一度だけ、来たことがある扉を、今度は自分の手で開く。
特別な世界が、変わらずそこにあった。
まだ向き合ったままの机と椅子。先輩を見ていた席に座る。
お弁当を先輩が使っていた机に置いて、組んだ両手に顔を伏せた。すっきり晴れた青い空を見上げて、柔く瞼を閉じる。薄い瞼を隔てて、優しい光が当っている。
――『残した方も、苦しむんだね』
マスターさんの言葉と一緒に、澪の声が耳に残って、離れなかった。
忘れられなくて、残っているから触れようとする。考えないようにしても、考えてしまう。
大切な誰かに、澪も置いていかれたのではないだろうか。残されたのではないだろうか。と。
澪の瞳が、あまりも弱々しく、どこか遠くを見ているような気がしたから。
事情が違えど、もし同じなら。話せば少し変わるかもしれない。澪も、私も。私達の関係も。
けれど、と思う。話して、動けずにいたところから踏み出しても、私達は救われないのではないだろうか。何をしても事実は、変わらないのだから。
そう考える自分が、嫌になる。いつまで私は、こうしているんだろう。
ため息を吐きそうになって、深呼吸に変える。遠くの校庭かどこかから聞こえてくる、楽しそうなはしゃぎ声に耳を澄ます。
丁度薄らと軽い微睡が降り落ちてきたとき、ふいに楽しそうな声のその狭間に、近づいてくる足音があるのに気付いた。
縁側にいる猫の気分を無理に押しのけて、そっと目線を上げる。――同時に、椅子が床を引っ掻く音がした。
「ごめん、起こしちゃったかな?」
そっと、覗くように見つめる瞳。一瞬だけ、息を止めた。
慌てて上体を起こして、ピンと背筋を立てる。はく、掠れた吐息を飲み込んでから、吐いた。
「いえ、起きていたので。大丈夫です。寝起きではないです」
「じゃあ、眠かった?」
「…………少し、だけ」
悩んだ。別に隠すことでもないのに、何だかよく分からない抵抗があった。「そっか」と先輩は不思議と上品な微笑みを浮かべて、机の上に目を落とした。一瞬で、ひんやりとした感覚が胸に広がる。急いで、手を伸ばしてお弁当を引っ込める。
「食欲、ない?」
「え?」
覆った三角巾も開けずにいると、先輩は言って、今度は心配そうな顔をする。
「具合が悪いのかなって」
「どうして、そう思うんですか?」
「気のせいだったら、その方がいいんだけど」
そんな前置きを作って、先輩の目が上目遣いで私の顔色を窺う。逃げたくはならなかった。
「何だか、元気がないように見えて」
移動教室に行く途中で見かけた時に。そう、説明まで付け足してくれる。
何限目の間のことなのか分からない。けれど、今はお昼休み。もし、見かけてからずっと心配していたなら、それで声を掛けてくれたなら。 先輩は――
「もしかしたら、一人になりたかった? それなら」
立ち上がった先輩の腕に手を伸ばして、首を振る。手は届いてくれなくて、けれど先輩はゆっくり座り直して、改めて私を見る。情けなくて、私は目を逸らした。
「元気がないわけじゃないんです。体調は悪くないですし」
「うん」
「かっこ悪いんですけど」
お弁当の前で指先を絡めて、静かに遊ばせながら、顔の筋肉が下手に動かないように願う。
「また、考え事をしていて。あ、でも。今回は悩み、なのかもしれないです」
「……」
先輩の、優しくて誠実な相槌が止んだ。当然だと思う。会う度に、特に部活や委員会でも関りのない後輩が甘えたことを言い出すのだから、うんざりもするだろう。
そう思うのと同時に、どうして先輩には話してしまうのか、自分でも分からなかった。
「かっこ悪くないよ」
逸らしていた目を上げて、先輩を見つめてしまう。先輩は真面目な顔をしていた。
「悩んでることを、話せない人もいるよ」
「……」
「だから、話してくれて、ありがとう」
言葉の意味を深く受け取るよりも早く、ふっと息が楽になった。全身のあちこちで、変に入っていたしこりみたいな力が抜けて、身体が軽くなった気がした。
「何か、僕にできることはある?」
「もう、大丈夫です」
「本当に?」
「はい。遠慮とかではなくて。ただ、先輩が弱音を聞いてくれて、寄り添ってくれて。何だか元気が出ました」
素直に、無理することなく、心から言えた。それが本当は難しいことだと、先輩のおかげで知った。
先輩の整った顔から、緊張に似た強張った心配が抜けて、先輩は柔らかく笑った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。そんな、大したことはしてないけど」
青空みたいに晴れた笑顔で、そんな謙虚なことを呟くから、私は思わず頬を膨らませた。
「私にとっては、大したことばかりなんです」
呆気にとられたような視線が膨らんだ頬にぶつかって、ゆるりと緩んでいく。
「だから本当に、ありがとうございます」
初めて出会った時から、あまり時間は経っていないはずなのに、先輩には何度助けられているのだろう。あんぱんを好きになれたのは、先輩もきっかけなのかもしれない。
「恩返しします、絶対に」
もう逸らさないで真っ直ぐに見つめて、約束以上の宣言をする。
先輩は目をぱちくりさせて、ふっと笑みを零した。「やっぱり鶴の恩返しだ」どこか意地悪な声で言って、初めて見る、男子高校生ぽさをふんだんに散りばめた笑顔を咲かせた。
特別な世界が、変わらずそこにあった。
まだ向き合ったままの机と椅子。先輩を見ていた席に座る。
お弁当を先輩が使っていた机に置いて、組んだ両手に顔を伏せた。すっきり晴れた青い空を見上げて、柔く瞼を閉じる。薄い瞼を隔てて、優しい光が当っている。
――『残した方も、苦しむんだね』
マスターさんの言葉と一緒に、澪の声が耳に残って、離れなかった。
忘れられなくて、残っているから触れようとする。考えないようにしても、考えてしまう。
大切な誰かに、澪も置いていかれたのではないだろうか。残されたのではないだろうか。と。
澪の瞳が、あまりも弱々しく、どこか遠くを見ているような気がしたから。
事情が違えど、もし同じなら。話せば少し変わるかもしれない。澪も、私も。私達の関係も。
けれど、と思う。話して、動けずにいたところから踏み出しても、私達は救われないのではないだろうか。何をしても事実は、変わらないのだから。
そう考える自分が、嫌になる。いつまで私は、こうしているんだろう。
ため息を吐きそうになって、深呼吸に変える。遠くの校庭かどこかから聞こえてくる、楽しそうなはしゃぎ声に耳を澄ます。
丁度薄らと軽い微睡が降り落ちてきたとき、ふいに楽しそうな声のその狭間に、近づいてくる足音があるのに気付いた。
縁側にいる猫の気分を無理に押しのけて、そっと目線を上げる。――同時に、椅子が床を引っ掻く音がした。
「ごめん、起こしちゃったかな?」
そっと、覗くように見つめる瞳。一瞬だけ、息を止めた。
慌てて上体を起こして、ピンと背筋を立てる。はく、掠れた吐息を飲み込んでから、吐いた。
「いえ、起きていたので。大丈夫です。寝起きではないです」
「じゃあ、眠かった?」
「…………少し、だけ」
悩んだ。別に隠すことでもないのに、何だかよく分からない抵抗があった。「そっか」と先輩は不思議と上品な微笑みを浮かべて、机の上に目を落とした。一瞬で、ひんやりとした感覚が胸に広がる。急いで、手を伸ばしてお弁当を引っ込める。
「食欲、ない?」
「え?」
覆った三角巾も開けずにいると、先輩は言って、今度は心配そうな顔をする。
「具合が悪いのかなって」
「どうして、そう思うんですか?」
「気のせいだったら、その方がいいんだけど」
そんな前置きを作って、先輩の目が上目遣いで私の顔色を窺う。逃げたくはならなかった。
「何だか、元気がないように見えて」
移動教室に行く途中で見かけた時に。そう、説明まで付け足してくれる。
何限目の間のことなのか分からない。けれど、今はお昼休み。もし、見かけてからずっと心配していたなら、それで声を掛けてくれたなら。 先輩は――
「もしかしたら、一人になりたかった? それなら」
立ち上がった先輩の腕に手を伸ばして、首を振る。手は届いてくれなくて、けれど先輩はゆっくり座り直して、改めて私を見る。情けなくて、私は目を逸らした。
「元気がないわけじゃないんです。体調は悪くないですし」
「うん」
「かっこ悪いんですけど」
お弁当の前で指先を絡めて、静かに遊ばせながら、顔の筋肉が下手に動かないように願う。
「また、考え事をしていて。あ、でも。今回は悩み、なのかもしれないです」
「……」
先輩の、優しくて誠実な相槌が止んだ。当然だと思う。会う度に、特に部活や委員会でも関りのない後輩が甘えたことを言い出すのだから、うんざりもするだろう。
そう思うのと同時に、どうして先輩には話してしまうのか、自分でも分からなかった。
「かっこ悪くないよ」
逸らしていた目を上げて、先輩を見つめてしまう。先輩は真面目な顔をしていた。
「悩んでることを、話せない人もいるよ」
「……」
「だから、話してくれて、ありがとう」
言葉の意味を深く受け取るよりも早く、ふっと息が楽になった。全身のあちこちで、変に入っていたしこりみたいな力が抜けて、身体が軽くなった気がした。
「何か、僕にできることはある?」
「もう、大丈夫です」
「本当に?」
「はい。遠慮とかではなくて。ただ、先輩が弱音を聞いてくれて、寄り添ってくれて。何だか元気が出ました」
素直に、無理することなく、心から言えた。それが本当は難しいことだと、先輩のおかげで知った。
先輩の整った顔から、緊張に似た強張った心配が抜けて、先輩は柔らかく笑った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。そんな、大したことはしてないけど」
青空みたいに晴れた笑顔で、そんな謙虚なことを呟くから、私は思わず頬を膨らませた。
「私にとっては、大したことばかりなんです」
呆気にとられたような視線が膨らんだ頬にぶつかって、ゆるりと緩んでいく。
「だから本当に、ありがとうございます」
初めて出会った時から、あまり時間は経っていないはずなのに、先輩には何度助けられているのだろう。あんぱんを好きになれたのは、先輩もきっかけなのかもしれない。
「恩返しします、絶対に」
もう逸らさないで真っ直ぐに見つめて、約束以上の宣言をする。
先輩は目をぱちくりさせて、ふっと笑みを零した。「やっぱり鶴の恩返しだ」どこか意地悪な声で言って、初めて見る、男子高校生ぽさをふんだんに散りばめた笑顔を咲かせた。