あくまでも、契約上の間柄という事で。《序》(※加筆版)

「お母さんをここから出したいんだよ。私は。ここを出て、本当に『我が家』だって思える、皆が心から安らげる場所に移る。その元手を作る為にも、正社員の話は大歓迎なのさ。まあ家族にも影響がある話だから持って帰ってきた訳だけど、お母さんも瑤太も賛成してくれるなら、私はこの話を受けるよ」

姉の話を聞いていた瑤太は居住まいを正し、真摯な顔で母と姉を見た。

「なあ、お母さん。お姉ちゃん。やっぱり、俺も就活した方が良くないか」
「瑤太は大学に行きなさい」

『母ちゃん』ではなく『お母さん』と改まっての呼びかけから成る申し出だったが、ばっさりと切り捨てたのは彼女だった。瑠子も同調し首肯する。
彼女はふーうと息をついてから、鋭い顔付きで弟を見やった。

「祖母さんが『長男だから』とか相変わらず訳わからん理由で大学入学にやたら期待してるから、気乗りはしないかもしれないけど。でも私としては心配なのさ。一応言っとくけど、プレッシャーをかける訳じゃないよ?もしかしたら、瑤太は遅咲きかもしれないでしょ」

これまで一般人として生きてきた瑤太だが、霊術の素質が開花するかもしれない事を彼女は案じている。

「端くれとは言え霊術士の私としては気がかりなのさ。至極少数派(マイノリティ)と言えど周りに能力者がいる事で覚醒が促されるかもしれないし、仮に霊術が覚醒した場合、力との付き合い方を教えてくれる機関が身近にある環境にいた方がいい。瑤太の安全の為にね。まああと何より、履歴書に書ける学歴を作っとけってのもあるが」
「それは私も思うよ。瑤太」

瑠子は諭す口調で息子に語りかけた。

「私やお姉ちゃんの事を考えて言ってくれたのは嬉しいよ。でも、お姉ちゃんが言う通り、履歴書に書ける学歴はあった方がいい。お姉ちゃんは今の社長のお陰で進路は決まったけど、普通の就活の場合だと、大卒っていう実績があれば、かなり違ってくるから。だから、瑤太は大学に行きなさい」
「まああれだ。学費は全額祖母さんが前払いしてるから、少なくとも学費がどーたらとか考えなくていいのはでかい」

そう。期待する長男が推薦で受かった事に大はしゃぎした瓊子は、相変わらずの見栄っ張りぶりもあって、4年分の学費を全額支払ったのである。

「使えるもんは使っちゃえ使っちゃえ。何より、霊術や霊術の歴史の研究をしたいのは本音っしょ?私は好きなようにしてるだけだから、瑤太も好きなようにしなさい」
「むしろ、そうしてくれた方が、親の立場としては嬉しいかな。自分の為に子供がやりたい事や好きな事を我慢させるなんて、親として凄く申し訳ないし、情けなさすぎる」
「…わかったよ。母ちゃんとお姉ちゃんがそこまで言うなら」

こうして彼女は翌日、社長に正社員としての雇用を受ける旨を報告した。
幼稚園及び小・中・高と『似てない双子』と有名だった彼女と瑤太。全く同時に高校を卒業した後の姉弟は、完全に別の道を歩み始めたのである。程なくしてその道は、思わぬ形で合流する事になった訳だが。
上記の経緯もあり、瑠子と瑤太は「『あの』社長?」と反応したのである。
また彼女にとっては『自分がやった事を評価してもらえた』『評価に見合うだけの待遇を受けられるようになった』という点は誇りとすら思っている事柄なので、冒頭でも書いた通り、『高卒で働いている』事は、コンプレックスでも何でもない。何より、祖母の価値観の偏重ぶりを知っているので、何を言われようと聞く耳は最初から持ち合わせていない。鼻先で笑い飛ばせる。

この場を借りて、高卒で働く全ての人にも謝罪する。本当にごめんなさい。瓊子は考えが偏重な上に、極度の世間知らずなのだ。

また一応書いておくが、彼女は決して自分の祖母を馬鹿にしている訳ではない。『子供を怒るな来た道だ。年寄り嗤うな行く道だ』は真理だと捉えているからだ。彼女は単にひたすら、祖母は馬鹿だと思っているだけである。心から「何故あの大お祖母様から祖母さんみたいなのが生まれたのだろう」と疑問に思うくらいだ。

閑話休題。

「そういう訳で、瑤太の大学にお邪魔する事になった。それにあたって、瑤太。お母さん。『大学』を知っている2人に、一つ確認しておきたい事がある」
「何?」
「何だ?お姉ちゃん」

彼女は真顔で母と弟に問いかけた。

「『ゼミ』ってそもそも何する所なのかな…?」
「知らないで話していたのかよ!」
「ああ。とうとう今日だ」
「落ち着きなよ。美斗」

大学に向かうリムジンの中。目に見えてそわそわとする幼馴染を、桃李は宥めた。もしもここが室内だったら、落ち着きなく歩き回っている所だろう。
苦笑する桃李に美斗は、きっと鋭い眼差しを向ける。

「もしかしたら今日こそ、とうとう『鞘』に会えるかもしれないんだぞ!これが落ち着いていられるか!」

姉がいる弟を探しているという女子生徒がゼミを訪ねてきた。件の女性が渡してくれたというストラップを見た途端、美斗はかつてない衝撃に見舞われた。たった一つ思ったのは「いる」だった。

「こ、このストラップを作ったのは、一体何処の誰だ!?」

桃李が慌てて止める程の勢いで、美斗は女子生徒に詰め寄っていた。
作者は、通学の時にトラブルに見舞われた女子生徒を助けた女性らしいが、件の女性は名乗りもしないで去ってしまったという。ただ一言「『ナギゼミ』で弟を探して下さい」となぞなぞのような事を言って。
身元さえわかればと口惜しく思ったが、名乗らず立ち去るとは立派な女性だと美斗は感心した。
件の女性は、一般人でありながらゼミに入った司瑤太の双子の姉だとわかったのは、刀隠のネットワークによるものである。それが判明したのは、肝心の司瑤太がゼミを抜けた後だったが。

「司家と言えば、霊術士の一族の一つだね。尤も、二代続けて一般人が生まれた上に、霊術士である上の娘…司君にとっての伯母さんも力を失っているから、言ったら悪いけど、霊術士の一族としては落ち目かな」

なお司家では今や唯一の霊術士である司瑤太の姉だが、高校を出てすぐに一般企業に就職したらしい。
霊術士の家としては落ち目。『鞘』かもしれない本人は一般企業のいち社員。今まで花嫁探しの対象として目に留まらず候補としても上がらなかった訳である。

瑤太からより詳しく話を聞きたいと思ったが、いかんせん片や1年生で片や美斗達は3年生。タイミングが絶望的に合わなかった。こうなったら司家に訪問して本人と直に顔合わせをと思ったが、それを止めたのが菅凪教授だった。
何でも、霊術を仕込んだアイテムを希望する女子生徒に配る為、彼女は大学に来るらしい。その霊具の詳細をゼミぐるみで聞く打診をしたので、その日まで待って欲しいとの事だった。

美斗は言う通りにする事にした。そしてとうとう今日を迎える。

「ああ全く!早く時間にならないか!講義の時間すら拷問に等しい!」
「こんな美斗、初めて見るな」

桃李も心なしか、うきうきとしているようだった。

「霊具だけで美斗がああなるんだ。もしかしたら、もしかするかもしれないね」
「うん。あのね。小・中・高みたいに、教室で受ける授業とはまた違うものだって事は、理解していたんだよ」

ざわつく講堂の中。『アイギス・シリーズ』説明会の準備をする彼女は、しかつめらしく頷いた。

「授業とは別に、『この研究するよー』って先生の所に集まって指導を受けたり、皆で一緒に研究したりするのが『ゼミ』なんだね」

母と弟から聞いた事を復唱する口調で、彼女は言った。姉に瑤太は「そうだよ」と返す。

「で、霊術士の卵達が霊術士として在る為の特別授業みたいな指導を受けたり研究したりするのが、件の『ナギゼミ』と」
「霊術士専門の塾って言う方が近いな」
「そっかあ。塾かあ。何だか懐かしい響きだなー」

彼女は遠い目をした。姉弟のやり取りを聞いていた孫江社長は、「ふふっ」と笑う。

「仲がいいんだね。司さんと瑤太君。司さんのそういう所も初めて見るな。オフィスでも、今みたいにもっとカジュアルな感じでいいのに」
「いえ。仕事は仕事ですから。何より私は、社員としては1年も経っていない新人ですので」

一転して真顔で――瑤太曰く「社会人モードスイッチオン」の表情で、彼女は上司に言い切った。席の様子を横目で見ながら、小声で語りかける。

「参加者も集まり始めています。社長もどうぞお席におつき下さい。ゼミの先生達もそろそろ…。ああ、噂をすればですね」

彼女の霊術士としての感覚は、同じ霊術士達の気配を捉えていた。講堂のドアが開き、壮年の女性に続いて生徒達が入ってくる。瑤太は小声で「あの人が菅凪教授だよ」と壮年の女性に視線をやりつつ姉に囁いた。彼女は同じく小声で瑤太に礼を言い、とりあえず生徒全員が入室するまで待つ事にした。
今回、いち企業の代表者も顔を出す説明会なので、社長に続く形で教授への挨拶が必要だからだ。そのタイミングを見計らっていたのだが、どうも様子がおかしい。

1人の男子生徒が、教室の入り口で動きを止めていた。先に集まっていた女子生徒達は「刀隠先輩」「刀隠先輩よ」と非常に好意的な、熱い眼差しと共に囁き合っている。どうやら刀隠というらしいその男子生徒は、ただ呆然とした様子で彼女を見つめていた。

「おい。美斗」
「――見付けた」

先に入室していた男子生徒の1人が呼びかけるが、どうやら耳に入っていないらしい。美斗と呼びかけられた男子生徒は、無上の僥倖に巡り会えたような、それでいて泣き出しそうな顔を見せた。しかしそれも束の間、何かを堪えるように表情を引き締めると、彼女に真っ直ぐに歩み寄ってきた。瑤太が反射的に姉の前に出ようとするが、彼女は軽く腕を上げて首を横に振る。上げていない方の彼女の手を、男子生徒はがっちりと握り締めた。心なしか潤んだ目で、男子生徒は彼女を見据える。

「――君、俺の『鞘』だ」
「はい?」

途端にざわつき始める菅凪教授とゼミ生達をよそに、男子生徒は言い募る。

「君が作った霊具を見てから、もしかしたらと思っていた。でも作った君の身元がわからなくて…わかっても、まずは説明会を待つように言われてもどかしかった。今日、やっと君に会えるのが楽しみ過ぎて、一睡もできなかった!」
「いやきちんと寝て下さいよ。遠足前の小学生ですか」

いつものペースでツッコミを入れつつも、彼女は空いている片手で「とりあえずこれ使って下さい。はい」とひとまずポケットティッシュを差し出す。男子生徒はやっと手を離し、「ありがとう」と言いつつ、受け取ったポケットティッシュで滲んだ涙を拭った。そっと近寄ってきた菅凪教授が、遠慮がちに問いかける。

「…あの。刀隠君。前から言っていましたが、やはりこの子が…」
「俺の『鞘』です。教授」

するとゼミ生達から「えええええ!!?」と驚きの声が上がった。対して、先に集まった女子生徒達もだが、後ろの瑤太もぽかんとしている。同じく近寄ってきた社長に「司さん」と呼びかけられた彼女は、「大丈夫です」と頷いた。視線を男子生徒と菅凪教授達に戻して呼びかける。

「私も霊術を扱える者です。お話は大体わかりました。詳細は後できちんと伺います。まずは説明会を始めようと思います」
「あ、ああ!そうだった!出鼻を挫いてしまってすまなかった!」

我に返ったように素直に謝罪する男子生徒に、彼女は「気にしなくていい」の意味を込めて首を横に振った。
件の男子生徒を始め、菅凪教授とゼミ生達の着席を確認し、彼女は全員に向き直った。
「あーあーマイクテスト。OKマイクテスト。『本日ハ晴天ニシテ波高シ』。聞こえますかー?」
「いやさっきのは何だお姉ちゃん」

幾人かが呼びかけに頷くのを確認した彼女は、隣の瑤太に小声で「マイクテストと言えばこれだと相場が決まっているんだよ」と返した。そして正面を向き、背筋を伸ばして胸を張る。

「はーいこんにちは!本日はお忙しい中お集り頂きましてありがとうございます!これより変質者及び妖魔除けアイテム『アイギス・シリーズ』の説明会を始めたいと思いまーす!」
「司さんってこんなキャラだっけ?」

なるべくテンションを高めにして声を張ったら、困惑したような社長の呟きが聞こえた。

「何分急な事でしたので、予め説明ができておらず申し訳ありませんでした。今回、『アイギス・シリーズ』ご希望の皆さんとは別に、まず『アイギス・シリーズ』を世に出す事にGOサインをくれた、弊社社長も来ております」
「孫江です」

席を示すと、最前列の社長は後ろを向いて女子生徒達に会釈した。つられたように、女子生徒達も会釈を返す。

「また『アイギス・シリーズ』の詳細を知りたいとの事で、菅凪先生とゼミの皆さんにもおいで頂いています。男子がここにいる事に困惑している方もおいでとは思いますが、アイテム研究の為だそうです」

菅凪教授らが座るスペースを示した手で、彼女は隣の瑤太を示した。

「なお、こちらにおります男子は、今回における私のアシスタント。幼稚園及び小・中・高と『似てない双子』と有名だった弟。至って人畜無害男子。瑤太と申します」
「双子!!?」

ほぼ全員の視線が、彼女と瑤太を行き来した。

「弟さんは、霊術士じゃないんだよね?」
「はい。ディオスクロイみたいなものです」
「…司さん。ディオ何とかって何?」
「お姉ちゃん。多分それじゃ一般の人はわからないって」

社長の問いかけと弟の言葉に、彼女は「しまった」と言いたげな表情になった。

「双子座のカストルとポルックスのようなものだと言えば、大体の方は馴染みがあると思います。かの双子は…諸説あるとは思いますが、片方が神通力持ちで、片方が普通の人間だったとの事なので」

社長を始め、ほぼ全員が「成程」といった顔になった。

「このメンバーで説明会を致します。なお、説明の途中でどうしても具合が悪くなる方もおいでかもしれません。その場合は、後ろをご覧下さい」

彼女が手で示した先。講堂の最後列の壁際。いつの間に佇んでいたのか。医師のような看護師のような、清潔感を覚える服装の2名が一礼した。

「医療用式神である、あちらの『パナケア・シリーズ』が皆さんを看護・あるいは保健室…ではなくて医務室にお連れします。ですので、遠慮なく仰って下さい」
「…お姉ちゃん、式神は人型にしたんだな」
「今回は特別仕様で人型にした」

こっそりと問いかける弟に、彼女は同じくこっそりと返した。何せ司家で機能する式神は全てが折り紙人形なので、当たり前と言えば当たり前のやり取りである。
なお女子生徒達は驚いた顔を見せたが「本当に霊術士なんだね」と納得顔で囁き合っていた。

「では、体制の説明も致しましたので、本題に入ろうと思います」

彼女がさっと手を振ると、教壇に置かれていたストラップが、それぞれ全女子生徒の元へ飛んで行った。おお、わあ、と驚きの声をよそに、彼女は続ける。

「私個人の話で恐縮ですが、大学という場所自体が初めての上に、学校自体がジュラ紀ぶりですので、何かと至らない所もあるかとは思いますが、よろしくお願いします」
「いやジュラ紀ぶりって何だお姉ちゃん。つかお姉ちゃんは俺と一緒に卒業してんだから、そんなに時間経ってないだろ」
「じゃあカンブリア紀ぶり」
「…カンブリア紀っていつだっけ?」
「古生代の最初。まだ恐竜もいない」
「もっと遡ってんじゃねーか!」
「嫌だな。私なりのジョークだよ」
「わかりにくいんだよ!」

打てば響くような姉弟のやり取りに、講堂中がどっと湧いた。
「さて、皆さんにお配りした『アイギス・シリーズ』と名付けたその品ですが、名前の通りです。貴方を守ります」

気を取り直したように彼女は口を開いた。

「端的に言いますと、害意を持って近付いた者がいた場合、危害を加えるに使おうとした体の部位を壊死させます」

………………………。

先程とはうって変わって、講堂は静まり返った。強烈な言葉に、「壊死…?」と女子生徒達がうすら寒そうにストラップを見つめる。弟に「お姉ちゃん。お姉ちゃん。端的すぎ。もうちょい詳しく」と耳打ちされ、彼女は「わかっている」の意味を込めて頷いた。

「ここから先は具体的な話も入りますので、気分が悪くなった方はすぐに仰って下さい」

彼女は慎重な口調で前置きした。

「例えば、通学にあたって電車等の公共交通機関をご利用の方が大半と思われます。そこでもし害意を持って皆さんに近付く者がいた場合、『アイギス・シリーズ』が害意を感知し、加害者にまず警告発作を起こします」

ゼミ生達も女子生徒達も「警告発作?」と首を傾げた。その疑問符を想定していたように、彼女は続ける。

「『警告発作』とは、『アイギス・シリーズ』に込めた霊術で加害者の心臓や肺を締め上げる事により、頭痛や息苦しさ、胸の痛みを与える事です。ここで加害をやめれば最悪でも『車内に急病人のお客様が』で済みます」
「えーとつまり、もし皆さんの周りでそういう症状が出る奴がいたら、そいつは加害者予備軍だって事です。助けなくていいですし、そもそも助ける価値無いですし、なんだったら駅員とか呼べばいいだけです」

彼女の説明に、瑤太が合いの手を入れた。

「与える苦痛を具体的に言いますと、嘔吐感を覚えるレベルの苦痛です。普通でしたらそこで加害をやめる、と言いたい所ですが、その手の不審者に『普通』は通用しません。もし苦痛を覚えても加害行為を継続しようとした場合は、加害に至る前に、例えば手を使った加害でしたら、その手が壊死します」
「いや…何もそこまでする事ないんじゃないですか…?」

ゼミ生のスペースに座る男子生徒が遠慮がちに訊いた。気分を害した様子も無く、彼女は返す。

「この手の犯罪は現代の日本では裁かれにくく、また裁かれたとしても再犯率が非常に高いです。法的に裁く事も再犯を止める事もできない以上、単純かつ決定的な手段として、身体を使い物にならなくする事が一番です」
「そもそも、いきなり身体を腐らせたりしないで『警告発作』っていう猶予を与えているだけ、姉は優しくなった方です…。…昔は問答無用で腐らせていたんで」
「昔は!?」

瑤太の補足に、社長以外の全員から声が上がった。彼女は何の事も無さそうに「はい」と首肯する。社長は社長で「あーそんな事もあったね」と遠い目になっていた。
瑤太の言葉の意味を説明するには、彼女の高校時代へと時を遡る必要がある。

「落ち着いて!皆落ち着いて校舎に戻って!」

体育教師の呼びかけに、生徒達はざわつきつつも指示に従う。生徒達を誘導する教師の傍らで、スマートフォンを手に救急車の手配をする同じ体育教師と、両目を抑えて悶絶する男達を見ながら、彼女は呟いた。

「うっわいきなり効果抜群か」
「あれ司さんがやった事だったの!?」

クラスメイトの素っ頓狂な声に、彼女は「そうだ」と頷いた。

「ていうか、霊術士って本当にいるんだ」
「都市伝説だと思ってた」
「まあ私は他の皆みたいに何か凄いビームとか撃てないがな」

クラスメイト達は「何か凄いビーム…?」と怪訝そうな顔をしたが、彼女は至って大真面目に話している。

このリアクションも無理は無い。ここは普通の公立高校なのだから。彼女が『自分が行けるレベルの中で最も偏差値が高く、かつ学費が安い高校を』と選んだ結果、現在の高校に落ち着いた。とりわけ『学費が安い』は重要である。故に彼女は彼女曰く「公立の貧乏校」に入学となった。

このような言い方をしてはいるが、彼女は学び舎を馬鹿にしている訳ではない。事実を述べているだけである。何せ『築100年以上の歴史を持つ伝統ある校舎』と言えば聞こえはいいが、その内実は近隣の住民はおろか生徒達からも『死霊牙城(ゴーストバベル)』と揶揄される程の、おんぼろ校舎なのだから。しかし制服が無く私服通学が可能。校訓は『自由・自律・自制』。校則は『他人に迷惑をかけない。社会のマナーとルールを守る』と至ってシンプル。その自由な空気に憧れ、難関ではありつつも志望校とする者が多い、変わってはいるが良き女子校である。

尤も、彼女の選択に例にもよって瓊子は文句を付けてきたが。何でも「うちの中で公立に通うなんて瑠子とあんただけ」「霊術が使えるのに霊術士専門の高校に通わないなんて本家の恥」との事だった。日頃より彼女を「まともな霊術も使えない」とこき下ろしているにも関わらずの発言だ。これがいわゆるダブルバインドである。

因みに、司一族はエリート揃いだ。例えば本家も分家も、高校は件の霊術士育成機関を備えた私立の難関校、大学は東大(時代によっては帝国大学)、もしくは東大と同レベルに通った卒業生ばかりである。璃子もOGである事は言うまでも無い。
時代もあるが、瓊子の意向により進学先を選択する自由すら無かった瑠子も、上記の高校を受験させられた。しかし成績が届かず、ワンランク下の公立高校に通う事になった。

「私の成績じゃ無理だって、最初からわかっていたけどね?」

当時を思い返した瑠子はこう言っていた。
なお、ランクが落ちるとは言っても、名を言えば「え?『あの』?」と返ってくるような、十分に優秀と言える高校だったが。しかし瓊子にとっては「公立如きに通うなんて、恥ずかしくて世間様に顔向けできない」との事らしい。

ここで全ての公立高校の在学生・卒業生及び関係者の皆さんに謝罪しなければいけない。本当にごめんなさい。瓊子は価値観も視野も恐ろしく偏狭な上に、一族こそが何よりの基準なのだ。
当たり前だが、ただ一方的に言われるだけの彼女ではなかった。

「進学なんて自由でしょ。自分が行きたい学校を選んで何が悪いのさ。私もお母さんも祖母さんの見栄の為に学校に行く訳じゃありません。そもそも私を『まともな霊術も使えない』とか言ってるくせして、霊術士育成クラスがある学校に行かせようとするとか、言ってる事めちゃくちゃだからね?てか、あんな阿呆みたいに学費が高い学校に行く気なんか無いよ。奨学金なんてお荷物を背負いたくもないし。自分が選んだ学校に自分の実力で合格した事を非難される筋合いなんてありません。第一、時代の関係もあるのはわかってるけど、親に言われて試験も無しに女学校に入学した『だけ』、しかもまともに卒業すらしていない祖母さんが、私やお母さんを恥だの何だのとどの口で言うのさ。悔しかったら今からでも勉強して、大お祖父様達みたいに東大にでも合格してみたら?このオール丙」

という感じだった。瑠子や瑤太が瓊子への反論に加わる余地が無い、苛烈極まりない反撃だった。丁度反抗期真っ只中でもあったので、彼女の舌鉾は殊更に鋭く容赦が無い。後で瑤太が言うには「マシンガン通り越してグレネードランチャーをガトリング砲にしたみたいだった」との事だ。攻撃力というか口撃力の凄まじさたるや、一を言ったら十どころか千も万も返ってくると言えよう。

因みに、瓊子の成績の情報源は、言うまでもなく翠子である。成績の付け方は、上から甲・乙・丙・丁だった時代なので、この物言いになった。時代によって差異があるとは思うが、甲・乙・丙・丁が現代の5段階評価や10段階評価に照らし合わせるとどんなレベルになるか、興味がある方は調べてみるといいだろう。

さて、誤解が無いように書いておくが、彼女は学歴至上主義という訳ではないし、祖母を馬鹿にしている訳でもない。単にひたすら、理に適わない事を言って何処までも人を貶める祖母の言動が許せなかっただけである。

このようにして、彼女は大手を振って志望校に通い始めた。そして最初の体育の時間。必ず通る道と言える体力測定の際。フェンスの植え込みに隠れてカメラを構えていた男達の眼球が壊死し、気付いた教員達が慌てて救急車を呼ぶという事態が発生したのである。