「一緒に死んであげようか」
驚く僕に、君は言った。
僕は死にたいなんて、一言も言っていないのに。
「私も、死んじゃおうかなって」
そう呟いた彼女の瞳は、底なしの宇宙かのように暗く、油断すると吸い込まれてしまいそうで…、何も言えないでいる僕に、彼女は構わず続ける。
「でも、一人だと怖いから」
風が、強く吹いて僕と彼女の間を駆けていく。
「ねぇ」
乱れる黒髪を手で押さえながら、彼女は訴えた。
「一緒に、死のうか」
真っすぐに僕を見て笑ったこの時の泣き笑いのような顔を、僕は多分一生忘れないーー
*
朝の7時半に家を出て、いつもと同じ通を通って、同じ時間の電車に乗って学校へ行く。
通り過ぎていく、変わり映えのしない景色。
今日も、街ゆく人は何かに追われるかのように先を急いでいる。
それは、僕も右にしかり。
いつもと変わらない日常には、色がまるでない。
それは、モノクロームの映画のように情緒的だと言える綺麗なものではないし、よくあるラノベの特殊能力によるものでもない。
ただ単に、つまらない毎日ってこと。
さらに問題なのは、僕にはそれを色とりどりなきらびやかな日常に変える術は持ち合わせていないし、どうにかしてその術を手に入れたいと願う心もない、ということ。
惰性で生きている。
そんな言葉が一番お似合いだった。
学校に着いて、上履きに履き替えて、友だちと呼んで良いかもわからない人たちと挨拶を交わしながら、僕は自分の席に座った。
「おっはよう、山本。今日も相変わらず無気力感たっぷりだな」
「おはよう」
真っ先に僕に挨拶をしてくれたこの男子は、クラスメイトの賀川寿哉(かがわとしや)。3年ではじめて同じクラスになったのだが、なぜだか何かにつけて僕のことを構ってくる不思議男子。こんな根暗な僕に話しかけてくるなんて、一度挨拶した相手はみんな友だちだとでも決めている陽キャに違いない。
事実、彼はクラスでもいつも笑いを取っているムードメーカーだ。
「お前、おはよう以外になんかないのかよ。会話が続かないじゃんか。キャッチボールしようぜキャッチボール!」
会話をする気がないから、投げられても投げ返さないんだよ。と言ったら角が立つから、僕は一言「ごめん」と言って支度を続けた。
「おい賀川、山本は一人が好きなんだよ、放っておいてやれって」
そう言ったのは、2年から同じクラスの男子。あくまで僕のために気遣って言っているかのような言葉の裏には嘲笑が張り付いているのを、僕でも知っている。
「まぁ、そうかもしれないけどよー、俺は山本と話したいんだから良いんだよ。なぁ山本、今度学校帰りにどっか寄ってこうぜ。モックとかシャイゼとか」
「あー、ごめん、バイトが忙しくて無理なんだ」
「そっかーバイトなら仕方ないよなぁ。ってかバイトもそろそろ終わりなんじゃね?俺ら受験生だぜ」
もっともなところを突かれて、頭の中を2つの選択肢がめぐる。適当にごまかすのか、正直にいうのか。僕はめんどくさくなって前者を選んだ。
「そうだね、そろそろ本腰入れないとだよね」
笑顔を張り付けてそう言えば、賀川くんは「あー受験やだなー」と呟きながら去っていった。
嵐のあとのような静けさを取り戻した僕の周りには、またいつもの日常が訪れてざわついた心が平穏を取り戻した。
僕の家は、ひとり親家庭だ。
離婚とか死別ではなく、未婚の母だった。19歳という若さで僕を身ごもった母は、実家の援助を受けながら産み育ててくれた。僕の父親のことは良く知らない。けれど、祖母たちが「認知すらしないろくでなし」と愚痴っていたのだけは聞いたことがある。
母は、父親のことを口にしたことは一度たりともない。だから僕も、母に父のことを聞くようなことはしなかった。母の機嫌を損ねるか、思い出させて傷つけてしまうかのどちらかだろうとわかっていたから。
それに、聞いたところで、父が僕を捨てたことに変わりはないのだ。
いや、そもそも、僕は拾われもしなかったんだ。
認知すらせずに、僕と母を選ばなかった人のことなんか顔も見たくない。
そういう家庭の事情もあって、大学に進む金銭的な余裕がない僕は高校卒業後の進路に就職を選んでいた。3年になって初めての進路希望調査にもそう書いた。
すぐさま担任から呼び出されて考え直せと言われたけれど、僕は家庭の事情もあるのでと言って首を縦には振らなかった。
奨学金制度を使えば行けないことはないだろうけど、僕は早く一人で生きていけるようになりたかった。
母にも、祖父母にも、誰にも頼らずに、一人で。
僕は、早くこの狭くてつまらない世界から抜け出したい。
学校が終われば、僕は一目散にバイト先へと直行する。
家の近くのマンションの地下に入っているカフェバーだ。たまたま通りかかった時に求人を見つけて駆け込んだらそのまま採用してもらった。
もう、かれこれ1年近く働いていて、気さくな店長にはいつも良くしてもらって居心地のいい空間と化していた。
そして、店長はこのマンションのオーナーでもあるらしく、僕はマンションの屋上の掃除も頼まれている。週に数回、土埃などを掃く程度という簡単な任務だ。
そして、屋上の鍵も自由に使えた僕は、掃除をしなくて良い日でも屋上に行っては風に当たったり景色を眺めたりして、いつしかそれが日課のようになっていた。
今日も店の開店までまだ時間があった僕は、エレベーターで最上階へと向かう。廊下の突き当たりの外へと続くドアノブに掛けられている暗証番号で開錠するタイプのキーボックスから鍵を取り出してドアを開けて外へ出た。
「うわ、あっつ…」
まだ梅雨の明けきらない6月の中旬、もわっとした熱気とコンクリートに照りつける日差しが僕を出迎えてくれた。もう夕方だというのに外はまだ陽が高くて明るい。
フェンスに手をつき、どこまでも続く街並みを眺めた。空と、街がつながるかのように見えるこの景色が好きだった。
僕はフェンスに足をかけ、金網を跨ぐとフェンスの向こう側に降り立つ。毎回フェンスを握る手には力が入るし、足は竦むけど、目の前に遮るものがなくなった景色は最高だ。
時間を、嫌なことを、全部忘れさせてくれる。僕の悩みなど、ちっぽけで取るに足らないことだと、この景色を見るとそう思えた。
「死ぬの?」
突然、背中に乱暴に投げつけられたような声に、僕は顔だけ振り向く。
そこには、見たことのない制服を着た知らない女の子が立っていた。
こんなところに人が来るとも、誰かに声を掛けられるとも今まで無かったし、考えてもいなかった僕は驚いた。
「きみには関係ないだろ」
かろうじて口にした僕の返事に、彼女は鼻でフッと笑う。その人を小バカにしたような態度に、ムッとした。
「確かにね」
そして、一歩を踏み出したかと思うと僕のそばまでやってきて、さっき僕が乗り越えたフェンスをさっと乗り越えた。短いスカートがひらりと浮いて、思わず目を逸らす。
「あ、危ないよ」
彼女は柵をしっかりと握っていたけれど、強い風が吹いていたので思わず彼女の肩に手を伸ばした。触れたそれは、とても細くてドキリとした。女の子は、こうもか細いものなのか。普段、異性と接することのない僕には知らない情報だった。
「そっちこそ」
風に乱される髪を片手で押さえながらこちらを見て笑う彼女は、とても綺麗だった。
線の細い華奢な体、真っすぐ伸びた黒髪、色の白い肌。実家に飾ってある市松人形を思わせる。
「このビル8階建てだから、まぁ、落ちたら間違いなく死ねるね」
白い横顔は、眼下をまじまじと見つめていた。それにつられるように、僕も恐る恐る目を向ける。心臓がきゅっと縮こまる、あの感覚に襲われる。
この辺りで一番高いこのビルから見る住み慣れた街はとても小さく見えた。ビルの前の道路は、車がまばらに行き交うだけで歩く人影はほとんどない。
事実、小さな街なのだ。
「一緒に死んであげようか」
横から飛んできた声に我に返り、振り向くと、下を見ていた彼女の漆黒の瞳は僕を捉えていた。
至近距離でまっすぐに射抜かれて、僕の心臓はさらに縮こまる。
「は?」
驚く僕に、君は言った。
僕は死にたいなんて、一言も言っていないのに。
「私も、死んじゃおうかな」
そう呟いた彼女の瞳は、底なしの宇宙かのように暗く、油断すると吸い込まれてしまいそうで…、何も言えないでいる僕に、彼女は構わず続ける。
「でも、一人だと怖いから」
風がまた、強く吹いて僕と彼女の間を駆けていく。
「ねぇ」
乱れる黒髪を手で押さえながら、彼女は訴えた。
「一緒に、死んでくれる?」
真っすぐに僕を見て笑った。
泣き笑いのような顔だ。
僕は、返事も忘れて彼女のその顔に釘付けになった。
とても綺麗な笑顔だったから、思わず見惚れてしまった。
センセーショナルなセリフは、その意味と一緒に僕に衝撃を与える。
けれど、いくらどんなにかわいい子にお願いをされたからといって「いいよ」と言えるほど僕はお人好しじゃない。
「だ、ダメだよ、死ぬのは」
僕の口からかろうじて出たのはそんなお説教だった。
「ダメって、あなたも死のうと思ってたんじゃないの?」
「僕は、死のうなんて…」
言いかけて、思った。
死のうなんて思ってなかった?本当に?
さっき、もしこの手を離したら…、足を踏み外したら…、と頭を過ぎったあれはなんだったというのか。
「ほら、やっぱり死のうと思ってたんでしょ」
彼女の言葉を否定できない自分がいる。本当に死のうなんて、思っていないけど、ここに立って死を連想したのは間違いではなかった。
「…落ちたら死ぬかも、とは思ったけど…、死にたいとは思ってない」
言い訳みたいに呟く。すると隣の彼女は空を仰ぎ見て、大きく息を吐いた。少し傾き始めた太陽が彼女の白い肌を一層白く照らしている。その眩しさに僕は目を細めた。
「あーあ、つまんないの。せっかく一緒に死んでくれる人が見つかったと思ったのに」
つまんないって…なんだそれ。
「…なんで、死にたいの?」
なんとなく浮かんだ疑問を投げてみる。別に、悩みを聞いてあげようとか、そんなんじゃない。ただ、気になっただけ。そう、興味が沸いただけだ。
「私ね」
そこまで言って彼女は、こちらを見て、またふと笑う。そして、形のいい唇が動いた。
「ーーーー心が空っぽなの」
*
僕は、毎日夜の10時過ぎに帰宅する。バイト先で賄いもでるからいつも家では食べない。休日も昼過ぎから10時までバイトしているから、ほとんど家にいることは無かった。
それでも、家に帰れば、僕を待っている人がいる。
「お帰り、怜」
「ただいま」
玄関で靴を脱いでいると、祖母がリビングのドアから顔を出した。明かりが隙間から射して、中からかすかにテレビの音が聞こえる。
「ばぁちゃん、待ってなくて良いって言ってるのに」
眠たそうにあくびをしながら、祖母は笑った。毎日、僕がどんなに遅く帰っても、祖母はこうして起きていて、僕の顔を見ると安心したようにおやすみを言ってから眠りにつくんだ。
「別に怜のこと待ってたわけじゃないのよ」
返ってくるのは、いつも同じ言葉。その後に続くのは、見たいドラマがあったからとか、コーヒー飲んだら寝れなくなったとか、そんなものだ。
高校に入ってバイトをしだしたばかりの頃は、待たれていると思うとせいせいしなくてやめてほしいと思った時期もあったが、今となっては習慣化している。
待ってくれている人がいるというのも、悪くない。
「じゃぁ、風呂入って寝るから。おやすみ」
「うん、おやすみ」
祖母の柔らかな視線を背に感じながら、僕は2階の自室へと向かった。暗い階段を足元のセンサーライトだけを頼りに昇り、ドアを開けてスイッチに手を伸ばす。パチッという音に遅れて蛍光灯がちかちかと部屋を照らした。広がるのは、ベッドと勉強机以外に何もない無機質な部屋だ。昔母が使っていたこの部屋を、今は僕が使っている。母の弟の叔父がいるが、彼は就職して県外に出ていた。だから今この家に住んでいるのは、僕と祖父母の3人だけ。
母は、この家にはいない。
半年ほど前に、交際相手と同居するといって一人この家を出ていった。
それは構わない。もともと、働いていて忙しい人だったし、僕の食事や洗濯などの身の回りの世話は祖母がしてくれていたから、何一つ不自由はない。
それに、会ったこともない母の恋人の家に一緒に連れていかれても困るだけだ。
けれど…
それなら、どうしてこんな気持ちになるんだろう。
母が家を出て行ってからというもの、まるで、ぽっかりと穴が空いたような、虚しさだけが僕の心に残っていた。
ーーー心が空っぽなの
今日会った、あの子の声と言葉が頭に浮かぶ。とても寂しい言葉が、透き通る声にのせられて悲しく響いた。もしかしたら僕の心もそうなのかもしれない、とあの時頭の片隅で感じた。
心が空っぽだから死にたいと言った彼女。
それならば、僕も彼女と一緒に死んでしまった方が、楽なのだろうか。
二人なら…あそこから飛べるかもしれない。
あの、街と空がつながる景色の中に。
我ながらバカなことを考えてしまった、と鬱々とした気持ちを、ため息と一緒に吐き捨てる。
ベッドの上に鞄を放り投げて、部屋着を手に僕は風呂場へと急いだ。バイト先でしみついたタバコの匂いを早く洗い流したかった。
シャワーを浴びながら、また思い出される屋上での出来事。一緒に死のうと言ったあの子。底知れない暗い瞳、風になびく黒髪、驚くほど頼りない細い肩、そして、あの泣いているような笑顔。彼女の口から放たれた言葉はどれも嘘ではなかったように思う。
僕に一緒に死んでくれるかと、懇願のようにもとれるそれは彼女の心の悲鳴のようにも感じた。
それでも…連絡先を聞いておけばよかった。
あの後、僕がバイトの時間だからと二人で中に入った別れ際、鍵を閉める僕に彼女は「またね、怜君」と言った。名乗った覚えもなければ、彼女との面識もない。驚いてどうして知っているのか聞こうと振り向いた時には彼女はエレベーターの中。慌てて追いかけたけど、ボタンを押す前にドアは閉じられた。
なぜか僕のことを知っている彼女。
もしかしたらまた屋上で会えるかもしれない。
そこまで考えて、自分が誰かと会うことを望むなんて、初めてかもしれないとふと気づく。
けれど、疲れた頭が、それ以上深く考えることを拒絶した。
担任に二度目の呼び出しをくらった。
放課後はバイトがあるから無理だというと朝来いと言われたので僕はいつもより30分ほど早く登校して進路指導室と札の貼られた部屋に向かった。
「何度もしつこいようだけど、短大でもいいから行っておけ。お前の頭なら公立も行けるし、私大の奨学金制度も狙えるから」
本当にしつこいな、と思いながらも僕は笑顔で答える。
「ご心配ありがとうございます。でも、僕は早く働いて自立したいんです」
「お母さんを楽させたい気持ちはわからないでもないし、立派だけどな、山本」
自立したいというのは、本心だ。だけど、僕だって好きでこんな道を行こうとしているわけじゃない。
自分ではどうにもできない家庭の問題を、周りからどうこう言われるのは、気分の良いものじゃなかった。
「後から行こうと思っても簡単じゃないんだ、悪いことは言わない、後で後悔しないためにも、大学は出ておけ」
担任の言うことは最もだとも思う。
「これ、山本の家から通えそうなところのパンフ集めといた。進学も視野に入れて話進めよう」
HRの予鈴が鳴ったので、担任は話を切り上げてそそくさと席を立つ。
放課後じゃなくて良かった。僕がうんと言うまで延々と説教されるところだった。
教室に戻ると、なにやら騒がしい。
なんだろう、と思うも僕はそれを誰かに聞く気もないのでそのまま席について授業の準備にかかる。
「転校生だってよ」
どこからともなく、声が降ってきて顔をあげると、賀川くんと目が合う。
「こんな時期に?」
思わず聞いてしまった。3年の1学期の真ん中に転校してくるなんて珍しい。
「そう、しかも、めっちゃ美少女って噂」
なるほど、それで男子の方がざわついているのか。
「ワンチャンあるかも~?!」
何がワンチャンだ。
呆れながら、僕はHRが始まるのを待った。
教室のドアが滑る音がして担任が入ってくると、クラスがしんと静まり返った。いつもならそんなことは無いのに、と不思議に思ったのもつかの間つぎの瞬間にはひそひそと声がそこかしこから沸いた。
「顔ちっちゃ」
「超かわいい」
「やば、アイドル級」
そんな賞賛の声が耳に届いて、転校生のことかとなんとなく思いながらも、僕は机の上に出した英単語帳に目を落としていた。今日の1限目でミニテストがあるのだけど、昨日すっかり忘れていて寝てしまった。僕は赤い暗記シートを滑らせながら必死に範囲の英単語を頭に叩きこむ。
「今日からうちのクラスに入ることになった二宮だ」
「A県から来ました二宮幸(にのみやさち)です。よろしくお願いします」
その聞き覚えのある透明な声に、僕は弾かれたように顔を上げた。
彼女だ。
出会った時と同じ、見たこともない制服を着た黒髪のあの子だ。
そして彼女はあろうことか、僕と目が合った瞬間「あ、怜くん!」と叫んだ。
言わずもがな、クラス中の視線が僕に注がれる。
「お、山本と知り合いか?」
「い、いや…」
「そうなんです、家が近所で」
二宮幸と名乗った転校生は、いけしゃあしゃあとその端正な顔に人懐っこい笑顔を浮かべてそんなことを言った。こっちはどこに住んでいるのかも知らないし、名前だって今しがた知ったばかりだというのに。
「そうか、じゃぁ、わからないことがあれば山本に聞くといい。山本、頼んだぞ」
せっかく頭に詰め込んだ英単語が全て吹っ飛んだ。
「怜くん、一緒に帰ろっ」
帰りのHRの終了を告げる鐘の音とともに席を立った僕を呼び止める声。椅子に縛り付けられていた呪縛から解き放たれたかのようにそれぞれ一斉に動き出したクラスメイトは再び固まる。
一瞬の沈黙と寄せられた視線の中、僕は聞こえなかったふりをして教室を出た。
「無視するなんて酷いじゃん」
すれ違う人という人が振り向く。違う制服を着ているというだけでも目立つのに、その外見も相まって彼女のところだけスポットライトが当たっているかのような異質さがあった。 でも、不思議と彼女はそのことを気に留める風でもなくいたって普通に見えた。とはいえ、彼女と会うのはこれで2回目だから彼女の普通がどうなのか、僕は知らないのだけど。
「僕たち、知り合いだったかな」
隣を歩く彼女に、僕は言った。
「知り合いでしょ。え、違うの?私たちあんなに濃い時間を過ごしたのに?」
「ちょっ、誤解を招くようなこと言わないでくれる?!」
「やっとこっち見た」
くすくすと、焦る僕を笑う君。まるで花が春の暖かさにほころぶ様を見ている錯覚。
「二宮さんは、」
「サチ」
「サチさんは、目立つから、」
「サチ」
「…」
「あ、今めんどくさって思ったでしょ」
わかってるならぜひともやめてほしい。
僕は、靴に履き替えて校舎を後にした。今日もバイトだから、彼女には悪いけど相手などしていられない。
なのに、彼女は僕の後をついてくる。駅に着いて改札を通り、ホームについても彼女は僕にぴったりと。次の電車までまだ5分あった。
「なんでそんな冷たいの」
「僕は静かに過ごしたいんだよ」
今日1日、どういう知り合いだ、から始まり紹介しろだのなんだの男子から質問攻めにあった、それはもうとんだとばっちりだ。
「君は、目立つから、あまり近づかないで欲しい」
そう、それが本心だ。目立つ人のそばにいれば、自然と僕にも視線は集まるから、お近づきにはなりたくない。
「…ひどい…っ」
その声と共に隣にいた彼女が視界から消えた。手で顔を覆ってその場にしゃがみこむ姿に僕はギョッとする。
「ちょっ、二宮さんっ、ど、」
「ひどい怜くん…っく、…ひっ…」
周りの人の視線がちらちらと向けられていることを視界の端で感じながら、しゃがむ彼女のそばでおろおろする僕。一体どうしろっていうんだ。
「ご、ごめん、二宮さん」
「サチって呼んでくれる?」
「さ…サチさん」
「さん付けはやだ」
「わ、わかった!わかったから!泣き止んでよ、サチ」
「……くくく…あははは」
僕は呆れて天を仰ぐ。人間不信になりそうだ。
けれども、どうしてだろう、初めて声を上げて思い切り笑う君を見ていたら、どうでもよくなった。死にたいと言った君が声をあげて笑っている。ただそれだけで、良かったと思えた。
「ここ、僕だけのお気に入りの場所だったんだけどな…」
結局、バイト先の屋上までついてきたサチは、僕の隣で空を眺めていた。むき出しのコンクリートの床に無防備に伸ばされた足が白くて細くて、目のやり場に困る。
「あら知らないの?喜びは分かち合うことによって倍になり、悲しみは分かち合うことによって半分になるんだよ」
「どっかのことわざだね」
「そう、だから私のおかげで怜くんの喜びは倍になるの。感謝してちょうだい」
なるほど。そういう解釈の仕方もあるんだな、とすごいポジティブ思考に呆れを通り越して納得してしまった。
「ねぇ」
透き通る声に呼ばれて、振り返る。今日も風がサチの髪を揺らして、白い肌を滑っている。それだけ見れば涼し気だけれど、日差しは容赦なく僕らに照りつけて、汗を滲ませる。
「どうして死のうとしてたの?」
あの、光の届かない底なしの目が僕を捉えていた。
「だから…死のうとしてたわけじゃないんだよ。あぁしてフェンスの向こう側に行くことはよくあって…。でも、サチに言われて、確かに死を全く意識しなかったと言えば嘘になるかな」
死にたいというよりも、生きていることに対して執着がないと言ったほうがしっくりくる。
「…存在を否定されて…」
話すつもりなんかなかったのに、気づいたら口が動いていた。
「それで、生きてる意味がわからなくなった」
僕は、そのまま背中から後ろに寝ころんだ。熱されたコンクリートの熱さと空から降り注ぐ日差しに挟まれてトースターで焼かれる食パンになった気分だ。
「そもそも、生まれてきちゃダメだったんじゃないかなって」
ーーーあんたなんか産まなきゃよかった
眩しさに目を閉じると、聞こえてくる冷たい母の声。
投げつけられたあの日から、ずっと耳にこびりついて離れない。
僕が生まれたせいで、幸せになれない人がいる。それなら、僕はいないほうが良いんじゃないかって。
それでも、死ぬのはなんとなく違う気がして、だったら少しでもはやく離れようって思って大学進学も諦めた。
「怜くんて、ばかだね」
「え?」
「怜くんの命は、この世に生を受けた時点で怜くんだけのものだよ。誰かのためにあるものじゃない」
目を開けると、こちらを向くサチと目が合う。その顔は、どこか怒りを含んだような表情だ。形のよい唇をキュっと真一文字に結んで、僕を睨みつけていた。
「例え誰かに存在を否定されたとしても、そんなの言わせておけばいいの。そんな人のことを否定する人の方が間違ってる」
サチは、「だからね」と続ける。
「ーーーー怜くんは、生きてていいんだよ」
初めて会った時に見た、泣いているのに笑っている顔でサチは言った。
天の赦しのようなその声に、僕は言葉を失う。
「っ…」
ーーーーあぁ、そうか
僕は、誰かにそう言ってもらいたかったんだ。
ずっと、誰にも言えなかった心の枷が、取り払われていくのを感じた。
会ってまだ数日の名前しか知らないサチの口から放たれた言葉なのに、それは僕の心にずっしりと居座っていた重石を確かに軽くしてくれた。
僕は、こみ上げてくるものを押し留めて、声を振り絞る。
「…あ…ありがとう…サチ」
なんとかそう言うので精一杯で、泣きそうなことを悟られまいと僕は逃げるようにバイトへと急ぐ。
「おはようございます」
マンションの地下は、驚くほど涼しくて、屋上でかいた汗が冷えてぶるっと体が震えた。スタッフルームで着替えを済ませてフロアに顔を出すと、カウンター内で本を読んでいた店長が顔をあげる。38歳だという店長は、実年齢よりだいぶ若く見えるし世でいうイケメンの部類だ。この店にも明らかに店長目当てで来る客もちらほら。
「おはよう、怜くん」
店内に客はおらず、BGMだけが流れていた。
「今日も屋上行ってたの?」
「あ、はい」
「好きだねぇ。もう灼熱だろ」
「そうですね、汗かきました」
サチのことを言ったほうが良いのかと頭を過ぎったけれども、鍵の管理はしっかりしているから話す必要はないと判断して黙っておいた。
僕は、グラスとトーション磨きからテーブルのメニュー替えとカトラリーやナフキン補充など、出勤してからのルーティンにとりかかる。夕方から夜にかけては軽食を食べにくる客が多く、夜は完全に酒目的のバーと化すこの店では、接客もそれほど必要なくバイトも他に居なくて気が楽だった。
ーーーカラン
入口のドアのベルが鳴る。
こんなに早く来客なんて珍しいな、と思いながら「いらっしゃいませ」と振り向いた僕は絶句する。
「やっほー」
私服姿のサチが、立っていた。
「…」
固まる僕をスルーしてカウンターに座ると、メニューを開く。その一連の動作はとてもスムーズで躊躇いがなく、一見さんではないと踏んだ僕は、カウンターの向こうに立つ店長に視線を送った。店長は、ちょっと困った顔で僕とサチを見ていた。
「この人、私のオジサン」
「は?」
「こら幸、変な誤解を招くような言い方はよくない。…怜くん、幸は俺の姪っ子なんだ。姉の娘で、このマンションに引っ越してきたんだよ」
「あ…、そうだったんですか」
そうか、それで突然屋上にきて、僕の名前も知ってたってことか。
「怜くんと一緒のクラスになれたの!」
「そうか、良かったな。怜くん、幸と仲良くしてくれな。こっちに俺以外に知り合いが居ないから話し相手にでもなってくれると助かるよ」
店長のサチを見つめる優しさにあふれた眼差しに、僕は「はい」と頷くしかなかった。
*
それからというもの、サチは所かまわず僕に話しかけてくるようになった。元来明るい性格なのか、クラスにもすっかり打ち解けて友だちも出来たのにも関わらず、サチは僕にも構ってくる。これは、構うなと言った僕への嫌がらせじゃないかと思うほどだ。
僕のバイト先、というかサチの叔父にあたる店長の店には、毎晩夕飯を食べに来ているらしく、僕がバイトの日にも必ず来ていた。どうして家で食べないのか、気にはなったけど特に聞くことはしなかった。家庭のことを探られるのがいい気分ではないことは、僕自身が一番よく知っているから。
「怜くんと付き合ってるのかって麻衣ちゃんから聞かれた」
学校からの帰り道、サチは言った。麻衣ちゃんとは、同じクラスの滝川麻衣さんのことだろう。サチは、毎日僕の後を追いかけるようにして一緒に下校していた。バイトの日は帰る先が同じだし、バイトがない日でも家がバイト先から徒歩5分と近いため仕方がないかと諦めていた。
その話題に興味もなく「ふーん」とだけ返す僕の肩をサチが押す。
「その無関心、むかつく!付き合ってるって言っちゃったからね」
「は?嘘だよね?!」
「嘘じゃない」
「はぁ?なんでそんな嘘つくの?意味わかんないんだけど。明日すぐさま訂正してよ」
ただでさえ、美少女転校生と名高いサチに構われてることで視線が集まっているのに、僕の平穏無事な高校生活にこれ以上波風を立てないでほしい。
「そんな嫌がることなくない?こう見えて私モテるんだからね?!この前だって1組の何とかくんから告白されちゃったし」
知ってるよ。クラス中の男子が「先越されたー!」って喚いていたし、戻ってきたサチに女子がたかってきゃーきゃー言っていたから嫌でも耳に入った。
ちなみに、その何とかくんは、バスケ部のキャプテンの清水くんだ。
2年の時に同じクラスだったけど、背も高くてさわやかで絵に描いたようなイケメン。
そんな高スペックの清水くんを振ったサチは、極度の面食いに違いないと男子たちが絶望し戦いていた。
「それに、あながち嘘でもないじゃん?」
「何が?」
「毎日一緒に帰っておしゃべりしてさ。クラスメイトの誰よりも一緒にいる時間長いもん」
だからなんだと言いたい。
「サチってさ、たまに思考回路が幼稚園児並みだよね」
「なにそれ、どういう意味?」
「一緒にいる時間が長いからって付き合う理由にはならないってこと」
バイトじゃない今日も、僕の足は無意識に屋上へと向かっていた。
「じゃぁ、どうなれば付き合ってるって言えるの?」
「そりゃぁ、お互いに付き合うことを了承しなくちゃ始まらないんじゃないの」
何とかくん改め清水くんからの申し出をサチが受け入れれば付き合いが成立したのに。と、頭の隅で思いながらエレベーターに乗り込みドアが閉まった瞬間、僕の右手にサチの細い指が絡まる。指の間に自分の指を滑り込ませて握られて、思わずびくりと体がはねた。その拍子に手を払おうとしたけれど、思いのほかしっかりと握られていて離れなかった。
「な、なに急に…」
「ねぇ、怜くん…私と付き合って」
体をすり寄せて下から上目遣いで見つめてくるサチにそう言われ、不覚にも胸が高鳴った。誰もが認める美少女に、こんな体勢でそんなことを言われたら誰だってときめいてしまう。
「ば、」
「うっそぴょーん!あっ、もしかして本気にしちゃった?」
開いたエレベーターのドアから先に外へ飛び出すサチを見ながら俺は盛大にため息をひとつ。
だから、嫌なんだよ…。
勘弁してほしい。ただでさえ女子に免疫がない俺をからかうのはやめてくれ。
細くて柔らかなサチの手の感触が、僕の右手にいつまでも残って消えてくれなかった。
*
「なぁ山本。二宮さんとはどうなんだよ」
「どうって、なにが?」
僕の机の横にしゃがみこんで賀川くんは声をひそめる。
「どこまでいったんだって話だよ。もうちゅーはしたのか?」
ちゅーって!小学生か。
吹き出しそうになるのを堪えて、僕は「そもそも付き合ってないから」と何度目かとなる訂正をしておく。というのも、サチが転校してきて早1か月、僕とサチが付き合っているというデマが流れ始めてしまったのだ。
「いやいやいや、往生際が悪いって!もうどっからどうみてもカレカノだかんな!お前が実は隠れイケメンだってことはもうバレている!」
「全てが誤解だよ、賀川くん」
どっからどうみても、まとわりつくサチを僕が適当にあしらっているようにしか見えないだろう。相槌も適当だし、スルーしてる時だってしばしば。それに僕が隠れイケメンだって?眼鏡を取って前髪あげたら実はイケメンだったなんて、漫画の世界じゃあるまい。
「誤解って、お前なぁ…。じゃぁよ、百歩譲って付き合ってないとして、どう見ても宮本さんはお前にほの字だろ?そこんとこどう思ってんだよ?」
ちゅーだのほの字だの、突っ込みたいところは山々だけど、話が広がってしまうのでそこはぐっと堪える。
確かに、サチが一体どういうつもりで僕に張り付くのか、その理由は気になってはいたけれど僕にはわからなかった。サチが僕みたいな地味なヤツを好きになる要素は全く見当たらないし、ただ単に叔父さんの店で働いているバイトの僕がたまたま越してきてはじめて知り合ったクラスメイトだったから、というだけの話ではないかと僕は踏んでいる。
「サチは僕をからかって遊んでるだけだよ」
事実、サチはいつも焦る僕をみて楽しんでいる。この前みたいにいきなり手をつないできてからというもの、最近は下校の時にはいつも腕を組んだり手をつないでみたりするようになった。僕が嫌がってはがそうとすれば、また「ひどい」といって泣きマネをするものだから、僕は諦めてされるがままだ。人間不信ならぬ、女性不信になりそうだ。
「そんなもんかねぇ」
あー言えばこう言う僕に諦めの表情をみせた賀川くんは、肩をすくめて自分の席に戻っていく。
賀川くんは、どうして僕に構うんだろうか。友だちがいないことを可哀そうだと思って優しくしてくれているのだろうか。
理由はどうあれ、今度バイトの無い日に誘ってみようか、と頭の片隅で思った。
その日の帰り、サチは僕の手を取りぶんぶん振りながらご機嫌に歩いていた。女子と手をつなぐなんて、と最初はどきどきしたけれど慣れというものは恐ろしい。今では繋いでないとどこか落ち着かないくらい当たり前になってしまっていた。
「なんか、良いことあった?」
「ないよー」
「そ、そっか」
やっぱり女子はわからない。
「あ、サーティツーのアイス食べたい!」
今日も暑いし、バイトまで時間もあるからまぁいいか、と僕はサチの提案に乗ることにした。
列に並びながらショーケースを覗いている間も僕らの手は離れない。
それぞれ注文して、サチの会計の番になったところで手が離されたものの、サチは鞄をごそごそしてから「あ、財布忘れちゃった…」と舌をぺろりと出して僕を見た。
その顔は、可愛いが計算された確信犯。
さっき、賀川くんにサチは僕で遊んでいるだけだと言ったけれど、サチは、甘えたいのではないか、と感じることが何度かあった。エレベーターですり寄って来たり、屋上で隣に座る僕の肩に寄りかかって来たり、今もそうだけど、甘える相手が欲しいだけのような気がする。それがたまたま女慣れしてなくてチョロい、もとい扱いやすい僕だったってだけ。
「はいはい」
サチを食い逃げ犯にするわけにもいかないので、僕は二人分を支払った。バイトのお金も特に何に使うわけでもなく大半は貯めているからこのくらいは痛くも痒くもない。
「ありがとう。あとでお店に行くとき返すから」
「良いよ、今日は僕のおごり」
「ホント?嬉しい!ごちそうさまです」
アイス一つでそんなに喜んでもらえるなら安いものだ。
とサチの笑顔を見て思っている時点で、僕は完全に絆されてしまっているのだろう。可愛いは正義とはよく言ったものだ。それだけで、得をする。
僕らは店のベンチでアイスを食べて涼をとった後、バイト先へと向かいエントランスで「またあとで」と別れた。着替えて出勤した僕は、いつもと同じルーティンをこなしてサチを待っていたが、一向に姿を見せない。
「サチさん、来ませんね」
「あぁ、今日は幸の誕生日だから、さすがに家で食べてるのかもね」
「えっ?誕生日だったんですか?」
「そうそう、あれ、幸のやつ怜くんに言ってなかった?幸って変なところで謙虚なんだよね、俺にはプレゼントねだってくるくせに」
聞いてない、なんで言わないんだよ、と怒りに近い憤りを感じた。でも、僕はサチの家族でもなければ彼氏でもないのだから、聞いてない、と彼女を怒れる立場になかった。
それでも、一言おめでとうの連絡でも後で入れてやろうと思ってバイトが終わるのを待っていると、夜の10時前に珍しく店の電話が音を立てた。
店長はちょうどお酒を作っていたので僕が出ると、女性が焦った口調で店長の名を口にする。僕は、保留ボタンを押して店長へと受話器を渡す。
「これ、1番のお客様にお願い」
「はい」
受話器を持ってバックオフィスへと店長が消えていくのを視界の端で捉えながら、僕はグラスに注がれたソルティドッグを言われた席まで運ぶ。もう少しで上がりなので、新規の来客がないことを心の奥で願いながら僕は残っている洗い物の仕上げに入った。
「怜くん、ちょっと」
5分も経たないうちに顔を覗かせた店長に呼ばれ、僕は急いで手を拭いてバックオフィスへ続くカーテンをくぐった。
「どうかしました?」
話は終わったようで、受話器は元のところに置かれている。
「うん…、今の電話サチの母親からだったんだけど、サチが家にいないって」
「え…」
誕生日なのに、何をやっているんだ、サチは。
「スマホも家に置きっぱなしらしくて…、怜くん心当たりないかな?」
「すみません、俺ちょっと屋上見てきます!」
「えっ、屋上?ちょっと、怜くん!」
店長の制止も無視して、僕はそのまま店から飛び出した。
屋上へと続くエレベーターのボタンを、意味がないとわかっていながら連打する。押してから1階まで階段を使えば良かったと後悔するも、もう遅い。電子版には移動を示す下向きの矢印が点滅している。
胸が、心臓が、苦しいくらいに動いて鼓動が耳に響いた。軽い耳鳴りのように、平衡感覚が崩れるのをなんとか保ちながら僕は自分に大丈夫だと言い聞かせる。
大丈夫。
そんなはずは、ない。絶対。
サチが屋上の鍵を開けているのは見たことがないし、一人では怖いと言っていたではないか。だから、大丈夫。
なんの根拠もない大丈夫は、僕の不安を和らげるどころか余計に掻き立てた。
早く、早く屋上に着いてくれ。
ようやく乗り込んだエレベーターの中、ゆっくりと移動する数字を見て逸る気持ちを抑える。こんなにもエレベーターの速度が遅いと感じたことはなかった。
ーーーチーン
やっと着いた最上階、ドアが開ききらないうちに飛び出て僕は屋上に続くドアへと急いだ。
キーボックスを確認するより先にドアノブを回す。僕の予想を裏切る形でドアノブはガチャリ、と回ったのだった。
そのままドアを押し開いて、僕は屋上へと出る。
もう夜中だというのに、空気は湿り気を帯びて肌にまとわりつくようだ。
「サチ…」