「もしもし、つばき?」
『あ、カナ。かけ直してくれたんだ。ありがとう』
「ううん、それよりどうしたの?」
かけ直してすぐに出てくれたつばきのことだから、きっと何か悩み事でもあるに違いない。
『今日ね、御手洗くんと会ったの』
御手洗くん。そうだ、彼はつばきにナナコのことを伝えると言ってくれていた。今日会ったということは、神谷くんの浮気のこ
とを今日知ったということか。
「神谷くん、のことだよね?」
『うん。やっぱりカナも知ってた?』
「ごめん。最初に見つけたのは私なの。文学部校舎の近くで神谷くんが他の女の子と一緒にいるところを見かけて……」
『そっか。ううん、見かけたら教えてっていったのはあたしの方だし。気にしてない』
そう言うつばきの声色は諦めとやるせなさに満ちていた。そりゃそうだろう。あれだけ不安に思っていた恋人の言動について、ついに悪い予感が当たっていたと知ってしまったのだから。
「辛いよね。ナナコのことも聞いた?」
『ええ。正直言って、辛い気持ちよりもほっとした方が大きいんだよね』
「え、そうなの?」
『うん。これまでさ、真斗が浮気してるかもしれないって疑ってたのがやっと確定して怒りの矛先が確定したというか』
「な、なるほど……」
要するにつばきは、彼を信じたいのに疑わなければならない状況に疲れていた。早いとこトドメを刺してほしいというのが本音だったんだろう。
『しかも相手の子、とんでもないことしてたんだってね。腹が立ったを通り越して、なんか真斗が不便に思えてきたほどよ』
「つばき、すごいよ」
『そう? 男って滑稽よね。騙されてることに気がつかなくて、目の前にぶら下げられた餌しか目に入っていないのよ』
辛辣なたとえをしゃあしゃあと垂れ流すつばきだが、彼女が怒っていることは分かった。私だって遠距離恋愛をしていた元彼に浮気されたと知った時はさめざめと泣いた。そして行き場のない怒りで心臓が割れそうになった。
「つばきが傷つくところ、私は見たくなんかなかった」
『ありがとう、そこまで考えてくれて。あたしさ、もう傷つく覚悟はできてた。でも実際浮気してるって知ってめちゃくちゃ悔しい。どうしようもないんだね。真斗はもうあたしのことなんか、気にかけてすらないんだって。こんなに悔しいなら、あたしにだって仕返しする権利はあるよね?』
「……うん、当たり前じゃん」
つばきの苦しみが痛いほどよく分かる。一番信じていた人に裏切られる苦しみ。出会ってから恋をして、相手がくれた言葉の数々を思い出すと心が凍つくようにギシギシと音を立てる。こんなに苦しいんだから、ちょっとぐらい相手にだってこの痛みを味わってほしい。彼女がそう思うのも無理はないのだ。
『分かった。ナナコのこと調べてくれてありがとう。それから、御手洗くんにもお礼伝えといて。なんか彼、すごい気遣ってくれた
から』
「それは自分で伝えなよ。明日の勝負が決まったら」
『それもそうね。明日、頑張ってくるわ』
「健闘を祈ってる」
『カナの方こそ。明日はデートでしょう?』
「うん。やばいよ〜緊張」
『なーに言ってんの。カナ、マッチングアプリで初対面の人と会うのは慣れてるでしょう』
「慣れない、慣れない! 初対面の人と会うのはいつも神経使うんだって」
『そんなもんかねぇ。でももし仮にユカイのことすっごい気に入ったら、一夜共に過ごしちゃうなんてこともあるんじゃない?』
「それだけは絶対ない! 私は初対面の男とは絶対寝ないって決めてるの。つばきはアプリやったことないから分かんないんだよ」
『まあそうかもね。でもあたしだって、真斗と別れたらアプリ使うかも』
「ええっ、つばきが? その時は私が教えてあげるけどっ」
『頼んだわ』
真斗と別れたら——冗談では言えないことだから、彼女の中ではもうほとんど決定事項になっている。アプリを使うかもしれないという冗談だって、気分を紛らわせるために言ってるのだろう。
『ちなみにユカイと明日どこに行くの?』
「それ、やっぱりつばきも気になる?」
『つばきもって、他に誰から聞かれたの?』
「安藤くん」
『えー二人、そんなに仲良かったっけ?』
「いや、仲良いってほどじゃないよ。たまたま話しただけ。あ、でも彼には詳細なんか伝えてないし、つばきにも秘密」
『なんか怪しいな……。でもまあ、とにかく楽しんできてよ。あたしの分も』
「緊張で楽しめるか分かんないけど、行ってくるよ」
『行ってらっしゃい』
クリスマスイブを前にして、お互いに明日のデートを励まし合う。同じデートなのに、全然意味合いが違う。初めての相手に出会う私と、数年間共に過ごしてきた相手とお別れしに行くつばき。どんな結果になっても、私たちは友達だ。きっと明日の出来事を笑い飛ばせる日がくるはず。
『ねえ、カナ。ちょっと話変わるけど、なんかあたし、ユカイのこと見たことがある気がするんだよね。はっきりと……ではなくて、なんとなーくだけど』
「へえ、なんでだろう?」
つばきには一度マッチングアプリに登録されたユカイの写真を見せたが、どこかで見たことがあるなんて不思議だ。
『やっぱり案外近くにいる人なのかもね』
「そうかも。大学関係者だったら笑うわ」
『結局京大の中で相手見つけてんのかーいってね。それにしても最近通り魔とか誘拐事件とか多いらしいから気をつけてよね』
「そうだっけ? ニュース見てないから知らなかった」
『そうよ。しかも連続で起きてるらしくて、同一犯じゃないかって噂よ。被害者は軒並み若い女性だって。まあ明日はユカイとデ
ートだし一人になることはないと思うから大丈夫だと思うけど』
「それを言ったらつばきだって気をつけて。妹に続けて親友を失ったらもう私どうすればいいか分かんなくなっちゃう」
『笑えないわね。うん、お互い気をつけよう』
たぶん姉御肌なつばきは、私のことを妹のように思ってくれている。だからこうして私の身を案じてくれているのだ。華苗のこともあるし、彼女が私のことを気にかけてくれているのは薄々気づいていた。華苗を失ってからというもの、彼女だけが私の心のよりどころだった。
「私さ、百点の恋がしたかったんだ」
ぽつり、と頭の中に浮かんできた正直な想いを、親友に告げる。つばきならば、私のこのどうしようもなくくだらない願望を、受け入れてくれると思ったのだ。
『百点の恋、ね。あたしも、同じこと考えてたよ。ていうか、自分と真斗の恋は百点満点だと思ってた。でもさ、真斗は浮気してて、完璧な恋なんてないって分かったのよ』
「つばき……」
親友が同じ気持ちでいたことに安堵しつつも、つばきの話すことは私の胸の奥に深く突き刺さった。
百点の恋なんて、ないんだ。
いくら完璧だと思って恋人との関係を築いても、いつか終わりが来るかもしれない。どちらかの気持ちが変わってしまうことは致し方ないことだ。
私はただ、恋に恋をしていた。
でも、つばきの言うことがもっともだと分かって、百点の恋など目指さなくてもいいのかもしれないと思う。
「そうだよね。恋に答えはない。だからこそ、傷ついたり嬉しかったりするんだもんね」
『そうよ。だからカナも、百点満点じゃなくていいんだよ』
つばきのやさしい言葉が、ひとりぼっちだった私の身に染みる。
百点じゃなくていい。完璧じゃなくていい。私は、私らしく自分の求める恋をすればいいんだな。
私の気持ちが落ち着いたと分かったからか、つばきは目一杯間を置いて、息を吸った。
『カナ、その後調子はどう?』
電話の向こうから、心配そうなつばきの声が響いた。彼女が言わんとしていることが何か、私にはすぐに分かった。
「……記憶のことならあんまり良くなってはないかな。今でも時々頭の中もやもやするし、前後の記憶が飛んでたりするし。でも気にしないで。どこか痛いとか苦しいとか、そういうのはないの。精神的な問題だと思うから」
『そっか。また何か変化があったら教えてよ』
「分かった」
じゃあ、おやすみ、とつばきは電話を切った。
後に残る部屋の静寂が、クリスマス前の心のざわめきを落ち着かせてくれた。
明日、つばきは無事に神谷くんと話ができるだろうか。
私はユカイと何事もなくデートを終えられるだろうか。
大学四回生、最後のクリスマスイブを前にして、二人とも上手くいきますようにと心から祈った。