【書籍化】雨の神は名づけの巫女を恋ひ求める




下界、舞宮。鈴花は今日もイライラしていた。理由は簡単、鈴花の声に天雨神が反応を示さないからだ。

(何故……、何故今まで応じて頂いていたミツハさまのお声が賜れなくなってしまったの……!? わたくしがなにか間違えているというの!? 今までと舞も唄もなにも変えていないというのに!!)

何も変えていないどころか、今までより一層入念に舞も唄も舞宮で披露している。それなのに、今日も舞宮の天井からミツハが降りて来てくれる兆しすらない。苛立ちから神楽鈴を舞宮の床に叩きつけてしまう。

「全てお父さまに教わって、血のにじむような努力をした、たった一人の天雨家の宮巫女であるわたくしが、何故今、天雨神さまの声だけ聴けなくなってしまうのか、理解が出来ないわ!」

御殿の大きな椅子から天帝が立ち去った後であることもあって、鈴花は金切り声を上げた。

(わたくしはどの天宮家の宮巫女よりも優れていてよ。それなのに、突然ぷっつりと音沙汰なくなってしまったミツハさまの方こそ、宮巫女(わたくし)との契約を蔑ろにして失礼というものだわ!)

今日もミツハの降臨がないばかりか、またしても天帝は呆れて蔑視の目で鈴花を見やった。父と母に蝶よ花よと育てられ、今まで天神の声を聴く宮巫女として大事にされてきた鈴花には、たとえ目上の天帝であっても、蔑まれることは耐えがたい屈辱だった。三年前までは雨も順調で珍重されていたこの自分が今、捨て置かれる状況を、鈴花は受け入れられないでいた。

(でも、実際ミツハさまのお声が賜れない以上、ヤマツミさまとナキサワさまにお願いしないといけない……)

鈴花は美丈夫であるナキサワは兎も角、老翁であるヤマツミをあまり好いていない。出来れば美しい存在とだけ関わりを持っていたかっただけに、麗しいミツハとの関係がこと切れてしまって、老爺のヤマツミを頼らなければならないのは、自身の自尊心からも許せなかった。しかしナキサワだけを頼ろうにも、そもそもナキサワの水の源はヤマツミの堰堤の水。ナキサワを呼べばヤマツミも降りてくるのが、ここのところの常だった。

鈴花は神楽鈴を持ち直して、舞宮で舞い唄った。

「ヤマツミさま、ナキサワさま。地の民に水をお恵み下さい。豊富な水路の水と井戸の水を、お約束下さい」

鈴を鳴らす声で舞宮の天井に訴えると、果たしてヤマツミとナキサワが、すぅと姿を現した。

「鈴花。我が巫女姫。約束しよう、我が堰堤より灌漑水路とナキサワの井戸に、豊かなる水を」

鈴花の呼びかけに応じながら、ヤマツミは内心ほくそ笑んだ。

(今までミツハ殿の陰に隠れて陽の目を見なかった儂が、今、舞宮で神として呼ばれるまでになった。ここでこの娘に儂のありがたさを嫌というほど分からせれば、宮巫女を通じて地の民に儂の名がとどろくこと間違いなしじゃ)

昔は何につけ天の雨が頼りだと言われた。それが今、明治政府の政治方針のおかげで、堰堤をはじめ、用水路や街を巡る井戸へ配水樋や給水樋などが民の為に張り巡らされた結果、それらに宿るヤマツミたちがここまでの力を得ることが出来た。つまり、これからこの国が見据える未来とヤマツミたちが歩むべき方向は同じなのだ。

「ヤマツミさま、ご厚情感謝いたします」

鈴花がヤマツミに向かって恭しくこうべを垂れると、ヤマツミはその様子を見て満足げに笑った。

「宮巫女に応じないなど、天神にあってはならぬ愚行。しかし儂が水を統べれば、おぬしも移り気なミツハ殿に頼らなくて良くなるぞ、鈴花。その時こそ、我らが地の世界の水の覇者となる未来が来るのだ」
水の覇者、とヤマツミはしゃがれた声ではっきり言った。まるで思いもよらなかったが、そもそも自分は努力家であるし、そもそも巫女の才もあったのだと思っている鈴花は、その甘美な誘惑に直ぐ魅了された。

「儂が地の世界の水を統べることによって、おぬしは他の宮巫女たちの領域にも深く関り、儂の協力が欠かせないものにすれば、おぬしは全てを統べられる。我らは真に世界の覇者となるのだ」

土を潤すも乾かすも水次第。木が育つも枯れるも水次第。日が射すには雨を降らせる雲の有り無しが関係する。天神五柱のうち四柱を手中に収めれば、世界を統べることも不可能ではない。

(そうだわ、才あるわたくしが只の宮巫女で終わるわけがない。ヤマツミさまと結託すれば、わたくしは全ての宮巫女の頂点となれる。それこそこのわたくしに相応しい地位だわ)

ヤマツミの言葉に目を輝かせると、鈴花はヤマツミに、ええ、ええ、そうですわね、と応じた。

「思えばミツハさまはわたくしに対してお心を開いてくださらなかった。いつもそっけなく対応されたことが昨日のことのように思い出されます。それに比べるとヤマツミさまはわたくしの祈りをお聞き届けくださるばかりか、私の立場までお考え下さる。大変光栄です。ありがとう存じます」

二人がそう言葉を交わし、手を結ぶのを他人事のように見ていたナキサワが、言葉を発する。

「僕も、地の民の為に井戸の水が万全であるよう、最善を尽くそう。しかしそれは、君が立身するためではない。僕は神だからね。願われたことに対して、応じるのみだ」

「なんと、ナキサワ。おぬしも共に鈴花をもりたてようではないか。そして我らが水神の頂点となるのだ」

ヤマツミの言葉にナキサワは苦笑した。

「いや、僕には分不相応な望みです。とてもそうなれるとは思えない」

「……まあいい。しかしおぬしにも助力をしてもらわねばならぬ。おぬしの井戸が枯れぬのは、儂の堤に水があればこそじゃからな」

ヤマツミの言葉に、ナキサワは頷く。

「僕はヤマツミさまと一心同体だ。手足に使っていただくことは、構いません」

ナキサワの言葉に、ヤマツミは深く頷いた。




ここ最近、新菜は鯉黒と一緒に庭掃除をしている。最初に一緒に庭掃除を、と申し出た時、鯉黒は新菜に、

「掃除をしたくらいで、俺の信頼を得られると思ったら大間違いだぞ」

と冷たく突き放したが、広大な庭を一人で管理するには労力が要る。二人でやった方が絶対効率が良いと思ったから申し出たのだ。

今日も仕事に精を出していたら、奥のほう過ぎて今まで気づかなかった池があるのに気が付いた。

庭の真ん中に水を湛えた大きな池ではなく、庭の端――植えられた樹々に隠れるような場所――にある、その池。庭の中央の池よりうんと小さく、そして樹々の陰になっていて水面は暗い。日の反射もないようだった。庭の中央の池が澄んで蒼く輝いているのに、この池は黒々としていて、しかも池の中央に墨のように真っ黒な渦が渦巻いている。何処からか汚れが流入しているのではないかと思い、新菜は鯉黒にこの池は掃除しないのか、と尋ねた。すると。

「その池の奥を覗いてはいけないよ」

不意に背後から声が掛かって驚いてしまう。

「ミ、ミツハさま!」

焦って振り向くと、笑顔だがどこか厳しい眼差しをしたミツハがいた。

「その池は下界と時空がつながっているからね」

「時空が……?」

「そう。下界で強く残された思念の向く方向に繋がっている。そうだね? 鯉黒」

ミツハが鯉黒に尋ねると、鯉黒は、はい、と頷いて暗い目をした。

「私が覗くといつもあの村……、私を贄にしたあの村が浮かびます……」

そうして鯉黒は、まるで新菜に示して見せるように池を覗いた。

「……俺は俺を贄に差し出した村を恨んで呪ったよ。勝手な人間の行いで命を絶たれた悔しさは今も残っている。奴らはたかが魚と思っていたんだろうさ。人間に心底憎悪が湧いたね」

今も思い出すだけでふつふつと怒りが湧いてくる。

そう言った鯉黒の池の水面に映った姿は、首の傷が赤く光ってまるで血を流しているようだった。赤い流れは鯉黒のいる池の傍の水面から中央に向かって流れていって、黒い池の中央で赤い流れと先程の黒い渦が出口もなく渦を巻いている。一緒に見えるあの景色は何だろう? 鯉黒が恨んだ村だろうか。赤と黒渦と一緒に見る村の様子は、いかにも呪われた村のように映る。

「この池はね、新菜。下界の祈りが届く場所でもあるんだ。でもそれだけに強い思念も届きやすい。鯉黒が映したその村に対して、鯉黒は未だ無念の思念を注ぎ続けている。きっと鯉黒は、天上界(ここ)で命を救われるよりも、下界で命を全うしたかったんだろうね。その無念をどうにもしてやれない辛さは、君ならわかってくれるだろう?」

鯉黒は今も苦しんでいるのだ。首の傷がその証拠。いつまでも自分を犠牲にした村を恨んで、人間に対する憎悪でここに立っている。でも、ミツハの傍に仕えるものとして、それは正しいのだろうか?

「鯉黒さんの苦しみは赤い渦なのですよね? 黒い渦は何でしょう……」

「黒い渦は鯉黒がここに来るより以前からずっとある。過去に巫の血を引かない宮巫女が立った時に、私が十分雨を降らせることが出来なかったことがあった。……もしかすると、鯉黒のように贄にされてしまったものの恨みかもしれない。……そのものには申し訳ないことをしてしまった。しかし、そもそも天宮家がちゃんと巫を巫女に立たせてくれたら、そんなことは起こらなかったのだよ」
ミツハの辛そうな表情が胸に痛い。鯉黒の無念と、黒い渦の恨みの主、それからミツハの辛さをどうにか出来ないものなのか。新菜は考えて、鯉黒に尋ねた。

「鯉黒さんが呪った村は、どうなったのです?」

「知らん。魚一匹に出来ることなんてたかが知れている。だからこそ、俺はあの村を今でも傷の痛みと共に恨んでいるんだ」

自分を犠牲にしておいて、のうのうと暮らす人間たち。

そう吐き捨てた鯉黒の手を、新菜は取った。

「鯉黒さん。私に出来ることをさせてください。鯉黒さんには恨みから解き放たれて欲しい。私に唄を唄わせて頂けませんか。人を思うミツハさまのお傍に、人を恨む方がいらっしゃるのはよくないような気がするのです」

「唄だと? 俺が聞くのか」

片眉を上げ、怪訝そうな顔をした鯉黒に一つ頷き、新菜は鯉黒を見つめた。

「はい。お嫌でなければ、聞いて頂きたいです」

鯉黒は押し黙った。新菜は鯉黒の反応を見て、否、と言っているわけではないのだな、と理解すると、風に載せて唄い始めた。



ひふみ 
よいむなや 
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ 
そをたはくめか
うおえ
にさりへて 
のます
あせゑほれけ



ゆっくりと、最後の音を響かせる。鯉黒がぱちぱちと瞬きをした。首の傷を何度も触り、痛みを確認している。

「……傷の痛みが……和らいだ……」

鯉黒はにわかに信じられない、という顔をした。その言葉を聞いたミツハも、驚きの顔をする。新菜も一度の唄で効果があるとは思わなかったが、ミツハにも効果があったことが鯉黒にも通用したことが嬉しかった。

「鯉黒さん。これからも私、鯉黒さんの為に唄いますね。私は、唄う事しか出来ないので」

「お前の唄の不思議な力の所為かもしれん。だが俺は、人間であるお前をミツハさまの嫁として認めたわけではない。ミツハさまを、真に救わなければ、認めることは出来ない」

相変わらず新菜に厳しい言葉を向ける鯉黒に、ミツハは苦笑する。

「鯉黒、君の忠義は分かる。だが、私にもどうにもできない君の傷を新菜が癒したなら、彼女を認めてやってほしい」

ミツハの言葉に鯉黒が恭しくこうべを垂れる。鯉黒が頑なに自分を認めない理由が、新菜も少しだけ分かった。それが鯉黒の、ミツハに対する忠誠の気持ちなんだろう。そう思ってしまう気持ちは、新菜にも分かる。

「分かっています。私はただ、出来ることを淡々と行うだけです。それに、池の黒い渦も放っておけない。あの渦がミツハさまのおっしゃる通り、贄にされた誰かの恨みなら、私はその方に恨みから解き放たれて欲しい」

新菜はミツハに頭を下げて、下界へ行く許しを請うた。

「ミツハさまがお住まいになる穏やかな水宮に、こんな恨みの渦は似合いません。私に癒させてください」

「君が……、この恨みを浄化するというのか?」

ミツハの問いに、こくりと頷く。

「出来るかどうか分かりませんが、鯉黒さんに出来たように、この黒い渦の主の方にも恨みから解き放たれて欲しいのです。下界でミツハさまをお恨みになったままになってらっしゃるその方は、恨みを持ったままでは魂が輪廻の道を辿りません。事実を知ってしまった以上、巫女として見て見ぬるふりは出来ないのです」

しっかりとした目で言う新菜を、ミツハは黙って見つめて、そしてため息をついたかと思うと小さく頷いた。

「……黒い渦は、恨みの対象が私であるだけに、私が君について下界へ降りるのは得策ではない。私が君を守れないが、それでも行くのか」

「はい。ミツハさまをお救いするためにも」

少しの間瞑目したミツハが、許そう、と呟いた。

「君は強くなった……。宮奥(ここ)に来た頃が夢のようだな」

寂しそうに笑うミツハに、新菜は返さなければならない。

「いいえ、ミツハさまの為だと思うから、出来るのです。ミツハさまがいらっしゃればこそ」

「はは、頼もしい。では私は君の無事を祈ってここに居よう。必ず帰って来るのだよ」

「はい」

返事をして池の淵に立つ。一歩、足を踏み出せば、草履が黒い渦に触れたかと思うと、新菜は池の中に引きずり込まれるようにして、下界への道を辿った。

降り立ったのはあの湖のほとりだった。静かな湖面に映る木々の陰が美しいこの光景が既に懐かしいだなんて、新菜はなんて遠くに来たのだろう。そんな感傷を抱きながらも黒い渦の気配を探すと、確かにその場には、あの時感じなかった禍々しさが漂い、それを辿ると、なんとミツハを祀った祠にそれがこびりついていることが見て分かった。

何故あの時見えなかったものが今、見えるのか。それを疑問に思ったが、それよりもこの怨念を払わないといけない。新菜がそこに込められた恨みが如何ほどのものかと祠に手を触れると、ビリッとした痛みと共に、体が恨みの根源にずるりと吸い込まれて行くのが分かった。





時空を滑り落ちるかのようにして新菜が降り立った地は、日差しのきつい何処かの寂れた農村だった。粗末な家々に乾いた畑。その向こうを見れば濁った大きな池のくぼみがあった。黒い渦を辿って天から滑り落ちた感覚のあった新菜は、まずは周囲を見渡した。

黒い渦を辿って来たと思ったのに、その村や池には黒い渦は見当たらなかった。見当違いの所に落ちてしまったのだろうか? 政府が力を注いで進めているという灌漑用水路がある様子もないし、ミツハは黒い渦がうんと以前から池に浮いていたというから、ここは新菜がいた時代よりも古い時代なのかもしれない。池の傍には人が群がっている。何やら相談をしている様子の村人たちの方に行ってみることにした。

「やはり魚や犬の首、猫の頭では天雨神さまは足りぬとおっしゃっているのだ」

「かくなるうえは、やはりあの娘を沈めねばならぬ」

「天宮の家が用意した、あの娘だな」

「うむ。あの娘はそもそも旱(ひでり)の時の為に生かされた娘。今沈めずして、いつ沈めるというのか」

村人たちが話し合いをしているのが聞こえた。沈めた魚と言うのは鯉黒のことだろう。ここが鯉黒の故郷だったのだ。そして今度は人間を贄として沈めようとしている。そうか、黒い渦はこの行いによってできてしまうのだ。出来る前にこの地に落ちることが出来たのはよかった。もしかしたら生贄になる人を助けて、黒い渦を作らなくて済むかもしれない。村人を止めなければと、新菜は村人たちへ歩み寄った。

「みなさま、お聞きください。命を池に沈めたとて、なんの効果もございません。命は生きてこそ神様のお喜び。命が祈ることで、神さまのお力が増すのです。贄などとお考えになるのは、おやめください」

突然現れた新菜に対し、村人は不信感をあらわにじろじろと新菜を見た。

「なんだあ? お前は」

「そんな上等な服を着て俺たちに講釈たれようっていうのかい」

「俺たちはお前よりもうんと貧しく生きてんだ。見ろ、あの畑を。旱で作物が枯れちまって、今日食べるものも危うい。俺たちは明日生きられるかどうかの瀬戸際なんだ。高みの見物してるお前なんかの説教は聞きたかないね」

村人にはミツハの紡いでくれた雨の糸で織った雨の衣が憎らしく映ってしまったらしい。失敗した、と新菜が思っても、もう村人たちに敵視されてしまった。このままでは天雨家から寄越されたという娘は池に沈んでしまう。どうにかして阻止しなければならなかった。しかし村人は娘を池に沈めることを決めてしまうと、新菜を置いてそれぞれの家に戻って行った。

やがてあたりが暮れかかり、粗末な家々から細々とした明かりが灯る頃。新菜は一軒の小さな庵の前で松明を持って入り口の番をしている人がいるのを見つけた。よく見ると入り口には紙垂(しで)がくくられている。きっとあの庵の中に贄として天雨家から連れてこられた娘がいるのだ。新菜はぼうぼうに生い茂った草を掻き分けて庵に近づき、背伸びをして小さな明り取りの窓から中の様子を窺った。
庵の中には白い斎服に身を包んだ若い娘が顔を青くして座っていた。目はうつろで、自分の身の上に起きることに恐怖しているのがありありと分かった。新菜も父・泰三に贄となるよう言われた夜、己の生きた道と翌日に途切れる自分という存在を受け入れがたい気持ちで震えていた。彼女の心のうつろさが身に染みて分かってしまう。

(ああ、胸が痛む……。こんなこと、止めさせなければならないのに、私は村の人を説得する術も、あの子を逃がす手立ても、持っていない……)

そう思い悩んでいた、その時。

「やあ、新菜さん。そこで何をしているのかな?」

突然背後から声を掛けられて、飛び上がるほどに驚いてしまう。振り向けば、緑青の着物に身を包んだナキサワがそこに居た。背後には簡素な井戸があり、ナキサワはそこから出てきたのかと推測する。

「ナキサワさま……」

「君は宮奥に居るものだとばかり思っていた。何をしに、この村に?」

「ナキサワさま、お力を貸して頂けませんか? この建物の中に居る少女が、もう直ぐ天雨神さまへの贄として池に沈められてしまうのです」

「ほう、贄として。しかしそれを決めたのは人間だろう。人の決めたことに、僕たち神が出来ることはない。願われれば別だけどね」

ナキサワは娘が贄になるのを止めないと、全く悪びれもなく言った。

「そんな……。あの子は私です。私も少雨のため、湖に身を投げろと命じられました。同じ境遇にいるあの子を、何とかして救ってあげたいのです……」

新菜にはミツハが現れたが、あの子にはおそらくそれは望めない。であれば、彼女が池に沈む前に助けてやりたい。沈まなければ、呪詛を唱えなくてもいいようになる。新菜は再度、ナキサワに縋った。

「私に契約を持ちかけて頂けたのなら、同じお気持ちであの子を救ってはいただけませんか? あの子が贄になる意味はないのです」

「そうは言っても、僕はあの子と何の契約もしていないし、彼女とのつながりは一切ないよ」

尚もきっぱりと言うナキサワに、新菜は涙を浮かべた。

……おそらくこれが神という存在なのだろう。自身に与えられた役割に忠実に願いを叶えている。神それぞれに役割があるからこそ、干渉し合わない。そういう事なのだろう。でも、いっとき……、いっときあの子の助けになってくれれば……。新菜は彼女を助けられない無念の気持ちで涙を零した。その涙を、ナキサワが指でそっと拭った。

「この涙はとても清い。君は真実、人に心を寄せることが出来る心やさしい巫女なんだね……。我欲でなにもかもを欲する鈴花とは大違いだ」

「では……」

ナキサワの言葉に期待を寄せた新菜だったが、しかし君の望みは叶えられない、とナキサワは言った。

「僕に出来ることは井戸の水を潤すことだけ。他には何も出来ないよ」

残念だけど、とナキサワは新菜の隣に立った。それでも新菜は彼女の呪詛を止めなければならない。ミツハと約束したのだから。

新菜は再度、明り取りの窓から庵の中を窺った。娘がブツブツと唱えているのは祝詞だろうか。声が小さすぎて聞こえない。目を凝らすが、唇の動きからも、言葉は読み取れなかった。

ふと、ナキサワに似た知った気配が娘に近づくのを感じた。……これは水宮で会ったヤマツミの気配ではないだろうか。彼が娘を助けようとしているのだろうか。新菜は目を凝らしたまま、ヤマツミの姿を探したが、気配だけで姿を見ることが出来ない。ヤマツミが彼女を助けてくれればいいのだが、と新菜は祈った。


贄となる娘は、恐怖の真っただ中を心うつろに彷徨っていた。

(ああ、遂に私の命はついえるのね……。私が何をしたというの……。ただひたすら、神さまのお役に立つよう、努めてきただけじゃない……)

嘆きの淵に居る娘の心の中に、ヤマツミの声がこだまする。

『娘よ……。おぬしがうら若くして水に沈まねばならぬのは、全て天雨神さまの所為……。地の民から祈りを受けながら、何度もその責を放棄した、ミツハ殿の所為じゃ……』

娘は囁かれたヤマツミの声に驚きながらも、そうよ、そうだわ、と呟いた。

(あねさまも私も、祈りを欠かしたことなんてなかった。村の人たちだってそうに決まっているわ。そうでなければ、天雨神さまに縋る為に私を沈めようなんて思わない。神さまに頼るしかないのに、お慈悲を下さらなかった天雨神さまが悪いんだわ……)

ヤマツミの使嗾(しそう)に心をどす黒く染められてしまった娘は、バン! と開いた扉の外に立っている村長と天雨家の神薙である自分の父を見つけた。

「お父さま……」

最後の望みを掛けて娘が助けを求めても、父親は辛そうに目をつむるだけである。父親と一緒に来ていた天雨家の神官が重々しく口を開いた。

「月が天に昇った。儀式の刻限である」

神官がそう言うと、村人が娘の手を後ろ手に縛り、娘は村人に引きずられて神官と共に池の傍に連れてこられた。沢山のたいまつを掲げて、村人たちが総出で娘を迎えている。……いや、自分がきちんと沈むのを確かめるためにここに来ているのだ。

ぞっと娘の背筋を詰めたいものが走る。父の目に映っていることを知っていながら、本能的に逃げるために足が動いた。

「おい! 逃げるぞ!」

「とらえろ!」

「沈めてしまえ!」

数歩横へ走ったが、直ぐに大きな村人たちに押さえつけられ、捕らえられる。そうして大男に担がれると、神官が同じ小船に乗り、池の中央まで運ばれてしまった。神官が天雨神に祈りを捧げている間、娘は恐怖に眼前を暗くし、この行為を強いた神を呪った。

「お恨み申し上げます……、お恨み申し上げます……、天雨神さま……。私の命はこんなところで終わる筈じゃなかった……。あねさまは華々しい宮巫女としてご活躍されているのに、あねさまと私の命の何が違うというのでしょう……。お恨み申し上げます、お恨み申し上げます、天雨神さま……、お恨み申し上げます……」

恨みを呟いている娘を、大男が船の上で担ぎ上げた。

「沈めよ!」

「せいっ!」

呪詛を唱えながら、娘が沈んでいく。新菜はこの行いを止める術を持たず、池の傍からかつての自分を見つめてしまった。

真っ黒な夜の空の許に赤々と灯る松明の火が映る池の面(おもて)を覗き込んだ村人たちは、互いに娘が沈んだことを確認し合っていた。

「これで雨が降るぞ」

「天宮家から頂いた贄だ。効果がない筈がない」

安堵の顔で互いを見つめ合う村人を掻き分けて、新菜は池の傍に駆け寄った。見れば娘が沈んだ池の中央から天雨神への恨みの念が池の波紋にこだましている。ぐるぐると、水宮の奥の池で見たような黒い渦が、池の底から湧き上がって来て渦巻くと、それが天に上ろうとしている。怒りや憎しみを湛えた黒い雲があたり一面を覆い、恨みの雷鳴がとどろいた。天には天神の住まう宮がある。この渦を天に繋げては駄目だと直感で理解した新菜は、渦巻く恨みの念を浄化しようと、心を静めて鎮めの唄を唄い始めた。



ひふみ 
よいむなや 
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ 
そをたはくめか
うおえ
にさりへて 
のます
あせゑほれけ



ゆるり、と天を目指していた黒い渦が揺らめく。バリバリと雷光が空気を切り裂くような音がする。天に昇って行っていた渦の一部がパクリと割れて、新菜の方へと揺らめいて襲ってきた。

「きゃあ!」

「新菜さん!」

渦の一部が新菜に巻き付き、新菜を締めあげて空に掲げた。肌から感じる、娘の無念の念と恨みの強さ。娘の生きることへの強い思念が、この強い怨念を生み出しているのだ。

ググッ、ググッ、と体を締め付けられて恨みの一部が自分に向けられていることを知る。この娘には分かるのだ。同じ運命を負って、助かったものと助からなかったもの。その違いが。

『何故、生きてるあなたが、私が呪うことを間違っていると思うの! 私は殺された! 神と人によって!』

激しい慟哭が聞こえる。信じてきたものに裏切られた悲しみが、怒りと恨みを強くしている。ああ、このままでは彼女に来世がない。

「聞いてください! 辿った時間は取り戻せません! でもこれから辿る時間は選べます! あなたが恨みを忘れないままで居ると、ミツハさまを苦しませるだけでなく、あなたの魂も転生できなくなります! 辿った道はあなたと私で別れましたが、あなたの未来にも幸せになる方法があるんです!」

締めあげられて苦しい息の中訴えると、その場にとどろく咆哮が聞こえた。

『ヴオオオオオ!』

咆哮と共に新菜を締め付ける黒い渦の一部が先鋭化し、新菜の腹に刺さった。

「ぐぅっ!」

くぐもった声を上げれば、怨念の元はケタケタと愉快そうな笑い声をあげた。

『私の怒り恨みを言葉で救えるなんて思うのが間違いだわ! あなたは生きてる! 私は殺された!』

ずぶずぶと黒い先端が臓腑を切り裂く。吐血しながら、それでも新菜は訴えなければならなった。すべてはミツハの為に。

「私の……、命を屠って、あなたは……幸せですか……っ! あなたは……、幸せに、なり……たかった、の、では……、ない、のです……、か……っ!」

どくどくと血が流れる。同じ死にゆく運命の新菜を見て、念の中に迷いが生じたのを感じた。

いまだ。

新菜は迷わず苦しい息の中で唄い始めた。



ひふみ 
よいむなや 
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ 
そをたはくめか
うおえ
にさりへて 
のます
あせゑほれけ



脳裏に浮かぶ、鯉黒の首の傷。ああして昔からずっと、故郷の村に対する恨みを内包していた、可哀想な犠牲者。

鯉黒の人間(自分)を蔑む目や、沈んだ娘のうつろな目を思い出しながら、新菜は唄う。



ひふみ 
よいむなや 
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ 
そをたはくめか
うおえ
にさりへて 
のます
あせゑほれけ



誰もかれも、人に命を狂わされませんよう。




ひふみ 
よいむなや 
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ 
そをたはくめか
うおえ
にさりへて 
のます
あせゑほれけ



新菜を締めあげていた渦と、天に上る禍々しい光を放っていた渦が、薄れていく。



ひふみ 
よいむなや 
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ 
そをたはくめか
うおえ
にさりへて 
のます
あせゑほれけ



とぐろを巻いていた恨みの念は薄れゆき。

最後の唄に、パリンと砕け散った。




念の渦が割れて宙で放り出された新菜を、ナキサワが抱き留めた。

「新菜さん、見事な祓いだったよ……」

ナキサワは抱き留めた新菜をそのままに、渦の消えた月輝く空を見上げていた。

「君には人を救う力があるんだね……。あの娘は呪いを忘れて輪廻の道を辿った。君は素晴らしいことをやってのけたよ。これでヤマツミさまのまいた種がひとつ、消えた。しかし君の負った傷も深いな」

ナキサワが深刻な顔をして、新菜の腹の傷の出血を見る。そこへ首飾りが淡く光り輝き、傷を覆うと、すぅと傷を癒していった。

(今の気配は、ミツハさまのもの……)

「今の力はミツハさまだね」

不思議な気持ちになっていた新菜は、ナキサワに、やはりそうなのでしょうか、と問うた。

「私一人でやり切るつもりでしたのに、結局ミツハさまの助けを借りてしまいました……」

「花嫁殿を傷つけられたら、誰だって黙っていられないだろう。気にしすぎだよ、新菜さん」

そうだと良いのだけど……。新菜の心配は尽きない。

「これでミツハさまのご心痛を少しでも和らげられたのでしょうか……。帰ってみないと分からないので、何とも言えないです……」

「君に想われるミツハさまは幸せ者だ」

微笑んで言うナキサワに、そんなことない、と新菜は思う。

出会ってから助けられてばかりいたのだ。少し恩を返したくらいでは、ミツハの温情にはかなわない。

「そうかい? 僕はますますミツハさまが羨ましくなったよ」

どういう事だろう? 新菜が首をひねっていると、君、どうやって宮奥に帰るの? と尋ねられた。そう言えば、来るときはあの湖の祠を経由してここに来たけど、帰りはどうやって帰ったらいいんだろう。迷っていると、僕が送ろう、とナキサワが申し出てくれた。

「……ありがとうございます……。帰り道も確認せずに降りてきてしまいました。もしかしたらミツハさまのお気を煩わせたかもしれない……」

「はは、それは帰り方を示さなかったミツハさまの失態だね。おかげで僕は君を抱き上げることが出来るわけだ。それ!」

ナキサワはそう言うと、ひょいと新菜を抱え直すと、すいすいと空(くう)を渡り、宮廷の御殿へ来たかと思うと御殿の天井を突き抜けて、六角宮に新菜を連れてきた。新菜の気配を察知したミツハが水宮から雲の橋を渡って出迎えてくれて、新菜はミツハに抱き締められた。