彼女と瑤太が幼児であった頃に、時間は遡る。
彼女は人並みに生まれついたが、瑤太は幼少期は身体が弱かった。なので瑠子は、病室を出られない瑤太の為に、毎日通院し面倒を見ていた。
その病院に、彼女も父に連れられて通っていた。

「まあうちの父親、電車の中でも待合室でも…ああ。家族専用の待合室みたいな部屋もあったんですけど。ひたすら寝ていた記憶しか無いんですが」
「何しに来ていたんだろうな。親父(アイツ)
「さあ?お母さんが瑤太の荷物なり何なりを持って帰って片付けて欲しいって言っても、『やだよ。重いもん』だったな」
「いやマジで何しに来ていたんだよ。親父(アイツ)

当時の彼女は「何でお父さんは寝てばかりいるんだろう」と思いつつも、「お父さんも毎日お仕事だし疲れているのかな」と幼子らしく父を案じてもいた。
尤も、その子供らしい思いやりは、ある日無残にも踏みにじられる訳だが。

それは、いつものように父に連れられ病院に行ったある日の事だった。彼女が少しうたた寝をしている間に、待合室から父がいなくなってしまったのである。
飲み物を買いに行ったか、お手洗いに行っただけだろう。すぐに帰ってくると思い、いつものようにおとなしく絵本を読み待っていた彼女だが、父は戻ってこない。待合室にたまたま様子を見に来た瑠子が「あれ?お父さんは?」と訊いても、彼女は首を横に振るしかない。
まだ幼稚園に上がる前の娘を1人置いて、何処へ行ってしまったのか。瑠子は無論だが、彼女も流石に心配になった。なので父を探す事にした。

さて当時の彼女だが、実を言うと既に霊術の発現が始まっていた。毎日仕事に出る父親の道中の安全を祈り、『お守り』として渡した折り紙の花に、霊術を無意識に仕込んでいたのである。
彼女は教えられるまでもなく、霊術の使い方を知っていた。だから念じたのだ。お守りに「お父さんの居場所を教えて」と。

「わかった。こっち」
「え?」

彼女は母の手を引いて歩き出した。困惑する母を「こっち」「こっちだよ」と誘導するうちに、病院の外に出てしまった。

「…ねえ。病院の外に出ちゃったよ?本当にお父さんがいるの?そもそも、どうしてお父さんの居場所がわかるの?」
「お守りが教えてくれた」
「お守りって…お母さんにもくれた、折り紙のお花の事?」
「うん」

彼女は「ここ」とカフェを指さした。首を傾げながらも入った母と一緒に見たのは、

「お父さん。そのおばさんは誰?」
「おばっ…!?」

こちらを向いて、件の『おばさん』はショックを受けた顔になった。
そう。カフェで遭遇したのは、見知らぬ若い女性と手を取り合い、それは親密な距離で談笑する父親だったのである。つまり、父の不倫の現場に彼女は母と共に突撃してしまったのだ。その時の父の顔を、彼女は今でもはっきりと覚えている。

「それは…」
「何と言うか…本当に教育に悪いとしか言いようが…」

引きつった顔で、美斗と桃李は呻いた。
なお、人の外見年齢というものをよく理解していなかった当時の彼女にとって、大人の女性は大体『おばさん』だった。件の『おばさん』。即ち父の不倫相手は、当時の父より一回り以上年下だったが。

当然の事ながら、母は激怒した。家事はおろか病弱な息子の世話もろくにせず、文字通りただ病院に『来る』だけ。幼稚園にすら上がっていない幼い娘を1人置き去りにして何をしているかと思ったら、若い女性との密会。これで怒らなかったら、ただのうすら馬鹿である。

「お父さん、よくあのおばさんと一緒にいたけど、お仕事じゃなかったの?」
「『よく一緒にいた?』」

母に彼女は「うん」と頷いた。

「お守りから時々見えたの。お父さんの会社の人みたいだから、夜遅いのもあのおばさんとお仕事だからかなと思っていたんだけど」

時折だが、陽炎のように見えた光景を、彼女はただ伝えただけだ。すると一転して、母は深刻な表情になった。
それからの母の行動は早かった。まず、彼女を連れて実家に戻った。いわゆる「実家に帰らせて頂きます!」も、確かにある。だが最大の目的は、娘を祖母である翠子に見せる事だった。そこで初めて、彼女が霊術に覚醒している事がわかったのである。

「で、私の異能がわかると、父親は気味悪がりましてね」

実際、「お守りのお陰でお父さんが何処かわかった」と言った事、また瑠子を通して彼女の力を知った事で、父はまるで汚らわしい毒虫でも払うかのように、財布に入れていた彼女のお守りをばらばらに引き裂いた。その時の父の顔も、お守りが破り捨てられた事も、お守りを通して彼女には『視えて』しまっていたので、よく覚えている。

続いて父が言い出してきたのは離婚だった。元より不倫相手と一緒になる事を望んでいた事もあるが、彼女の事が怪物のように見えて、恐ろしさに耐えられなかったらしい。

「まあ尤も、有責配偶者から離婚を切り出すなんて、法律上できませんけどね」
「俺、あの時の事はよく覚えていなかったし、詳しい事は中高辺りで母ちゃんから聞いただけなんだけどさあ。ユウセキハイグウシャなんて、普通に暮らしていたら絶対に知らない言葉だよな…」

泥沼と化すかもしれなかった戦いにいち早く終止符を打ったのが、下の孫娘の伴侶のあまりの身勝手さに激怒した翠子だった。翠子は、当然ではあるが全面的に瑠子の味方となり、やり手の弁護士をつけてくれた。その弁護士によって父親と不倫相手は多額の慰謝料を取られ、晴れて離婚は成立。
更に翠子は、幼子2人を1人で育てるのは大変だろうからと瑠子を慮り、瑤太の医療費だけではなく、生活面も全面的にバックアップしてくれた。その一つが離れである。
瓊子と璃子の瑠子に対する扱いは知っているが、しかし目をかけていた下の孫娘と折角授かった曾孫達――しかも片方は霊術が覚醒している――は側に置いておきたい。
自分の目の届く所に置けて、かつ瓊子と璃子とは距離を取る事ができ、母子が安らげるようにしたい。なので屋敷の敷地内に離れを建てさせ、そこに住むように言ってくれたのだ。
また使用人達にも声をかけ、瑤太の看護も彼女の世話も、できる限りの助けとなるよう計らってくれた。
彼女は離れを『真の我が家』と思った事は一度も無いが、そこはそれ。自分達親子が不自由なく無事に過ごす事ができたのは、全て曾祖母のお陰だと心から感謝している。

しかし一連の出来事は、『最も身近な異性』即ち父親の裏切りを発端とする、男性全体への不信感という、決して取り去る事ができぬ腫瘍を彼女の心に植え付けてしまった訳だが。