「書類の上での手続きはしてしまいましたけど、本当に良かったんですか?」

新居へ向かうリムジンの中、彼女は美斗に問いかけた。屋敷の前に停まっていたリムジンには彼女と美斗が、瑠子と瑤太は自家用車に、それぞれ分かれて乗り込んだのである。

「先程の行為は見ましたでしょ。私は怖い所がある女ですよ」
「全ては御母堂を想いやった事だろう?」
「そりゃあ」

彼女は、自分が傷を負わされた事については、今や何も思ってはいない。伯母の「自分は子供も霊術も夫も失ったのに、何故妹には子供がいて、その一人は霊術も持っているのだろう」という理不尽な思いから来る八つ当たりと、それが曾祖母の死の原因となった事と、一連に対する祖母の態度に怒っていただけだ。傷を負わされて以来、ずっと。

「『焼骨牡丹』は伯母専用に組んだ仕掛けでしてね。母と弟を連れて家を出る時、絶対に発動させてやろうと思っていたんです。まあ使うのは私が思うより早かったですけど。若君様が連れ出してくれたお陰で」

美斗は悲しげな顔になった。

「その『若君様』と呼ぶのはやめてくれ。君は俺の従者でも何でもない。伴侶なのだから。俺の事は、美斗でいい」
「若君様が若君様だから若君様と呼んでいるだけであって、別に他意はありませんよ。いかん。『若君様』でゲシュタルト崩壊しそうになってきたな。名前呼びは、慣れたらまあおいおいという事で」
「そうか…」

美斗は肩を落とした。

「しかし、伯母君の仕打ちや君の傷の事までは知らなかったとはいえ、君が手を汚さずとも良かったのに」

伯母に向けていた彼女の眼差しは、冷たいと表す以前に温度が無かった。『ごみを見るような目』という表現も当てはまらない。ただひたすら、路傍の石を見る眼差しだった。あのような目を自分に向けられたらと想像すると、美斗は胸が押し潰されるような気持ちになった。同時に、彼女から路傍の石を見る目を向けられる花婿にはなるまいと美斗は誓った。

他者の手足を切り落とし、酒甕に放り込んで命を断つ等の数多の残虐行為で知られる武則天にまつわる言葉を、式神を動かすキーワードに使っていた事、何より、そのようにして式神を動かす準備をずっと続けていた事を見る辺り、彼女の怒りの程が窺える。それは理解できるが、彼女の手で全てをやらせてしまった事に、美斗は悔しいような悲しいような、あるいは寂しいような想いを抱いていた。

引っ越しや手続きについて、式神を通し何処までも事務的なやり取りしかできなかったのは、必然的な事だ。しかし、他ならぬ伴侶が抱えていたものを、共に分かち合いたかった。何より、出会って以来、彼女がにこりともしてくれないのも寂しい。義弟こと瑤太が「お姉ちゃん、表情筋が動かないのがデフォルトなんで…」と言っていた辺り、美斗を信用していないから表情が変わらない訳ではない…と思いたい。

ただ一つ言えるのは、母親や弟に対する思いやりも、『敵』と認識した相手に対して慈悲も容赦も無いのも、全て彼女の顔だという事だ。
そんな彼女は何の事も無さそうに応じる。

「生まれながらの人類として、端くれとはいえ霊術を扱える者として、何より一連を把握していた者として、私の全ての誇りをもってして、個人的な復讐を果たしただけですよ。なので若君様が手を汚す事も下す事もありません」

彼女は「もう一つ」と付け加えた。

「うちの祖母は悪口が大好きでしてね。若君様が何かしようものなら、刀隠の悪口をそこかしこで吹聴するでしょうよ。ある事一割、無い事九割くらいの割り合いで。あ。うちの祖母、極度の虚言癖持ちでもあるので」
「そうだったのか」
「祖父の存命時然り亡くなった後然り『シルキー・シリーズ』についても然り、各方面に対して言う事が全く異なりますからね。やれやれ。我々というか特にうちの母親が、あの虚言癖にどれだけ振り回されてきた事か」

彼女はげんなりとした顔と遠い目で、深々と溜め息をついた。