偏差値72の僕らが、百点の恋に出会うまで

 その日、学と自宅近くまで一緒に歩いて帰りながら、彼の健闘を労った。学は珍しく僕の言うことに静かに耳を傾けていた。
 百万遍の交差点で学と別れ、僕は北白川の自宅までせっせと歩みを進めた。家に帰り着くと、最近の自分や周りの恋愛のごたごたで思ったよりも疲れていることに気づく。ベッドにダイブするとそのまま睡魔に引っ張られて闇に落ちてしまいそうだった。
 明日はクリスマスイブだがどうせ僕には予定がない。いつも通り学の家に押し掛けたいけど、昨日の今日で彼も疲れているかもしれない。明日は一人でいつも通りカップルたちが眺める夜景の灯火にでもなるか——と諦めかけたとき、ポケットの中でスマホが震えた。

「ん」

 画面を見るとLINE電話だと分かる。かけてきたのは——。

「西條さん……?」

 初めて彼女から電話なんてかかってきた。真っ先に間違い電話を疑ったのだが、呼び出し音はなかなか止みそうにない。ということは、彼女の意思で僕に電話をかけてきているということだ。
 突然速く動き出した心臓を、僕は掴みたい気持ちで胸を押さえた。なんやこの胸の高鳴りはっ。「恋人でもない女の子からの電話」というリア充イベントを、僕はこれまで一度も経験したことがないのだ。そりゃ耐性なんかまったくついていない。
 恐る恐る通話ボタンを押し、スマホを耳に押し当てると、「もしもし」という彼女の声が聞こえた。

『良かった、繋がって。突然ごめんね』

「ええよ。西條さん、どないしたん?」

『ちょっとね、なんとなく話したくなって……』

 なんと!
 「なんとなく話したい」なんて、真奈以外の女の子からは聞いたこともないワードだ。眠っていた僕のモテたい欲がむくむくと膨れ出す。本来僕はこういう人間だった。大学四年間、女の子にモテたくて燻っていた感情はいつでも眠りから目を覚ます。一気に気持ちが昂った僕は逸る気持ちで「何かあった?」と聞いた。

『明日はクリスマスイブでしょ。妹のこと思い出しちゃって』

「妹さんって、確か華苗さんやったかな」

『そう』

 西條さんの妹は半年前に失踪したと聞いている。警察は成人女性の失踪に事件性がないと見ているのか、西條さん自身、妹がなぜ失踪してしまったのか分からないらしい。
 でも突然どうしたんだろう。わざわざ僕に連絡してくるなんて。

『クリスマスは毎年華苗と一緒に過ごしてたの』

「ああ、そうやったんか」

 それならば妹のことを思い出して感傷に浸りたい気持ちにも肯ける。

『華苗がいないクリスマスは初めて。ごめんね、急にこんなこと言われて訳わかんないよね』


「いや。僕だって先週真奈と別れたばかりやし、気を紛らわすにはちょうどいいよ」

 似た者同士だね、と彼女は電話の向こうで笑う。
 京大生女子の彼女のことだから、弱い部分を他人に見せることなんてしないと思っていたのだが、どうやら僕の思い違いのようだ。
 彼女にだって心が不安定になったとき、誰かに胸の内を聞いてほしいという気持ちがある。僕が学になんでも相談するように。自分に似たところがある、と思うとなんやちょっと嬉しいもんやな。

「明日は一人で過ごすん?」

『……ううん、人に会ってくる』

 な、なんだ。もし一人で過ごすのならば一緒にどうやろか……なんて聞こうとした自分が恨めしい。ちょっとは期待したんやけどな。
 それにしても「人と会う」とは曖昧な言い方だ。単なる友達とパーティーを開くのとは違うのだろう。

「もしかして男の子と?」

『う、うん』

 やはり、図星か。

「ええな〜楽しんできて」

『それが、初めて会う人だから緊張して』

「そうやの? 何で出会ったん」

 普段の僕なら面と向かって聞けないようなことなのに、クリスマスイブの前日という心が浮わついた日だからか素直な疑問が口をついて出た。

『……マッチングアプリ』

「おお、マジか」

 まさか、彼女の口から「マッチングアプリ」だなんて言葉が出てくるとは思っていなかった僕は驚く。僕自身、アプリを使ったこともあるがあれはビジュアルが命だ。僕みたいなクソ真面目そうな顔をした人間には太刀打ちできない。
 しかし女性なら話は別だろう。人に聞いた話だが、女性は男性とは違って毎日何十件もマッチング申請が届くらしい。まったく、なんて不公平な世の中だ。

『引くよね……?』

「え?」

 彼女が気にしていること、それは「マッチングアプリを使っている自分がドン引きされる対象であるかどうか」らしい。

『京大生の私がマッチングアプリなんか使って、馬鹿だって思う……?』

 泣きそうな声だった。
 電話の向こうで捨てられた子猫みたいに震えている彼女を想像すると、胸がツンと詰まった。彼女は一体何を気にしているんだろう。マッチングアプリを使うのに、「京大生」だとかどうとか関係ないはずだ。それなのに本人が気にしているということは、これまでに偏見のある発言を受けてきたのかもしれない。

「全然馬鹿やないよ。便利なもんやん。使えるもんを使うのはむしろ賢いんとちゃう?」

『安藤くん……』

 僕はマッチングアプリに向いていないから使わないが、使いようによっちゃ恋人をつくるという目的を達成しやすい道具だ。それを賢く使うことに何も疑問はなかった。
 西條さんが鼻を啜る音が聞こえて、思わず頭を撫でたくなる。いけない、真奈にしていたことを他の子にもしたいと思うなんて。僕は非モテイカ京男子だ! 付き合ってもいない女性にそんな気持ち抱いてはならん! 
 今日は脳内学ではなく、自分に諌められる。

「明日会う人ってどんな人なん?」

 ちょっとでも空気を変えようと、僕は彼女の明るい未来の話を聞き出そうとした。

『年上の男の人なんだけど、“ユカイ”っていう変な名前で』

「変な名前は言うたらあかんて」

『ふふ。でも変じゃない?』

「まあ確かに変やね」

 ユカイ。愉快。漢字変換するとなんだか楽しそうな男に見える。
 しかしそんなことよりも、電話の向こうで西條さんが小さく笑うのを聞いてほっとする。

『その人のプロフィールに“上っ面だけのやり取りは苦手です。真面目に恋愛できる人を探しています。”書いてあったの』

「へえ、上っ面だけのやり取りが苦手ねえ。なんや分かる気いする」

『でしょ? 私もさ、上っ面だけで生きてた時代があったから』

「そうなん? どんなふうに過ごしてたん?」

 僕の疑問の声に、電話の向こうで西條さんが息をのむ様子が窺えた。

『YouTubeの「カナカナちゃんねる」って知ってる?』

 どこか試すような口ぶりで、突然「チャンネル」などと言われて頭が置いてきぼりをくらう。YouTubeに疎い僕はチャンネル名を聞いても分からなかった。

「ごめん、その手の話には疎くて。分からへんわ」

『そっか。実はね、「カナカナちゃんねる」って私がやってたチャンネルなの』

「ええっ!?」

 知らなかった。西條さんがYouTuberだったなんて。そりゃ今の時代YouTubeをやっている人はたくさんいるが、彼女からそんな話は聞いたことがない。
 それに、相手のプロフィールに好きだと書かれるくらいにはかなり有名なYouTuberだったということか?

『ごめん、突然こんなこと言われてもびっくりするよね』

「あ、ああ……。でもええやん、YouTubeなんて。それなりにファンも多かったんとちゃう?」

『そうだね。チャンネル登録者数は結構多かった。一人でやってたけどそれなりに楽しかったよ。私ね、大学に入るまでずっと自分の上辺だけを見せて生きてきたの。本当はもっと大口を開けて笑いたい、友達に、好きなアニメを好きと言いたいって、思いながら毎日過ごしてた。でも、そんな自分を見せた時の周囲の反応を想像すると、怖くて。だからずっと取り繕って生きてた。大学に入って、YouTubeを始めるまでは』

 今日の西條さんはなぜかよく喋る。妹さんがいなくなってから、溜まっていた心の鬱憤が今どっと吐き出されているのかもしれない。人間誰しも普段はどんなに強がっていたって、弱音を吐きたくなるときはある。彼女にとって、今がそのタイミングなのかもしれない。
 
『YouTubeをやっている時の私はたぶん、人生で一番明るく笑っていられたの。投稿するたびに視聴者から反応が来て、楽しくて毎日が輝いてた』

 夢見る乙女のような口調で彼女がかつての自分を思い出して語る。
「そうやったんや。でもなんでやめてしもたん?」

『それは……華苗が、いなくなっちゃったから』

 ああ、そうか。
 彼女にとって、最も心を許せる存在だった妹さんが行方不明になってしまったことが、その後の彼女の行動を決定づけている。電話の向こうで寂しそうに吐息を漏らす彼女の気持ちが、並々と注いだコップの縁から水が溢れるように、急に胸に沁みてくる。僕は今、彼女の心の奥底に近づこうとしているのだ。そんなこと、僕なんかがしてしまってもええんやろうか。彼女とは数ヶ月前に出会ったばかりで、単なる友達に過ぎない。しかも、学のように気楽に家を訪ねられるほどの存在ではない。付き合いが浅い友人だ。

 それなのに、なぜか僕も彼女も、お互いに心の内を晒しあってもいいと思っている。京大女子なんて、今まで見向きもしてこなかった。いや、彼女たちのような賢い人種は僕などに興味を持たないと思っていたのだ。
 でも違う。
 賢いとか賢くないとか、そんなものはどうでもよかった。
 ただ落ち着いて話ができる相手だというだけで、こんなにも心地が良いのだから。

「西條さんにとって、妹さんは本当に大切な存在やったんやね」

『うん』

「そやったら、むしろ笑って過ごした方がええんとちゃう? 早く妹さんが帰って来たいって思ってくれるように」

『そう……だね』

 僕は彼女について、ほとんど知らない。
 だから彼女の気持ちは推し量ることしかできないし、僕がアドバイスをしたところで彼女の心に響くかどうかなんて分からない。
 でも、自分のことが好きだという相手とせっかくマッチングして聖なる夜にデートをするというのなら、せめてその間だけでも楽しんできてほしい。
 妹さんもきっとそう願っているはずだ。

「明日は楽しんできて。ちなみにどこでデートする予定なん?」

 こんなことまで聞いてしまってもいいのかどうか迷ったが、話の流れでなんとなく知りたくなった。

『ふふ、それは秘密。でも私たちがよく知ってる場所』

「よく知ってるって、僕も?」

『うん。そうだよ。またデートが終わったら感想でも送ってあげる』

 先ほどよりも明るいトーンで西條さんが答えた。きっと今、彼女は舌なんか出して笑っている。その姿を想像するだけで僕の心はほの温かく照らされた。

『ありがとう。安藤くん』

 ああ、そうやったんや。
 出会って話した回数やない。デートを重ねた回数やない。
 大切な気持ちは一回限りのささやかな会話からも生まれてしまうものなんや。
 僕は彼女のこと、好きなんや。

 ふう。電話を切ったあと、私は安堵のため息をついた。
 クリスマスイブを目前に控え、「誰かと話したい」という衝動に駆られて咄嗟に思いついたのが安藤恭太だった。
 自分でもなぜ彼に電話をかけたのか分からない。今日は一人、得意でもないお酒を一杯飲んでしまったせいだろうか。はたまた、日本中が幸福な心地に包まれるクリスマスイブに初対面の男と会うという状況に緊張してしまったせいかもしれない。
 つばきでもなく恭太に連絡をとったのは、つばきはつばきで明日神谷くんと決戦の日を迎えていて、あまり彼女に気を遣わせたくなかったからだ。

 それにしても安藤くんって、やっぱり優しいんだな。
 初めて会ったときもそうだった。クスノキの前で寝ている私に風邪を引くからと起こしてくれたり、自転車で転んだ私の傷の手当てをしようとしてくれたり。見た目こそ地味だが、彼の優しさが身に染みた。だからこそ今日だって、気がつけば彼のことが頭に浮かんでいたのだ。

 正直言うと、華苗のいないクリスマスが怖かった。
 底抜けに明るい妹は、知らないうちに私の心にいつも灯火を灯してくれていたのだ。
 生まれたときから一緒にいたため、そんな大事なことにも気がつかないなんて。

「お姉ちゃん失格ね」

 誰もいない空間で独りごちる。
 華苗の温もりも、声も、笑顔も、全部もう一度だけでいいから感じたい。でもそれが叶わないと知って、他の誰かの体温を求めている。
 たとえそれが初対面の男だろうと、最近友人になったばかりの男だろうと。
 私は締め切っていたカーテンをそっと開けてみた。出町柳駅付近にあるこの家の周りは、常に車通りが多く外を見れば車のライトが目に飛び込んでくる。その先には底無しに見える黒い鴨川がしんしんと流れていた。昼間と夜で違う顔を見せる鴨川を見ることができるのも、あと三ヶ月しかない。

「今年で最後なんだなぁ」

 底冷えのする京都で過ごすクリスマスも、雪化粧をした寺社仏閣を気軽に巡ることができるのも。大学の友達とすぐに会ったり、家に押しかけたり。すべてが特別なこの時間を、きっと三ヶ月後には幻のように感じている。
 だからこそ、今を精一杯楽しまなければならない。
 たとえ大切な妹と、もう二度と会えないのだとしても。

 明日はついにユカイと会う日だ。カナカナちゃんねるのファンだった彼は一体どんな人間なのだろう。一回目のデートだし、気軽な気持ちで臨めばいいはずだ。

「あれ、着信?」

 恭太と電話をしたあとにスマホの画面をすぐに閉じてしまったため気がつかなかったが、ふとスマホを再び見てみると何度か着信が入っていることに気づいた。
 発信者は三輪つばきとなっている。こんな時間に電話をかけてくるなんて珍しい。ただ、内容はなんとなく分かる気がする。私は彼女に折り返しの電話をかけることにした。


「もしもし、つばき?」

『あ、カナ。かけ直してくれたんだ。ありがとう』

「ううん、それよりどうしたの?」

 かけ直してすぐに出てくれたつばきのことだから、きっと何か悩み事でもあるに違いない。

『今日ね、御手洗くんと会ったの』

 御手洗くん。そうだ、彼はつばきにナナコのことを伝えると言ってくれていた。今日会ったということは、神谷くんの浮気のこ
とを今日知ったということか。

「神谷くん、のことだよね?」

『うん。やっぱりカナも知ってた?』

「ごめん。最初に見つけたのは私なの。文学部校舎の近くで神谷くんが他の女の子と一緒にいるところを見かけて……」

『そっか。ううん、見かけたら教えてっていったのはあたしの方だし。気にしてない』

 そう言うつばきの声色は諦めとやるせなさに満ちていた。そりゃそうだろう。あれだけ不安に思っていた恋人の言動について、ついに悪い予感が当たっていたと知ってしまったのだから。

「辛いよね。ナナコのことも聞いた?」

『ええ。正直言って、辛い気持ちよりもほっとした方が大きいんだよね』

「え、そうなの?」

『うん。これまでさ、真斗が浮気してるかもしれないって疑ってたのがやっと確定して怒りの矛先が確定したというか』

「な、なるほど……」

 要するにつばきは、彼を信じたいのに疑わなければならない状況に疲れていた。早いとこトドメを刺してほしいというのが本音だったんだろう。

『しかも相手の子、とんでもないことしてたんだってね。腹が立ったを通り越して、なんか真斗が不便に思えてきたほどよ』

「つばき、すごいよ」

『そう? 男って滑稽よね。騙されてることに気がつかなくて、目の前にぶら下げられた餌しか目に入っていないのよ』

 辛辣なたとえをしゃあしゃあと垂れ流すつばきだが、彼女が怒っていることは分かった。私だって遠距離恋愛をしていた元彼に浮気されたと知った時はさめざめと泣いた。そして行き場のない怒りで心臓が割れそうになった。

「つばきが傷つくところ、私は見たくなんかなかった」

『ありがとう、そこまで考えてくれて。あたしさ、もう傷つく覚悟はできてた。でも実際浮気してるって知ってめちゃくちゃ悔しい。どうしようもないんだね。真斗はもうあたしのことなんか、気にかけてすらないんだって。こんなに悔しいなら、あたしにだって仕返しする権利はあるよね?』

「……うん、当たり前じゃん」

 つばきの苦しみが痛いほどよく分かる。一番信じていた人に裏切られる苦しみ。出会ってから恋をして、相手がくれた言葉の数々を思い出すと心が凍つくようにギシギシと音を立てる。こんなに苦しいんだから、ちょっとぐらい相手にだってこの痛みを味わってほしい。彼女がそう思うのも無理はないのだ。

『分かった。ナナコのこと調べてくれてありがとう。それから、御手洗くんにもお礼伝えといて。なんか彼、すごい気遣ってくれた
から』

「それは自分で伝えなよ。明日の勝負が決まったら」

『それもそうね。明日、頑張ってくるわ』

「健闘を祈ってる」

『カナの方こそ。明日はデートでしょう?』

「うん。やばいよ〜緊張」

『なーに言ってんの。カナ、マッチングアプリで初対面の人と会うのは慣れてるでしょう』

「慣れない、慣れない! 初対面の人と会うのはいつも神経使うんだって」

『そんなもんかねぇ。でももし仮にユカイのことすっごい気に入ったら、一夜共に過ごしちゃうなんてこともあるんじゃない?』

「それだけは絶対ない! 私は初対面の男とは絶対寝ないって決めてるの。つばきはアプリやったことないから分かんないんだよ」

『まあそうかもね。でもあたしだって、真斗と別れたらアプリ使うかも』

「ええっ、つばきが? その時は私が教えてあげるけどっ」

『頼んだわ』

 真斗と別れたら——冗談では言えないことだから、彼女の中ではもうほとんど決定事項になっている。アプリを使うかもしれないという冗談だって、気分を紛らわせるために言ってるのだろう。

『ちなみにユカイと明日どこに行くの?』

「それ、やっぱりつばきも気になる?」

『つばきもって、他に誰から聞かれたの?』

「安藤くん」

『えー二人、そんなに仲良かったっけ?』

「いや、仲良いってほどじゃないよ。たまたま話しただけ。あ、でも彼には詳細なんか伝えてないし、つばきにも秘密」

『なんか怪しいな……。でもまあ、とにかく楽しんできてよ。あたしの分も』

「緊張で楽しめるか分かんないけど、行ってくるよ」

『行ってらっしゃい』

 クリスマスイブを前にして、お互いに明日のデートを励まし合う。同じデートなのに、全然意味合いが違う。初めての相手に出会う私と、数年間共に過ごしてきた相手とお別れしに行くつばき。どんな結果になっても、私たちは友達だ。きっと明日の出来事を笑い飛ばせる日がくるはず。

『ねえ、カナ。ちょっと話変わるけど、なんかあたし、ユカイのこと見たことがある気がするんだよね。はっきりと……ではなくて、なんとなーくだけど』

「へえ、なんでだろう?」

 つばきには一度マッチングアプリに登録されたユカイの写真を見せたが、どこかで見たことがあるなんて不思議だ。

『やっぱり案外近くにいる人なのかもね』

「そうかも。大学関係者だったら笑うわ」

『結局京大の中で相手見つけてんのかーいってね。それにしても最近通り魔とか誘拐事件とか多いらしいから気をつけてよね』

「そうだっけ? ニュース見てないから知らなかった」

『そうよ。しかも連続で起きてるらしくて、同一犯じゃないかって噂よ。被害者は軒並み若い女性だって。まあ明日はユカイとデ
ートだし一人になることはないと思うから大丈夫だと思うけど』

「それを言ったらつばきだって気をつけて。妹に続けて親友を失ったらもう私どうすればいいか分かんなくなっちゃう」

『笑えないわね。うん、お互い気をつけよう』

 たぶん姉御肌なつばきは、私のことを妹のように思ってくれている。だからこうして私の身を案じてくれているのだ。華苗のこともあるし、彼女が私のことを気にかけてくれているのは薄々気づいていた。華苗を失ってからというもの、彼女だけが私の心のよりどころだった。

「私さ、百点の恋がしたかったんだ」

 ぽつり、と頭の中に浮かんできた正直な想いを、親友に告げる。つばきならば、私のこのどうしようもなくくだらない願望を、受け入れてくれると思ったのだ。

『百点の恋、ね。あたしも、同じこと考えてたよ。ていうか、自分と真斗の恋は百点満点だと思ってた。でもさ、真斗は浮気してて、完璧な恋なんてないって分かったのよ』

「つばき……」

 親友が同じ気持ちでいたことに安堵しつつも、つばきの話すことは私の胸の奥に深く突き刺さった。
 百点の恋なんて、ないんだ。
 いくら完璧だと思って恋人との関係を築いても、いつか終わりが来るかもしれない。どちらかの気持ちが変わってしまうことは致し方ないことだ。
 私はただ、恋に恋をしていた。
 でも、つばきの言うことがもっともだと分かって、百点の恋など目指さなくてもいいのかもしれないと思う。

「そうだよね。恋に答えはない。だからこそ、傷ついたり嬉しかったりするんだもんね」

『そうよ。だからカナも、百点満点じゃなくていいんだよ』

 つばきのやさしい言葉が、ひとりぼっちだった私の身に染みる。
 百点じゃなくていい。完璧じゃなくていい。私は、私らしく自分の求める恋をすればいいんだな。
 私の気持ちが落ち着いたと分かったからか、つばきは目一杯間を置いて、息を吸った。

『カナ、その後調子はどう?』

 電話の向こうから、心配そうなつばきの声が響いた。彼女が言わんとしていることが何か、私にはすぐに分かった。

「……記憶のことならあんまり良くなってはないかな。今でも時々頭の中もやもやするし、前後の記憶が飛んでたりするし。でも気にしないで。どこか痛いとか苦しいとか、そういうのはないの。精神的な問題だと思うから」

『そっか。また何か変化があったら教えてよ』

「分かった」

 じゃあ、おやすみ、とつばきは電話を切った。
 後に残る部屋の静寂が、クリスマス前の心のざわめきを落ち着かせてくれた。
 明日、つばきは無事に神谷くんと話ができるだろうか。
 私はユカイと何事もなくデートを終えられるだろうか。
 大学四回生、最後のクリスマスイブを前にして、二人とも上手くいきますようにと心から祈った。
 昨日の夜、カーテンを閉め忘れたまま眠ってしまったせいで、窓からの冷たい空気で目が覚めた。12月24日、京都の冬の朝は例外なく冷たい。よく見ると窓一面に霜が降りて、鴨川が白くぼんやりと霞んで見えた。
 時計を見ると午前8時20分。ユカイとの約束は夕方からなので時間にはまだまだ余裕がある。
 私はスマホのマッチングアプリを開き、ユカイにメッセージを送る。

『おはようございます。今日はよろしくお願いします』

 わざわざこんなこと送らなくてもいいのかもしれないが、会う前に少しでも相手の心象を上げておきたい。
 ユカイからはしばらく返信が来なかった。こんな朝からアプリを使っている人がどれだけいるのかは分からないが、彼は社会人かもしれないし、そうだとしたら土曜日とはいえ仕事があるかもしれない。
 あまりプレッシャーにならないように、そっとスマホを置いた。私の方も、返信に気を取られていると余計緊張してきちゃう。
 もう何度目か分からないマッチングアプリでの対面なのに、私はいつまでドキドキしてるんだろう。というか、この初対面の時のソワソワと心が浮き立つ感覚はあまり得意ではない。もし今日ユカイと上手くいけば、今後はこれほど心がざわつくこともないだろう。
 ああ、どうか彼がまともな人で、恋をして恋をされますように。

 約束の時間までのんびりとご飯を食べたり家で映画を見たりして過ごした。
 なるべく普段と同じことをして心を落ち着かせる作戦だ。
 ついに約束の17時になり、私は真っ白のショートコートを羽織り、家を飛び出した。
 待ち合わせは京阪出町柳駅前なので家からはすぐだ。焦る必要はないのに、自然と歩みが速くなる。横断歩道を二つほど渡り、出町柳駅前へとたどり着く。駅前では誰かと待ち合わせをしているであろう人が四人ほどいたが、見た目からしてユカイはまだ来ていなさそうだった。
 ふう、と息を吐くと白いもやが視線の先を舞った。底冷えのする京都では出かける際にカイロが必須だ。ポケットの中で温めておいたそれを取り出し、両手を擦り合わせて寒さをしのぐ。
 数分の間あたりをキョロキョロしながらユカイを待っていると、後ろから声をかけられた。

「すみません、奏さんですか?」

 振り返るとそこに立っていたのはプロフィールの写真と同じ、黒髪の男だ。年齢は20代中盤ぐらい。優しそうな目元が印象的だ。直感ですぐに「ユカイだ」と分かった。
 彼は写真で見た私に会えたからか目を丸くして驚いている。アプリでの写真に加工をしていないせいで、あまりに写真と同じだったから意外だったんだろうか?

「こんにちは。ユカイさん、ですよね? 奏です」

「おお、良かった。会えなかったらどうしようと思って」

 マッチングアプリで待ち合わせ相手に会えるかどうかという不安は誰にでも付き纏う。まずはお互いに認識できただけでもほっとした。

「私も緊張してて。今日はよろしくお願いします」

「うん、よろしく」

 年上の彼はすぐにタメ口になり、爽やかな笑顔を浮かべた。
 いいじゃん、ユカイ。
 これまでアプリで会った人の中で一番いいんじゃない?
 予想を上回る好印象ぷりに、久々に胸が踊った。

「じゃあ早速行こうか」

「はい」

 今日は鴨川のイルミネーションを見に行くと聞いている。京都に住んで四年目になるが、鴨川のイルミネーションは見たことがないので楽しみだ。

「イルミネーションは結構北の方でやってるみたいだから話しつつ歩こう」

「いいですね」

 遠くでやっているのならバスや電車で移動するのもありだが、彼はあえて鴨川を歩くことを選んだ。冬の鴨川はまあまあ寒いが、誰かと一緒に歩くのならそれもまた一興、ということだろう。

「転ばないように気を付けて」

「子供じゃないですし、大丈夫ですよ」

「あ、そう? なんかおっちょこちょいに見えた」

「む……初対面なのにヒドイですね」

 ユカイは早くも私に対して冗談を言ってくる。彼の方から積極的に距離を縮めようとしていることが分かって嬉しかった。

「ユカイさんはアプリ歴長いんですか?」

「ん、まあね。と言ってもこの間まで彼女がいたんだ」

「へえ。その彼女さんはどんな人だったんですか?」
「……君にとっても雰囲気が似ていたよ」

「……」

 そ、それって、出会ってすぐの私を落とすための殺し文句ですか!?
 そんなこと言われたら誰だって意識するに決まっている。だってほら、その証拠にこんなに寒いのに掌に汗が滲んできたぞ……。

「奏ちゃんは? 彼氏とかいたの?」

「私はここ数年フリーです。もう恋する心が枯れちゃってるかも」

「ははっ。それなら俺がその枯れた心に水をさしてあげようかな」

 な、なななな!
 この人、よくそんな歯の浮くようなセリフをつらつらと言えるわね。
 きっと今たまたま恋人がいないだけで、本当はすごくモテる人に違いない。私はなんてラッキーなんだろう。しかも今日はクリスマスイブ。二人の気持ちを盛り上げるのにはもってこいの一日だ。もしかしてデートが終わったあと、またお誘いがあったりして? それより、イブだけじゃ物足りないって明日の朝まで一緒に過ごすとか……いやいや、さすがに初対面でそれはマズイ! 下手すれば都合のいい女になってしまう。いくら男に飢えているとはいえ、簡単に手に入ると思われちゃダメなのよ。ここは誘われても一度引かねば……などと、妄想だけで盛り上がっていると、ユカイが「大丈夫?」と私の顔を覗き込んできた。彼の問いかけに答えずにフリーズしていたからだろう。脳内で喋りまくっていた私は、まさか心配されるとは思ってもみなくて反省する。

「だ、大丈夫ですすみません!」

「そう。なんで謝るの?」

「それは……ヘンな女だと思われたかと思って」

「ははっ。だからって謝らなくても」

「だって、せっかくマッチングした相手が変人だったら嫌じゃないですかぁ……」

 私は、これまでに出会った数々の変人たちを思い浮かべながら答えた。
 マッチングアプリに生息する民が変人ばかりだというわけではない。しかし自分がこれまでに会った人たちは、あまり人の気持ちが分からないタイプの人が多かった。
 もうすでにユカイから引かれていたらどうしよう……と横目でチラリと彼の顔を見た。キリッとした眉に、大きな瞳が揺れている。やはりモテそうな顔をしているし、私なんかよりも素敵な女性からたくさんアプローチされてきたに違いない。そう思うと心に咲かけた花がしゅんと蕾に戻っていきそうな気がした。

「奏ちゃんは変人じゃないでしょ。なんか急に慌てて謝ったりして可愛いかったし」

 か、かかかかか可愛いですって!?
 それ、出会ったばかりの女の子に言えることなの? 出会ったばかり……もしかして私、ユカイとどこかで出会ったことがあったりして。いやそれはないか。彼のような人に出会っていれば、ときめかないはずがないもの。
なんてまた恥ずかしいことを考えて、耳の先までさーっと熱くなるのを感じた。
 さっきから何をやっているんだろう。彼に魅力的な女の子だと思ってもらわなければいけないのに、一人で盛り上がって空回りして……。これじゃユカイに「一緒にいて楽しい人だ」って思ってもらえないよっ。

「奏ちゃん、深呼吸して」

「え?」

「なんか分かんないけど、心が焦ったときは深く息を吸うと落ち着けるよ。ほら」

 ユカイが私の背中をぽんと押す。
 彼に言われるがままに私は大きく鼻から息を吸い込んだ。
 すると、気づかないうちに心臓がどきどきと不自然に速く動いていたことに気がつく。
 冬の冷たい空気が身体に染み渡ってゆく。鴨川を漂う新鮮で神聖な空気だ。四年前、初めて大学に行き、これからの大学生活に不安を抱いていた私が、鴨川の美しい景色を見て頑張れそうだと気持ちを強くしたのを思い出す。あの時、私の隣には華苗がいた。華苗と一緒に京都の空気はおいしいねと笑い合った。私は、目の前の景色が美しいのづき空気がおいしいのも、華苗がいてくれたからなんだと気づくことができなかった。

「どう? 楽になっただろう?」

 確かに、彼の言う通りだ。
 気持ちが昂っていたり焦っていたりすると、今まで見えていたものが見えなくなる。
 深呼吸をした私は、心臓の音が先ほどよりも静かに落ち着いていくのを感じた。

「はい。あの、ありがとうございます」

「いえいえ」

 そもそもドキドキしていたのはあなたのせいなんですけどねえ、とは言えない。隣を歩く彼は、ごく自然に女の子との会話を盛り上げ、彼女たちの気分をなだめる。こういうスマートな男性に出会ったのは初めてかもしれない。

「それより何かあった?」

「え、なんでですか?」

「だって、さっき思い詰めたような表情してたから」

「それは……」

 華苗のことを考えていたからだ。
 記憶の中に今でも鮮明に残っている華苗の声や話し方、二人で行った思い出の場所について、どうして今こんなにも思い出してしまうのだろう。
 ユカイの質問に答えられないまま、私たちは無言で歩き続けた。待ち合わせの時は明るかった風景も、次第に日が暮れて橙色の光から薄闇に包まれていく。このまま目的地に着けば、いい感じにイルミネーションが煌めく様子を見られるだろう。
 私は、ユカイの息遣いや土を踏みしめる音を聞きながら、ぼんやりと霞む遠くの山を見つめた。華苗、あなたは今どこにいるの。もしかしてあの山の中で息を潜めてる? そんなことあるはずがないのに、どこかに妹がいないかとつい考えてしまう。今日は変な日だ。

「妹のことを思い出してたんです」

 気がつけば口が勝手に、華苗のことを彼に伝えようとしていた。
 彼は「妹?」と当然の疑問を口にする。

「妹って言っても双子なんですけど。半年前に行方不明になってしまって……」

 なぜ、今日会ったばかりの人に華苗の話をしてしまったのか。
 それは、私の隣で今も神妙な面持ちで耳を傾ける彼の心の温もりが伝わったからだった。
 ユカイは私の告白を聞いて、しばらく何も言えない様子で押し黙った。そりゃそうだ。妹が行方不明だなんてかなり重たい話だ。もし私が彼の立場でも、同じように反応に困ってしまうだろう。

「すみません、変な話して。せっかく今日、会えたのに」

「いや……こちらこそ辛いこと聞いてごめん。なんて言えばいいか分かんないけど、とにかく辛かったよね」

「はい……」

 辛かった。この半年間、華苗のいない世界は何もかもが違って見えた。つばきがずっとそばにいてくれなかったら、今頃私はこうして前向きに恋人探しなんてできていなかっただろう。

「はやく見つかるといいね」

 それ以上でもそれ以下でもなく、彼は私が欲しいと思った言葉を差し出してくれた。
 初対面の女に暗い身の上話をされて迷惑だろうに、優しいんだな。

「ありがとうございます」

 余計なことは言わず、ユカイがただ私の話を頷いて聞いてくれたことが嬉しかった。

 

 それから私たちは30分ほど歩き、鴨川をかなり北上していた。出町柳から二俣に分かれる鴨川は、東側が「高野川」に、西側は「賀茂川」に名前が変わる。私たちは西側の賀茂川沿いをずいぶんと歩いていた。しかし、イルミネーションらしい光はまだ見られない。京都府立植物園を通り過ぎ、上賀茂神社のあたりまでたどり着いたとき、ようやく私は「何かがおかしい」ということに気がついた。
 一体どこまで歩くの……?
 このまま歩き続けても山にぶち当たる。川は続いていくが、さすがに山間の道でイルミネーションをやっているとは思えない。

「ユカイさん、イルミネーション、まだでしょうか?」

 気になって彼に問いかけてみた。ひょっとしたらユカイが勘違いしているのかもしれない。やはり鴨川ではなく、京都府立植物園のことだったんだろうか。あそこなら毎年イルミネーションをしているし有名だ。

「……」

 歩き疲れたのか、ユカイは押し黙ったまま何も答えない。私の方もひたすら歩いたせいでそろそろ足が痛くなってきた。ちょっと休憩でも——と彼に提案したそのとき。

「ん……!」

 な、なに!?
 黙って歩いていたユカイの手が、さっと私の首の後ろに回ったかと思うと、そのまま口元に移動する。口に、布のような物を当てられて私はとっさにむぐぐぐと声を上げようとした。しかし思いのほか強い力で押さえつけられて思うように声が出ない。
 何が起こっているの!?
 恐怖で目尻から涙が溢れる。怖い。意味が分からない。ユカイの顔は見えない。でも考えるまでもない、ユカイは私を拘束しようとしている——。
 全身の毛がさーっと逆立ち、震えが止まらない。
 しかし、次第に意識が遠のいてそんな恐怖さえも感じられなくなって。
 助けて、×××———。
 声にならない悲鳴が、闇の中に沈んだ。


「クリスマスイブ、お疲れ」

 カチン、というシャンパングラスを鳴らす音が学の部屋に響き渡る。12月25日の朝、互いにクリスマスイプをぼっちで過ごしたことを労った。朝からお酒を飲むのも憚られるので、シャンパングラスに注がれているのはオレンジジュースだ。アロマの炊かれた学の家で、ウッド調の家具たちが寂しい僕たちを包み込んでくれているようだ。
 もはや毎年の恒例行事となってしまったが、四回生の僕たちにとってこんなことができるのも今年までなのだ。少しくらい感傷に浸ってもいいだろう。

「それにしても、恭太くん」

「なにかな学くん」

「君、ついぞクリスマスに恋人がいなかったね」

「そりゃこっちのセリフでもあるぞ。まったく恋人ができへんかった学には言われとうないわ」

「フン、わいは誰彼構わず人を好きになる人間ではないのでね。『いないときに相手を慕い、その人が自分のそばにいることを欲
してやまぬ場合にのみ恋愛しているのである。』とアリストテレスも言っているよ」

 いつものごとく、哲学に傾注している彼がもっともらしい名言を引っ張り出してきた。
 けれど僕には恋人ができない言い訳にしか聞こえない。彼のことを胡散臭い目で見つめた。

「そんなん言うてばかりやからモテへんのちゃう?」

「君に言われたくないね」

 プイ、と僕らは互いにそっぽを向く。恋愛観について、学とぶつかることも多いけれど、こうしてくだらない論争をしていられるのもあと少しなのか。そう思うと、傾けた顔を少しだけ彼の方へと向き直した。
 学も僕と考えることは同じだったようで、彼と目が合ってしまい、二人して吹き出した。

「もうすぐこんなくだらん話もできひんくなるんやな……」

「なんだかんだ、君と過ごした四年間は自堕落で悠々自適、つまり最高だったよ」

「ええんか悪いんか分からんわっ」

 クリスマスの朝、しっぽりとした空気が二人の間を漂う。冷たいオレンジジュースが全身に浸透するように、感傷的な気分をひたひたにして、酸味が心に染みていく。
 恋人と過ごすクリスマスが叶わなくても、僕はこうして学と二人、うだうだと互いをけなし合う学生生活に充足感を覚えていたのだ。今更気づくなんて、神様も皮肉なことをしてくれるもんだ。
 感傷に浸りつつ、ふと窓を見るとチラチラと雪が降っていた。確か今日の最高気温は三度だった。そりゃ雪ぐらい降るってもんだ。しかしこのわびしい雰囲気にホワイトクリスマスとは、ふふふ、僕も学もかなり強運だなあ。

「恭太、気持ち悪いな。急に笑い出して」

「そお? 雪がきれいやなあって」

 いくつになっても、雪が降ると心が踊る。雪国に生まれていたらそうもいかなかったんだろう。京都はかなりの確率で雪が積もるし、もし積もったら金閣寺の雪化粧でも見に行こうかと計画を立てる。
 学も雪を見ながら何か考えているようだった。案外同じことを思っているかもしれない。一緒に過ごす時間が増えるにつれ、こいつとは思考が似通ってきている気がするし。
 あとでどっか行くか聞いてみるか。
 とオレンジジュースを飲み干し、ぷはっと息を吐いたときだった。

 ピンポーン

 学の家にいるときに滅多に鳴らないチャイムの音がした。

「なに? お客さん? 宅配でも頼んだん?」

「いや、お客さんなんて呼んでないし、何も頼んでないんだが」

 不思議そうに眉を顰める学。彼が頼んだ宅配ではなくて母親か誰かが荷物を送ったのではなかろうか。

「とにかく出てみたら?」

「そうするよ」


 彼が玄関の方へと向かう。僕は彼が段ボールを抱えて戻ってくる姿を予想していた。

「御手洗くんっ」

 しかし予想に反して玄関の方から聞こえてきたのは女の子の声だ。
 って、女の子!?
 学のやつ、僕に内緒でクリスマスの朝に女の子とデートをする約束なんかしやがって!
 けしからんやつだっ。
 突然の展開にもしっかりと腹を立てた僕は、やつの遊び相手を一眼見てやろうと腰を上げた。

「て、三輪さん?」

 玄関先で寒そうに両手を擦り合わせながら学と対峙していたのは、ほかでもない三輪つばきだった。
 そうか。学、結局三輪さんとあることないこと進んでいたのだ! だからこの間も、三輪さんにナナコのことを伝えると名乗り出たのか。
 いや、それにしても変じゃないか?
 三輪さんは昨日、彼氏とデートをしてきたのではないか。その結果がどうであれ、昨日の今日で学と約束なんかするか? ま、まあ男女の約束に「絶対こうあるべき」なんて話はないのだけれど。それによく考えたら、学がクリスマスの朝から好きな女の子を誘えるのか? これは僕の偏見だけど、三年半一緒に過ごしてきたから分かる。やつにはそんな勇気あらへんわ!

「どうしたんだい三輪さん」

 学の一言で、彼女の訪問が彼の意図しないものであることが分かった。となると、彼女はなぜ突然訪ねて来たんだ?
 その疑問を解消すべく、僕は三輪さんの姿をもう一度よく見てみた。白色のダッフルコートにチェック柄のマフラーをしているが、マフラーは乱れて半分解けてしまっている。鼻の頭も耳も真っ赤に染まり、何より目尻に涙が浮かんでいるのが気になった。

「どうしよう御手洗くん。カナが……」

「と、とにかく上がりたまえ」

 これはただごとではない。
 学もそう思ったんだろう。寒さに震える三輪さんを家の中へと案内した。

「お、おはよう」

「安藤くん……」

 挨拶をする余裕すらないという様子の三輪さんは、僕の顔を見てさらに顔をくしゃりと歪めた。わわ、泣かないでくれ! そう言おうとしてももう遅い。すでに彼女は目尻にいっぱい溜めた涙をポタポタとこぼしていた。
 学が三輪さんにハンカチを渡す。ありがとうと言って三輪さんがハンカチを受け取って両目に押し当てた。

「ここ、座って」

 学に促されるがままに、彼女はこくんと頷いてソファに座る。
 いつのまにかキッチンで温かいお茶を淹れて彼女に差し出した学が、三輪さんの前に座った。

「ありがとう……」

「一体どうしたんだい。そんなに慌てて」

 ソファに座りお茶を飲んだことで気持ちが落ち着いたのか、三輪さんは「突然来てごめんなさい」と頭を下げた。

「カナが……カナが家に帰っていないようなの」