「事故の怪我は足の骨折と軽い打撲だったので、一か月もすれば治るでしょう。しかし、検査の中で事故とは関係ない病気が見つかりました」
淀野は白い病室の中で医師の話を聞いていた。横には祖母が立っていて、医師の他に二人の看護師が控えている。四人部屋だったが、淀野の他に患者はいなかった。
「淀野佐久さん。あなたは筋衰病に罹っています」
初めて聞く病名。
「正式名称は、筋肉衰退病。筋肉を使えば使うほど、筋肉が衰え弱まっていく。今はまだほとんど実感出来ないでしょうが、半年もすればあなたはベッドから動けなくなります」
筋ジストロフィーや筋萎縮性側索硬化症とはまた違います、と医師は言う。けれど淀野はその二つの病気も名前くらいしか聞いたことがなかったので、何が違うのか分からなかった。
「この病気が発症した人は、入院生活余儀なくされます」
「治るんですか」
まだ医師の説明が続いていたが、淀野の口は考える前に動いてしまった。医師は咎めることなく、ただ目を伏せて答える。
「原因も治療法も分かっていない、奇病です。……完治した方も、回復した方もいません」
淀野は世界が崩れ落ちる音を聞いた気がした。もしくは、世界が遠くなる音と言えば良いか。ただ、医師の言葉が鮮明に聞こえた。
「今出来ることは、筋肉を使わないこと……動かないことです」
夢を持つ中学生には、絶望を与えるような言葉だ。
『日本人での発症者は十人という、珍しい病気です。例が少ないのでまだ何とも言えませんが、リハビリとして体を鍛えても逆効果です。出来ることは、動かず、ただ横になっていること。食事も口の筋肉を使うので、点滴で栄養を得ることが望ましいでしょう。同じ理由で話すことも最低限に控えます』
『発症者は三十歳までに命を落としている。特に運動を好む人は、早いそうだ』
『人体について分かっていないことは多い。ある有名な人が、心臓の鼓動する回数が決まっているように、人が一生で動かせる筋肉の回数も決まっているのでは、と話した。筋肉に関する病は、もしかしたらそういった理由で発症するのかもしれない』
スマホの電源を落とす。消灯を過ぎた病室は暗く、唯一の明かりであった画面が真っ暗になると、何も見えない。淀野は役目を終えたそれを枕元に置き、目を瞑った。
本当は目の筋肉も使わない方が良いらしい。けれど淀野はどうしてもこの筋衰病のことを知りたかったので、こっそりネットで調べていた。
色々なサイトを見てみたが、分かったことは想像の半分以下。それも最後に見たサイトはどちらかというと都市伝説のような話をまとめているもので、信憑性は限りなく薄い。
けれど、余命については医師が一言も話していなかったので、大きな収穫となった。ネットの言葉を丸飲みするわけではないが、この病の解像度が一気に上がった気がする。
三十、という数字にはあまりに少なすぎて眩暈がしたが。
「……まじかぁ」
淀野は目元を指で押さえて、深くため息を吐いた。齢十三、中学二年生になったばかり。バスケ部の後輩が出来て、友達もそこそこいて、夢も出来た。親は一昨年死んでしまったが、それでも絶望ばかりじゃない日々を過ごした。
予定も未来も何もかも、狂ってしまった。学校ももう通えないという。けれどまだ、急展開に追いつけていない淀野は、実感があまり持てなかった。
スマホで調べたサイトの字も、人ごとのように並んでいた。無口な祖母とは何も会話していないし、友人たちに連絡も入れていない。
ただ今寝ている場所が病院なだけ。ここでこれから寝起きするのだということさえも、遠い夢の中の話のようであった。
「……バスケしたいな」
ぽつりと呟く。
こういう独り言さえも、これから口の中の筋肉が衰えていけば、発せなくなるのだろうか。
死にたくないなぁという呟きは、暗闇の中に溶けて消えた。
「よお、元気かヨドサク」
「うわー、元気そうで良かったよヨドサクー」
「ねえ、それが入院してる病人にかける言葉?」
入院二日目の夕方。制服姿の稲戸と、淀野のクラスメイトかつ友人である私服姿の富川紅葉が、病室に顔を出した。来るなんて聞いていなかったので驚いたが、まあ来るとしたらこのふたりだろうなとも思っていたので、手を挙げて迎え入れる。
極力横になっていろと言われているが、何となく意地というものがあり、淀野は腹に力を込めて起き上がる。
「何でここにいること知ってんだよ」
「普通に菅谷っち言ってたよ。交通事故に遭った淀野はきん……ナントカ病で急遽長期入院することになったーって」
「俺も昼休みに菅野先生とすれ違った時に教えられたんだよ」
富川と稲戸の言葉に、淀野は苦笑をもらした。きっと祖母が学校に連絡を入れて、菅谷がクラスで伝えたのだろう。
淀野と富川の担任である菅谷は、若く生徒想いな良い教師でありながらも、少しデリカシーに欠ける部分があった。菅谷からしたら善意だったのだろうが、病気のことは出来れば隠してほしかったなと淀野は思う。
「てか、連絡入れろよ。急に入院って言われてビビった」
「部活休む連絡はしたよ」
「もーヨドサク、そういう話じゃないでしょ」
富川と稲戸は足元に荷物を置いて椅子に座ると、淀野を叱るように言った。
「友達なんだから、言ってよ。……心配した」
淀野は富川を見て、稲戸に視線を移す。ふたりとも同じ目をしていて、淀野は少し胸がくすぐったく感じた。
「わかった。次からはちゃんと言う」
「分かればよろしい。許して差し上げましょう」
「いやおまえ何様だよ」
富川のふんぞり返り様に稲戸がキレよく突っ込む。その様子を見て淀野は数日振りに笑った。
淀野にはクラスメイトとしての富川、部活仲間としての稲戸という繋がりがあるが、富川と稲戸には同じ学校の同じ学年という肩書きしかない。強いて言えば、片方が淀野といるところをもう片方が目撃するくらいか。きっとこのふたりは、今日初めて挨拶以外の言葉を交わしただろう。なのにこんなに息がぴったりなら、仲良くなれそうだ。
友達と友達が仲良くしていると、淀野も嬉しい。
「そういえば稲戸、部活は?」
「きっちり終わった後に、自主練切り上げて来た」
「ボクは夕飯の買い物と準備終わらせてから。稲戸くんとは同じバスに乗り合わせたんだよー」
「お互い淀野の知り合いだって気付いて、ここに着くまで適当に話してたんだよ。あ、そうだ。富川渡すもんがあるんだろ」
「あっ、そうだった」
富川がごそごそと足元のリュックから何かを取り出す。数ミリくらいの紙の束だ。
「学校で渡されたプリント類。いっぱいあるよー」
「たった一日休んだだけでこんな溜まる? かなり多いけど」
「菅谷っちが勘違いして渡してなかったのを一気に配ったらしいよー。ほとんどが十月にある文化祭のこと。今のうちに催し物とか諸々決めておこうってさ」
「ふーん」
プリントをぺらぺらとめくっていく。確かにほとんどが文化祭、時々体育祭のことについての内容だった。二年の催し物は教室での小規模劇だが何をしたいか、一年や三年の催し物で何かしてほしいことはあるか、これまでの催し物の例、サブの催しとして売店をする時の注意点、その際に食べ物を扱う場合の注意事項、体育祭の間に流す曲のリクエスト方法、などなど……。
結構大事なことがしばらく生徒に共有出来ていなかったようだが、四月の中旬の今、まだ本格的に準備が始まるまで十分時間がある。
半年後の文化祭と体育祭。
『文化祭まで半年。まだまだ、と思う方が多いでしょうが、時の流れはあっという間です。本番近くになって慌てないように……』
プリントの一枚にそんな一文を見つけた。半年。つい最近その言葉を聞いた気がして記憶を探ると、すぐに出てきた。
昨日、医師に言われた言葉だ。
『半年もすればあなたはベッドから動けなくなります』
あの言葉の意味は正直分からない。調べたサイトのどれにも動けなくなる時期なんて書いていなかったし、何なら誇張表現で患者に危機感を持たせようとしているのかとさえ思ったが、医師には真意を聞けずにいる。
本当ですよ、なんて言葉は聞きたくない。そもそも、病気である実感なんてまだないのに。
「そういえば、菅沼先生の言葉が上手く聞き取れなかったんだが……」
稲戸の問いかけに顔を上げる。
「おまえの病気って、何なんだ?」
もしかしたら、文化祭にも体育祭にも出られなくなる病気。
そう言ったら本当のことになりそうで、淀野は何でもないように微笑んだ。
「大したことないよ」
「……そうか」
「大したことないなら良かったー」
ふたりがほっとしたように言う。淀野は感じた不安を胸の奥底に押し込めて笑顔の仮面を着け続ける。
「じゃあ治ったら快気記念でぱーっと遊ぼうぜ。まずはバスケな」
「えー、ゲーセン行きたいなー」
「いいや、バスケだ。一日でも練習さぼったら体が鈍るっていうのに、ヨドサクはしばらく入院生活だろ? 体力筋力諸々、取り返さねえとな」
「いやいや、まずは娯楽だよー。遊びに行けない体も動かせないのがやっと解放された日には、ゲーセンで目一杯体動かさなきゃ! リズムゲーム対決とか、射撃対決とか、あと……」
「別に、どっちもしたらいいだろ」
淀野が口を挟むと、ふたりはなるほど! という顔をして笑った。
「分かってるぅ、ヨドサク」
「確かにやるならどっちもだな。前半バスケ、後半ゲーセンでどうだ」
「いいよー」
富川がへらりと笑う、稲戸はガハハと笑う。いつもと同じだ。場所が学校から教室になっただけで、ふたりの様子も自分の体調も変わりはない。元気なまま、喋って笑っている。
昨日のことが夢だったらいい。ふとした瞬間心に暗い影を落とす医師の言葉とサイトの文字が、嘘だったらいい。全部間違いで、全部勘違いだったらいい。
いつものように喋れている。いつものように笑えている。これからも、そうであるはずだ。
『原因も治療法も分かっていない、奇病です』
『三十歳までに命を落としている』
病気だなんて実感したくない。医師の言葉なんて聞きたくない。
ただこのふたりと、日常を過ごしていたい。
『出来ることは、動かず、ただ横になっていること』
バスケもしたいしゲーセンもしたい。横になっているだけなんて嫌だ。中学を卒業したら自由のきく高校に入って、体を更に鍛えるのだ。そして警察になり、交通事故が少しでも減るような世の中を作る。そして自分のような人を少しでも減らす。やっと見つけた夢だ。
病気なんかに邪魔されたくない。
けれど、何をどうすれば良いのかも分からない。ただじっと息を潜めて治療法が確立されるのを待つだけしか、やれることが思い浮かばない。
「ヨドサク。治ったらさ、文化祭この三人でまわろうぜ」
稲戸が言う。富川が機嫌良さそうに笑っている。
その約束は、頷いて良いのか。
「うん、もちろん」
淀野は願うように、言った。
そして。
あっという間に半年が経った。
まず物を持てなくなった。ある日突然、力が少しも入らなくなったのだ。医師から看護師の手伝いを推奨されていたものの羞恥心から自分でしていた着替えが出来なくなり、風呂に入るのも付き添いがいるようになった。
それから喋るのに多大な労力が必要になった。誰かを呼びかける時でさえも、口に怠さと疲れを感じる。喋れなくなると気分も上がらず、毎日見舞いに来てくれる稲戸たちの話に相槌を打つのもしんどくなった。
そして昨日。起き上がれなくなった。
「……ヨドサク? 元気ねえじゃん」
少し涼しくなりはじめた、夏の終わり。健康的に日焼けしたふたりが病室に入ってきても、淀野は見向きもせずに窓の外を眺めていた。
「ヨドサクどうしたのー? お腹痛い?」
富川が駆け寄ってきて、ベッドの端に手をついた。ベッドが沈み、その動きさえも不快に感じる。
ああ、イライラしている。今、抑えきれないくらいに。
「……出てってくれ」
「え?」
窓から視線を移して、キッとふたりを睨む。その仕草だけでもきつい。けれど、心臓のあたりでムカムカと渦巻いている黒い感情を、吐き出したくて仕方がなかった。
「もう来んなよ! はやく、出て行け‼」
叫んだ。ここ数か月で一番と言っていいほど大きな声が出た。稲戸と富川は一瞬驚いたような、悲しいような、そんな顔をした。
「……ヨドサク」
呼び声に首を振る。口が怠くて、動かせなかった。
ごめん、本当に思っているわけじゃない。
言わなくてはと思った言葉を諦めて、天井を見る。
「……また来るよ」
「また明日、ヨドサク」
ふたりが出ていく。淀野はその姿に視線を移すことなく、ただ天井を見る。
扉が閉まる音がして、それが合図にでもなったかのように涙が溢れた。
次の日、ふたりは病室を訪れなかった。
淀野は交友関係が広い。人見知りをしないタイプで、その気になれば誰とでも仲良くなれる。けれど小学六年生の春、桜を見に家族でドライブをしていた日を境に、淀野は誰とでも仲良くなることを辞めた。
中学は小学校からそのまま上がってくる者が多い。小学校の時の交友関係がそのまま続くこともあり、交友を狭めた今でも淀野の友達と言える人物は多かった。
けれど、富川と稲戸以外は誰も見舞いに来ていない。見舞いを望んでいるわけではないが、来ないということはその程度の存在だったのだろう。逆に、入院の翌日から毎日バスに乗って病院に来るあのふたりは、かけがえのない友人ということ。
そんな彼らを、淀野は勝手な怒りをぶつけて遠ざけた。
もう、来ないのだろうか。
「――そんなに寂しいなら、連絡してみればいいじゃない」
淀野ははっとする。ぼうっとしていた。目を動かして隣を見れば、椅子に座った祖母がこちらをじっと見つめていた。無口で挨拶以外はほとんど口を開かない祖母が、何を。
声を出そうとして、口元に手をかざされ遮られる。
「喋らなくていいよ。私は今から独り言を言っていくだけだからね」
「……」
「私はさ、喋るのが苦手だからほとんど話さないけれど、心の中では色々と考えているつもりなんだよ。サク、君が辛い思いしてんなら取り除いてやりたいって思うし、悲しいんなら分けてほしいって思う。嬉しけりゃ嬉しいし、怒ってんなら落ち着かせたい。怒りは人を壊すからね」
こんなに長く喋っている姿を、初めて見た。祖母は寡黙で、無表情で、いつも落ち着いている。時々この人は心が動くことなどないんじゃないかとさえも思う。祖母の感情が、表情が動いているのを見たのは、淀野が四歳の時に死んだ祖父と一緒に笑い合っていた時以来。祖母は祖父の葬式の時でさえ、仮面のような顔をして淡々とやるべきことをこなしていた。
きっと淀野が死んでも、何とも思わないのだろうと思っていた。幾つまで生きても幾つで死んでも、喜ぶことも悲しむこともないのだろう、と。淀野が入院する前も後も、会話なんて朝の挨拶と就寝の挨拶くらいだった。だから淀野も、祖母とは他人のように接していた。
淀野は祖母のことが好きだ。生まれた時から祖母は祖母だったから。
けれど、祖母の方はそうじゃない。
「君は私の旦那の孫だ。たとえ私と血が繋がってないにしても、君には幸せになってほしいんだよ」
祖母は祖父の後妻で、淀野と淀野の両親とは全く繋がりがなかった。淀野の両親が結婚してから、祖父に迎えられた奥さん。それから数年して祖父が急逝してしまってから、祖母はひとりで祖父の家を守ってきた。
祖母が好きなのは祖父であって、淀野じゃない。
ずっと、そう思ってきた。
「サクの好きにしたらいいさ。私は君のことを知らず、君のしたいことも知らない。君が遊びたいというのなら、目一杯遊びなさい。死にたくないというならば、死なない努力をしなさい。君が望むなら、私はそれを手伝うよ。冷たいと言われる私だが、それくらいの情は持ち合わせている。遠慮しないで、言ってほしい。……人はいつか死ぬ。私は、君に後悔しないでほしい。君が寿命を何に使うのか、何をしたいのか。君が決めなさい」
ああ、涙腺が緩んでいる。涙がぽろぽろと流れる頬を撫でられて、淀野は祖母の温もりを知った。
スマホの電源を付けて、メッセージアプリを開く。動きにくい指先でゆっくりと文字を打って、送信した。
『きのうはごめん』
『あしたきてくれ』
漢字変換もままならなくなっている。
その現状を、話したかった。
そして、次の日。
「よお、今日は元気そうだな」
「ヨドサクー、二日振りー」
訪れたふたりは、いつも通りだった。
「ただ横になって生きてるだけのことが、辛い。何のために生きてるのか、何がしたかったのか。どうせ死ぬなら好きなことしたいって思う反面、ただ横になってた半年で一気に筋力がなくなって、死を間近に感じた。そしたら、途端に怖くなった。死にたくない、生きていたい。けど、動けないのも嫌だ。色々考えてたらお前らが来て、感情がコントロール出来なくなった。ごめん、お前らは何も知らなかったのに」
淀野は横になったまま、ぽつぽつと自分の話をした。視界の端でふたりが神妙に耳を澄ましている。
あんな酷い八つ当たりをしたというのに、全く怒りの気配がないから、稲戸と富川は底抜けに良い奴だ。
「文化祭のことも、バスケもゲーセンも、出来ないのに嘘吐いてた……ごめん」
淀野はふたりから目を背けた。窓の外では、夕焼けが広がっている。
「知ってるよ」
「……え」
思わず首を動かしてふたりの方を見る。
「さすがに半年も入院ってなると、気になるだろ」
「菅谷っちに訊いたんだよー、ヨドサクの病名が何だったか」
富川はポケットからスマホを取り出すと、メモ画面を表示して淀野の目の前にずいっと差し出した。
筋衰病をはじめとして、筋肉、筋力、肉体と精神の関係、淀野に関係のありそうな様々なことについて細かくまとめられていた。
「ネットや本で色々と調べてみたんだ。その中で今役立ちそうなのは、生きてる上で動かさなきゃならねえ筋肉と、筋肉じゃない箇所のことだな。結構色んなこと分かったんだ」
「図書室で調べてるうちに面会時間過ぎちゃって、昨日来れなかったんだけどねー。ごめんね」
「おまえに言われなくても来るつもりだっての。まあ、約束破ったのは、悪い」
スマホの画面とふたりの顔を見て、淀野はまた涙をこぼした。筋肉が衰えると、涙腺というものも緩むらしい。淀野は慌てる稲戸たちに涙を拭かれながら、「ありがとう」と笑った。
「俺もさ、中学入ってすぐに足ぶっ壊して、練習も何も出来ない期間があったから、すげえ暇なの分かるよ。で、暇だと嫌なこと考えるからさ。まず、暇潰し出来るもんがないとやってらんねえだろうって思って……」
稲戸がスマホ画面をスクロールしながら説明する。稲戸は、バスケ部に入ってすぐ先輩たちの実力をはるかに超えるプレイを見せつけ、神童と呼ばれていた。淀野もそれに近しい実力を持っていたが、当時全く稲戸には敵わなかったのである。
けれど練習中の事故で足を壊してからは、彼は目指していたプロを諦め後進を育てることに集中した。足を壊していてもプロに匹敵する実力が残っていた彼は、しかし自分の目指すものから遠のいた、と夢を手放す選択をした。
言ってみれば、稲戸も夢を諦めなければならない状況に置かれたのである。
「それで、筋肉を使わない暇潰しの仕方を調べたんだー」
「目も口も呼吸も、どこかしら筋肉を使って人間は生きている。けど、耳はちと……構造が複雑すぎて曖昧なんだが、耳にある筋肉はほとんど使わずに使用出来る……みたいだ」
「つまり音楽はいける! ということで取り敢えずボクたちおすすめの音楽リストアップしてきたよー」
「正直今すぐに活用出来るのはこれだけなんだが……また調べてみようと思ってる」
ふたりの言葉が、嬉しかった。淀野の酷い言葉たちをふたりは軽く流すように許して、そしてこんなにも尽くしてくれている。
返せるものは何もないけれど、本当に嬉しい。
「けど、病室で音楽聞いてて良いか分かんなくて……ネット使っちゃいけないイメージがあるから、どうしようかなーって」
「最悪イヤホン使ったら良いだろうが……てか、聞くのが一番はやいな」
稲戸が言うと、富川がばっと立ち上がって廊下に出る。そしてすぐに看護師を連れてきた。
事情を説明して、看護師に質問する。すると。
「現在のスマホは電波出力が昔よりかなり低くなったので、ネットもメールも使えますよ。通話は談話室のみですが、音楽を聴くのならイヤホン着用さえすれば大丈夫です。もちろん消灯後は使用不可です。……話したはずなんですが……」
「えっ……多分聞いてませんでした」
「何やってんだよヨドサク」
「半年分損しちゃったね」
「まじか……正直スマホ触るのかなり我慢してたのに……」
「じゃあリストアップした曲順番に聴いていって、お気に入りのやつ集めようぜ」
看護師にお礼を言って、淀野のスマホを稲戸が操作する。もはや時間を見るためだけのものになっていたのだが、数か月振りの活躍だ。
「まずこれ、ボクが最近聴きまくってる洋楽ね……」
淀野は白い病室の中で医師の話を聞いていた。横には祖母が立っていて、医師の他に二人の看護師が控えている。四人部屋だったが、淀野の他に患者はいなかった。
「淀野佐久さん。あなたは筋衰病に罹っています」
初めて聞く病名。
「正式名称は、筋肉衰退病。筋肉を使えば使うほど、筋肉が衰え弱まっていく。今はまだほとんど実感出来ないでしょうが、半年もすればあなたはベッドから動けなくなります」
筋ジストロフィーや筋萎縮性側索硬化症とはまた違います、と医師は言う。けれど淀野はその二つの病気も名前くらいしか聞いたことがなかったので、何が違うのか分からなかった。
「この病気が発症した人は、入院生活余儀なくされます」
「治るんですか」
まだ医師の説明が続いていたが、淀野の口は考える前に動いてしまった。医師は咎めることなく、ただ目を伏せて答える。
「原因も治療法も分かっていない、奇病です。……完治した方も、回復した方もいません」
淀野は世界が崩れ落ちる音を聞いた気がした。もしくは、世界が遠くなる音と言えば良いか。ただ、医師の言葉が鮮明に聞こえた。
「今出来ることは、筋肉を使わないこと……動かないことです」
夢を持つ中学生には、絶望を与えるような言葉だ。
『日本人での発症者は十人という、珍しい病気です。例が少ないのでまだ何とも言えませんが、リハビリとして体を鍛えても逆効果です。出来ることは、動かず、ただ横になっていること。食事も口の筋肉を使うので、点滴で栄養を得ることが望ましいでしょう。同じ理由で話すことも最低限に控えます』
『発症者は三十歳までに命を落としている。特に運動を好む人は、早いそうだ』
『人体について分かっていないことは多い。ある有名な人が、心臓の鼓動する回数が決まっているように、人が一生で動かせる筋肉の回数も決まっているのでは、と話した。筋肉に関する病は、もしかしたらそういった理由で発症するのかもしれない』
スマホの電源を落とす。消灯を過ぎた病室は暗く、唯一の明かりであった画面が真っ暗になると、何も見えない。淀野は役目を終えたそれを枕元に置き、目を瞑った。
本当は目の筋肉も使わない方が良いらしい。けれど淀野はどうしてもこの筋衰病のことを知りたかったので、こっそりネットで調べていた。
色々なサイトを見てみたが、分かったことは想像の半分以下。それも最後に見たサイトはどちらかというと都市伝説のような話をまとめているもので、信憑性は限りなく薄い。
けれど、余命については医師が一言も話していなかったので、大きな収穫となった。ネットの言葉を丸飲みするわけではないが、この病の解像度が一気に上がった気がする。
三十、という数字にはあまりに少なすぎて眩暈がしたが。
「……まじかぁ」
淀野は目元を指で押さえて、深くため息を吐いた。齢十三、中学二年生になったばかり。バスケ部の後輩が出来て、友達もそこそこいて、夢も出来た。親は一昨年死んでしまったが、それでも絶望ばかりじゃない日々を過ごした。
予定も未来も何もかも、狂ってしまった。学校ももう通えないという。けれどまだ、急展開に追いつけていない淀野は、実感があまり持てなかった。
スマホで調べたサイトの字も、人ごとのように並んでいた。無口な祖母とは何も会話していないし、友人たちに連絡も入れていない。
ただ今寝ている場所が病院なだけ。ここでこれから寝起きするのだということさえも、遠い夢の中の話のようであった。
「……バスケしたいな」
ぽつりと呟く。
こういう独り言さえも、これから口の中の筋肉が衰えていけば、発せなくなるのだろうか。
死にたくないなぁという呟きは、暗闇の中に溶けて消えた。
「よお、元気かヨドサク」
「うわー、元気そうで良かったよヨドサクー」
「ねえ、それが入院してる病人にかける言葉?」
入院二日目の夕方。制服姿の稲戸と、淀野のクラスメイトかつ友人である私服姿の富川紅葉が、病室に顔を出した。来るなんて聞いていなかったので驚いたが、まあ来るとしたらこのふたりだろうなとも思っていたので、手を挙げて迎え入れる。
極力横になっていろと言われているが、何となく意地というものがあり、淀野は腹に力を込めて起き上がる。
「何でここにいること知ってんだよ」
「普通に菅谷っち言ってたよ。交通事故に遭った淀野はきん……ナントカ病で急遽長期入院することになったーって」
「俺も昼休みに菅野先生とすれ違った時に教えられたんだよ」
富川と稲戸の言葉に、淀野は苦笑をもらした。きっと祖母が学校に連絡を入れて、菅谷がクラスで伝えたのだろう。
淀野と富川の担任である菅谷は、若く生徒想いな良い教師でありながらも、少しデリカシーに欠ける部分があった。菅谷からしたら善意だったのだろうが、病気のことは出来れば隠してほしかったなと淀野は思う。
「てか、連絡入れろよ。急に入院って言われてビビった」
「部活休む連絡はしたよ」
「もーヨドサク、そういう話じゃないでしょ」
富川と稲戸は足元に荷物を置いて椅子に座ると、淀野を叱るように言った。
「友達なんだから、言ってよ。……心配した」
淀野は富川を見て、稲戸に視線を移す。ふたりとも同じ目をしていて、淀野は少し胸がくすぐったく感じた。
「わかった。次からはちゃんと言う」
「分かればよろしい。許して差し上げましょう」
「いやおまえ何様だよ」
富川のふんぞり返り様に稲戸がキレよく突っ込む。その様子を見て淀野は数日振りに笑った。
淀野にはクラスメイトとしての富川、部活仲間としての稲戸という繋がりがあるが、富川と稲戸には同じ学校の同じ学年という肩書きしかない。強いて言えば、片方が淀野といるところをもう片方が目撃するくらいか。きっとこのふたりは、今日初めて挨拶以外の言葉を交わしただろう。なのにこんなに息がぴったりなら、仲良くなれそうだ。
友達と友達が仲良くしていると、淀野も嬉しい。
「そういえば稲戸、部活は?」
「きっちり終わった後に、自主練切り上げて来た」
「ボクは夕飯の買い物と準備終わらせてから。稲戸くんとは同じバスに乗り合わせたんだよー」
「お互い淀野の知り合いだって気付いて、ここに着くまで適当に話してたんだよ。あ、そうだ。富川渡すもんがあるんだろ」
「あっ、そうだった」
富川がごそごそと足元のリュックから何かを取り出す。数ミリくらいの紙の束だ。
「学校で渡されたプリント類。いっぱいあるよー」
「たった一日休んだだけでこんな溜まる? かなり多いけど」
「菅谷っちが勘違いして渡してなかったのを一気に配ったらしいよー。ほとんどが十月にある文化祭のこと。今のうちに催し物とか諸々決めておこうってさ」
「ふーん」
プリントをぺらぺらとめくっていく。確かにほとんどが文化祭、時々体育祭のことについての内容だった。二年の催し物は教室での小規模劇だが何をしたいか、一年や三年の催し物で何かしてほしいことはあるか、これまでの催し物の例、サブの催しとして売店をする時の注意点、その際に食べ物を扱う場合の注意事項、体育祭の間に流す曲のリクエスト方法、などなど……。
結構大事なことがしばらく生徒に共有出来ていなかったようだが、四月の中旬の今、まだ本格的に準備が始まるまで十分時間がある。
半年後の文化祭と体育祭。
『文化祭まで半年。まだまだ、と思う方が多いでしょうが、時の流れはあっという間です。本番近くになって慌てないように……』
プリントの一枚にそんな一文を見つけた。半年。つい最近その言葉を聞いた気がして記憶を探ると、すぐに出てきた。
昨日、医師に言われた言葉だ。
『半年もすればあなたはベッドから動けなくなります』
あの言葉の意味は正直分からない。調べたサイトのどれにも動けなくなる時期なんて書いていなかったし、何なら誇張表現で患者に危機感を持たせようとしているのかとさえ思ったが、医師には真意を聞けずにいる。
本当ですよ、なんて言葉は聞きたくない。そもそも、病気である実感なんてまだないのに。
「そういえば、菅沼先生の言葉が上手く聞き取れなかったんだが……」
稲戸の問いかけに顔を上げる。
「おまえの病気って、何なんだ?」
もしかしたら、文化祭にも体育祭にも出られなくなる病気。
そう言ったら本当のことになりそうで、淀野は何でもないように微笑んだ。
「大したことないよ」
「……そうか」
「大したことないなら良かったー」
ふたりがほっとしたように言う。淀野は感じた不安を胸の奥底に押し込めて笑顔の仮面を着け続ける。
「じゃあ治ったら快気記念でぱーっと遊ぼうぜ。まずはバスケな」
「えー、ゲーセン行きたいなー」
「いいや、バスケだ。一日でも練習さぼったら体が鈍るっていうのに、ヨドサクはしばらく入院生活だろ? 体力筋力諸々、取り返さねえとな」
「いやいや、まずは娯楽だよー。遊びに行けない体も動かせないのがやっと解放された日には、ゲーセンで目一杯体動かさなきゃ! リズムゲーム対決とか、射撃対決とか、あと……」
「別に、どっちもしたらいいだろ」
淀野が口を挟むと、ふたりはなるほど! という顔をして笑った。
「分かってるぅ、ヨドサク」
「確かにやるならどっちもだな。前半バスケ、後半ゲーセンでどうだ」
「いいよー」
富川がへらりと笑う、稲戸はガハハと笑う。いつもと同じだ。場所が学校から教室になっただけで、ふたりの様子も自分の体調も変わりはない。元気なまま、喋って笑っている。
昨日のことが夢だったらいい。ふとした瞬間心に暗い影を落とす医師の言葉とサイトの文字が、嘘だったらいい。全部間違いで、全部勘違いだったらいい。
いつものように喋れている。いつものように笑えている。これからも、そうであるはずだ。
『原因も治療法も分かっていない、奇病です』
『三十歳までに命を落としている』
病気だなんて実感したくない。医師の言葉なんて聞きたくない。
ただこのふたりと、日常を過ごしていたい。
『出来ることは、動かず、ただ横になっていること』
バスケもしたいしゲーセンもしたい。横になっているだけなんて嫌だ。中学を卒業したら自由のきく高校に入って、体を更に鍛えるのだ。そして警察になり、交通事故が少しでも減るような世の中を作る。そして自分のような人を少しでも減らす。やっと見つけた夢だ。
病気なんかに邪魔されたくない。
けれど、何をどうすれば良いのかも分からない。ただじっと息を潜めて治療法が確立されるのを待つだけしか、やれることが思い浮かばない。
「ヨドサク。治ったらさ、文化祭この三人でまわろうぜ」
稲戸が言う。富川が機嫌良さそうに笑っている。
その約束は、頷いて良いのか。
「うん、もちろん」
淀野は願うように、言った。
そして。
あっという間に半年が経った。
まず物を持てなくなった。ある日突然、力が少しも入らなくなったのだ。医師から看護師の手伝いを推奨されていたものの羞恥心から自分でしていた着替えが出来なくなり、風呂に入るのも付き添いがいるようになった。
それから喋るのに多大な労力が必要になった。誰かを呼びかける時でさえも、口に怠さと疲れを感じる。喋れなくなると気分も上がらず、毎日見舞いに来てくれる稲戸たちの話に相槌を打つのもしんどくなった。
そして昨日。起き上がれなくなった。
「……ヨドサク? 元気ねえじゃん」
少し涼しくなりはじめた、夏の終わり。健康的に日焼けしたふたりが病室に入ってきても、淀野は見向きもせずに窓の外を眺めていた。
「ヨドサクどうしたのー? お腹痛い?」
富川が駆け寄ってきて、ベッドの端に手をついた。ベッドが沈み、その動きさえも不快に感じる。
ああ、イライラしている。今、抑えきれないくらいに。
「……出てってくれ」
「え?」
窓から視線を移して、キッとふたりを睨む。その仕草だけでもきつい。けれど、心臓のあたりでムカムカと渦巻いている黒い感情を、吐き出したくて仕方がなかった。
「もう来んなよ! はやく、出て行け‼」
叫んだ。ここ数か月で一番と言っていいほど大きな声が出た。稲戸と富川は一瞬驚いたような、悲しいような、そんな顔をした。
「……ヨドサク」
呼び声に首を振る。口が怠くて、動かせなかった。
ごめん、本当に思っているわけじゃない。
言わなくてはと思った言葉を諦めて、天井を見る。
「……また来るよ」
「また明日、ヨドサク」
ふたりが出ていく。淀野はその姿に視線を移すことなく、ただ天井を見る。
扉が閉まる音がして、それが合図にでもなったかのように涙が溢れた。
次の日、ふたりは病室を訪れなかった。
淀野は交友関係が広い。人見知りをしないタイプで、その気になれば誰とでも仲良くなれる。けれど小学六年生の春、桜を見に家族でドライブをしていた日を境に、淀野は誰とでも仲良くなることを辞めた。
中学は小学校からそのまま上がってくる者が多い。小学校の時の交友関係がそのまま続くこともあり、交友を狭めた今でも淀野の友達と言える人物は多かった。
けれど、富川と稲戸以外は誰も見舞いに来ていない。見舞いを望んでいるわけではないが、来ないということはその程度の存在だったのだろう。逆に、入院の翌日から毎日バスに乗って病院に来るあのふたりは、かけがえのない友人ということ。
そんな彼らを、淀野は勝手な怒りをぶつけて遠ざけた。
もう、来ないのだろうか。
「――そんなに寂しいなら、連絡してみればいいじゃない」
淀野ははっとする。ぼうっとしていた。目を動かして隣を見れば、椅子に座った祖母がこちらをじっと見つめていた。無口で挨拶以外はほとんど口を開かない祖母が、何を。
声を出そうとして、口元に手をかざされ遮られる。
「喋らなくていいよ。私は今から独り言を言っていくだけだからね」
「……」
「私はさ、喋るのが苦手だからほとんど話さないけれど、心の中では色々と考えているつもりなんだよ。サク、君が辛い思いしてんなら取り除いてやりたいって思うし、悲しいんなら分けてほしいって思う。嬉しけりゃ嬉しいし、怒ってんなら落ち着かせたい。怒りは人を壊すからね」
こんなに長く喋っている姿を、初めて見た。祖母は寡黙で、無表情で、いつも落ち着いている。時々この人は心が動くことなどないんじゃないかとさえも思う。祖母の感情が、表情が動いているのを見たのは、淀野が四歳の時に死んだ祖父と一緒に笑い合っていた時以来。祖母は祖父の葬式の時でさえ、仮面のような顔をして淡々とやるべきことをこなしていた。
きっと淀野が死んでも、何とも思わないのだろうと思っていた。幾つまで生きても幾つで死んでも、喜ぶことも悲しむこともないのだろう、と。淀野が入院する前も後も、会話なんて朝の挨拶と就寝の挨拶くらいだった。だから淀野も、祖母とは他人のように接していた。
淀野は祖母のことが好きだ。生まれた時から祖母は祖母だったから。
けれど、祖母の方はそうじゃない。
「君は私の旦那の孫だ。たとえ私と血が繋がってないにしても、君には幸せになってほしいんだよ」
祖母は祖父の後妻で、淀野と淀野の両親とは全く繋がりがなかった。淀野の両親が結婚してから、祖父に迎えられた奥さん。それから数年して祖父が急逝してしまってから、祖母はひとりで祖父の家を守ってきた。
祖母が好きなのは祖父であって、淀野じゃない。
ずっと、そう思ってきた。
「サクの好きにしたらいいさ。私は君のことを知らず、君のしたいことも知らない。君が遊びたいというのなら、目一杯遊びなさい。死にたくないというならば、死なない努力をしなさい。君が望むなら、私はそれを手伝うよ。冷たいと言われる私だが、それくらいの情は持ち合わせている。遠慮しないで、言ってほしい。……人はいつか死ぬ。私は、君に後悔しないでほしい。君が寿命を何に使うのか、何をしたいのか。君が決めなさい」
ああ、涙腺が緩んでいる。涙がぽろぽろと流れる頬を撫でられて、淀野は祖母の温もりを知った。
スマホの電源を付けて、メッセージアプリを開く。動きにくい指先でゆっくりと文字を打って、送信した。
『きのうはごめん』
『あしたきてくれ』
漢字変換もままならなくなっている。
その現状を、話したかった。
そして、次の日。
「よお、今日は元気そうだな」
「ヨドサクー、二日振りー」
訪れたふたりは、いつも通りだった。
「ただ横になって生きてるだけのことが、辛い。何のために生きてるのか、何がしたかったのか。どうせ死ぬなら好きなことしたいって思う反面、ただ横になってた半年で一気に筋力がなくなって、死を間近に感じた。そしたら、途端に怖くなった。死にたくない、生きていたい。けど、動けないのも嫌だ。色々考えてたらお前らが来て、感情がコントロール出来なくなった。ごめん、お前らは何も知らなかったのに」
淀野は横になったまま、ぽつぽつと自分の話をした。視界の端でふたりが神妙に耳を澄ましている。
あんな酷い八つ当たりをしたというのに、全く怒りの気配がないから、稲戸と富川は底抜けに良い奴だ。
「文化祭のことも、バスケもゲーセンも、出来ないのに嘘吐いてた……ごめん」
淀野はふたりから目を背けた。窓の外では、夕焼けが広がっている。
「知ってるよ」
「……え」
思わず首を動かしてふたりの方を見る。
「さすがに半年も入院ってなると、気になるだろ」
「菅谷っちに訊いたんだよー、ヨドサクの病名が何だったか」
富川はポケットからスマホを取り出すと、メモ画面を表示して淀野の目の前にずいっと差し出した。
筋衰病をはじめとして、筋肉、筋力、肉体と精神の関係、淀野に関係のありそうな様々なことについて細かくまとめられていた。
「ネットや本で色々と調べてみたんだ。その中で今役立ちそうなのは、生きてる上で動かさなきゃならねえ筋肉と、筋肉じゃない箇所のことだな。結構色んなこと分かったんだ」
「図書室で調べてるうちに面会時間過ぎちゃって、昨日来れなかったんだけどねー。ごめんね」
「おまえに言われなくても来るつもりだっての。まあ、約束破ったのは、悪い」
スマホの画面とふたりの顔を見て、淀野はまた涙をこぼした。筋肉が衰えると、涙腺というものも緩むらしい。淀野は慌てる稲戸たちに涙を拭かれながら、「ありがとう」と笑った。
「俺もさ、中学入ってすぐに足ぶっ壊して、練習も何も出来ない期間があったから、すげえ暇なの分かるよ。で、暇だと嫌なこと考えるからさ。まず、暇潰し出来るもんがないとやってらんねえだろうって思って……」
稲戸がスマホ画面をスクロールしながら説明する。稲戸は、バスケ部に入ってすぐ先輩たちの実力をはるかに超えるプレイを見せつけ、神童と呼ばれていた。淀野もそれに近しい実力を持っていたが、当時全く稲戸には敵わなかったのである。
けれど練習中の事故で足を壊してからは、彼は目指していたプロを諦め後進を育てることに集中した。足を壊していてもプロに匹敵する実力が残っていた彼は、しかし自分の目指すものから遠のいた、と夢を手放す選択をした。
言ってみれば、稲戸も夢を諦めなければならない状況に置かれたのである。
「それで、筋肉を使わない暇潰しの仕方を調べたんだー」
「目も口も呼吸も、どこかしら筋肉を使って人間は生きている。けど、耳はちと……構造が複雑すぎて曖昧なんだが、耳にある筋肉はほとんど使わずに使用出来る……みたいだ」
「つまり音楽はいける! ということで取り敢えずボクたちおすすめの音楽リストアップしてきたよー」
「正直今すぐに活用出来るのはこれだけなんだが……また調べてみようと思ってる」
ふたりの言葉が、嬉しかった。淀野の酷い言葉たちをふたりは軽く流すように許して、そしてこんなにも尽くしてくれている。
返せるものは何もないけれど、本当に嬉しい。
「けど、病室で音楽聞いてて良いか分かんなくて……ネット使っちゃいけないイメージがあるから、どうしようかなーって」
「最悪イヤホン使ったら良いだろうが……てか、聞くのが一番はやいな」
稲戸が言うと、富川がばっと立ち上がって廊下に出る。そしてすぐに看護師を連れてきた。
事情を説明して、看護師に質問する。すると。
「現在のスマホは電波出力が昔よりかなり低くなったので、ネットもメールも使えますよ。通話は談話室のみですが、音楽を聴くのならイヤホン着用さえすれば大丈夫です。もちろん消灯後は使用不可です。……話したはずなんですが……」
「えっ……多分聞いてませんでした」
「何やってんだよヨドサク」
「半年分損しちゃったね」
「まじか……正直スマホ触るのかなり我慢してたのに……」
「じゃあリストアップした曲順番に聴いていって、お気に入りのやつ集めようぜ」
看護師にお礼を言って、淀野のスマホを稲戸が操作する。もはや時間を見るためだけのものになっていたのだが、数か月振りの活躍だ。
「まずこれ、ボクが最近聴きまくってる洋楽ね……」