本当は君を、ずっと

「ねぇ和斗。私たち、結婚したんだよ!」
「夢みたいだ。絵理と結婚できるなんて!」
 私は、幸せを噛み締めて新居を見回した。
 私たちは、先程結婚式を挙げたばかりだ。
 和斗は優しい人で、出会った時から私の心は鷲掴みにされた。
「お腹の子も、私たちが結婚したことが嬉しいって」
 結婚する前から妊娠し、今は七ヶ月目だ。
「早く生まれてきてね」

「頑張れー! はい、息してー、ひぃ、ひぃ、ふー! ひぃ、ひぃ、ふー!」
「絵理、頑張れ! あと少しだぞ!」
 和斗が出産の痛みで顔を歪める私の手を握る。
「うぅ……ひぃ、ひぃ、ふー……ぐう……」
 理斗の頭が見えてきた。
 出産がこんなに大変だと思っていなかった。私は汗だくで力む。
「うあー!」
「お母さん、産まれましたよ! 元気な男の子です!」
 その産声を聞き、私は脱力した。
 可愛らしいプニプニの肌に、産まれた、という事を実感でき、幸福で胸がいっぱいだ。
「絵理、 よく頑張ったよ! ほら、理斗だよ!」
「可愛いなぁ……」

 理斗は、すくすくと成長していった。
「こら理斗、物を投げちゃだめ!」
「うー、ママううしゃい」
 不満げな声をあげ、また物を投げる。
 二歳になってから、理斗は反抗するようになった。
 物を投げては壊し、服も着ない。簡単に言って世話が大変すぎだ。
「和斗、助けて……」
「はーい」
 和斗に理斗を見てもらうように頼むと、溜まっている家事に取り掛かった。
 掃除機は理斗が嫌がるので後にして、まずは皿洗いだ。
 水の音に混じり、理斗の駄々を捏ねる声と、和斗の困ったような声が聞こえてくる。
「和斗ー、理斗はどう?」
「なにか買うから静かにしてって言ったらやばいことになった! 助けて絵理!」
「んもー!」
 私は超特急で皿を洗い、理斗の元へ向かった。
「ママ、パパなんかかう! パパうしょつき!」
「あー、理斗、おもちゃ買うから、ね?」
 私が言葉を発すると、理斗は顔を輝かせ、
「ママだいしゅき!」
 と言って抱きついてきた。
 私は愛おしくて仕方がなくて、理斗が寝るまでずっと背中を優しく叩いていた。

「キャー! 理斗! 怖いよ! 助けてー!」
 広いリビングに私の悲鳴が響き渡る。
「任せてママ! 理斗がママを守るよ!」
 私と理斗の前には、大きなティラノサウルスの人形が置いてある。
 サンタさんに貰ったものだ。
 理斗はあれから、四歳になった。
 特別成長したのは、身長と言葉だろうか。
 今は和斗が仕事なので、私と理斗だけで人形遊びをしている。
 理斗は今夏休みだ。
「うおー! ママをこわがらせるなー!」
 理斗が手作りの剣を持ち、ティラノサウルスへ一直線に走っていく。
「やあ!」
 理斗の一撃で、あんなに大きい人形が倒れた。少し驚く。
「理斗、ありがとう。かっこよかったよ!」
「どういたしまして! これからも、ママを守ってくからね!」
「ふふふ、ありがとう!」
 広いリビングに二人の笑い声がずっと響いていた。

 その日の夜、ぼうっとしていると、ふと、ある言葉が頭に浮かんできた。
 ——『大事だったものほど、失ってから大事だと気がつく。今を、そのものを大切に生きていきなさい』
 私の好きな小説家、田中先生の言葉だ。
 大事なもの……和斗と理斗、あとは両親だろうか。
 いや、失わないはずだから、こんなことを考える必要はない。 
 でも、何故だろうか。
 寒気が走り、一人でいるのが怖くなった。
 寒気が収まるまで、ずっと和斗に背中を摩ってもらっていた。

「ふわぁー……眠い……」
 遊び疲れたのか、理斗がとろんとした瞳で大きな欠伸をした。
「寝る?」
「うん」
 返事を訊き、私は理斗の小さな手を握って寝室まで歩く。
 扉を開けると、理斗はすぐにベットに潜り込んだ。
 私も一応ベットで横になる。
 暫くすると、理斗の寝息が聞こえてきた。
 理斗を起こさないように、そうっとベットから出て、扉を開けて居間へ向かう。
「寝た?」
「うん。ぐっすり」
 ここからは、私の時間だ。もう寒気は収まったので、存分に楽しめる。
 いつも理斗が占領していて観られないテレビも、今なら観られる。
 録画していた番組を適当に選んで流す。
「ふふふ、あはははっ!」
「ははは!」
 いつの間にか和斗も観ていたのか、私たちは揃ってバラエティ番組に夢中だ。
「はぁ……」
「ふぅ……」
 私たちは笑い疲れ、それぞれに息を吐く。
 静かになると、急に睡魔が襲ってきた。
「和斗。私、寝てくるね」
「おう。俺も寝るわ」
 眠すぎて上手く脚が動かず、身体が右に大きく傾いた。
 あ、やばい。
「きゃっ」
 小さな悲鳴が洩れる。
 重心は右。もう、倒れてしまう。
 怖くて、きつく目を瞑ったとき——。
「っ、危なっ」
 倒れた——と思ったら、腰に力強い腕が回っていた。和斗が助けてくれたのだ。
「ごめん、ありがとう」
「気をつけろよー」
 私がまた倒れるかもしれないと思ったのか、腰に回った腕は寝るまでそのままだった。
 和斗の身体に触れた腕が、妙に温かった。

 こうして、時は平和に過ぎていった。
 でも、平和な時は、長く続かなかった。

「ママ! 理斗、今日も公園行きたい!」
「いいけど、幼稚園に間に合うようにしてね」
 今は七時だ。理斗は、早起きをして公園で遊び、幼稚園に行くのがマイブームらしい。
 初めは驚いたが、最近は当たり前になってきている。
 理斗は、五歳になった。
 身長もぐんと伸び、自分から平仮名の練習をしたいと言って、練習もしている。絵本も読み出した。
「行ってらっしゃい」
「行ってきまーす!」
「行ってきます」 
 玄関の扉を開け、外へ出る。
 眩しい太陽の光が私たちを包み、思わず目を細めた。
 公園は家から徒歩五分程で着く。緑が美しい、広い公園だ。
「今日はね、ボール遊びをいっぱいするの! ママもいっしょにやろうね!」
「うん、いいよ」
 五分なんてすぐに過ぎた。目の前に公園が広がる。
 七時だと、流石に誰もいない。貸切のようなものだ。
「ママ早く!」
「ふふ、はーい」
 無邪気に走る理斗を追いながら、私は鞄をテーブルに置く。
「ママ、行くよ!」
「うん!」
 理斗の手から放たれたボールが、ゆっくりと此方へ迫ってくる。
 私は走り、ボールを取ろうとしたが——出来なかった。
 理斗が小さくて、二、三メートル程離れた私に届かなかったのだ。
「あー、ママ、失敗しちゃったから、今度はママから投げていいかな?」
「うん、ママ投げて!」
 私は、力を入れすぎないように気をつけながら、理斗に投げる。
「っと!」
 理斗は、見事にキャッチした。
「すごいじゃん理斗!」
 私が褒めると、理斗は顔を笑顔でいっぱいにした。
 それから、ボール投げに飽きたのか、ボール蹴りを始めた。
「ママけって!」
「はーい」
 靴の爪先をボールに付け、理斗目掛けて蹴る。
「わ!」
 しまった。力を入れすぎてしまった。
「理斗、取ってくる!」
「待って! だめ!」
 理斗が走って行ったのは、公園の入り口の方。あそこまで飛ばしてしまったことを、深く後悔した。
 理斗を追った。もうそろそろ車が増える。理斗が轢かれる可能性だってゼロじゃない。
「理斗止まって! お願い!」
 懸命に声を出すが、理斗には聞こえていないようだった。
「理斗‼︎」
 理斗がやっと振り向いた。でも、振り向いてくれた場は、道路。一刻も早く此方へ来てもらわないといけない。
 そんなとき。
 ——右から、車が来た。
「っ、理斗っ!」
 私は、更に速度を上げて駆け出した。
 理斗も車に気づき、公園の方へ駆けてくる。
 でも、理斗の小さな身体では、車から逃げられない。
 あと少し。あと少しで理斗に届く。
 私と理斗に気づいた運転手が、急ブレーキをかけた。
「ママぁ!」
「理斗!」
 理斗の手が、私の手に触れた。
 そのまま此方に引き寄せ——られなかった。
 理斗が、転んでしまったから。
 身体中から血の気が引く。
 ドーン‼︎と凄まじい衝撃音がした。
 痛みは、少し。
 そんなことはどうでもいい。理斗は、理斗はどうなったのだろうか。
 理斗は——。
「っ、きゃああ! 理斗っ!」
 真っ赤な血に包まれた、小さな身体が、車の近くに倒れている。
 ——理斗、なの?
「嘘でしょ? ねぇ、理斗? 理斗!」
 ショックと苦しさ、哀しさ、絶望で感情がぐちゃぐちゃだ。
 震えてもつれそうになる脚を動かし、理斗の元へ向かう。
「理斗! いつまでも寝てないで、起きなさい! 遅刻しちゃうよ⁉︎ ねぇ、理斗! 理斗! 理斗っ! うっ、ああっ……! っく、理斗っ! うわあああ……!」
 視界が滲み、嗚咽が洩れた。
 私は、震える手を動かし、スマホで救急車を呼ぶ。
「理斗っ、もうすぐ救急車来るからねっ……理斗が、ずっと見たいって言ってた車だよ? ねぇ、起きてよ! う、うあああ……!」
 絶望感が身体を包み込んだ。
「ごめんね、理斗……! 私がもっと大声で注意すればっ……! ごめんなさいっ……!」
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 涙は枯れることを知らず、地面に雫をつくっていく。
「あ……あぁ……俺は悪くない……!」
 後ろから、怯えた声がした。
 振り向く気力もなくて、私は理斗に必死に呼びかけた。
「理斗! りとおっ!起きてよっ! うっ、死んじゃ嫌だよ……!」
 いつもきらきら輝いている瞳。今は焦点が合わず、虚ろだ。
 じわじわと、鮮やかな赤が流れる。私の靴先も、赤色だ。
「理斗! 目をっ、目を覚まして!」
 丁度そのとき、遠くからサイレンが聞こえてきた。
「理斗来たよ! 理斗が好きな車! ねぇ、ママと一緒に見ようよ! 理斗!」
「大丈夫ですかー? 聞こえますかー?」
 救急車から降りてきた人が、理斗を運ぶ。
「理斗はっ、無事なんですよね⁉︎」
 涙でぐしゃぐしゃな私の顔を見つめ、その人は答えた。
「分かりません」
「っ……!」
 そんな……。助からないかもしれないの?
「いや! 理斗! 死なないでよ! 理斗!」
 私は救急車に乗り込み、病院へ向かう。
「心肺停止! 心臓マッサージを開始します!」
「理斗くーん、頑張れー!」
「理斗っ、死んじゃだめ!」
 車内では、理斗を助けようとしてくれている方の声で埋まっていた。
 私はショックで道中を覚えていないけれど、いつの間にか病院に着いたらしい。辺りが騒々しくなった。
「医守先生、急患一名です!」
「っ、理斗、絵理!」
「和斗……?」
 スーツを皺だらけにし、真っ青になったその人——和斗が病院に駆け込んできた。仕事を抜けてきたらしい。
「っ、和斗!」
「絵理!」
 私は和斗に必死で抱きつき、子供のように泣いた。
「っく、うああ、理斗っを、守っ、れなかった……! ああ……!」
 和斗の匂いで安心し、涙腺がぐっと緩む。
「っ……! 絵理は十分頑張ったんだ。あとは、理斗の無事を祈ろう」
「うんっ……」
 和斗は私をきつく抱き締め、厳しい表情で手術室を見た。
 先程、理斗は緊急手術を受ける為、手術室へと運ばれた。ぐったりとした理斗は血の気を失い、今すぐ手術を受けなければ、となったのだ。
 手術室の前に置いてある長椅子に腰を掛け、両手を握り込んで理斗の無事を願う。
 ごめんね、理斗。お願いだから、死んじゃだめだよ。理斗……!
 がたがたと、震えが止まらない。理斗が車に跳ね飛ばされた映像が頭にこびりつき、何度も何度も再生される。
 あのとき、人生で一番恐怖を感じた。自分の我が子が、今、消えるかもしれないなんて状況に、本当に震えが止まらなかった。
 私は声もなく涙し、膝に顔を埋めた。

「終わりました」
 いつの間に時間が過ぎていたのか、医師の声がした。
「理斗はっ、無事なんですよね⁉︎」
「…………」
 飛びついた私に、医師は苦しげな表情を見せた。
「教えてください。理斗は、息子は、どうなりましたか?」
 和斗が、私の肩を抱いて、静かに問う。冷静さを保っていたように見えるが、額にかいた冷や汗は止まっていないようだった。そして、言葉に僅かな緊張を含んでいる。
「手を尽くしましたが、息子さんをお救いできませんでした。申し訳ございませんでした」
 この医師は何を言っているのだろうか。
 医師の意地悪な嘘、だろうか。
「嘘ですよね。何を言ってるんですか? 今日はエイプリルフールじゃないですよ」
 私はぎこちない笑みで訊く。
「…………」
「何か言ってくださいよ! 理斗が死んだって言いたいんですか⁉︎」
 和斗が声を荒らげ、医師に掴みかかった。
「……申し訳、ございませんでした……」
 頭の中が真っ白になった。
 お亡くなりになられました?意味が、分からない。
「そんな……! 理斗はもう、いないんですか……? 嘘だろ? 嘘だって言えよ!」
「申し訳ございませんでした……!」
 膝から崩れ落ちる和斗と、深く頭を下げる医師。その姿に、理斗が亡くなった事実が突きつけらた。
 嘘だ。理斗が死んだだなんて……。
「うあ、ああ、あああああ……! 理斗! りとおっ! っく、うあああ! 嘘っ、でしょっ? 理斗! 理斗!」
 廊下に響く、私の絶叫。
 胸が刻まれたように痛み、目から生温い雫が落ちる。
「俺のっ……俺たちの理斗はもう……うああああ……!」
 ぼたぼた涙を流す和斗。
「うっ、ぐっ……! 理斗……!」
 私たちは、いつまでもいつまでも、深い哀しみと絶望の中で泣いていた。

 霊安室に通されたのは、その日の昼だった。正直に言って、理斗の死に顔なんて見たくなかった。
 不気味な程静かな部屋で、横になって眠る子供が一人。
 和斗と寄り添うように理斗に近づき、その顔についた布をめくる。
「っ……! 理斗? 理斗っ!」
 最愛の息子は、青白かった。
 生気が抜け、頬も額も腕も、冷んやりと冷たい。
 ——やはり、死んでいる。
 信じたくなかったものが、現実になって突きつけられた気がした。
 私はその場にしゃがみ込む。
「あ、あぁ……。ああああ!」
「っ……! うぁぁぁ……!」
 狭い部屋に反響する叫び。
 絶対に目を覚ましてくれない理斗。
 ——会いたい。理斗に会いたい。
 もう、理斗がいない世界で生きている価値なんてない。
 死んでしまいたい。
 外に出せない思いが、嗚咽になって洩れていく。
 理斗の手を握り、ずっと床に水溜まりをつくっていた。

 理斗の葬儀は、速やかに執り行われた。
 理斗の幼稚園の友達のご両親や、先生方もおいでくださった。
 私は、理斗を失ったショックで何をしたか覚えていない。
 多分、和斗もそうだと思う。
 覚えているのは、花に囲まれた理斗が、幸せそうに笑っていた気がしたことだけ。
 何度も何度も繰り返し謝りながら、葬儀は過ぎていったのだ。

 あの事故から、家では暗い沈黙が漂って、和斗とはまともに話していない。
 ただ、理斗が大好きだったおもちゃがそこらに転がって埃を被っているだけ。
 私は心に金庫を作り、その中に苦しい思いを閉じ込めた。誰にも開けられぬよう、しっかりと鍵を掛けて。理斗のことを思い出すと、辛くて涙が溢れ、吐き気がするから。
 なるべく、家では笑顔でいたかった。理斗が帰ってきても安心できるように、辛くても笑顔で。
 けれど——。
「おい絵理! 早く飯を用意しろよ!」
「……ごめん。今やる」
 最近、和斗が話しかけてくると思ったら文句ばかりで、少し疲れていた。 
「おい、早くしろって言ってんだろ!」
「ちょ、今やってるんだから待っててよ」
「は? 自分の息子も守れなかった女が口答えするな」
「……ごめんなさい」
 理斗の話題を出され、口答え出来ない私は押し黙る。
 笑顔も優しさも消えてしまった和斗に残ったのは、理斗への後悔と私への苛立ち。
 仕事でのストレスなども、私にぶつけられるようになった。
 レンチンした冷凍食品をテーブルに並べ、和斗に声を掛ける。
「……どうぞ。ごめん、今日買い物行ってないから冷凍食品だけど」
「……はあ? 冷凍食品? ちゃんとした飯を用意しろよ。こっちはお前を養う為に仕事してんだよ。冷凍食品なんかに頼ってんじゃねぇ」
 射抜くような鋭い眼差しで此方を見る和斗に、なんだか無性に腹が立った。
「……あのさ、和斗。和斗が私に苛立つのは分かる。でもさ、こう、なんでそんなくだらないことで——」
「あ? くだらない? んな訳ねぇだろ! ちゃんと飯作れよ。そんなこともできねぇのか? あ? この役立たずが」
 ぐさぐさと、ボロボロだった心を更に抉る和斗の言葉。私は深く俯いた。
「ごめんなさい」
「ったく、なんで俺はこんなんと結婚したんだろうな」
 嫌味を大声で言われ、私は我慢していたものが溢れ出してしまった。
「う……」
 口の端から洩れる嗚咽。目の奥から噴き出す涙。止めることができないそれに、和斗も気づいたようで。
「あ? 何泣いてんだよ。謝罪の気持ちがあんならもっかい飯作れ」
 苛立たしげに言葉を吐かれ、私はそれを無理矢理止めた。
 ——これが、DVというやつだろうか。
 こんなことが続けられたら、心臓がもたない。辛くて辛くて、きっともたないだろう。
 夢なら、覚めて欲しかった。

 和斗のDVは、段々とエスカレートしていった。
 暴言を吐かれ、暴力を振るわれ。もう反抗する気力も失せてしまったので、心と身体の痛みに耐えながら生活していた。
 玄関の開く音がし、私は慌ててご飯をテーブルに並べた。
「おかえり」
「……」
 返される言葉はない。それでも私は、笑顔で声をかけ続けた。
「ねっ、ねぇ和斗。明日は結婚記念日なんだけど——」
「……どうでもいい。どうせ、明日は出張だ。一人で祝ってりゃいい」
 心の底に冷んやりと冷たいものが広がった。
「そ、そう。えと、上着、貸して」
 私は和斗から乱雑に上着を貰う。新しいスーツからは、ふんわりと柑橘系の匂いがした。
 ——私が使っている柔軟剤じゃない。
 不倫?でも、確証がない。
 そういえば、最近帰りが遅い。出張もしょっちゅうだ。
 ——仕事と噓を吐いて、女と会っていたのだろうか。
 目の前が真っ黒になった。ただただ、瞳から雫が落ちる。私はスーツを握り、声もなく泣いた。

「行ってらっしゃい」
「……」
 翌朝、鋭い瞳で睨まれ、笑顔が強張った。
 和斗がいない。それだけで、なんだか安心した。
「ふふふ……私、最低」
 和斗がいないから安心? 最低すぎる。
 私は腕や脚の傷を見て、力無く笑った。
 今頃、和斗は車で何処に向かってるのだろうか。女のところへ?
「ふふふ。ははは。もう消えたい……」
 和斗にも必要とされないなら、理斗に会いに逝きたい。
「結婚記念日って、なんだっけ」
 苦しみと涙が絶えない四日間だった。

「あ、和斗。おかえり」
「……」
 私は窶れ切った顔で、和斗を出迎えた。
 もう、スーツを持たずとも柑橘系の匂いがわかる。
「……ねぇ和斗。出張で、何処へ行ったの。何をしたの」
 意を決して和斗に問うた。
「……お前には関係ないだろ」
「不倫でもしてるから、言いたくないの?」
 和斗の頬が、微かに動いた。
「そっか。……ごめんね。上着貸して」
 次の瞬間、和斗が苛ついたように私の腹を殴り、怒鳴り散らした。
「黙れよ役立たずが。さっきから勝手にペラペラと! 謝罪の気持ちがあんなら早く飯を用意しろ」
「うっ……あ、ごっ、めん……」
 私は、息も絶え絶えに腹を抑え、涙を浮かべて謝罪した。
 痛い。息ができない。
「げほっ、げほっ、けほっ……」
 口を手で抑え、激しく咳き込む私を、和斗は塵を見るような目で見つめた。
「汚ねぇんだよ」
「ごめっ……」
 和斗は私の腿を一蹴りした後、上着を投げつけた。
 震える指で受け取り、皺くちゃになった部分を直す。
「っ!」
 そこには——唇の形をした口紅がついていた。
 DVの後は不倫? 許さない。絶対、許さない。
 私は苦しさも忘れて憎悪に支配された。
 和斗が寝た後、徹夜で裏のサイトを調べ、猛毒と噂されるきのこを入手した。

 翌日の夕方。和斗が仕事の間、きのこが届いた。
 和斗が好きなシチューを作り、彼の分だけきのこを入れる。
 ガチャリと音がした。丁度いいときに和斗が帰ってきたのだ。
「あ、おかえり」
「……」
 ポケットが膨らんでいるのが気になるが、まあいい。
 私たちは食卓を囲んだ。
「……」
 何も言わず、和斗がきのこと一緒にシチューをスプーンで掬って口に運ぶ。
 和斗が飲み込んだ瞬間——深紅の血を吐き出した。
「がはっ、があっ、あっ、げほっ……!」
 吐血しながら心臓を抑え、苦しそうに喘ぐ和斗に、腹の底から笑いが込み上げてきた。
「ふふふ……あっはははははは!」
 目の奥が熱くなって、淵に溜まり切らなかった雫が頰を伝って床に落ちる。
 こんなに効き目が早いなんて、知らなかった。
「ごめん、な……ぐ、がはっ……!」
 泣きながら何かを訴えてくる和斗。
「……」
 私は崩れ落ちた和斗に近づき、そっと、血に塗れた唇に私の唇をつけた。鉄の味が口内に広がる。
 ただ、愛していることを伝えたかった。
 目と鼻の先にある和斗の瞳が見開かれ、次の瞬間白目を剥き、私に倒れかかった。
 和斗を受け止め、まだ温かいその身体を抱き締めた。
「もう、遅いんだよ……」
 血の鋭い臭いが鼻を刺す。
「……なにこれ」
 和斗のポケットに、手の平サイズの碧い箱が入っていた。さっきの膨らみは、きっとこれだろう。
 金色のリボンには、高級ブランドのロゴが入っている。不倫相手にあげる為に買ってきたのだろうか。
 布の擦れる音がし、リボンが取れる。しっかりとした箱の中には——金色のネックレスが入っていた。私の誕生石のパールがついた、綺麗なネックレス。
 嬉しいともなんとも思わなかった。
「っ!」
 ポケットには、まだ入っていた。それも、私宛の手紙。
 封を開け、中に入っていた紙を開く。

 絵理へ
 今まで、ごめんなさい。理斗を失った哀しみで、どうかしてた。
 不倫も、絵理の言う通りした。でも、もう関係を切った。けど、許してくれるなんて思ってない。
 絵理のことが、頭に浮かんで、後悔で苦しかった。
 だけど、変わらず笑ってくれる絵理を、今でも愛しています。
 今まで、本当にごめんなさい。
                 和斗

「え? な、んで……? 和斗? あ、あ、ああ……!」
 目の奥から涙が溢れた。嗚咽が洩れる。
 驚きと後悔で、苦しくて、心臓が切れたみたいだ。震えが止まらない。
 私はネックレスをつけ、徐に立ち上がった。
 棚に並んだ家族写真を腕で払い落とす。
「うああ、ああ! ああ、ぁぁ……!」
 硝子が辺りに飛び散り、脚を切った。痛みを感じる余裕もなく、キッチンへと歩く。
 まだ残っているきのこを、全て口に入れた。
 飲み込むと、舌や喉が熱くなり、心臓がさっきとは比にならない程痛んだ。更に、息が吸えない。苦しくて苦しくて涙が何度も頰に筋を作り、吐血もした。
 其の儘和斗に近づき、泣きながら笑って隣に崩れた。
 睡魔が襲ってきて、私は目を閉じた。
 和斗、愛してる。
 和斗の手を握り、私は眠りについた。

 *

 俺は、理斗を失った哀しみで酒に入り浸り、女と遊んでいた。
「お兄さん、大丈夫?」
 そのとき話しかけてくれたのが、文だった。
 いつしか彼女に惹かれ、不倫するようになった。
 脳裏に浮かぶ絵理の笑顔を消しながら、出張と嘘をついて文とホテルに泊まったり、最低なことをした。
 文と過ごしていても浮かぶ、絵理の顔に、罪悪感が雪崩れのように押し寄せ、家に帰る途中、謝罪の思いを込めてネックレスを買った。勿論、それで許されるだなんて思ってなかった。
 絵理に毒を盛られた時、浮かんだのは謝罪だった。
 来世では必ず、一途に愛す。そう心に決め、俺は目を閉じた。
 死ぬことに、恐怖は感じなかった。ただ、これで絵理が笑顔になるなら、もうそれでよかった。
 絵理、愛しています。