「本家に呼び出したと思ったら、またその話か。パーティーと言い見合いと言い、いい加減にしてくれ!父さん。母さん」
タイを緩めながら、心底うんざりした顔で畳に座する一人息子を、刀隠家現当主にして境御前たる夜斗と、夜斗の妻たる紗由香は「そう言わないで」と宥めた。
「これでも『鞘』が見付かれば…って、思っているんだよ。僕も紗由香も」
「霊術士の女の子達が全員違ったから、今度は違うタイプの子にしたのだけれど。とりあえず、写真だけでも見てみなさいな。『鞘』は見ればわかるんでしょう?」
母の視線につられて見た先には、山と積まれた釣書。げんなりと美斗は首を横に振った。
そんな息子の様子に、紗由香は困ったように眉を下げる。
「本来だったら、分家から一番霊力が高い子を許婚として小さい内から相手に決めるものだけれど、美斗が嫌だって言うから」
「美斗はこれでロマンチストだからねえ」
「似合わなくて悪かったな。父さん」
夜斗は笑い、同時に遠くを見るような顔になった。
「代々の境御前にとって、『鞘』は絶対的な存在。僕達刀隠の一族が守る弥籟刀の力を引き出すだけじゃない。ただひたすら愛しく思えて、一途な愛を生涯捧げ続ける事ができる、唯一無二の伴侶。うん。憧れるのはわかるよ」
「ちょっと。貴方」
軽く咎め立てするような声で呼びかける紗由香の肩を、夜斗は優しく引き寄せる。慈しむような眼差しを妻に向けた。
「確かに、当代の境御前である僕に『鞘』は見付からなかった。でもね。家同士が決めた許婚。政略結婚でこそあるけれど。僕にとって、君と過ごしてきた時間こそが最も大切なものなんだよ。紗由香。それだけ多くの時間の中で、君と想いを育んできた事に他ならないんだから」
「貴方…」
「紗由香」
「貴方」
「紗由香」
「この万年新婚夫婦は…」
語尾にハートマークでも付きそうな口調で互いを呼び合う両親の姿に、頭痛を堪える顔で美斗は呻いた。息子としては、夫婦仲が良い事は決して悪い事ではない。だがこのようにカップルめいた姿を見せ付けられると、呆れるものがある。
息子とは対照的に、父は笑顔で息子に視線を戻した。
「だから僕達としてはね。美斗。君も結婚適齢期になる事だし、『鞘』を見付ける力になりたいんだよ」
「俺は大学を卒業すらしていないんだ…。早すぎるだろう」
「高校の時もそう言っていたわね。で、よくパーティーから桃李君と一緒に逃げ出して、弓弦さん達が大騒ぎしていたわ」
紗由香の言葉に登場した『桃李君』と『弓弦さん』とは、刀隠の分家にあたる各務家の親子である。父子揃って刀隠に仕えているのだが、美斗にとって幼馴染でもある桃李は、どちらかと言うと同い年の友人と言える気安い間柄だった。なので、高校時代から突出した美貌の美斗が令嬢達に囲まれ辟易としている場合、令嬢達をうまくかわし、あわよくば揃って会場から脱走する手配もしていたのである。お付きの者達が手を焼いていたのは言うまでもない。そして後で2人は大目玉を食らっていた訳だが。
「今度こそはと思って行って、毎回がっかりする俺の身にもなってくれ…」
最初は刀隠の分家の少女達だった。次は日本中の霊術士の一族の中でも、名だたる家の娘達だった。それでも見付からなかったので、一般人の中でも有力な家の令嬢達を集めた。しかし「この人だ」と思える女性は、誰一人として見付からなかったのである。『霊術士の美しき次期筆頭の花嫁探し』という事で、どの女性達も華やいだ雰囲気を纏っていたが、対して美斗は温度の無い目で集う女性達を見ていたものだった。
夜斗は「うーん」と真剣な顔になる。
「どういう理屈になっているのか、刀隠の家が始まって以来、ずっとわからないままだけれど、『鞘』を特定する術は無いんだよね。まず血筋じゃない。家柄でもない。代々『鞘』として見出された――とは言っても、数はとても少ないけれど――女性達は、霊術士や一般人を問わない場合もあった。極端な話、日本中の女性という女性を集めてみないと、『鞘』を見付ける事は難しいだろうね」
眩暈を起こしたような息子に、紗由香は気遣わしげな眼差しを向ける。
「美斗。貴方の気持ちは汲みたいけれど、ここはやっぱり、分家から婚約者を決めた方がいいんじゃないのかしら」
「そうそう。政略結婚とは言っても、後から幾らでもラブラブになる事はできるよ。僕と紗由香みたいに」
「貴方ったら」
「本当だろう?」
「とにかく」
再び2人だけの世界を展開しそうな両親に、美斗は割って入った。
「俺は妥協して婚約者を決めるつもりは無い。俺が花嫁にするのは、『鞘』だけだ」
「ならまずは写真だけでも見なさいな。釣書まで読みなさいとは言わないから」
美斗の眼前に、どんと釣書の山が置かれた。
結果として、釣書の山も全滅だった。ひたすら機械的に写真だけを見た美斗は、疲労困憊して帰路につく。
刀隠家お抱え運転手の運転は快適だ。ただ静かに流れる窓の外の夜景を見ながら、美斗はまだ見ぬ『鞘』に想いを馳せる。
物心ついた時から、何かを渇望するような、ずっと誰かを探しているような想いを抱えていた。境御前には『鞘』と呼ばれる伴侶がいるのだとわかってから、自分が探しているのは『鞘』だと理解し、渇望する想いは益々強くなった。
でも一体、いつになれば『鞘』を見付ける事ができるのだろう。例えば、霊術士育成の専門機関があるという事で現在の大学に入ったが、半分は『鞘』が見付かる事を期待しての事だった。
尤も、自分を見て寄ってくる、あるいは遠巻きに憧れの眼差しを向けてくる女子生徒のいずれにも、美斗の心は動かされなかったが。
『鞘』を見付けさえすれば、この渇望は満たされるのだろうか。でも一体、何処をどんな風に探せばいい?
月も星も無い夜空を、美斗は見上げる。何処までも果ての無い、この夜空のように暗い迷路を、あてどなく彷徨い続けている気分だった。
「ありがとな。お姉ちゃん」
「何がだ」
とりあえず3人揃ってリビングへと移動した後。瑤太は居住まいを正して姉に礼を言った。同じく座り込む彼女の返しに、瑤太は苦笑する。先程までの怒れる姿が嘘のように気の抜けた顔で、彼女は弟を見ていた。あの祖母とのやり取りをするのは大体姉だが、やはり相当なエネルギーを消耗するらしい。何せ昼間も電話越しにやり合ったという話だ。一日に2連戦も、よく戦ってくれたと思う。
「俺の味方、してくれた事だよ」
「味方も何も、当たり前でしょ。半年以上頑張ってきたは事実だし、自分に見切りを付けたってのも相当な事だよ?労わりこそすれ、咎め立てされる事なんて無いね」
「お祖母ちゃん、昔から世間体が第一の見栄っ張りだから…」
瑠子は溜め息交じりに口を開いた。彼女に「お疲れ様」と言いつつ、麦茶を注いだグラスを渡す。礼を言ってグラスを受け取り口を付ける長女に、瑠子は申し訳なさそうな顔を向ける。
「ごめんね…。いつも貴方にばかりお祖母ちゃんの対応を任せちゃって…」
「構わんよ」
大音声のやり取りで流石に喉が渇いていたらしく、すぐに麦茶を干した彼女は何の事も無さそうに返した。
「祖母さんは元々…言っちゃアレだけど、お母さんの事は『一般人だから』って見下しているから、お母さんが言う事には聞く耳を持たない」
彼女は「かく言う自分も一般人のくせにね」と付け足した。
「瑤太の事は『長男だから』って優遇するけど、やっぱり話は聞かない。いつまでもいつまでも、自分がコントロールできる子供だと思ってる」
「俺そろそろ二十歳なのに『瑤太ちゃん』だからな…」
瑤太はうすら寒そうな口調で呻いた。
「だったら、この家で唯一の能力者であり、経済面でも実働面でも事実上この家を支えている私が防波堤になるしかないでしょ。だから別に苦痛とか負担とか迷惑とか思った事は無いよ。必要だったら、これからだって私が矢面に立つさ」
「…ありがとう」
母の礼に彼女は、相変わらず気が抜けた表情ながらも「ん」と頷く。
瑤太は「あー」と頭を掻いた。
「しっかし、大学からの電話でバレるなんてなあ」
「瑤太がいた…と言うか祖母さんに入れられていたゼミの先生…菅凪先生、だったね。私の連絡先がわからないから、家に直に電話してきたって話だったけど」
そう。母屋にかかってきた電話を取ったのが瓊子だった。彼女に用があるとの事だったので、伯母である璃子が離れに彼女を呼びに行った。その合間の世間話。何気なく、本当に何気なく、件の教授が瑤太がゼミを抜けた事を口にした。教授としては、ゼミを抜けた瑤太が元気でやっているかを訊きたかっただけなのだが、その事実を知らされていなかった瓊子には青天の霹靂だった。
瓊子からすれば、「絶対に霊術士として大成しますから!」とひたすら司家のネームバリューを掲げ頭を下げて頼み込んで入れたゼミである。勝手にゼミを抜けた上に黙っていたとは何事だ、司家の長男として恥ずかしくないのかと、離れに乗り込んできた瓊子が瑤太を責め立て、そこへ電話を終えた彼女が戻ってきて猛然と反撃し、先述の流れに至る。
「まああれだ。先生としては単なる世間話のつもりだった。今回は単に祖母さんが、いつもの事ではあるが勝手に暴走しただけ。事故みたいなものと言えばいいのかね」
「事故…。確かに、事故っちゃあ事故か」
姉弟は揃ってふーうと溜め息をつく。その姉、彼女に膝を向け、瑠子は問いかけた。
「ねえ。話が変わるんだけど、先生の用事って、結局何だったの?」
「あ。それは俺も気になってた。聞いていい?」
彼女は「いいよ」と頷いた。
「私の『アイギス・シリーズ』の説明会に、先生とゼミ生も参加していいかって談判が来たんだよ」
「あー。もしもし。お母さん?私、これから警察の世話になってくるわ」
『語弊がある物言いはやめなさい。一体何があったの』
遡る事数か月前。ざわつく駅のホームにて、倒れ伏すスーツ姿の男性の背を片足で踏み付けながら彼女は言った。ばたばたと慌ただしく駆け寄ってくる駅員達を見ながら、彼女は続ける。
「うんとね。痴漢を捕まえた。あ。痴漢『を』捕まえたのであって、痴漢『で』捕まった訳じゃないよ?」
『いや貴方が犯罪を犯すとは思ってないから!大丈夫!?怪我は無い!?』
「無いよー。別の人が被害に遭ったのに出くわしたんだけど、その人も怪我は無いっぽい。まあこれからきちんと調べてもらうけど」
保護に協力してくれた女性客が寄り添う少女に視線を向けつつ、彼女は答えた。
「現場も見てたし、証人として色々訊かれたりすると思う。だから帰りが遅くなる。それだけ。あ。きちんと一人で帰れるから大丈夫だよ」
『そ、そう』
娘に怪我が無いとわかって安堵したらしく、瑠子の声の緊張がわずかだが緩んだ。
「それと、時間があればだけど経過報告は逐一するから、お母さんはいつも通りお仕事しててね」
『…わかった。連絡は家族の方のLINEにしてね』
「勿論だよ」
彼女はそこで電話を切り、駅員達に「こいつです」と踏み付けている男性を指した。
かくして犯人は連行され警察も呼ばれ、それぞれ別室で事情を説明する事になった。
被害者女性がすっかり怯えてしまっていたので、話すのはほとんど彼女であったが。
助けてくれたという事実と、彼女が同じ女性である事から気が緩んだのだろう。説明の合間合間に、被害者女性は礼を言いつつ彼女に自分の事を話し始めた。
聞けば女性は学生で、通学の際にいつも被害に遭っていたらしい。時間を変えても車両を変えてもそれは変わらず、恐ろしくて仕方が無かったと。
とりあえず話させた方がいいと思い聞くに徹していた彼女は、ある事に気付いた。
「あ。弟が通ってる大学の学生さんですか」
「え?弟さんがうちの大学に?」
しかも同級生だという。顔を合わせた事があるかは別として。
彼女は少し考え、「あの」と切り出した。
「『ナギゼミ』って呼ばれてるゼミの事、聞いた事はありませんか?」
「え?ええと、何かこう、凄く特別な才能を持つ人しか入れないって聞いた事はありますけど」
彼女は『菅凪教授のゼミだからナギゼミ』と瑤太から聞いた事はあったので訊いてみたのだが、一般人にはそのように認識されているらしい。彼女は続けた。
「うちの弟がそこのゼミ生でしてね。かく言う私も同じようなものです」
「は、はあ」
話が読めないらしい女性に、彼女は一つのストラップを取り出した。和装で言う所の根付のような外見である。女性は「可愛い」と目を輝かせた。女性がストラップを認識した事を確かめて、彼女は再び口を開く。
「いきなり変な話をします。これからは、スマートフォンだとか家の鍵だとか…『外出する時に絶対に忘れない』物に、これを付けて持ち歩いて下さい。もうこれまでのように怖い思いをしなくて良くなります」
「は?え?」
「勿論ですけど、お代は頂きません。これは差し上げます。凄く変な事を言っていると思われるでしょうけど、とりあえず騙されたと思って持っていて下さい。で、効果を感じられたとか他の人にも必要だと思ったら、ナギゼミで弟を探して下さい」
「は、はあ…」
話が呑み込めなくて当然なので、このリアクションは仕方がないと彼女は思った。ストラップをしげしげと見ていた女性だが、手持ちのスマートフォンのストラップホールにストラップを通す。
その後、女性の保護者が到着した事、また駅員・警官達が責任を持って女性を保護すると言った事で、彼女は帰っていい事になった。
余談だが、駅員達も警官達も、それは真摯かつ誠実に対応してくれた事を明記しておく。
職場にも予め事情は話していたので、彼女はそのまま職場に向かう事にした。なお社長の計らいで遅刻扱いにはならず、何より当の社長を始め他の社員達には「よくやった」と英雄扱いすらされた。
そして終業時刻を迎えての帰宅時、自宅の最寄り駅に着いた時だ。ポンポン、と軽いクラクションの音に振り返ると、車の中で瑠子と瑤太が手を振っていた。
「お母さん。瑤太。迎えに来てくれたの?」
「そりゃ、あんな事があった後じゃね」
後部座席に乗り込みドアを閉める彼女に、車を発進させながら瑠子は苦笑した。助手席から瑤太が彼女を振り返り、やや叱り付けるような口調で言う。
「お姉ちゃん。あんまり無茶な事すんなよ」
「んな事言われても」
運転席の瑠子は、顔は前に向けたまま「あのね」と諭す口調で彼女に語りかける。
「貴方が正義感が強い子で、霊術もあるからこその責任感…こういうのも、『高貴なる義務』に入るのかな?も強い子なのは知ってる。決して、目の前で困ってる人を見ない振りをしろって言っている訳じゃないよ?だけど、逆恨みとか…やっぱり心配だから、危ない事はしないで?」
「そういう問題じゃないってのはわかってるけど。少なくとも、逆恨みについては心配ないようにしているよ。件のお嬢さんには、『アイギス・シリーズ』を渡しておいたからね」
「あのえげつない奴か」
瑤太がバックミラー越しに苦笑した。彼女は「何言ってんのさ」と肩を竦めてみせる。
「一生もののトラウマやら後遺症やら障害やらを背負わされるレベルの行為に比べたら、可愛くて優しい対応にしか過ぎないよ」
「お姉ちゃんの『可愛い』とか『優しい』とかの基準がわからねえ」
いわゆる『引き笑い』で瑤太は身震いした。
しかし対照的に真顔の瑠子は、「うーん」と声を上げる。
「若い頃は毎日痴漢に遭っていた身としては、妥当だと私は思うけど?」
「は!?母ちゃんも!?」
瑤太が素っ頓狂な声を上げた。彼女は無言で、瑠子に視線だけを向ける。瑠子は「そうだよ」と首肯した。
「乗る時間や車両を変えてもついてきたんだから」
「何それ怖すぎるんですけど」
「思い出させてごめんね。お母さん。詳しく話さなくていいよ」
瑤太は顔を引きつらせた。彼女は静かに母を遮る。平坦な中に気遣わし気な色が混ざる娘の声に、瑠子は「気にしなくていいよ」と首を横に振った。
彼女は思い出したように「瑤太」と呼びかける。
「もしかしたらだけど。しばらくしたら、菅凪先生?だっけ?かナギゼミを通して、瑤太を探しに来る生徒がいるかもしれない。その時は私に連絡して」
「俺?どういう事?」
彼女はバックミラー越しに、弟と目を合わせる。
「今は何言っているかわからないだろうし、詳細はあえて話さないけど。多分忘れた頃にわかると思うよ」
「う、うん」
姉がこのような物言いをする時は本当に『そう』なので、瑤太は鏡の向こうの姉に向かって頷いた。
それからしばらくして、本当に姉が言った通り、一人の女子生徒が瑤太を探して、ナギゼミを訪れたのである。
時間を現在に戻す。
瑤太は理解した。あの女子生徒こそが、あの日姉が助けた人物なのだと。名前以前に同じ大学に通っている事、しかも同じ1年生である事すらも姉が話さなかったのは、ひとえに女子生徒の精神面を慮っての事だとも推測できる。姉の言葉を借りるなら『センシティブな案件』。取り扱い注意な事柄だから。
「件の女子生徒に持たせた『アイギス・シリーズ』が霊術を仕込んだ物だって、菅凪先生やゼミのメンバーもわかったらしい。流石だね。で、その制作者である私と直に顔合わせをしたいのと、どんなロジックで術を仕込んでいるのかを知りたいんだと」
「そんな事になってたんだな」
生憎と、そのタイミングで瑤太はゼミを抜ける為に何かと忙しかったので、話を知る余地が無かったのである。彼女は「んで」と続ける。
「うちの社長も出てきてこんにちはする」
「社長が!?」
「あの社長が?」
驚く母と弟に彼女は「うん」と首肯した。
「社長含むうちのメンバー全員に『アイギス・シリーズ』を持たせてるって事もあるけど。そもそも『アイギス・シリーズ』を広めるGOサインを出してくれたのは、社長だからね」
彼女が高校1年生であった頃に、時間は遡る。
「痴漢です!捕まえて下さい!」
駅のホームに響く声を聞いた瞬間、彼女はほとんど反射的に動いていた。
「『伝令神の象徴』。最小出力」
トゥリングとして装備している霊具を起動させ、周囲の利用客を突き飛ばさんばかりに走るスーツ姿の男に彼女は肉迫する。同時に取り出していた同様の霊具『ゲイ・ボルグの槍』を、これまた最小出力で起動させた。
『ゲイ・ボルグの槍』と名を付けているが、外見は完全にただの万年筆だし、彼女は日常においては万年筆として使用している。しかし内実は対妖魔用の白兵戦兵器。つまり実体が無い存在を斬る為の武器だ。如何に出力を抑えていても、普通の人間に使用した場合、瞬時に気力体力を削がれる。
傍目から見れば、いきなり近付いてきた女子高生が相手の胸を万年筆で突いたようにしか見えない。しかし男は突然動きを止めたかと思うと、白目を剥いて昏倒した。彼女はその背を片足で踏み付け、「大丈夫ですかー?」と声の方向に呼びかける。少女と、少女に寄り添う声の主と思しき女性が進み出てきた。
「すみませーん!どなたか駅員さん呼んで下さいませんかー!もしくは駅員さんいませんかー!?駅員さーん!」
彼女は思い切り声を張り上げつつ、空いている片手でスマートフォンを取り出し、電話帳から母の番号を呼び出した。数回のコール音後、『どうした?』と母の声がする。
「もしもし。お母さん?いきなりごめんね。私、ちょっと警察の世話になる事になった」
『え!?何!?何があったの!?大丈夫!?』
ざわつく周囲をよそに、彼女は電話口の向こうの母の慌てた声に「大丈夫だよー」と答えた。
「うんとね。痴漢を捕まえた。あ。痴漢『で』捕まったんじゃなくて、痴漢『を』捕まえただよ?」
『貴方がそんな事するとは思ってないから!大丈夫!?怪我は無い!』
慌てた声に彼女は「無いよ」と答えた。
「被害に遭ったのは別の人で、私は捕まえただけ。犯人は…まあ生きてはいるよ。『ゲイ・ボルグの槍』でぶすっとやっただけだから」
『ぶすっとやった!?』
「気絶させただけだって。流血沙汰は起こしてないよ。実体は斬らない仕様だからね」
彼女としては、この手の人間は殺処分で構わないと思っているのだが、対象が生物的及び社会的そして法的に『知性を持った同じ人類』とされている以上、現代社会のルールに則った対処及び対応をしなければいけないと理解してはいる。これは至って穏当かつ無難な対処なのだ。
慌ただしく駆け寄ってくる駅員達に視線を向けつつ、彼女は続けた。
「これからお巡りさんも呼んでもらって色々訊かれると思うから、帰りが遅くなると思う。でも心配しないで。きちんと一人で帰れるから、お母さんはいつも通りお仕事してて」
『…わかったけど、報告は逐一してね』
「家族のLINEグループに送るよ。あ。あと、面接先にも遅れるとか日にちずらしてもらうとか、自分で連絡するから」
『気を付けてね』
彼女は「うんー」と頷き電話を切った。駅員達に「こいつです」と片足の下の男を指して背を踏み付けていた足をどかし、
「起きろ」
その足で、男の局部を渾身の力で蹴り付けた。濁音だらけの悲鳴がホームに響き渡った。
かくして意識を取り戻した、というより取り戻させられた男は駅員達に連行された。少女と女性に彼女も当然の如く同行する。警察も呼ばれ、それぞれ別室で話をする事になったが、その前に彼女は断りを入れた。
「すみません。その前に電話していいですか?バイトの面接先に、遅れるか日にちをずらしてもらうか相談したいので」
構わないとの事だったので、面接が決まった時点で控えておいた代表の電話番号をプッシュする。
途端に、少女に寄り添う女性のスマートフォンが鳴り出した。
「…あれ?」
コール音が響く中、彼女と女性は互いを見合った。
つまりその女性こそが『社長』。彼女の面接先の最高責任者だったのだ。
結果として言えば、彼女は面接をするまでもなく採用。自分の呼びかけに彼女だけがいち早く動いてくれた事から、見所があると思われたらしい。
「何て言うか、『情けは人のためならず』だねえ」
これは、自宅の最寄り駅に彼女を迎えに来た瑠子の発言である。娘が「一人で大丈夫だ」と言ったものの、母親としては心配だったのだ。
「霊術を使えるのも喜ばれた。『うちの従業員を妖魔から守ってくれたら嬉しい』だってさ」
一般人の間では都市伝説程度にしか思われていない霊術士の存在だが、彼女がカミングアウトすると、『社長』――孫江希美社長は、あっさりと納得して受け入れた。混雑した駅の中、彼女が大の男の足にあっさりと追い付いた上に瞬時に昏倒させた事と『霊術』の存在が結び付いたらしい。
かくして『霊術を使えるアルバイト』として働き始めた彼女は、直属の上司即ち中嶋リーダーを通して社長に提案をした。妖魔だけではなく、例えば採用のきっかけとなった不審者のような『生きた人間』からも身を守るアイテムを、社長は勿論スタッフ全員に配るというものだ。何せ彼女の勤務先は、スタッフ全員が女性なのだから。それが彼女が度々口にする『アイギス・シリーズ』の始まりである。
商品として展開するとまでは流石にいかないが、勤務先を頼ってきた女性や子供に渡す分には構わないし、何よりシェルターの良き防御となるであろうと、社長は快くGOサインを出した。
以来、彼女はプログラマー補佐として働く傍ら、せっせと『アイギス・シリーズ』の研究・製作を進めていたのである。
それから約3年の時が経過するとなったある日。社長は「司さん」と彼女に呼びかけた。
「そろそろ進路を決めるとか、忙しくなるでしょ?司さんはどうするつもりでいるの?やっぱり進学?」
彼女が、少なくとも首都圏住まいの人間なら学校名を聞けば「え?『あの』?」と反応が返ってくるような有数の進学校に通っていたからこその問いだが、彼女は「いいえ」と首を横に振った。
「働いて家を支えたいと思います。なので、就職先が決まったら、ここでお世話になるのも終わりになると思います。あ。その時は、ご迷惑にならないように、きちんと言います」
担任や瑠子からも、進学を勧められてはいる。だが彼女としては、お金を使って勉強するよりも、働いてお金を稼ぐ方が切実だと思っていた。
何せ伯母の璃子。働いてこそいるが、家計に一切お給料を入れない。瓊子の「能力まで失ったのにお金を出させるなんて可哀想」という、彼女達3名からすれば全く訳のわからない理屈に甘えて、収入は全てショッピングだ観劇だと自分の遊びに使っている。
つまり、メインで家計を支えているのは母の瑠子なのだ。彼女と瑤太も母の助けになればとアルバイト代を家計に入れているが、何せ所詮は学生の身。入れられる金額には、どうしても限界がある。今や使用人の一人も雇えない財政である以上、彼女が家事全般や庭の整備を始めとする生活及び屋敷の維持を式神達に任せているからこそ、どうにか司家が成り立っている状態だ。
尤も、司家から使用人が一人、また一人と解雇されていって、その代わりのように瑠子と彼女が家事全般をするように瓊子に命じられた時、彼女は言い切った。
「やだね」
このように、彼女はきっぱりと拒絶の意を示した。当時は小学生であったので、もう少し舌足らずだったが。
孫娘の態度に、瓊子は憤然とした。
「あんたなら暇でしょ?瑠子もいつも疲れた疲れたって言ってるけど、仕事と家事を両立させている人は沢山いるのよ?」
「暇なのはお祖母ちゃんだって同じでしょー。ってか、働いた経験すらないお祖母ちゃんに仕事と家事の両立がどーたらとか言われても説得力ないけど」
因みに、この頃の彼女は瓊子を「お祖母ちゃん」と呼んでいた。
「お祖母ちゃんの時代は、お金持ちの奥様は働かないのがステータスみたいなものだったから…」
フォローするような瑠子の言葉に、彼女は「ふーん」と心底どうでも良さそうに相槌を打つ。
「そもそも、どうして私とお母さんだけに言うのさ。こういうのって伯母さんとか瑤太とか、皆でやっていくものじゃないの?」
「何言ってるの!瑤太ちゃんは長男なのよ!?そんな小間使いみたいな事なんてとんでもない!」
「いや長男とか訳がわからないよ。その小間使いみたいな事を私やお母さんにはさせてもいいとかってどういう差別?ひどくない?あと伯母さんは?」
彼女は元より口が達者な上に、そろそろ反抗期に差し掛かり始める年齢だった。なのでああ言えばこう言うし、そう言えばハウユーである。
瓊子は「何て事言うの!」と彼女を再び叱咤した。
「流産したあの子に働けなんて!」
「聞いた事はあるけど何年前の話だっけ?」
「貴方達が産まれる前」
彼女の疑問は瑠子が引き取った。彼女は難しい顔で腕組みをして首を傾げる。
「…小学生の私でもデリケートな問題なのはわかってるけどさ。10年以上経ってもそっとしておかないといけない状態ってあるの?」
「本人すこぶる元気だね」
「あのね。璃子は仕事が大変なのよ?」
「いや働いてるのはお母さんも同じだけど。てか言ってる事めちゃくちゃだって、お祖母ちゃん気付いている?」
「あんた達が家事をしなかったら、ご飯や掃除はどうするの!」
片手を畳に勢いよく下ろし、瓊子は怒鳴った。その音と声に彼女は顔を顰め、深々と溜め息をついて母を見やる。
「お母さん。言う事聞く必要ないからね」
「でも」
彼女は祖母と母を見据えた。
「『シンデレラ』でもあるまいし、無給の召使いってか奴隷としていいように使われるつもりはありません」
「『奴隷』は言い過ぎじゃない?」
「召使いならお給料をもらえます。奴隷はただ働きです」
母の言葉を彼女は斬り捨てた。
「何より、私はやらないって言ったけど、だからと言ってお母さんに全部やらせるつもりもありません。こんな事もあろうかと、作っておいたんだよ」
ひらり、と彼女達の間に何かが浮かび上がった。折り紙で作った人形である。何処からともなく1体、また1体と出てきて、畳の上をぴょこぴょこと動く。目を丸くする瓊子と瑠子に、彼女は淡々と続ける。
「霊術で自律可動式にした人形だよ。これも式神っちゃあ式神なのかな。これからお料理とかお掃除とか、生活全般の作業はこれに任せればいいから。とりあえず『シルキー・シリーズ』って呼ぶ事にした」
「シルキー?」
「『絹の乙女』って意味だよ。イングランドに伝わる、家事をしてくれる妖精さんの名前。お料理担当とかお掃除担当とかお洗濯担当とか、とにかくまあ家事の分だけ担当分けてるから」
母の疑問符にすらすらと答える娘を、瑠子はまじまじと見た。
「貴方、いつの間にそんなのを作ってたの?」
彼女は「うんー」と頷く。
「お母さんが家事を教えてくれたっしょ?それ全部インプットしてあるの。最初は…ほら。お手伝いさんがどんどん少なくなってくから、皆の手助け程度になればいいなーと思って作ってたんだ」
事実、「見た目によらず力持ちなんですねえ」とか「やっぱりお嬢様は大奥様と大旦那様の曾孫様です」だとか感心されていた。言うまでもない事かもしれないが、『大奥様と大旦那様』とは、今は亡き曾祖母の翠子と、曾祖父の慈朗の事である。
「で、皆がいなくなっちゃったから、メインで本格起動させようと思った訳。私が『物に力を込める』とか『力がある物を作る』とかだったらできるのは知ってるでしょ?」
今や司家では唯一の霊術士である彼女。瓊子は「まともな術一つ使えない」と孫娘を恥に思っているが、その孫娘は言うなれば、マジックアイテムを作る事に特化しているのだ。彼女ができるパターンは2つである。キーホルダーやアクセサリー等、既存の器物に霊術を仕込むか、『シルキー・シリーズ』のように霊術を仕込んだ物を自分で作成するか。
「あ。元は紙だけど、濡れて破れないようにするとか燃えて火事にならないようにするとか、その辺の対策もバッチリだよ」
「抜かり無いわね」
瑠子は感心するが、彼女は「うーん」と眉を顰めた。
「まあ、流石に買い物とかは人間の目と頭で計算とか判断とかが必要だから、自分で行かないといけないけど。ごめんね。お母さん。この家で買い物に行くって言ったら、どうしてもメインがお母さんでサブが私だからさ」
「それは構わないよ。人の目は何処かで必ず必要になるし」
彼女は「そっか」と安堵したような表情を見せた。
「勿論だけど、お母さんが行くって時は私もお供するから。荷物持ちくらいにはなると思うし。あ。必要だったら、お使いだってきちんと行くよ?」
「わかってるって」
笑う瑠子に彼女は「そうそう」と両手をぽんと合わせた。
「あとね、お料理の後片付けやお皿洗いだけじゃなくて、洗濯物を干したり取り込んだり畳んだり、アイロンかけだってできるようにしているよ。ああいう家事って地味に手間がかかるからね。だから、お母さんは仕事が終わって帰ってきたら、ご飯食べて休めばいいだけ」
「えー!それ凄く助かるー!確かに洗濯物って洗濯機をピッてやるだけだけど、干して取り込んで畳んでって、洗ってからの手間が意外と大変だし!」
「いやちょっと待ちなさい」
口を挟む瓊子に、瓊子の存在を初めて思い出したかのように母娘は振り返った。つられるように『シルキー・シリーズ』も振り返る。尤も、折り紙人形達に顔は描かれていないので、それぞれ体ごと瓊子の方を向いた形になるが。
「そんな式神擬きが作ったご飯なんて、あたしは食べないからね!人の手が入ってないなんて気持ち悪い!」
彼女は呆れた表情になった。
「その『人の手』を全員馘にしたのはお祖母ちゃんじゃん。そもそも、霊術士の家だったら全部が全部を式神に任せていいものを、あえて人を雇っていたのは、戦前も戦中も戦後も、身寄りの無い女の人とか今で言うシングルマザーとかの働き口にする為だってのが、翠子お祖母様と慈朗お祖父様の方針だったって、当の翠子お祖母様が言ってたけど?そういうの、『セーフティーネット』って言うんだってね。社会の授業でも習った」
彼女は翠子・慈朗夫妻を、時々『大お祖母様』『大お祖父様』ではなく、このように名前付きで呼ぶ事がある。
ぐっと言葉に詰まった瓊子であったが、ぼそぼそと口を開く。
「だ、だって、遺産が少なかったから…」
今度は瑠子と彼女、母娘揃って呆れ顔になった。
「大お祖母様の遺産の何処が少ないのさ。お母さんや伯母さんどころか、私も瑤太も相続放棄したのに」