*
日曜日、目が覚めるとなんだか部屋の中に妙な違和感を覚えた。
大学入学と同時に引っ越してきた、ボロいワンルーム。今までここに来たことがある人といったら菜月ひとりくらいだけだったのだけど。
その部屋に今、私以外の人がいる。
そう思うとなんだかむずむずしてしょうがない。
「……おはよー、健斗」
どこにいるかわからないから、当てずっぽうに話しかけてみた。
すると、台所のあたりからミシリ、と音がした。このアパートは古いからたまに家鳴りがする。でもミーコがシンクの辺りでカリカリと爪をたてているから、たぶんそこにいるのだろう。その辺に向かって私はにっこりと笑いかけた。
カーテンを開けて、朝日を体に取り込む。
顔を洗って髪を軽く結んで、食パンを焼いた。とりあえず二枚。お供物は供えた瞬間に仏さまがすぐ食べるのだと聞いたことがあるので、二枚目は私の向かいに置いたものの、すぐに私が平らげてしまった。
いつもの朝。だけど、目の前に健斗がいるせいか、なんだか気持ちがやさしくて心地いい。
健斗の持つ、そういう空気が好きだった。
物静かで、穏やか。でもここぞというときは意見はするし、そっと寄り添ってくれる。
そこにいてくれるだけで、私を幸せな気持ちにしてくれる。
健斗がいなくなったあの日から、もう二度とそういう相手には会えないだろうなと思っていた。
「……さて。約束してた打ち上げでも行くかぁ。どこ行きたい?」
そう言うと、私は用意していた一枚の紙を本棚から引き抜いた。
霊感のない私が健斗と話すとしたら、これしかない。
古の、こっくりさん方式。「あ」から「ん」までのひらがなが書かれた紙を用意して、その上に十円玉を置いて指を添えると、幽霊がそれを動かして文章を作ってくれるというものだ。
うまくいくかなんてわからない。でも、健斗の意見も聞きたいからやれるだけのことはやってみよう。
十円玉に乗せた人差し指が、ふとあたたかくなる。
指が、重なってる。見えないのに、もう現世には存在していないのに、そう感じる。
ゆっくりと動き始める十円玉。その行く末を、ドキドキしながら見つめた。
当時は食べ放題に行きたい、なんて言ったけど、健斗と行けるならどこでもいい。健斗はなんて言うかな?
静かなおしゃれ系カフェでご飯?
ちょっとだけ遠出して、雑誌に載っていたケーキ屋さんにでも行ってみる?
それとも意外と、遊園地ではっちゃけたい願望なんかあったりして。
本屋さん、なんて言われたらもはや打ち上げでもなんでもないけど、初デートだもん、付き合ってあげるよ。
三年も私のことを想ってくれてたんだから……。
時間をかけて、長い長い文章が完成する。
紙に書き留めていたその文章を読み返して、私は目を見開いた。
〝りほ わかってるとおもうけど けんとはもういないよ じゅうさんにんめにきたかれのことも けんとだったらいいなとおもってしんじこんだだけだよね いつまでもげんじつからめをそむけてないで まえをむかなきゃ なつきもおかあさんたちもしんぱいしてる いつかだいがくにふっきできるように まずはちゃんと くすりをのもうよ〟
何度も何度も文章を読み返して、時間をかけてようやくその意味を理解して、テーブルから飛び退いた。
拍子に、棚の端に腰を打つ。そこに記憶を呼び覚ますスイッチがあったかのように、引き出しに押し込んだままの薬のことを思い出した。
視界が白く濁っていく。頭にストローを突き刺して脳をかき混ぜているみたいに、頭の中がぐらぐらと揺れている。
なにこれ。
うそ。
やめてよ。
そんなこと言わないで。
健斗はここにいるんだよ。
見えないけど、ちゃんとここにいるんだよ。
今でも私に寄り添っていてくれてる。死んでも、いなくなっても、ずっと私のそばにいてくれてる。
なのに——なんで?
そんなこと、言うの……?
そのとき、現実の世界に引き戻すように甲高いチャイムの音が鳴り響いた。
……健斗?
なんの根拠もなくそう思い、ガチャガチャとチェーンを外す。引っ越してから二年、何度も出入りしてきたはずのドアを開けるのにばかみたいに手間取りながら、ようやく開けると外にいたのは菜月だった。
「……」
「里帆、ごめん。チャットの既読付かないから、心配になって来ちゃった……」
菜月は玄関に立ったまま、ゴミやらなんやらで散乱している私の部屋を眺めた。
そしてテーブルの上の二人分のマグカップと、文字が書かれたこっくりさんの紙に目を向けると、腕を伸ばしてそっと私を抱きしめた。
「ごめん……ごめんね。昨日の夜、遅れてやってきた男の子はね、荻野くんじゃなかったの。他の十二人と同じ、初対面の男の子だったの。でも私、言えなくて……。里帆が荻野くんに会えたのがあまりに幸せそうだったから、言い出せなくて。ごめん。私、里帆を元気付けたいと思って合コン開催したのに、悲しい思いさせちゃったね」
私はへなへなと玄関にへたり込んだ。
菜月もしゃがみ、私の背中をさする。菜月のやさしさはいつも私を支えてくれるけど、胸に空いている穴だけはどんな言葉を持ってしても塞いではくれなかった。
健斗の、あの空気感が好きだった。
物静かで、穏やか。でもここぞというときは意見はするし、そっと寄り添ってくれる。
そこにいてくれるだけで、私を幸せな気持ちにしてくれる。
……でも、もう、健斗は……。
「菜月……。健斗は、もう……いないの?」
里帆は私を抱きしめたまま静止すると、やがてゆっくりと、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「……いるよ。ちゃんといる。荻野くんは私たちの目にはもう見えなくなってしまったけど、消えてなくなったわけじゃない。私たちの心の中にいるんだよ。それで、ずっと里帆のことを見守ってて、里帆の幸せを願ってる。だから里帆は安心して、生きていけばいいんだよ」
涙が落ちた。
健斗が亡くなった日にも出なかった涙。体がようやく現実を把握したのか、涙は水道の蛇口が壊れてしまったみたいに、止まることなく溢れていく。
「……そう、かなぁ」
「そうだよ」
ゆっくりと後ろを振り返った。
いつのまにか片付けができなくなってしまった部屋は、いろいろなもので散らかってゴミ屋敷のようになっている。そこに、先ほどまで感じていたはずの健斗の気配はなくなっていた。
そして部屋を見わたしていて、壁際の方に、とっくに賞味期限の切れた猫のご飯の袋がいくつも積まれていることに気づいた。
健斗が助けたという、猫。私が勝手にミーコと名付けて一緒に暮らしていた、先生に話を聞いただけの、会ったこともない猫。
あの猫は健斗のおかげで逃げおおせて、今もどこかで幸せに暮らしているだろうか。
「……さ。私は掃除でもしようかな。里帆は終わるまで横にでもなってて。お昼になったらご飯食べよう。気晴らしに、外にでも食べに行こうかねぇ」
菜月が私の肩を支えて部屋の奥へと連れていく。カラになったお酒の缶やペットボトルをよけてベッドに横になると、なんだかあったかくて、久々にちゃんと眠りにつけそうな気がした。
「……菜月。……私、お昼は……ピザの食べ放題、行きたいな」
微睡む意識の中で呟いた。
打ち上げをしよう。
もう健斗が心配しないように。
ちゃんと前を向けるように。
健斗がついていてくれる。私の頭の中に、心の中に、健斗はいつまでも生きて、見守ってくれている。
だから、きっと、大丈夫。
「ピザぁ? いきなりそんなの食べたら胃がもたれちゃうよ」
菜月が呆れ顔で笑った。
瞼の裏で、健斗が私に向かって微笑んでいる姿を見つめながら、私は眠りについた。
日曜日、目が覚めるとなんだか部屋の中に妙な違和感を覚えた。
大学入学と同時に引っ越してきた、ボロいワンルーム。今までここに来たことがある人といったら菜月ひとりくらいだけだったのだけど。
その部屋に今、私以外の人がいる。
そう思うとなんだかむずむずしてしょうがない。
「……おはよー、健斗」
どこにいるかわからないから、当てずっぽうに話しかけてみた。
すると、台所のあたりからミシリ、と音がした。このアパートは古いからたまに家鳴りがする。でもミーコがシンクの辺りでカリカリと爪をたてているから、たぶんそこにいるのだろう。その辺に向かって私はにっこりと笑いかけた。
カーテンを開けて、朝日を体に取り込む。
顔を洗って髪を軽く結んで、食パンを焼いた。とりあえず二枚。お供物は供えた瞬間に仏さまがすぐ食べるのだと聞いたことがあるので、二枚目は私の向かいに置いたものの、すぐに私が平らげてしまった。
いつもの朝。だけど、目の前に健斗がいるせいか、なんだか気持ちがやさしくて心地いい。
健斗の持つ、そういう空気が好きだった。
物静かで、穏やか。でもここぞというときは意見はするし、そっと寄り添ってくれる。
そこにいてくれるだけで、私を幸せな気持ちにしてくれる。
健斗がいなくなったあの日から、もう二度とそういう相手には会えないだろうなと思っていた。
「……さて。約束してた打ち上げでも行くかぁ。どこ行きたい?」
そう言うと、私は用意していた一枚の紙を本棚から引き抜いた。
霊感のない私が健斗と話すとしたら、これしかない。
古の、こっくりさん方式。「あ」から「ん」までのひらがなが書かれた紙を用意して、その上に十円玉を置いて指を添えると、幽霊がそれを動かして文章を作ってくれるというものだ。
うまくいくかなんてわからない。でも、健斗の意見も聞きたいからやれるだけのことはやってみよう。
十円玉に乗せた人差し指が、ふとあたたかくなる。
指が、重なってる。見えないのに、もう現世には存在していないのに、そう感じる。
ゆっくりと動き始める十円玉。その行く末を、ドキドキしながら見つめた。
当時は食べ放題に行きたい、なんて言ったけど、健斗と行けるならどこでもいい。健斗はなんて言うかな?
静かなおしゃれ系カフェでご飯?
ちょっとだけ遠出して、雑誌に載っていたケーキ屋さんにでも行ってみる?
それとも意外と、遊園地ではっちゃけたい願望なんかあったりして。
本屋さん、なんて言われたらもはや打ち上げでもなんでもないけど、初デートだもん、付き合ってあげるよ。
三年も私のことを想ってくれてたんだから……。
時間をかけて、長い長い文章が完成する。
紙に書き留めていたその文章を読み返して、私は目を見開いた。
〝りほ わかってるとおもうけど けんとはもういないよ じゅうさんにんめにきたかれのことも けんとだったらいいなとおもってしんじこんだだけだよね いつまでもげんじつからめをそむけてないで まえをむかなきゃ なつきもおかあさんたちもしんぱいしてる いつかだいがくにふっきできるように まずはちゃんと くすりをのもうよ〟
何度も何度も文章を読み返して、時間をかけてようやくその意味を理解して、テーブルから飛び退いた。
拍子に、棚の端に腰を打つ。そこに記憶を呼び覚ますスイッチがあったかのように、引き出しに押し込んだままの薬のことを思い出した。
視界が白く濁っていく。頭にストローを突き刺して脳をかき混ぜているみたいに、頭の中がぐらぐらと揺れている。
なにこれ。
うそ。
やめてよ。
そんなこと言わないで。
健斗はここにいるんだよ。
見えないけど、ちゃんとここにいるんだよ。
今でも私に寄り添っていてくれてる。死んでも、いなくなっても、ずっと私のそばにいてくれてる。
なのに——なんで?
そんなこと、言うの……?
そのとき、現実の世界に引き戻すように甲高いチャイムの音が鳴り響いた。
……健斗?
なんの根拠もなくそう思い、ガチャガチャとチェーンを外す。引っ越してから二年、何度も出入りしてきたはずのドアを開けるのにばかみたいに手間取りながら、ようやく開けると外にいたのは菜月だった。
「……」
「里帆、ごめん。チャットの既読付かないから、心配になって来ちゃった……」
菜月は玄関に立ったまま、ゴミやらなんやらで散乱している私の部屋を眺めた。
そしてテーブルの上の二人分のマグカップと、文字が書かれたこっくりさんの紙に目を向けると、腕を伸ばしてそっと私を抱きしめた。
「ごめん……ごめんね。昨日の夜、遅れてやってきた男の子はね、荻野くんじゃなかったの。他の十二人と同じ、初対面の男の子だったの。でも私、言えなくて……。里帆が荻野くんに会えたのがあまりに幸せそうだったから、言い出せなくて。ごめん。私、里帆を元気付けたいと思って合コン開催したのに、悲しい思いさせちゃったね」
私はへなへなと玄関にへたり込んだ。
菜月もしゃがみ、私の背中をさする。菜月のやさしさはいつも私を支えてくれるけど、胸に空いている穴だけはどんな言葉を持ってしても塞いではくれなかった。
健斗の、あの空気感が好きだった。
物静かで、穏やか。でもここぞというときは意見はするし、そっと寄り添ってくれる。
そこにいてくれるだけで、私を幸せな気持ちにしてくれる。
……でも、もう、健斗は……。
「菜月……。健斗は、もう……いないの?」
里帆は私を抱きしめたまま静止すると、やがてゆっくりと、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「……いるよ。ちゃんといる。荻野くんは私たちの目にはもう見えなくなってしまったけど、消えてなくなったわけじゃない。私たちの心の中にいるんだよ。それで、ずっと里帆のことを見守ってて、里帆の幸せを願ってる。だから里帆は安心して、生きていけばいいんだよ」
涙が落ちた。
健斗が亡くなった日にも出なかった涙。体がようやく現実を把握したのか、涙は水道の蛇口が壊れてしまったみたいに、止まることなく溢れていく。
「……そう、かなぁ」
「そうだよ」
ゆっくりと後ろを振り返った。
いつのまにか片付けができなくなってしまった部屋は、いろいろなもので散らかってゴミ屋敷のようになっている。そこに、先ほどまで感じていたはずの健斗の気配はなくなっていた。
そして部屋を見わたしていて、壁際の方に、とっくに賞味期限の切れた猫のご飯の袋がいくつも積まれていることに気づいた。
健斗が助けたという、猫。私が勝手にミーコと名付けて一緒に暮らしていた、先生に話を聞いただけの、会ったこともない猫。
あの猫は健斗のおかげで逃げおおせて、今もどこかで幸せに暮らしているだろうか。
「……さ。私は掃除でもしようかな。里帆は終わるまで横にでもなってて。お昼になったらご飯食べよう。気晴らしに、外にでも食べに行こうかねぇ」
菜月が私の肩を支えて部屋の奥へと連れていく。カラになったお酒の缶やペットボトルをよけてベッドに横になると、なんだかあったかくて、久々にちゃんと眠りにつけそうな気がした。
「……菜月。……私、お昼は……ピザの食べ放題、行きたいな」
微睡む意識の中で呟いた。
打ち上げをしよう。
もう健斗が心配しないように。
ちゃんと前を向けるように。
健斗がついていてくれる。私の頭の中に、心の中に、健斗はいつまでも生きて、見守ってくれている。
だから、きっと、大丈夫。
「ピザぁ? いきなりそんなの食べたら胃がもたれちゃうよ」
菜月が呆れ顔で笑った。
瞼の裏で、健斗が私に向かって微笑んでいる姿を見つめながら、私は眠りについた。