昨日の夜、カーテンを閉め忘れたまま眠ってしまったせいで、窓からの冷たい空気で目が覚めた。12月24日、京都の冬の朝は例外なく冷たい。よく見ると窓一面に霜が降りて、鴨川が白くぼんやりと霞んで見えた。
時計を見ると午前8時20分。ユカイとの約束は夕方からなので時間にはまだまだ余裕がある。
私はスマホのマッチングアプリを開き、ユカイにメッセージを送る。
『おはようございます。今日はよろしくお願いします』
わざわざこんなこと送らなくてもいいのかもしれないが、会う前に少しでも相手の心象を上げておきたい。
ユカイからはしばらく返信が来なかった。こんな朝からアプリを使っている人がどれだけいるのかは分からないが、彼は社会人かもしれないし、そうだとしたら土曜日とはいえ仕事があるかもしれない。
あまりプレッシャーにならないように、そっとスマホを置いた。私の方も、返信に気を取られていると余計緊張してきちゃう。
もう何度目か分からないマッチングアプリでの対面なのに、私はいつまでドキドキしてるんだろう。というか、この初対面の時のソワソワと心が浮き立つ感覚はあまり得意ではない。もし今日ユカイと上手くいけば、今後はこれほど心がざわつくこともないだろう。
ああ、どうか彼がまともな人で、恋をして恋をされますように。
約束の時間までのんびりとご飯を食べたり家で映画を見たりして過ごした。
なるべく普段と同じことをして心を落ち着かせる作戦だ。
ついに約束の17時になり、私は真っ白のショートコートを羽織り、家を飛び出した。
待ち合わせは京阪出町柳駅前なので家からはすぐだ。焦る必要はないのに、自然と歩みが速くなる。横断歩道を二つほど渡り、出町柳駅前へとたどり着く。駅前では誰かと待ち合わせをしているであろう人が四人ほどいたが、見た目からしてユカイはまだ来ていなさそうだった。
ふう、と息を吐くと白いもやが視線の先を舞った。底冷えのする京都では出かける際にカイロが必須だ。ポケットの中で温めておいたそれを取り出し、両手を擦り合わせて寒さをしのぐ。
数分の間あたりをキョロキョロしながらユカイを待っていると、後ろから声をかけられた。
「すみません、奏さんですか?」
振り返るとそこに立っていたのはプロフィールの写真と同じ、黒髪の男だ。年齢は20代中盤ぐらい。優しそうな目元が印象的だ。直感ですぐに「ユカイだ」と分かった。
彼は写真で見た私に会えたからか目を丸くして驚いている。アプリでの写真に加工をしていないせいで、あまりに写真と同じだったから意外だったんだろうか?
「こんにちは。ユカイさん、ですよね? 奏です」
「おお、良かった。会えなかったらどうしようと思って」
マッチングアプリで待ち合わせ相手に会えるかどうかという不安は誰にでも付き纏う。まずはお互いに認識できただけでもほっとした。
「私も緊張してて。今日はよろしくお願いします」
「うん、よろしく」
年上の彼はすぐにタメ口になり、爽やかな笑顔を浮かべた。
いいじゃん、ユカイ。
これまでアプリで会った人の中で一番いいんじゃない?
予想を上回る好印象ぷりに、久々に胸が踊った。
「じゃあ早速行こうか」
「はい」
今日は鴨川のイルミネーションを見に行くと聞いている。京都に住んで四年目になるが、鴨川のイルミネーションは見たことがないので楽しみだ。
「イルミネーションは結構北の方でやってるみたいだから話しつつ歩こう」
「いいですね」
遠くでやっているのならバスや電車で移動するのもありだが、彼はあえて鴨川を歩くことを選んだ。冬の鴨川はまあまあ寒いが、誰かと一緒に歩くのならそれもまた一興、ということだろう。
「転ばないように気を付けて」
「子供じゃないですし、大丈夫ですよ」
「あ、そう? なんかおっちょこちょいに見えた」
「む……初対面なのにヒドイですね」
ユカイは早くも私に対して冗談を言ってくる。彼の方から積極的に距離を縮めようとしていることが分かって嬉しかった。
「ユカイさんはアプリ歴長いんですか?」
「ん、まあね。と言ってもこの間まで彼女がいたんだ」
「へえ。その彼女さんはどんな人だったんですか?」
「……君にとっても雰囲気が似ていたよ」
「……」
そ、それって、出会ってすぐの私を落とすための殺し文句ですか!?
そんなこと言われたら誰だって意識するに決まっている。だってほら、その証拠にこんなに寒いのに掌に汗が滲んできたぞ……。
「奏ちゃんは? 彼氏とかいたの?」
「私はここ数年フリーです。もう恋する心が枯れちゃってるかも」
「ははっ。それなら俺がその枯れた心に水をさしてあげようかな」
な、なななな!
この人、よくそんな歯の浮くようなセリフをつらつらと言えるわね。
きっと今たまたま恋人がいないだけで、本当はすごくモテる人に違いない。私はなんてラッキーなんだろう。しかも今日はクリスマスイブ。二人の気持ちを盛り上げるのにはもってこいの一日だ。もしかしてデートが終わったあと、またお誘いがあったりして? それより、イブだけじゃ物足りないって明日の朝まで一緒に過ごすとか……いやいや、さすがに初対面でそれはマズイ! 下手すれば都合のいい女になってしまう。いくら男に飢えているとはいえ、簡単に手に入ると思われちゃダメなのよ。ここは誘われても一度引かねば……などと、妄想だけで盛り上がっていると、ユカイが「大丈夫?」と私の顔を覗き込んできた。彼の問いかけに答えずにフリーズしていたからだろう。脳内で喋りまくっていた私は、まさか心配されるとは思ってもみなくて反省する。
「だ、大丈夫ですすみません!」
「そう。なんで謝るの?」
「それは……ヘンな女だと思われたかと思って」
「ははっ。だからって謝らなくても」
「だって、せっかくマッチングした相手が変人だったら嫌じゃないですかぁ……」
私は、これまでに出会った数々の変人たちを思い浮かべながら答えた。
マッチングアプリに生息する民が変人ばかりだというわけではない。しかし自分がこれまでに会った人たちは、あまり人の気持ちが分からないタイプの人が多かった。
もうすでにユカイから引かれていたらどうしよう……と横目でチラリと彼の顔を見た。キリッとした眉に、大きな瞳が揺れている。やはりモテそうな顔をしているし、私なんかよりも素敵な女性からたくさんアプローチされてきたに違いない。そう思うと心に咲かけた花がしゅんと蕾に戻っていきそうな気がした。
「奏ちゃんは変人じゃないでしょ。なんか急に慌てて謝ったりして可愛いかったし」
か、かかかかか可愛いですって!?
それ、出会ったばかりの女の子に言えることなの? 出会ったばかり……もしかして私、ユカイとどこかで出会ったことがあったりして。いやそれはないか。彼のような人に出会っていれば、ときめかないはずがないもの。
なんてまた恥ずかしいことを考えて、耳の先までさーっと熱くなるのを感じた。
さっきから何をやっているんだろう。彼に魅力的な女の子だと思ってもらわなければいけないのに、一人で盛り上がって空回りして……。これじゃユカイに「一緒にいて楽しい人だ」って思ってもらえないよっ。
「奏ちゃん、深呼吸して」
「え?」
「なんか分かんないけど、心が焦ったときは深く息を吸うと落ち着けるよ。ほら」
ユカイが私の背中をぽんと押す。
彼に言われるがままに私は大きく鼻から息を吸い込んだ。
すると、気づかないうちに心臓がどきどきと不自然に速く動いていたことに気がつく。
冬の冷たい空気が身体に染み渡ってゆく。鴨川を漂う新鮮で神聖な空気だ。四年前、初めて大学に行き、これからの大学生活に不安を抱いていた私が、鴨川の美しい景色を見て頑張れそうだと気持ちを強くしたのを思い出す。あの時、私の隣には華苗がいた。華苗と一緒に京都の空気はおいしいねと笑い合った。私は、目の前の景色が美しいのづき空気がおいしいのも、華苗がいてくれたからなんだと気づくことができなかった。
「どう? 楽になっただろう?」
確かに、彼の言う通りだ。
気持ちが昂っていたり焦っていたりすると、今まで見えていたものが見えなくなる。
深呼吸をした私は、心臓の音が先ほどよりも静かに落ち着いていくのを感じた。
「はい。あの、ありがとうございます」
「いえいえ」
そもそもドキドキしていたのはあなたのせいなんですけどねえ、とは言えない。隣を歩く彼は、ごく自然に女の子との会話を盛り上げ、彼女たちの気分をなだめる。こういうスマートな男性に出会ったのは初めてかもしれない。
「それより何かあった?」
「え、なんでですか?」
「だって、さっき思い詰めたような表情してたから」
「それは……」
華苗のことを考えていたからだ。
記憶の中に今でも鮮明に残っている華苗の声や話し方、二人で行った思い出の場所について、どうして今こんなにも思い出してしまうのだろう。
ユカイの質問に答えられないまま、私たちは無言で歩き続けた。待ち合わせの時は明るかった風景も、次第に日が暮れて橙色の光から薄闇に包まれていく。このまま目的地に着けば、いい感じにイルミネーションが煌めく様子を見られるだろう。
私は、ユカイの息遣いや土を踏みしめる音を聞きながら、ぼんやりと霞む遠くの山を見つめた。華苗、あなたは今どこにいるの。もしかしてあの山の中で息を潜めてる? そんなことあるはずがないのに、どこかに妹がいないかとつい考えてしまう。今日は変な日だ。
「妹のことを思い出してたんです」
気がつけば口が勝手に、華苗のことを彼に伝えようとしていた。
彼は「妹?」と当然の疑問を口にする。
「妹って言っても双子なんですけど。半年前に行方不明になってしまって……」
なぜ、今日会ったばかりの人に華苗の話をしてしまったのか。
それは、私の隣で今も神妙な面持ちで耳を傾ける彼の心の温もりが伝わったからだった。
ユカイは私の告白を聞いて、しばらく何も言えない様子で押し黙った。そりゃそうだ。妹が行方不明だなんてかなり重たい話だ。もし私が彼の立場でも、同じように反応に困ってしまうだろう。
「すみません、変な話して。せっかく今日、会えたのに」
「いや……こちらこそ辛いこと聞いてごめん。なんて言えばいいか分かんないけど、とにかく辛かったよね」
「はい……」
辛かった。この半年間、華苗のいない世界は何もかもが違って見えた。つばきがずっとそばにいてくれなかったら、今頃私はこうして前向きに恋人探しなんてできていなかっただろう。
「はやく見つかるといいね」
それ以上でもそれ以下でもなく、彼は私が欲しいと思った言葉を差し出してくれた。
初対面の女に暗い身の上話をされて迷惑だろうに、優しいんだな。
「ありがとうございます」
余計なことは言わず、ユカイがただ私の話を頷いて聞いてくれたことが嬉しかった。
それから私たちは30分ほど歩き、鴨川をかなり北上していた。出町柳から二俣に分かれる鴨川は、東側が「高野川」に、西側は「賀茂川」に名前が変わる。私たちは西側の賀茂川沿いをずいぶんと歩いていた。しかし、イルミネーションらしい光はまだ見られない。京都府立植物園を通り過ぎ、上賀茂神社のあたりまでたどり着いたとき、ようやく私は「何かがおかしい」ということに気がついた。
一体どこまで歩くの……?
このまま歩き続けても山にぶち当たる。川は続いていくが、さすがに山間の道でイルミネーションをやっているとは思えない。
「ユカイさん、イルミネーション、まだでしょうか?」
気になって彼に問いかけてみた。ひょっとしたらユカイが勘違いしているのかもしれない。やはり鴨川ではなく、京都府立植物園のことだったんだろうか。あそこなら毎年イルミネーションをしているし有名だ。
「……」
歩き疲れたのか、ユカイは押し黙ったまま何も答えない。私の方もひたすら歩いたせいでそろそろ足が痛くなってきた。ちょっと休憩でも——と彼に提案したそのとき。
「ん……!」
な、なに!?
黙って歩いていたユカイの手が、さっと私の首の後ろに回ったかと思うと、そのまま口元に移動する。口に、布のような物を当てられて私はとっさにむぐぐぐと声を上げようとした。しかし思いのほか強い力で押さえつけられて思うように声が出ない。
何が起こっているの!?
恐怖で目尻から涙が溢れる。怖い。意味が分からない。ユカイの顔は見えない。でも考えるまでもない、ユカイは私を拘束しようとしている——。
全身の毛がさーっと逆立ち、震えが止まらない。
しかし、次第に意識が遠のいてそんな恐怖さえも感じられなくなって。
助けて、×××———。
声にならない悲鳴が、闇の中に沈んだ。
「クリスマスイブ、お疲れ」
カチン、というシャンパングラスを鳴らす音が学の部屋に響き渡る。12月25日の朝、互いにクリスマスイプをぼっちで過ごしたことを労った。朝からお酒を飲むのも憚られるので、シャンパングラスに注がれているのはオレンジジュースだ。アロマの炊かれた学の家で、ウッド調の家具たちが寂しい僕たちを包み込んでくれているようだ。
もはや毎年の恒例行事となってしまったが、四回生の僕たちにとってこんなことができるのも今年までなのだ。少しくらい感傷に浸ってもいいだろう。
「それにしても、恭太くん」
「なにかな学くん」
「君、ついぞクリスマスに恋人がいなかったね」
「そりゃこっちのセリフでもあるぞ。まったく恋人ができへんかった学には言われとうないわ」
「フン、わいは誰彼構わず人を好きになる人間ではないのでね。『いないときに相手を慕い、その人が自分のそばにいることを欲
してやまぬ場合にのみ恋愛しているのである。』とアリストテレスも言っているよ」
いつものごとく、哲学に傾注している彼がもっともらしい名言を引っ張り出してきた。
けれど僕には恋人ができない言い訳にしか聞こえない。彼のことを胡散臭い目で見つめた。
「そんなん言うてばかりやからモテへんのちゃう?」
「君に言われたくないね」
プイ、と僕らは互いにそっぽを向く。恋愛観について、学とぶつかることも多いけれど、こうしてくだらない論争をしていられるのもあと少しなのか。そう思うと、傾けた顔を少しだけ彼の方へと向き直した。
学も僕と考えることは同じだったようで、彼と目が合ってしまい、二人して吹き出した。
「もうすぐこんなくだらん話もできひんくなるんやな……」
「なんだかんだ、君と過ごした四年間は自堕落で悠々自適、つまり最高だったよ」
「ええんか悪いんか分からんわっ」
クリスマスの朝、しっぽりとした空気が二人の間を漂う。冷たいオレンジジュースが全身に浸透するように、感傷的な気分をひたひたにして、酸味が心に染みていく。
恋人と過ごすクリスマスが叶わなくても、僕はこうして学と二人、うだうだと互いをけなし合う学生生活に充足感を覚えていたのだ。今更気づくなんて、神様も皮肉なことをしてくれるもんだ。
感傷に浸りつつ、ふと窓を見るとチラチラと雪が降っていた。確か今日の最高気温は三度だった。そりゃ雪ぐらい降るってもんだ。しかしこのわびしい雰囲気にホワイトクリスマスとは、ふふふ、僕も学もかなり強運だなあ。
「恭太、気持ち悪いな。急に笑い出して」
「そお? 雪がきれいやなあって」
いくつになっても、雪が降ると心が踊る。雪国に生まれていたらそうもいかなかったんだろう。京都はかなりの確率で雪が積もるし、もし積もったら金閣寺の雪化粧でも見に行こうかと計画を立てる。
学も雪を見ながら何か考えているようだった。案外同じことを思っているかもしれない。一緒に過ごす時間が増えるにつれ、こいつとは思考が似通ってきている気がするし。
あとでどっか行くか聞いてみるか。
とオレンジジュースを飲み干し、ぷはっと息を吐いたときだった。
ピンポーン
学の家にいるときに滅多に鳴らないチャイムの音がした。
「なに? お客さん? 宅配でも頼んだん?」
「いや、お客さんなんて呼んでないし、何も頼んでないんだが」
不思議そうに眉を顰める学。彼が頼んだ宅配ではなくて母親か誰かが荷物を送ったのではなかろうか。
「とにかく出てみたら?」
「そうするよ」
彼が玄関の方へと向かう。僕は彼が段ボールを抱えて戻ってくる姿を予想していた。
「御手洗くんっ」
しかし予想に反して玄関の方から聞こえてきたのは女の子の声だ。
って、女の子!?
学のやつ、僕に内緒でクリスマスの朝に女の子とデートをする約束なんかしやがって!
けしからんやつだっ。
突然の展開にもしっかりと腹を立てた僕は、やつの遊び相手を一眼見てやろうと腰を上げた。
「て、三輪さん?」
玄関先で寒そうに両手を擦り合わせながら学と対峙していたのは、ほかでもない三輪つばきだった。
そうか。学、結局三輪さんとあることないこと進んでいたのだ! だからこの間も、三輪さんにナナコのことを伝えると名乗り出たのか。
いや、それにしても変じゃないか?
三輪さんは昨日、彼氏とデートをしてきたのではないか。その結果がどうであれ、昨日の今日で学と約束なんかするか? ま、まあ男女の約束に「絶対こうあるべき」なんて話はないのだけれど。それによく考えたら、学がクリスマスの朝から好きな女の子を誘えるのか? これは僕の偏見だけど、三年半一緒に過ごしてきたから分かる。やつにはそんな勇気あらへんわ!
「どうしたんだい三輪さん」
学の一言で、彼女の訪問が彼の意図しないものであることが分かった。となると、彼女はなぜ突然訪ねて来たんだ?
その疑問を解消すべく、僕は三輪さんの姿をもう一度よく見てみた。白色のダッフルコートにチェック柄のマフラーをしているが、マフラーは乱れて半分解けてしまっている。鼻の頭も耳も真っ赤に染まり、何より目尻に涙が浮かんでいるのが気になった。
「どうしよう御手洗くん。カナが……」
「と、とにかく上がりたまえ」
これはただごとではない。
学もそう思ったんだろう。寒さに震える三輪さんを家の中へと案内した。
「お、おはよう」
「安藤くん……」
挨拶をする余裕すらないという様子の三輪さんは、僕の顔を見てさらに顔をくしゃりと歪めた。わわ、泣かないでくれ! そう言おうとしてももう遅い。すでに彼女は目尻にいっぱい溜めた涙をポタポタとこぼしていた。
学が三輪さんにハンカチを渡す。ありがとうと言って三輪さんがハンカチを受け取って両目に押し当てた。
「ここ、座って」
学に促されるがままに、彼女はこくんと頷いてソファに座る。
いつのまにかキッチンで温かいお茶を淹れて彼女に差し出した学が、三輪さんの前に座った。
「ありがとう……」
「一体どうしたんだい。そんなに慌てて」
ソファに座りお茶を飲んだことで気持ちが落ち着いたのか、三輪さんは「突然来てごめんなさい」と頭を下げた。
「カナが……カナが家に帰っていないようなの」
「帰ってないってどういうこと?」
確か西條さんは昨日マッチングアプリの相手とデートをしに行ったはずだ。その後の予定は知らないが、家に帰っていないというのはいつからなのか。
「昨日の夜11時ぐらいに、カナに電話をしたの。真斗とのデートの結果を伝えようと思って」
三輪さんが彼氏とデートをしていたのは僕も学も知っているので二人して頷く。彼女の表情から察するに、おそらく二人の関係はもう続いていない。かなり苦しい思いをしただろう。僕もつい先週真奈に別れを告げてきたから分かるのだ。しかし今はそんなことよりも西條さんの行方が分からなくて混乱しているようだった。
「でも、何回電話してもカナは電話に出なかった。まだ帰ってないのかと思って今朝連絡したんだけどそれも出ない。あの子って一度着信を入れたら絶対に折り返すタイプなの。私の着信を見て連絡をしてこないなんておかしいって思って」
「それで今日、西條さんの家に行って来たんだね」
「うん。事前にLINEをしてもやっぱり返信どころか既読もつかなかったから。そしたら、カナは家にいなかった。チャイムを鳴らしても出てこないから、まだ家に帰ってないんだって分かった」
確かに三輪さんの言う通りなら、西條さんは昨日の夜から今まで家に帰っていないのかもしれない。でも、それはマッチングアプリの相手とうまくいって、あまり大きな声では言えないが、一夜を共に過ごした……とも考えられないか?
隣を見ると学も僕と同じことを考えているようで「うむ」と唸った。
三輪さんは僕らが考えていることを察したらしく、「あのね」と切り出す。
「カナは初対面の男と一夜を過ごしたりしないって、前の晩に言ってたわ。カナは慎重だからその言葉は信じていいと思う」
「なるほどね。親友の三輪さんがそう言うなら、昨日の男と一緒に過ごしているということはなさそうだね」
いつもの学だったら、「いや、でも」と考えられる可能性をまだ口にしていたはずだ。しかし、必死に西條さんの身を案じる三輪さんの言葉を信じたのか、それ以上追及することはなかった。
僕としても、もしかしたら今朝から用事があって西條さんが家にいない可能性も考えたが、三輪さんの言う通り、そうだとしても着信やLINEのあった彼女に返事をしないのはおかしいと思った。
だとしたらやっぱり、西條さんの身に何かあったのだ。
「あたし、どうしたらいいか分からなくて……」
三輪さんが両肘を膝について額に手を当てる。西條さんのことを心配して相当精神的に参っているようだった。
そんな彼女の隣に、学がそっと腰掛ける。三輪さんの背中に学の手が触れると、彼女はごく自然に学の方へと身体を預けた。今度は学が彼女の肩を抱く。まるで、「安心して」と震える彼女を落ち着けるように。
そのあまりの自然な流れに圧倒される一方、西條さんのことが心配でたまらくなる。一昨日の晩、妹のいない初めてのクリスマスに不安を募らせ僕に電話をしてきた彼女の声を思い出す。表情は見えなかったけれど、寂しさと、新たな恋の兆しに揺れる彼女の複雑な気持ちがありありと伝わってきて胸が苦しかった。
自分の心が彼女に傾いていると知って、その夜はソワソワしていた。けれどそんな彼女がいま、行方知れずになっている。ひょっとしたらもう少しすればひょっこり家に帰ってくるのかもしれない。でも、今の今まで三輪さんに連絡をしない彼女の行動はあまりに不可解だ。
もしも西條さんが傷つくようなことがあれば——と不安になるのは僕も同じだった。
「西條さんを探しに行くよ」
僕にできることはただ一つ、彼女を見つけだして無事を確認することだけだ。
「探すって、あてはあるのかい?」
「それはないけど……。でも京都市内なんてそう広くもないんだし、探そうと思えば見つかる、と思う」
「頼りないな。そもそも京都市内って言い切れるのかい」
「……」
言われてみれば確かに学の言う通りだ。西條さんが必ずしも京都市内でデートをしているとは限らない。
「そういえば一昨日の晩、西條さんがどこでデートするか聞いたんだけど『秘密』だって……」
「あたしもそう言われた。だから詳しいことは何も聞いてなくて」
西條さんからすれば、深い意味もなく「秘密」ということにしたんだろうけれど、まさかここで仇となるとは……。
いや待て。
確か彼女、他に何か言ってなかったか?
——ふふ、それは秘密。でも私たちがよく知ってる場所。
「私たちがよく知ってる場所……」
「なんだって?」
「西條さん、デートの場所を聞いたとき、確かそう言ってたんだ」
「よく知ってる場所、ねえ。それだけじゃ分からないけど、要はわいたちの生活圏内ってことか」
「そうかもしれない。だとすればこの辺を探してみる。三輪さん、他に何か手がかりになるようなことはないかな? 何でもいいんだ。ユカイについて知ってることとかあれば」
確か、西條さんはユカイのプロフィールに書かれていた一文に共感したのだと言っていた。
しかしそれだけじゃ何の手掛かりにもならない。何かもっと、彼女の居場所に直結するようなヒントはないんだろうか。
「ごめん、あたしもほとんど何も知らなくて。24歳ってことぐらいしか。ただ、ユカイの顔写真を見せてもらったとき、どこかで見たことがある顔の雰囲気だなって思って……。はっきりと見たことがある顔ではないの。なんとなく、雰囲気とか特徴に既視感があるだけで。でもどこで見たのか、あとちょっとで思い出せそうなのに思い出せない……」
西條さんがいなくなったショックで、きっと三輪さんの心はかなり疲れている。これ以上、彼女を質問攻めにするのはやめよう。
うう、と嗚咽を漏らす彼女の背中を、もう一度学が優しくさする。「恭太くん」と学が僕の名前を呼ぶ。僕は彼の言わんとしていることが分かり、頷いた。
「僕が西條さんを探しに行く。三輪さんはここで待ってて」
「あたしも行く」
「いや、三輪さんは休むんだ」
学が強い口調で諭すように彼女の肩に手を置いた。でも、と立ち上がろうとする彼女に向かって首を横に振る。女の子を危険に晒すわけにはいかない、とその顔が語っている。
「大丈夫。恭太は案外役に立つんだ」
「案外ってなんだよ」
こんな時でも僕をいじることを忘れない学にはもはや敬意を示したい。
「それに、わいがここにいる。三輪さんはここで、心を落ち着けるんだ」
完全に男の目をした学が力強くそう言った。その目をじっと見つめる三輪さん。不安げに瞳が揺れる。でも同時に、学の言葉を正面から受け止めて納得したようにも見えた。
「分かった……何か思い出したら連絡するわ」
「ありがとう。僕が必ず西條さんを連れて帰るよ」
「安藤くん、よろしくお願いします。……ありがとう、御手洗くん」
もしも好きになった人に傷つくようなことがあったら、正義のヒーローになって助けに行きたい。好きになった人が不安になっていたらその肩を抱き、「大丈夫だ」と言ってあげたい。
大学に入学してからずっと僕は恋人という存在が欲しくてたまらなかった。
周りを見回すと彼女とどこそこにデートに行ったとか、誕生日プレゼントにティファニーの指輪をあげただとか、自慢げに話すやつらばかりで。僕は猛烈に嫉妬し、リア充生活を満喫する彼らを呪いたくもなった。
でも僕にも真奈という恋人ができて、分かったことがある。
世の恋人たちは皆手放しで幸せなだけじゃない。二人の関係に悩んだり苦しんだり、いろんな困難に立ち向かったりしているということ。そして、単に恋人が欲しいという感情だけでは、それらの問題を解決するには不十分だということ。
恋人が欲しいんじゃない。
僕は、好きになった人と幸せになりたいんや。
西條さんのことが好きだと気づいたのはつい先日のことだ。彼女からしたら僕なんてたくさんいる男友達の中の一人でしかないのかもしれない。僕と学は同列で、愉快な京大生としか思われていないのかも。
それでも、僕は彼女のことが好きやから、もしも彼女に危機が迫っているのなら助けなければならない。好きになった期間なんて、どうでもいいことなんや。ほんの少しのきっかけで、人は誰かに恋をする。一昨日の晩、妹のいない初めてのクリスマスに声を震わせていた彼女の心ごと、僕は抱きしめたかった。今日、学が三輪さんにそうしたように。
気持ち悪いと言われるかもしれない。
拒絶されるかもしれない。
けれど、何もせずにこの気持ちを諦めるくらいなら、嫌われる方がましだ。
西條さんの居場所が分からない。
僕たちがよく知ってる場所って、どこなんや。
僕は、百万遍の学の家からまず出町柳駅の方へと向かった。出町柳駅と京大の本部キャンパス入り口を一直線につなぐ今出川通りを走りながら、すれ違う二人組を観察する。朝から降り続く雪が、身体中にまとわりついて僕の身体を冷やしていく。途中現れる横道では、ずっと向こうの方へと視線を這わせて人がいないか確認した。京都には細い横道がたくさんある。しかしその先は住宅地であることが多く。そんなところへデートで行っているとは思えない。
どこだ、どこにいるんやっ。
もしも彼女や相手の家にいるようなことがあれば、どんなに探しても見つかるはずがない。その場合、いずれ西條さんから三輪さんに連絡がいくことを願うしかなかった。だがそれも、西條さんに危害が加えられていないことが前提となる。もしも彼女の身に何かあったら……と考えるとゾッとして背中の鳥肌が立った。
この辺でデートで行くような場所は——と考えると、鴨川かカフェぐらいしか思いつかない。カフェは結構多いので今頃コーヒーでも飲んで楽しくおしゃべりしているのかも。それならいい。いや、厳密に言うとよくないのだが……今は僕の感情を優先してる場合やない。
「西條さん!」
彼女の名前を叫びながら、僕は鴨川デルタまでたどり着いた。春や夏にはこの場所でお酒を飲む若者や小さい子供づれの家族が遊んでいるのだが、この寒い中デルタで遊ぼうなんていう猛者はいなかった。せいぜい橋の上から雪の降る鴨川の写真を撮っている人たちぐらいだ。
しかし僕はあらゆる可能性を考えて——たとえば、鴨川に西條さんが流されているとか——デルタの岸まで降り立った。
「さっむ!」
遮るものが何もない鴨川デルタで、雪の降る今日は立っているだけでも凍てつくような寒さが全身を襲った。はっきり言ってこんな日にデルタなんて馬鹿としか言いようがない。橋の上から僕を見ている人がいれば、若者がまた無茶をしているとしか思われないだろう。
「西條さーん」
彼女の名前を大声で呼ぶ。しかし、その声は風の中にかき消され、遠くまで響くことはない。もしも彼女が川に流されていたらと思うと、居ても立ってもいられず川の方まで進んでいった。
「西條さん、おらへんか!?」
こんなところで見つかるほうが嫌なのだが、万が一のことを考えて川面を覗き込んだ。
「おわっ!」
あまりにも必死すぎて、足場を確保するのが遅れた僕はデルタの坂から川の方へと滑り落ちる。
「っつ」
ゴツゴツした石に足首を打ちつけ、キインという嫌な痛みが全身を駆け巡る。寒さもあいまって、余計に痛みがひどい。
ああ、僕はこのままここで凍死してまうんやろうか……。
橋の上から「きみ、大丈夫か!」と優しい誰かが叫ぶ声が聞こえているにもかかわらず、そんな馬鹿みたいなことを考えていた。もしここが山の中だったら僕は完全に遭難している。
「だ、大丈夫です」
こんなときにこんなところで助けてもらうのは恥ずかしく、僕はあらんかぎりの声で返事をした。すると「そうか。気をつけろよ」と僕に声をかけてくれた男性が去っていった。
這いつくばりながらデルタの岸へと再びよじ登る。上まで登ると走り回った疲れがどっと押し寄せて来て、そのまますっと意識が遠のきかけた。
こんなところで寝たらあかんのに。
頭では分かっているのに、体が言うことを聞かない。どうやら先ほど転んだのが思った以上に身に堪えたようだ。
「西條さん……」
ああ、僕はなんて情けないんやろか。
好きな人の一人も見つけられへんって。
もし今頃西條さんが危険な目に遭っているとすれば、こんなところで時間を無駄にするわけにはいかない。どこでもいい、とにかく動かなければ。
でも、どこに……?
何の手がかりもなく走り回ったところで余計な体力を消耗するだけだ。どこかあてを見つけなければ。
「君は一体どこにいるんだ」
僕は、君のことをまだ半分も知らない。
でも、もし許されるならば君の残りのすべてを知りたいと思う。
そのためには何としてでも、今日君を見つけなければならない。
西條さん。
僕は、恋愛で百点はとれないよ。
でもさ、あと一点でもいい。君との恋の結末を、明るいものにしたい。百点に近づけたいって思うのは、間違いだろうか。
「はは……」
青春映画のヒーロー気取りか、僕は。
こんなに役に立たないヒーローなんて、誰も望んじゃいない。
ヒーローなら、どんなにしんどい場面でも勇気を奮い立たせるはずだ。
必死に力を振り絞り、重たい腰を上げ立ち上がる。とにかく、行こう。そう思って一歩踏み出したとき。
ポケットの中のスマホがブルブルと震えだした。
「誰やろ」
凍える指を必死に動かしてスマホを確認すると、発信元は三輪さんだった。
もしかして西條さんから三輪さんに連絡がいったのかもしれないと期待を込めて、僕は通話ボタンを押した。
『あ、よかった、つながった』
「三輪さん。もしかして西條さんから連絡が来たん!?」
『いや、残念ながら連絡は……』
「そうか」
期待しただけ僕はガックリと肩を落とした。彼女の無事がまだ分からないという状況に、これほど心がざわつくなんて。
『連絡は来てないけど、あたし思い出したことがあって』
「何?」
『カナが昨日デートしてたユカイのこと!』
「なんやて!」
謎に包まれていたユカイのことが分かれば、少しは西條さんの居場所を見つける手掛かりになるかもしれない。逸る気持ちを抑えて、三輪さんの次の言葉を待った。
『ユカイの写真を見た時、既視感があるって言ったじゃない。そしたら思い出したわ。あたし、ユカイの顔を——いや、正確に言うと彼の首元にあるあざを、交番の前で見たかもしれない』
「あざ……? 交番……?」
どういうことだろう。交番の前ですれ違ったということだろうか?
『出町柳駅の近くに交番があるでしょう?』
「あ、ああ。せやな」
この辺の交番といえばさっき鴨川に来る際に通り過ぎた。確か、下鴨警察署——ここからすぐにたどり着ける。
『その交番の前にある掲示板で見たのよ! ユカイにそっくりなあざが首元にある指名手配犯の似顔絵!』
「は、指名手配……?」
予想外のワードが三輪さんの口から飛び出してきて面食らう。指名手配犯。そんなの、僕の日常にはまったく関係のない輩だ。しかしそれは三輪さんにとっても、西條さんにとっても同じはずだ。なぜ、西條さんが指名手配犯と一緒にいるんや——。
『安藤くん。数ヶ月前からYouTuberを狙った連続誘拐事件が発生してるの、知ってる?』
「YouTuber連続誘拐事件……確か、結構前にニュースで見たような……」
あれは確か、真奈と出会って一週間後、二回目のデートに漕ぎ着けた日の朝だ。意気揚々とデートの支度をしながらなんとなくテレビをつけると、物騒なニュースが流れてきたのを思い出す。嫌な気分になったのですぐにテレビを消してしまったので詳細はあまり知らない。普段からニュースを見る方でもない。だから、注意してその内容を聞いたかと言えば答えはNOだ。
『その誘拐事件の犯人として候補に上がってる似顔絵が、ユカイの首元にあるあざと同じものを描いてるのを、思い出したの。アプリのユカイの顔は、その似顔絵とはちょっと違うの。もしかしたら整形でもしてるのかもしれない。犯人が堂々とアプリに顔を晒すなんておかしいからね。でも首元の薄いあざまでは、隠そうとしていなかったのかもしれない。あたし自身、ほんとうにうっすらと記憶に残ってただけだから、普通はスルーされてしまうくらいのあざだったし』
「そんなことって……」
あるわけがない。と否定したいのに、クリスマスイブの前日に西條さんが話してくれたことがフラッシュバックする。確か彼女は元YouTuberなのだと言っていた。だとすれば、犯人と思われるユカイが彼女を狙っていてもおかしくない——。
頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。
『お願い安藤くん、信じて! あたしも今から御手洗くんと一緒にカナを探しに行くから……カナのこと、助けて』
切実な声で訴える三輪さんの必死な表情が頭に浮かび、僕は一気に目が覚めた。
「分かった、信じるわ。もしそうじゃなかったら良かったって安心するだけやもんな。でも本当にユカイが犯罪者やったとき、後悔しても遅いから。僕は三輪さんの言うことを信じて西條さんを見つけ出すわ」
『ありがとう……』
今までの人生で、後悔したことならたくさんある。
勉強ばかりしていた高校時代、もっと周りのやつらと同じようにセイシュンにも目を向けていれば良かったとか。
真奈と付き合っている頃、表面上の彼女ではなく、奥底に眠っている彼女の気持ちに気づいてあげられたら良かったとか。
数え出したら後悔だらけの人生だ。一流大学に受かったからといって、僕には誇れるところが何もない。立派な人間でも、異性に好かれるような人間でもない。
だからせめて、今大切だと思う人のことだけは守りたいんや。
痛む足首を庇いながら、僕は鴨川デルタから橋の方へとなんとか歩き、先ほど走ってきた今出川通へと続く信号を渡る。雪は、先ほどよりも強く激しく視界を白く染めた。
「これが掲示板やな」
三輪さんから教えてもらった下鴨警察署の前にある掲示板を凝視する。張り紙が剥がれないように、掲示板はアクリルのケースで覆われていた。表面にへばりつく雪をコートの袖で拭うと、強盗やら殺人犯やらかなり凶悪な事件の容疑者と思しき人物の似顔絵が現れた。その中にはたしてユカイの似顔絵が、あった。
僕はユカイの顔写真を見たことはないが、その人物の似顔絵の下に「YouTuber連続誘拐事件容疑者」と書かれているのを見てすぐにピンときた。ハリのある長めの髪の毛、切れ長の一重まぶた。低い鼻。失礼だが、マッチングアプリで女性からモテそうな様子はない。さらによく見ると、三輪さんの言う通り、首元に薄いあざの描写があった。
彼の説明書に、四度の誘拐事件を起こしていること、他にもロマンス詐欺や美人局をやっていた容疑があることが綴られている。
「美人局って、ナナコがやってたっていう……」
もしかしてこいつはナナコと手を組んでいた男なのではないか。確か学が、ナナコの相手の男は相当手慣れた感じだったと言っていた。頭の中で、パズルのピースがどんどんはまっていく。
「西條さんはこの男と……」
嫌な想像が浮かび、すぐに頭をぶんぶんと横に振った。
おかしな想像はするな。そんなことしたら、気持ちが持たへん。今は彼女を見つけ出すことだけを考えるんや。
YouTuber連続誘拐事件。なぜ彼がそんなことをしたのか分からない。YouTuberに恨みでもあるのか、それとも単に有名人気取りのYouTuberをひっつかまえて懲らしめてやろうという愉快犯なのか。
とにかく今は動機を探っている場合ではない。
西條さんがいそうな場所は一体どこなんだ。
デートの場所について、彼女が教えてくれたのは「私たちがよく知っている場所」だということだけ。「私たち」というのが西條さんと僕のことを指すのであれば、僕たちの共通点はただ一つ、京大生であることだけだ。
京大生がよく知っている場所。
それって、もしかして。
彼女と初めて会った日のことを思い出す。時計台の前のクスノキの下で眠りこけていた西條さんを、僕は風邪を引くからという理由で起こした。彼女は突然知らない男に声をかけられてびっくりした様子で目をパチクリさせていた。僕は真奈と一緒だったから、単に無防備に目を閉じる彼女の身を案じただけだ。決して下心なんてなかった。けれどもし、あの時僕が真奈と付き合っておらずフリーの身であったなら、あれは間違いなく運命の出会いだったと思うだろう。この世に運命なんて存在しないのに。
運命じゃない。僕は僕の手で彼女のことを助けるんや。
彼女がいるかもしれない場所に向かって、僕は一目散に走った。途中、なにかプラスでヒントになるようなことはないかと、スマホでYouTuber時代の彼女のことを検索した。
カナカナちゃんねる
西條奏
動画
いくつかのワードを入れて検索をかける。
すると、カナカナちゃんねるについてまとめた記事がずらりと表示された。カナカナちゃんねるは京大生女子がアイドルを目指すというコンセプトで歌やトーク動画をアップしていたようだ。チャンネル自体は半年ほど前に閉鎖されていて今は見ることができない。しかし、いまだにファンも多く、活動再開を願う声も少なくない——。
「これって」
いくつもの記事を読み漁る中で、僕はそこに表示されたとある人物名と、その人物についてまとめた文章に目が釘付けになった。
「嘘やろ……」
そこには僕の知らない、目を疑う驚愕の事実が並んでいた。