今度は新菜が膝をつく番だ。天雨神の前に手を付き土下座して、地面に額が付くまで頭を下げる。神さまとお会いしたことを忘れるばかりか、神さまからの贈り物についてさえ全く覚えていない自分を、新菜は叱咤した。
ざりざりとした土の地面に額を擦りつけていると、肩を下から掬いあげられて、上体を起こす形になった。自然、天雨神と向き合う形となる。美しいかんばせが目の前に迫り、いっときどきりと胸を鳴らした。天雨神はそのままの姿勢で、手の指を揃えて手のひらを額に当てると、やや瞑目してそれから残念そうに、そうか、と呟いた。
「君は私に新しい命をくれた代わりに、記憶を封じてしまったのだな。あの時は私も君の力に縋るしかなかったから仕方ないが、そうなるとますます申し訳ないと感じざるを得ない。では、この首飾りを求婚の印として君に渡したことも、忘れてしまっているのだな。それで飛び出していることにも頓着しないのか。まあ、先ずその首飾りを着物の中に仕舞いなさい。それは大事なものだからね」
きゅ、求婚!?
いきなり飛び出たとんでもない言葉に、新菜は顔を赤くするより青くした。全く、自分は覚えていない所で一体この神さまに対して何をしでかしたのだろうか?
「そんなに青ざめなくともよい。あの時君は、ごく真面目に私の望みを聞いてくれた。その結果が記憶の欠如ならば、私にはその記憶の分、君を助ける義務がある。それは分かるね?」
天雨神の言葉に頷けば、彼はおそらく誠心誠意に新菜を助けてくれるのだろう。しかし神がいち個人を助けるというのは、果たして神の道理からは外れないのだろうか。そう神さまに問うと天雨神は美しい顔をふわりと和らげて微笑んだ。
「それが恋というものなのだろう? 私には初めてのことでよく分からぬが、神に祈る人の心は良く聞き及んでいるよ」
「ご、御慈悲とは違うのですか?」
神さまが人を相手に恋をするなんて信じられない。そう言うと天雨神はそうだなあ、と視線を森の梢の方にやり、しばし考えた後、こういう答えはどうだ、と新菜を驚かせた。
「神の身で過ごす三年は短い。だが君を見送ってからの私の三年は、確かに人の時間のように長かったと思うのだ。これは君に恋い焦がれていたからという証拠にはならぬだろうか」
ぽかんと。本当にぽかんと目の前の神さまを見た。
彼が言った言葉に似たような内容の話を、新菜は天雨家の侍女や下働きの女たちから話で聞いていた。誰それともう三日会っていない、だの、今度はいつ会えるだろうか、だのと、それはそれは賑やかに、そして生き生きと頬を紅潮させて話していたのを思い出したのだ。天雨神が言う言葉が本当であれば、それは使用人たちの色恋話と変わらないような気もする。ただ、新菜に対してそれに頷けと言われても、難しい所だった。
新菜に恋の経験はない。そんなことよりあの家で受ける折檻に耐え続ける日々だったので、恋などというものに割く心の余裕がなかったのだ。日々、市子や鈴花の顔色を窺い、怒声と折檻を受け、彼女たちの気持ちに歯向かわないように努めて生きてきた。恐怖と怯えにすり減った心は、使用人たちの色恋話を遠くに聞いていたのだ。
恐る恐る、口を開く。
「あの、申し訳ありません。私、分からなくて……」
日々繰り返し苦痛と憎しみを向けられることで、何かを感じるということに疎くなっていた。
そう説明すると、神さまは慈悲の眼差しを向けてくれた。大きくて暖かい手が新菜の頭を撫でる。
「そうか……。よく今まで耐え忍んだな。しかしもう大丈夫だ。私の所へ来れば、君は豊かな人間になる。神である私が保証する。兎に角、私には自分の為に記憶を失った君を助ける義務があるし、そう遠からぬ未来に、君は必ず心美しい私の花嫁になってくれている筈だ。だからどうだろう、その身を投げて命を賭す覚悟があったのなら、その覚悟の分、これから私と共に暮らしてはくれないだろうか」
共に、暮らす……、とは……。
「そうだな、まずは宮に行こうか。私は湖(ここ)でも構わないが、君が濡れて風邪を引くといけない。乗りなさい。宮まで飛ぼう」
天雨神はそう言って銀色の龍に変化(へんげ)した。龍の姿でも天雨神は新菜にやさしく、新菜を背に載せて美しい鬣(たてがみ)に掴まらせた。
「掴んでも痛くないからな。きちんと掴みなさい」
そう言って新菜が鬣を掴んだのを確認すると、湖のある山腹の森から一直線に真上に上り、そして新菜が半日かけて上った山を見下ろした。
天雨神はぐんぐんと風を切って空を走り、あっという間に天帝のおわす宮廷の真上に到着した。
「人が宮奥(みやおく)に入るのは初めてではないが、水宮(すいぐう)に招いたのは初めてだな」
この国では天神の住まう天上界を宮奥と表現する。元は舞宮より奥の方、つまり人間が立ち入れない所のことを、そう言っていた。
天雨神は新菜にそう言うと、変化を解きながら新菜を抱え、宮廷の真上にある雲の上にそびえる大きな建物をゆび指した。中央に六角形の屋根の建物と、周りにある五角形の屋根の建物が五つ配されており、その五角形の屋根のうちの一つにひらりと舞い降りる。
建物を囲っていた雲がすうと晴れると、そこには重厚な作りの玄関がそびえ立っており、その板木の重さだけで雲が割けてしまうのではないかと思わせるほどの大きさだった。その扉が、天雨神が触れることなくギイと開く。すると中から飛び出してきたのは、年のころは六~七歳だろうか、茶色い髪の毛がおかっぱ頭の目がくりくりとした背丈が低めな童だった。
「おかえりなさいませ、ミツハさま! そちらの方はいったいどなたでいらっしゃいましたでしょうか?」
「ちょうどいい。チコ、今日からこの水宮で過ごす私の花嫁だよ。名は新菜。良くしてやってくれ。新菜、こっちは側仕えのチコ。童だがよく気が利くから、何かあったらチコに聞くと良い」
天雨神がチコを紹介すると、チコは嬉しそうに新菜に向かってお辞儀をした。
「新菜さま。わたくし、ミツハさまの側仕えをしております、チコでございます! ミツハさまの花嫁さまのお世話を出来るなんて、光栄です! よろしくお願いします!」
新菜は困惑した。まず、人の身で立ち入って良いわけではなさそうな宮にお邪魔してしまったこと。それから天雨神がてらいもなく新菜を嫁だと言い張ること。そしてチコに満面の笑みで受け入れられてしまったこと。
どれもこれも、今までの新菜の立場からすれば恐れ多いことだ。自分が贄となって天雨家の影響がある地の民に穏やかな雨が降れば、新菜の役割は其処で終わりの筈だ。
「天雨神さま」
「その呼び名は少し寂しいな。良ければ過去の名だがミツハと呼んでくれ」
請われてその名を口にする。
「では、ミツハさま。雨は地の民に届いておりますでしょうか?」
祈る気持ちでミツハに問うと、ミツハは難しい顔をした。その表情を見て新菜は悟る。雨はまだ降っていないのだ。
「だ……、駄目だったのですか……? わ、私がきちんと贄にならなかったから……」
父親は天雨神への贄として新菜を差し出すと言った。贄がきちんと贄として受け取られていないから、雨が降らないのではないか。新菜はそう考えた。顔を青くした新菜にミツハが、待ちなさい、と穏やかな声で諭した。
「君があそこで真に贄となっていても、状況は変わらない。私には祈りの声が聞こえないからな」
……声が、聞こえない?
「で、でも、ミツハさまはさっき、湖の傍(はた)で私の声に応じて下さったのではないのですか? 私の呼びかけに、応えて下さったのではないのですか?」
新菜の心に焦りが広がる。贄としても役に立たないのでは、新菜が生きていた意味がない。そう思うと焦りと絶望から、握った手がカタカタと震えてくる。
(わたしは、いきていたいみすらも、ないの……)
そう思ってしまうと、喉の奥から苦くて大きな塊がせりあがって来た。
掃除も炊事も神具の手入れも。心を尽くして頑張って来た時間が全て無意味だったというのか。
新菜は大きな虚無に襲われ、ぽたりと涙をこぼした。
(わたしは、どこへいっても、やくたたず)
事実を改めて認識してしまうと、今まで何も感じなかったというのに、今この場所では辛く悲しいと思ってしまう。ぽたり、ぽたりと涙をこぼしながらぼんやりとそう思っていた時に、握って震えていた手を大きくて暖かい手が包み込んだ。……ミツハの手だった。
「新菜。君が気に病むことではない」
「で……、でも……」
「この状況は、私が君に頼みを強いたことで起こっている。君が記憶と引き換えに私を救ってくれたということを知らなかったから、起きている。つまりは私の怠慢だ」
怠慢! 神から聞くにふさわしくない言葉に、新菜は仰天した。
「しかし記憶を失う可能性があるのならば、そもそもあの時に何故そう言ってくれなかった。聞いていれば何か策を考えることが出来ただろうに」
真剣な瞳で新菜を見つめながらミツハが言う。先程からしきりに新菜が記憶を失っていることを嘆いているミツハに、新菜もようやく思い至ることがあった。母親の言い残した言葉だ。
――――『言葉には力が宿ります。その力を使うには貴女の大切なものを犠牲にします。重々考えて使うように』
つまり、こうではなかろうか。過去に大変な状態にあったミツハを、新菜が言霊の力で救った。ミツハはその言霊の力で助かり、代わりに新菜はその時の記憶を失った。だからミツハだけが一方的に過去のことを覚えていて、新菜はその時の記憶が欠片も残っていないのだ。
からくりを理解した新菜は、ミツハに向き合った。
「ミツハさま。そればかりはミツハさまでも策はなかったと思います。私が巫の血を引いていることは申し上げましたが、実は母から巫として使う言葉の力について教わっておりました。母は、力を使う時に大切なものを犠牲にすると言っておりました。母にとってはそれが命で、私にとっては記憶だったのだと思います」
初めてミツハに向かって言葉を述べた新菜にミツハは、そうであったか、と難しい顔をして腕を組んだ。
「人の子は力に代償が付くのだな。そうとは知らず、新菜の記憶を奪ってしまってすまなかった」
心底すまないと思っていそうなミツハに、新菜は逆だ、と思う。
「いえ、私は神さまに仕える家に生まれたにもかかわらず、今まで神さまのお声を聞く機会を与えられませんでした。なので、今まで巫としての力があるのかないのか分かりませんでした。私は忘れてしまっておりますが、ミツハさまの為に何か出来ていたのであれば、それは私の生きる支えとなります。わたしこそ、ミツハさまに感謝申し上げなければなりません」
新菜はミツハの前で膝をつき、頭を下げた。何も成すことが出来ずに生きてきた今までの人生の中で、唯一、ミツハの為に何かを出来ていたことは、二重に新菜を喜びで包んだ。つまり、人として、そして巫女として、人生に跡を残すことが出来たのだ。
新菜は喜びに打ち震え、自らの初めての足跡(そくせき)に感動し、先程とは違う感情の涙をこぼした。はらはらと零れるそれは、宮の磨き抜かれた玄関の床を濡らした。ミツハは湖のほとりでそうしたように、今回も新菜の肩の下に手を差し入れ、そうして新菜の上体を起こしてくれた。涙に濡れる視界にミツハの美貌はそれでも神々しく、しかし穏やかに微笑んでおり、この人に認めてもらえた、という思いが改めて浮かび上がって来た。止まらない涙に、ミツハが痛そうな顔をする。
「新菜、我が巫女姫。君は泣いていても美しいが、出来れば私の前では笑っていて欲しい。君が涙する所以の全てを私は君から遠ざけたいし、君が笑ってくれるためなら何でもしたい。さあ、我が巫女姫。何が悲しい。何が嬉しい。教えて欲しい」
とろりとした蜜に包まれるような声で、ミツハは新菜に言葉をねだる。こんな風に素直に人に何かをねだられたことのなかった新菜は面食らってしまい、おろおろと自分の中にミツハに返すべき言葉を探した。
(悲しいことと、嬉しいこと……。何かしら……。命を助けて頂いたんだもの、これ以上の嬉しいことはないけど……)
じっと新菜の前で答えを待つミツハの顔を見ては考え込み、また見ては考え込む。そんなことを数回繰り返して、そうしてもう一度ミツハに聞いてみる。
「ミツハさま。雨は……、地の民に、雨はいただけませんか……。私の命を賭して叶えるよう言われた、大事なお役目です……。それが叶わないのでは、私に生きている意味がありません……。どうかどうか、叶えてはいただけませんでしょうか……」
新菜の言葉に、ミツハはやはり難しい顔をする。このまま雨が降らなければ、父は別の贄を探すかもしれない。それはもしかしたら鈴花かもしれない。鈴花まで失ったら、天雨家はどうなってしまうのか。今、かろうじて末の神たちにお願いしている水の供給も、約束されなくなってしまうのではないだろうか。天雨家に生を受けた者として、それだけは避けたい。
「ミツハさま……」
「新菜。私は、自分が君の理を曲げてもいいものかどうか、迷っている。君が失った記憶を私が引きずり出すのは容易い。しかしそうした無理をした場合に、君に何か悪影響があるのではないかと、危惧している。分かるかい?」
ミツハが新菜を気遣ってくれているのは分かる。なので頷くと、だから、とミツハは続けた。
「つまり……、君が自分で失った記憶を見つけないと、このことは解決できない。しまったな。あの時こんなことになると知っていれば、君に無理をさせなかったのだが」
ミツハはそう言うと、ゆうるりと囲うように新菜を抱きしめた。その抱擁に、自分のことでミツハが心を痛めてしまったことを知って、新菜は目の前の神さまを慰めたいと思った。矮小な人間が何を出来るのかとは思うが、それでも自分のことを初めて認めてくれたミツハの心を痛めたままにしておきたくなかった。新菜はミツハの目をしっかりと見て、はっきりと言う。
「ミツハさま、お気に病まれないでください。言霊の力を使ったという事は巫女と認めてもらったという事。その時の私にとっても、光栄なことだったと思います。私はミツハさまの為に働きたい。ミツハさまのご心痛が解放されるように、手を尽くしてみます」
新菜の言葉に、ミツハは少し目を見開いて、それから、いい子だな、と新菜の頭を撫でた。
「君のような良き娘が贄などと、やはり人の考えることは分からんな。私も、君に無理をさせない方法を考えよう。今日はもう休みなさい。明日、また話そうではないか」
ミツハはそう言い、チコに宮を案内させた。新菜を連れてチコが扉を開いた部屋は、大きな窓から綺麗な三日月が見える部屋だった。床は香りのよい畳が敷き詰めてあって、三日月の色に染まっている。
「この部屋はミツハさまが花嫁さまの為にご用意したお部屋です。ミツハさまは水、雨を司る神さまですから、地の民の皆さまにお目にかかるときは日も月も見えません。花嫁さまがそのような不自由がないようにとのお心遣いです!」
チコの言葉に、少し疑問を感じる。
「……ミツハさまは神さまでいらっしゃいます。神さまは神さまとご結婚されるのではないのですか?」
新菜の問いに、チコは胸を張って答えた。
「そうであるときもございますし、人の子をお迎えしたこともございます。創世の時代にはそのようなこともあったと聞いております」
つまりミツハが新菜を神嫁にすることは、決して悪いことではないようだ。新菜はそう理解して頷いた。チコは新菜が頷いたのを見ると、部屋の壁にしつらえてあった箪笥から何枚かの衣を取りだした。
「花嫁さま、お寝間着はどの衣が宜しゅうございますか? 空の雲を編んだ衣に日差しの香りのする衣、風の流れのように軽やかな衣もございます。全て宮奥の品でございます」
新菜はくらりとめまいがした。今まで与えられていた着物といったら他の使用人のおさがりで、繕った跡も多く、また裾はすり切れたボロだった。チコが手にした衣はとても高級そうだし、とてもそんなものを身に着けて眠るなんて出来ない。
「い、いえ、チコさん。私はそんな素晴らしい衣をまとっていいような人間ではないのです。ごくごく普通の、下働きの娘ですから……」
新菜の言葉にチコは目を大きくした。
「花嫁さま、下界でのことはお忘れください。貴女さまはれっきとしたミツハさまの花嫁さま。堂々と衣をまとい、良き夢をご覧になり、そうして明日にはまたミツハさまとお話をして頂きたいのです。何せミツハさまはこの三年間、花嫁さまからのお呼びを毎日毎日、待ち望んでいらしたのですから」
チコの言葉に新菜は頬を赤くし、そして青くなった。
「……私、ミツハさまにとても失礼なことをしていたのですね……」
ミツハを呼ぶどころか、会ったこと自体も忘れている。無理と分かりつつも、思い出せたらミツハは喜んでくれるだろうかと考えてしまう。
「花嫁さま、ミツハさまもおっしゃいましたように、わたくしにも花嫁さまに非があるとは思えません。今は心の重りを取り払い、ミツハさまと過ごしてはいただけませんか」
チコの言葉にその通りだと思う。過去を悔いても時は戻らない。それより今、明日からでも自分に出来ることをしなければ。
「チコさん、そうですね。私、ここでミツハさまのお役に立てるよう、努力いたします」
新菜が言うと、チコがにっこりと笑った。
「明日には私の仲間をご紹介いたしましょう。彼もミツハさまをお慕いし、敬愛している者です」
「ありがとうございます。仲良くしていただけると良いのですが……」
新菜の危惧に、チコはご心配なく、と胸を叩いた。
「彼も、ミツハさまが幸せになってくださることを望んでおります。花嫁さまのお考えは杞憂に終わるでしょう」
チコはそう言って、今日はもうお休みください、と、新菜に衣を渡して部屋を去って行った。
ふう、と意識が湖底から浮かび上がる水泡のように覚醒した。大きな窓からは遮る雲もなく陽が射しており、ぐっすり眠ってしまったのだと知ると、新菜は青くなった。
(いけない。居候の身なのに!)
昨日寝る前の予定では、朝は早く起きてミツハの為に食事を作らせてもらおうと思っていた。でも部屋を出ると丁度チコが来ていて、食事が出来ていると告げた。
役立たず。
散々言われてきた言葉ではあるが、新菜の手を取ってくれたミツハの役に立ちたかった。覚えていない所で役に立っていても仕方がない。新菜にはミツハが宮(ここ)に居ても良いと思ってもらう必要があった。
……忘れてしまっている求婚のことよりも、忘れてもなお、新菜が居ても良いと思って欲しかった。
初めて、新菜に手を差し伸べてくれた人なのだ。失いたくない、と思ってしまっても仕方がないだろう。
「新菜。食事は口に合わないか」
ミツハと卓を挟んで食事と摂っていると、ミツハにそう聞かれてハッとする。
「あっ……。そんなことありません。……今まで食べたどの食事よりもおいしい、です……」
新菜がこれまで口にして来たものと言えば、野菜の残りかすで作った汁ものや使用人たちの余りの麦などで、今、卓に並んでいる白い米やあたたかい汁、焼いた魚、そして大根の漬物など。眷属なのに魚を扱うのか、と考えていたら、ミツハが、心配するな、と、新菜の疑問を払しょくしてくれた。
「チコたちが食べるものと同じ、神力で作っている。私に仕えてくれているのだからね、そのくらいは当たり前だ」
成程、そうなのか。ではミツハの食事は……。
「私の食事は地の民からの祈りで出来ている」
「では、今でも地の民からの祈りは届いているのですね」
ホッとして新菜が言うと、ミツハは苦笑した。
「最近は採れる量も減って、味も薄くなった。そういう事なのだろうな」
思い出す、苔むした祠。その現実を辛く思って俯くと、気にするな、とミツハは言った。
「君がくれた命があるだけ、以前より良いよ。君のおかげだ、ありがとう」
何をしたか覚えていないことについて謝意を述べられても不安だ。本当に自分はミツハの命を救ったのだろうか。ますます俯きそうになる新菜に、ミツハは食べなさい、と食事を促した。新菜は指摘された食事を食べ終えてから、改めてミツハに申し出た。
「ミツハさま。私にこの宮での役目を与えてください。ミツハさまのお役に立ちたいのです」
新菜の言葉に、ミツハが顔を上げる。
「新菜、君が此処に居るのは私が君に対して罪滅ぼしをする為だ。役目があるとすれば、むしろ私の方ではあるまいか」
ミツハの言葉に新菜は食らいつく。父や義母、義妹に託された使命だって果たせていないのに、自分が役目を負わないわけにはいかない。
「私の命はミツハさまから地の民へ恵みの雨を頂くためにございました。地の民に雨をくださいます為なら、どんなことでも致します。どうかどうか、お役目を与えてくださいませ」
新菜は卓から少し離れて、やはり額を擦りつけて土下座した。ミツハは軽く嘆息した後、ではこういうのはどうだろう? と新菜に言った。
「人の世で言う三年分、私に君を愛させてくれないか。いっとき千年の神(わたし)の身でも、君を待ち焦がれる時間は長かった。君の記憶を奪ってしまった償いをさせて欲しい。償えたらば、その時に雨を降らせようじゃないか」
新菜は悩んだ。常に人に傅く立場だったから、人から何かをされることに慣れていない。しかしミツハは頑なに贄としての新菜を受け入れてくれないし、新菜は宮奥(ここ)から現世への帰り方も分からない。
本当に。
本当に、信じていいのだろうか。
母亡きあと、あの家に住まわせてくれた父親が自分を贄として差し出した時のように、まるで要らない手駒のように扱われたら、新菜は今度こそ生きる希望を持てなくなる。
しかし真剣なまなざしで言われて、新菜には頷く事しか出来ない。新菜が頷けばミツハは五月の風のように爽やかに微笑んで、その小指を差し出した。
「約束しよう、我が巫女姫。必ずやその傷を癒してあげようじゃないか」
差し出された小指に、あかぎれだらけの小指を絡める。絡まって温度が伝わると、小指のあかぎれはふうわりと淡い光となって消えた。
「!? 神さまのお力ですか? これは!?」
「そうだね。君の心の傷もこのように綺麗に消してあげたい。しかし人の心は繊細なもの。私は幾重にも手を尽くすと約束するよ」
美しいかんばせで微笑まれて、ここ久しく笑みを向けられたことのない新菜はうろたえた。自分は人に笑みを向けてもらえるような人間だろうか。そんな考えが浮かんで俯く新菜に、ミツハはやさしく声を掛けた。
「我が巫女姫。君の負ってきた傷はよほど深いと見える。その境遇に身を置かざるを得なかった君を、哀れに思うよ。しかし今日から君は、これまでと違う道を歩むのだ。そのように俯いてはいけない」
顎を持ち上げられて、首を上げさせられる。正面に穏やかな笑みを浮かべたミツハが居て、新菜はその美しさに鼓動を早くした。
「でも私……」
何も出来ない身で、施しを受けるわけにはいかない。ミツハに愛させてくれと言われたけど、やはり何かせずにはおれない。そういう風に生きてきたから、ただただ尽くされるのは身の置き所がない。新菜はみたび、ミツハに申し出た。
「やはり私に役目をくださいませ、ミツハさま。地の民の役に立てていない今、地の民に尽くす天雨家で育った私としては、なにかミツハさまのお役に立てることがしたいのです……」
強情な新菜に困ったように笑うミツハに、傍に仕えていたチコが申し出る。
「ミツハさま。花嫁さまのお心を軽くして差し上げるのも、ミツハさまのお役目。宮内の軽いお仕事なら私もお手伝い出来ますし、……どうでしょうか?」
チコの口添えで、しぶしぶミツハが頷く。その拗ねた様子のミツハに、新菜はおや? と思う。ただただ神々しいばかりの穏やかな神さまかと思っていたが、意外と子供っぽい所があるのかもしれない。
「仕方ない。新菜がそう言うのなら、今日から時々チコたちと過ごすがよい。だが新菜、この宮の主は私だ。私のことを放っておいてはならん」
やはり自分の立場を誇示して放っておくなと言うところなどは、子供が駄々をこねるような感じに見えて微笑ましい。その考えにほわりと笑みを浮かべれば、ミツハは驚いたように喜んだ。
「いや、新菜。やはり君は笑っていた方が良い。出来ればずっと私の傍で笑っていて欲しい。……しかし、今、どうして君は笑ったのだ?」
ミツハの言葉で笑ったことに気付いた新菜は、顔を青くして謝罪した。
「いえ! 神さまを笑うなどと、大変不敬なことを……! 申し訳ございません」
「いやいや。君が笑う種になるなら、私をいくらでも提供しようじゃないか。君の笑みは宮を明るくしてくれるよ。もっと笑って欲しい」
「し、しかし……」
相手は神さま。恐れ多い気がして何事も委縮する新菜に、ミツハはやれやれと肩をすくめた。
「仕方ない。宮(ここ)と私に慣れるまで、チコたちに私のことでも聞けばいい。君がそんなに畏まる相手でもないかもしれぬよ」
ふふっと微笑んだミツハは、何か面白いことを見つけた子供のような目をしていた。
チコは新菜を連れて庭に出た。
「鯉黒(こいこく)!」
鯉黒と呼ばれた、赤い頭髪を縦に立てて腰まで流している男性は、黒と朱に染められた作務衣を着ていた。丁度庭の手入れだったらしく、その手には伸びすぎて引き抜かれた草が沢山あった。大きな三白眼にじろりと見られて、新菜は居住まいを正す。
「仕事の邪魔をしてすみません。鯉黒、こちら、ミツハさまの花嫁さまであられる新菜さま。新菜さま、こちら、鯉の鯉黒です。私が宮の中で働いているので、庭は鯉国の仕事場です」
「こ、鯉黒さん。こちらでお世話になることになりました、……新菜です。……よ、よろしく」
お願いします、とまで言えなかった。鯉黒が冷たい声で、あんた人間か、と言い放ったのだ。
「は……、はい……」
恐る恐る返事をすると、鯉黒は怒りの目で新菜を見た。
「俺は人間が嫌いだ」
鯉黒は大きな目で新菜を睨みつけながら言い、さらに続けた。
「人間は自分勝手に生き物を殺生する。手にした生き物に、ちゃんとした命があることを分かってない」
「……、…………っ」
息が、つまる思いだった、鯉黒の首には真一文字に切りつけられた傷があり、彼の言葉を聞くと、それは人間に付けられた傷なのではないかと思う。そんな傷をつけた相手に、好意的になれという方が無理だというのは、新菜も分かる。
「あの……、……私が謝罪しても鯉黒さんの心の傷が癒えるわけではないと思うのですが、……あの、申し訳ありませんでした……」
新菜が鯉黒の怒りに耐え切れず謝罪すると、分かっていてそう言うのか、と更に蔑視するような言葉が放たれた。
「謝罪して自分のものでもない罪を償ったつもりか。俺はお前とは今喋っただけだが、そう言うところは嫌いだ」
ぴしりと言われてしまい、本当にそうだと思う。向けられる眼差しが厳しかったのに対し、表面で対応しようとした結果だ。
「ミツハさまが人から受けた仕打ちは、ミツハさまを悲しませた。ミツハさまを真に救わない限り、俺はお前を認めない」
鯉黒はそう言うと新菜に背を向けて、宮を壁伝いに回っていなくなってしまった。
鯉黒を怒らせたような、天雨家に居た時と何ら変わらない、人の様子を窺うような態度ではいけない。ミツハはここで新しい道を歩みなさいと言ってくれたのだから、あの家に居た頃から変わらなければならない。何よりミツハの傍に居るのなら、ミツハの為に働いている鯉黒に受け入れてもらわないといけない。
「新菜さま……」
チコが気遣ったように窺ってくる。新菜はにこりと笑ってチコに応じた。
「大丈夫です。卑下されるのには慣れておりますし、鯉黒さんのおっしゃることは尤もだと思うんです」
降ろしていた手をお腹の前で合わせて握る。鯉黒の信頼を得るにはどうしたら良いだろうか。新菜はチコに尋ねた。