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「……っ」

 こめかみに鋭い痛みが走り、私はゆっくりとまぶたを持ち上げた。見覚えのない薄暗い景色を見ても、ここがどこだか分からない。

「何よ、これ!」

 私は椅子に座らされ、両手を後ろに縛られていた。両足首にも紐が巻かれている。
 やったのがユカイだということは分かる。しかし、どうして今日会ったばかりの人に拘束されているのか、私をどうするつもりなのかさっぱり見当もつかない。
 想像のつかない恐怖に、身体が震えた。大丈夫、落ち着け……見たところ彼は近くにいない。今なら逃げられる……。
 深く息を吐いて、両手をばたばたと動かしてみる。しかし、ロープのようなものでガチガチに縛られた両手はまったく外れる気配がない。

「どうしてこんなことに……」

 自分の身に起きていることが現実だとは信じられずに、目を閉じた。これは夢だ。さっきまで私は夢を見ていたじゃないか——。

それにしても、リアルな夢だった。華苗がそばにいた頃の夢だ。でも、私は私でなく、華苗だった。
 どうして華苗になっている夢を見たんだろうか。華苗から見た私は真面目で勇気がなくて、華苗とはまるっきり違っていた。ううん、自分自身、長年華苗のことを羨ましいと思っていたのだから夢で同じことを思っていてもおかしくないのだ。
 あまりにリアルな夢すぎて、まるで自分が本当に華苗ではないかと錯覚してしまうほどだった。

 夢のことを考えていると次第に視界がはっきりとしてきた。薄暗い中、自分が建物の中にいることが分かる。目の前にはホワイトボードがあり、ホワイトボードのある壁の横に扉があった。私はそこから入ったんだろう。初めは教室かと思ったものの、教室にしては狭いように感じる。何よりホワイトボードと直角に位置する壁にも扉があるところを見ると、扉の向こうにもっと大きな部屋があるのではないかと思い至った。

 だとすればここはラウンジのようなところか。
 ラウンジ、と言えば大学を思い浮かべる。大学って本当に至るところにラウンジがあって、テーブルと椅子が並べられているものだ。学生たちがそこで議論したり休憩したり、いろんな使い方をする。私もラウンジには何度もお世話になった。

「一体どこなのよ……」

 もう、早く解放してほしい。
 何の目的があるのか知らないけれど、なぜこんなところに私を閉じ込めるの? 私が何をしたっていうの?
 いま、一体何時なんだろう。もしかして日付は変わっているんだろうか。思えばとてもお腹が空いている。ユカイと待ち合わせをしたのが夕方の5時だった。そこから何も食べていない。お腹が空いているということは間違いなく数時間は経過しているのだろう。

 建物の中であるはずなのに、窓がない。外から光が差し込む隙間がないため、もし外が明るくても分からない。夜なのか朝なのか、私に与えられた情報は少なすぎた。
 少ない情報の中でどうやって脱出すべきか、頭をフル回転させる。その間にも両手をグイグイと動かして紐を緩めようとするが、ダメだ。
空腹と恐怖のせいか体力はすぐに奪われて動けなくなる。
もうやだ。お願い助けて。誰か、助けてよ——。

「奏ちゃん、お目覚めかな?」

 椅子の上で項垂れているとホワイトボードの横の扉がすっと開き、聞き覚えのある声がした。

「……ユカイさん」

「おお、意識もはっきりしているみたいだね。自分の置かれてる状況が分かったのかな?」

 ユカイはその名の通り、さも愉快そうに(・・・・・)嫌な笑顔を浮かべた。この人は誰? デート中の、爽やかで優しそうな彼とはまったく別人だ。まるでピエロのように、不気味な笑みだった。
 パチンと音がしたかと思うと、ラウンジの明かりがついた。白昼色の光が眩しくて思わず目を瞑る。恐る恐るまぶたを持ち上げると、周りには雑多にテーブルや椅子が置かれていて、やはりここがラウンジであると理解した。しかしどうしてか既視感がある。ここは、私がかつて来たことのある場所……?

「ここから、出してくれませんか?」

 意味がないと知りつつも、そう言わずにはいられなかった。お腹は空いたし体力だって減っている。暖房がついていない部屋はキンと冷える。底冷えのする京都の冬は室内でも唇が紫色に変色してしまうほど寒かった。

「ふふ、そう易々と解放するわけないだろう? 頭のいい君なら分かるはずだけど」

「どうしてそんなこと」

 私はマッチングアプリのプロフィールに「大学四回生」と確かに書いているが、どこにも「京都大学の」なんて書いていない。「頭がいい」というのは単なる推測だろうか。

「知っているよ。君は、京都大学文学部四回生の西條奏さんだろう?」

 彼がさらりと私の個人情報を口にした。デート中に口を滑らせてしまったかと振り返ってみたものの、まだ彼とは小一時間程度しか一緒に過ごしていないし、自分が何者かなんて教えなかった。そういうのはある程度打ち解けてから話すものだ。それがマッチングアプリで出会った時の大原則だと私は思っている。

 それなのに、どうして彼は私の正体を知っているの?
 背中に嫌な汗が伝うのを感じた。