*
僕は、毎日夜の10時過ぎに帰宅する。バイト先で賄いもでるからいつも家では食べない。休日も昼過ぎから10時までバイトしているから、ほとんど家にいることは無かった。
それでも、家に帰れば、僕を待っている人がいる。
「お帰り、怜」
「ただいま」
玄関で靴を脱いでいると、祖母がリビングのドアから顔を出した。明かりが隙間から射して、中からかすかにテレビの音が聞こえる。
「ばぁちゃん、待ってなくて良いって言ってるのに」
眠たそうにあくびをしながら、祖母は笑った。毎日、僕がどんなに遅く帰っても、祖母はこうして起きていて、僕の顔を見ると安心したようにおやすみを言ってから眠りにつくんだ。
「別に怜のこと待ってたわけじゃないのよ」
返ってくるのは、いつも同じ言葉。その後に続くのは、見たいドラマがあったからとか、コーヒー飲んだら寝れなくなったとか、そんなものだ。
高校に入ってバイトをしだしたばかりの頃は、待たれていると思うとせいせいしなくてやめてほしいと思った時期もあったが、今となっては習慣化している。
待ってくれている人がいるというのも、悪くない。
「じゃぁ、風呂入って寝るから。おやすみ」
「うん、おやすみ」
祖母の柔らかな視線を背に感じながら、僕は2階の自室へと向かった。暗い階段を足元のセンサーライトだけを頼りに昇り、ドアを開けてスイッチに手を伸ばす。パチッという音に遅れて蛍光灯がちかちかと部屋を照らした。広がるのは、ベッドと勉強机以外に何もない無機質な部屋だ。昔母が使っていたこの部屋を、今は僕が使っている。母の弟の叔父がいるが、彼は就職して県外に出ていた。だから今この家に住んでいるのは、僕と祖父母の3人だけ。
母は、この家にはいない。
半年ほど前に、交際相手と同居するといって一人この家を出ていった。
それは構わない。もともと、働いていて忙しい人だったし、僕の食事や洗濯などの身の回りの世話は祖母がしてくれていたから、何一つ不自由はない。
それに、会ったこともない母の恋人の家に一緒に連れていかれても困るだけだ。
けれど…
それなら、どうしてこんな気持ちになるんだろう。
母が家を出て行ってからというもの、まるで、ぽっかりと穴が空いたような、虚しさだけが僕の心に残っていた。
ーーー心が空っぽなの
今日会った、あの子の声と言葉が頭に浮かぶ。とても寂しい言葉が、透き通る声にのせられて悲しく響いた。もしかしたら僕の心もそうなのかもしれない、とあの時頭の片隅で感じた。
心が空っぽだから死にたいと言った彼女。
それならば、僕も彼女と一緒に死んでしまった方が、楽なのだろうか。
二人なら…あそこから飛べるかもしれない。
あの、街と空がつながる景色の中に。
我ながらバカなことを考えてしまった、と鬱々とした気持ちを、ため息と一緒に吐き捨てる。
ベッドの上に鞄を放り投げて、部屋着を手に僕は風呂場へと急いだ。バイト先でしみついたタバコの匂いを早く洗い流したかった。
シャワーを浴びながら、また思い出される屋上での出来事。一緒に死のうと言ったあの子。底知れない暗い瞳、風になびく黒髪、驚くほど頼りない細い肩、そして、あの泣いているような笑顔。彼女の口から放たれた言葉はどれも嘘ではなかったように思う。
僕に一緒に死んでくれるかと、懇願のようにもとれるそれは彼女の心の悲鳴のようにも感じた。
それでも…連絡先を聞いておけばよかった。
あの後、僕がバイトの時間だからと二人で中に入った別れ際、鍵を閉める僕に彼女は「またね、怜君」と言った。名乗った覚えもなければ、彼女との面識もない。驚いてどうして知っているのか聞こうと振り向いた時には彼女はエレベーターの中。慌てて追いかけたけど、ボタンを押す前にドアは閉じられた。
なぜか僕のことを知っている彼女。
もしかしたらまた屋上で会えるかもしれない。
そこまで考えて、自分が誰かと会うことを望むなんて、初めてかもしれないとふと気づく。
けれど、疲れた頭が、それ以上深く考えることを拒絶した。
僕は、毎日夜の10時過ぎに帰宅する。バイト先で賄いもでるからいつも家では食べない。休日も昼過ぎから10時までバイトしているから、ほとんど家にいることは無かった。
それでも、家に帰れば、僕を待っている人がいる。
「お帰り、怜」
「ただいま」
玄関で靴を脱いでいると、祖母がリビングのドアから顔を出した。明かりが隙間から射して、中からかすかにテレビの音が聞こえる。
「ばぁちゃん、待ってなくて良いって言ってるのに」
眠たそうにあくびをしながら、祖母は笑った。毎日、僕がどんなに遅く帰っても、祖母はこうして起きていて、僕の顔を見ると安心したようにおやすみを言ってから眠りにつくんだ。
「別に怜のこと待ってたわけじゃないのよ」
返ってくるのは、いつも同じ言葉。その後に続くのは、見たいドラマがあったからとか、コーヒー飲んだら寝れなくなったとか、そんなものだ。
高校に入ってバイトをしだしたばかりの頃は、待たれていると思うとせいせいしなくてやめてほしいと思った時期もあったが、今となっては習慣化している。
待ってくれている人がいるというのも、悪くない。
「じゃぁ、風呂入って寝るから。おやすみ」
「うん、おやすみ」
祖母の柔らかな視線を背に感じながら、僕は2階の自室へと向かった。暗い階段を足元のセンサーライトだけを頼りに昇り、ドアを開けてスイッチに手を伸ばす。パチッという音に遅れて蛍光灯がちかちかと部屋を照らした。広がるのは、ベッドと勉強机以外に何もない無機質な部屋だ。昔母が使っていたこの部屋を、今は僕が使っている。母の弟の叔父がいるが、彼は就職して県外に出ていた。だから今この家に住んでいるのは、僕と祖父母の3人だけ。
母は、この家にはいない。
半年ほど前に、交際相手と同居するといって一人この家を出ていった。
それは構わない。もともと、働いていて忙しい人だったし、僕の食事や洗濯などの身の回りの世話は祖母がしてくれていたから、何一つ不自由はない。
それに、会ったこともない母の恋人の家に一緒に連れていかれても困るだけだ。
けれど…
それなら、どうしてこんな気持ちになるんだろう。
母が家を出て行ってからというもの、まるで、ぽっかりと穴が空いたような、虚しさだけが僕の心に残っていた。
ーーー心が空っぽなの
今日会った、あの子の声と言葉が頭に浮かぶ。とても寂しい言葉が、透き通る声にのせられて悲しく響いた。もしかしたら僕の心もそうなのかもしれない、とあの時頭の片隅で感じた。
心が空っぽだから死にたいと言った彼女。
それならば、僕も彼女と一緒に死んでしまった方が、楽なのだろうか。
二人なら…あそこから飛べるかもしれない。
あの、街と空がつながる景色の中に。
我ながらバカなことを考えてしまった、と鬱々とした気持ちを、ため息と一緒に吐き捨てる。
ベッドの上に鞄を放り投げて、部屋着を手に僕は風呂場へと急いだ。バイト先でしみついたタバコの匂いを早く洗い流したかった。
シャワーを浴びながら、また思い出される屋上での出来事。一緒に死のうと言ったあの子。底知れない暗い瞳、風になびく黒髪、驚くほど頼りない細い肩、そして、あの泣いているような笑顔。彼女の口から放たれた言葉はどれも嘘ではなかったように思う。
僕に一緒に死んでくれるかと、懇願のようにもとれるそれは彼女の心の悲鳴のようにも感じた。
それでも…連絡先を聞いておけばよかった。
あの後、僕がバイトの時間だからと二人で中に入った別れ際、鍵を閉める僕に彼女は「またね、怜君」と言った。名乗った覚えもなければ、彼女との面識もない。驚いてどうして知っているのか聞こうと振り向いた時には彼女はエレベーターの中。慌てて追いかけたけど、ボタンを押す前にドアは閉じられた。
なぜか僕のことを知っている彼女。
もしかしたらまた屋上で会えるかもしれない。
そこまで考えて、自分が誰かと会うことを望むなんて、初めてかもしれないとふと気づく。
けれど、疲れた頭が、それ以上深く考えることを拒絶した。