時代から続く旧家である。年代物の古道具は、マニアが見たら垂涎物ばかりだろう。
まあわたしは古道具マニアではないし、「埃がすごい」「みるみるうちに手が荒れる」「使い道がない」と思ってしまう。古書には少し興味があったから何冊か手に取ってみたけれど、傷みまくった和紙やわら半紙でさらに手が荒れ始めたため、数ページで断念した。
古くて小さくて薄汚れた木箱から、美しい装飾の香炉を見つけたのは、数日後のことだった。手前の荷物を退けたら出てきた一段と埃まみれの棚の上段に、高価そうな花瓶や茶器と共に並んでいた。その香炉を見た瞬間、目が奪われた。
わたしはこういうものには詳しくないし、今までお香を焚く習慣もなかったけれど、なぜだかどうしてもこれが欲しくなった。
木箱には、和紙に包まれた黒い木片らしきもの。これを焚くのだろうか。これは何年前のものなのだろう。湿気ていないだろうか。
夜、伯父にこの香炉をもらう了承を得て、使い方を教えてもらった。
黒い木片らしきものは恐らく香木で、香木なら空薫(そらだき)が良いだろうとのこと。空薫とは、おこした炭をうずめた香炉で香を焚く方法らしい。昔の人はそうやって家具や着物に香りを焚きしめたりしていたそうだ。
灰や炭をもらって、とにかく使ってみることにした。
伯母の話では、香道教室なるものもあるらしい。使ってみて興味が湧いたら、通ってみるのもいいかもしれない。せっかく恋人も仕事もない時期だ。京都にも来た。視野を広げる良いチャンスだ。
炭にマッチで火を付け、灰の上に置いて、少し待つ。おこった炭を灰に浅く沈めて、灰を温める。充分温まったらそこに香木を乗せて、焚いていく。
少しするとそこから、ゆらゆらと煙が出始めた。が、肝心の香りは全く感じられない。香木というのは、予想したより香らないものなのか。それともわたしのやり方が間違っていたのか。古すぎて悪くなってしまったのか。むしろ、これは本当に、香木だったのか……。
疑問ばかりが募り、香炉に顔を近付ける。やっぱり香りはない。その代わりに煙はどんどん大きくなり、少しけむたい。
お世話になっている祖父母宅の一室に煙を充満させるわけにはいかない。窓を開けようと腰を上げた、そのときだった。
部屋に充満していた煙が集まっていく。香炉に向かってしゅるしゅると。何かの形を作るように。
あまりのことに驚いて、中腰のまま、その煙の行方を見つめていた。
その煙は次第に人の形になり、人の形は次第に色付き始める。そしてものの数分で、ひとりの男性の姿が浮かび上がったのだった。
男性は着物姿だった。頭には髷があった。涼やかな目をした、優しそうな雰囲気の人だった。煙の中の男性は、わたしの姿を見つけると微笑み、こう言った。
『やっと、使うてくれた』
穏やかなその声を聞いた瞬間、わたしの意志ではない涙が、濁流のように流れ出す。「わたし」はこの着物の男性を知らない。だから親しげに声をかけられる理由も、涙を流す理由もないのだ。
けれどわたしは、涙の理由が解った。悲しみ、喜び、親愛、渇望、念願……様々な感情が、抱えきれないほど胸に溢れているのだ。
それを全て包み込むような優しい声で、煙の中の男性は『ついておいで』とわたしを促し、煙の中に消えた。残された煙は意志を持っているかのようにふわふわと動き出す。わたしは手の甲で乱暴に涙を拭い、何も考えず、その煙の後を追ったのだった。
夜の街によく映える白い煙の後を、小走りで追う。途中少し距離が離されると、煙はわたしが追い付いてくるまで待ち、そこまで辿り着くとまた誘導を始める。それを何度か繰り返し、涙は乾き足が棒になってくる頃。
とある家の前で、煙はすうっと、夜の闇に溶けるように消えてしまった。
息を切らしながら、辿り着いた家を見上げる。古く、こじんまりとした瓦屋根の家。そこは古道具屋のようで、瓦の上には木製の看板が掲げられている。営業時間は終了したのか、引き戸は閉ざされカーテンが引かれている。けれど灯りが漏れているから、中には人がいるだろう。
それが分かったとしても、訪ねていいものか。というより、今の出来事をどう説明すればいいのか。
蔵で見つけた古い香炉でお香を焚いたら、煙の中から着物に髷の男性が現れて、促されるままここに辿り着いた、なんて。素直について来たのはわたしだけれど、にわかには信じ難い話だ。時間も時間だし泥棒か、良くても変質者だと思われてしまうのではないだろうか。それか、狐につままれたか狸に化かされたのでは、と笑われるだろう。
どうすれば怪しく見えないか逡巡していると、カーテンが揺れ、人影が見えた。まだ考えはまとまっていない。狼狽して動けずにいるうちに、引き戸が開き、温かみのある橙色の灯りが夜道に差し込んだ。
まずは謝罪だ、こんな時間に店の前に立っていたことを詫びて、泥棒でも変質者でもないと信じてくれるのなら、わたしが体験した奇妙な出来事を話そう。そう思って顔を上げた、瞬間。驚いた。
そこにいたのが涼やかな目元をした、優しそうな雰囲気の男性だったからだ。先ほど煙の中に現れた男性にそっくりだ。ただし服装はごく普通のシャツだったし、髪はさっぱりとしたショートだった。
さらに驚いたことに彼は、こんな時間に店の前に立っていたわたしに不審な目を向けることなく「あなたのことでしたか」と言って微笑んだ。その声すらも、煙の中に現れた男性とそっくりだった。
「……あの、わたし、その……」
しかし困ったことに、未だ考えはまとまらず、むしろふたりの男性の容姿が信じられないほど似ていたことで、謎が増えてしまった。
困惑して言葉が出てこないわたしを前にしても、柔和な雰囲気を崩さない彼は、くすっと笑って口を開く。
「ほな、僕から話しても?」
「え、ええ、すみません、どうぞ……」
「……昔からよく、ある女性の夢を見ました。そのひとは煌びやかな着物を着てはって、たぶん、花街で働いてはる方やと思います」
「は、はあ……」
「僕はそういう女性に憧れているのかと思うたりもしましたが、どうも違う。僕は夢に出てくるあの女性だけが、恋しかったんです」
「はあ、はい……」
「その夢は何年も見続け、特に最近はちょっとうたた寝しただけで見てしまう。僕はどうしてしまったんやろうと、悩んでいたんですが。つい今しがた、ほんの数分うとうとしたとき、またあの女性が夢に出て来て言わはった。戸を開けてくれまへんか、と。そうして言われた通りに戸を開けたら、あなたがいました。あなたはあの女性によく似とって、驚きましたが納得しました。僕はどうやら、あなたが訪ねて来るのを、何年も前からずっと待っていたみたいです」
「……」
突拍子もなく、にわかには信じ難い、不思議な話だった。けれどつい先ほど、焚いたお香の煙の中から、彼にそっくりな男性が現れ、ここまで誘導されて来たわたしにとっては、とても信憑性のある話でもあった。
ともすれば不審者だと判断されてしまいそうな突拍子もない話を始めたのは、彼に確信があったからだ。わたしも「そう」だと。
だからわたしも真っ直ぐに彼の、初めて会うのに見覚えのある顔を見つめて、大きく頷いた。
「わたしも……あなたに会うために、京都を訪れたみたいです」
そうして何の疑問も持たずに奇妙な会話を続けていたわたしたちは、ようやく自己紹介をし、順番が違ったね、と笑い合ったのだった。
(琴音の章・了)
「なるほど、それは反魂香やと思います」
「はんごんこう、ですか?」
「焚くとその煙の中に亡くならはった方の姿が現れるという、伝説上のお香です」
「それですね。もうそれでしかないと思います」
「前世の僕がどこぞから手に入れて、前世の琴音さんに渡し、使われないまま他の方の手に渡り、琴音さんのお母様のご実家に眠っていた、と」
「百六十年近く、よく眠っていられましたね、このお香も……」
「前世の琴音さんから託された方が、大事にしたはったのでしょう」
「わたしのご先祖さまですかね。感謝しないと」
あれから数日。わたしは毎日彼――俊允(としまさ)さんの店舗兼住居に通い、古道具屋の仕事を手伝いながら、あの奇妙な出来事について話している。
と言っても、わたしは今まで俊允さんのように夢を見ていたわけでも、何かを察していたわけでもない。ただなぜだか急に京都に行かなければという気になっただけだから、話せる情報は少ない。
祖父母によると、先祖は江戸時代に島原花街で揚屋を営んでいたらしい。揚屋は時代の変わり目に廃業してしまったけれど、多くの人脈があったため、その後は呉服屋を始めたようだ。その呉服屋は現代まで続き、今は伯父夫妻が経営している。
俊允さんは学生時代から例の夢を見始めた。夢はいつも女性と話す「誰か」の視点で、他愛ない雑談のときも、声を潜めて物騒な話をしているときもあったという。
話の内容から、女性と「誰か」は幕末を生き、女性は花街で働きながら、「誰か」は京で商売をしながら、攘夷派の志士に協力していたということが分かったらしい。
そしてふたりは大変な任務の最中、お互いを想い合っていた。香炉とお香が贈られたのは、その頃のことだろう。
けれどそれは使われることなく人の手に渡り、祖父母宅の蔵で眠っていた。人の手が誰かと言えば、恐らく揚屋を営んでいたというわたしのご先祖さまに。
つまり幕末の動乱を生きたふたりの物語は、悲しい結末を迎えたということだ。
その悲しい結末の先に、わたしたちがいる。俊允さんとわたしは、あのふたりの生まれ変わりなのだろう。動乱の時代ではなく平和な時代に生まれて出会うため、百六十年近くの時間が必要だったのだろう。