偏差値72の僕らが、百点の恋に出会うまで


約束の18時、私は百万遍の交差点まで、つばきを迎えに行った。御手洗くんの家に戻ると、安藤くんが誰かと電話をしていた。おそらく例の彼女だろう。

「初めまして〜三輪つばきです」

「御手洗学です。こっちは安藤恭太。よろしゅう」

「よろしく〜」

 二人はごく自然に挨拶を交わし、たこ焼きを作る準備を始めた。つばきは普段から国際交流サークルでいろんな人と接して来ているから、新しい人間関係を築くのに慣れている様子だ。

「二人は仲良しなの?」

「仲良しっていうか、腐れ縁っていうか」

「恭太はわいの金魚の糞みたいなもんだよ」

「おい、その言い方はヒドない?」

「へぇ〜その様子だと常に一緒にいるってカンジね」

「それだと恋人みたいやから! 勘違いさせるからやめて!」

「ふ、面白い」

 ほえ〜。つばきってば、出会ったばかりなのにこのなじみ様はなんなの? 先に会った私の方が一人ポツンと輪の中からはみ出ている気がする。

「それにしても、なんでカナがここにいるんだっけ」

「それには深いワケがありまして……」

 私は、高校生に追いかけられて怪我をして御手洗くんの家に来るまでの流れをつばきに説明した。

「その高校生ってさ、カナのこと本当は知ってて——」

「あーあー、なんだろ、私の顔に何かついてた!?」

「ちょっとカナ」

 私は、つばきに「これ以上は話さないで」と目で訴えた。つばきは私が元YouTuberで、高校生たちがそのことを知っていたから私を追いかけて来たのだと勘付いたようだ。
 しかしそんな込み入った事情をここで暴露してもらうわけにはいかない。私はもう、YouTube時代の私じゃないのだ。

「そんなことよりたこ焼き焼こうよ! あ、安藤くんの彼女さんはまだ?」

「真奈はバイトが8時までやからその後来るよ」

「そっか〜。はい、じゃあこれプレートに塗って」

 私は安藤くんにプレートに塗る用の油を渡す。何かを取り繕っている私の様子に疑問を抱く様子もなく、彼は油を受け取ってくれた。つばきは私の行動に呆れつつ、生地を作るのを手伝ってくれた。御手洗くんが切ってくれたタコをお皿に用意して、私は一気に生地を流し込んだ。
 関西人じゃない私はたこ焼きを作るのに慣れていないのだが、関西人ぽい安藤くんも、さして得意というわけでもなさそうだ。関西人がたこ焼きをたくさん食べているという偏見について、そろそろ議論する必要があるのかも。
 いい感じに生地が固まるとタコを投入し、くるくると生地を返していく。生地の焼けるいい匂いが部屋の中に充満する。と同時に急速にお腹が減ってきた。他のみんなも同じらしく、「早く食べよう」と御手洗くんが取り皿を用意していた。

「よっし、焼けた!」

 ふんわりと丸く焼き上がったたこ焼きをお皿に盛り付ける。鼻腔をくすぐるこの匂い。たこ焼き自体久しぶりだ。ソースとマヨネーズ、かつお節と青のりをかけるともう店のたこ焼きと寸分違わぬ出来栄えになった。

「うわ、おいひい」

「つばき、ほっぺたにソースついてる」

「そういうカナこそ、青のりが歯についてる」

「ふぇ!?」

「女性陣、楽しそうやね」

「恭太だってずっとニヤついてるじゃん」

「誤解を招くようなこと言いなさんな」

 あっちでもこっちでもどうでもいい会話で盛り上がる。友達と(正確に言えば今日あったばかりの知り合いだが)たわむれるのが久しぶりで、心がほっと和んでいく。
 安藤くんの彼女が来るまでお酒は飲まないでおこうと言っていたのだが、無理だった。ビールやらハイボールやら酎ハイやら、御手洗くんが冷蔵庫から持って来てくれた。それぞれ好きなお酒を飲み、江坂さんが来る頃にはいい感じにほろ酔い状態に陥った。

「江坂真奈です。よろしくお願いします」

 バイト終わりの彼女がやって来ると、安藤くんの表情が一気に緩む。こりゃ、相当惚れてるんだなと誰もが一瞬にして分かってしまう。

「よろしくね」

 初めまして、の私とつばきが交互に自己紹介をした。近くで見ると可愛らしい子だ。やはり、彼女は女子大の学生らしい。「女
の子」感のあるメイクや服装が物語っている。

「真奈〜はいこれ飲んで〜」

「はいはい」

 酔っ払いの安藤くんが、江坂さんにレモンチューハイを手渡した。

「二人はいつから付き合ってるの?」

 お酒に強いつばきは淡々と気になることを聞いていく。

「実は、昨日からなんです」

「へえ、そうなんだ。それで彼はデレデレなのね」

 そりゃ付き合いたてのカップルがラブラブなのは当然だ。それを間近で見せられる私たちはむしろラッキーなのかもしれない。

「ねえ、江坂さんは連絡はまめにしたいタイプ?」

「はい、そうですね。私って返信も早いみたいで、よく友達とかに話すとびっくりされます」

「おお、そうなんだ。あたしもさー、すぐに返事しちゃうから最初彼氏からは驚かれたよ。今はなんともないけどね」

「同じですねっ」

 男性陣には聞こえないくらいのボリュームで、いわゆる「ガールズトーク」で盛り上がる二人。うぬぬ、これは私が入る隙がない……。

「ちなみに、安藤くんのどこが好きなの?」

「うーん、モテなさそうなとこ?」

「え、そうなの!?」

 彼女の衝撃発言が耳に入ってきたのか、酔っていた安藤くんがものすごい勢いで江坂さんの顔を覗き込んだ。

「冗談だよ。でも、前の彼氏に浮気されちゃったのもあって、女遊びが好きそうな人が苦手なのは本当だよ」

「ほほう。ということは、恭太が女慣れしてなさそうだからってのもあるんだ。まったくその通りだなあ」

「ちょ、そりゃあまりに失礼じゃありません?」

「いやでも事実だし」

「くそぅ……」

 悔しがる安藤くんの姿に、どっと笑いが湧いた。確かに、素直すぎる安藤くんの性格だと女の子にはモテないのかもしれない。しかし、怪我していた私の手当てをしようとしてくれたところなんかは、優しい人だと思った。
 安藤くんのモテないエピソードを中心に、その後のタコパも盛り上がった。彼氏の冴えない話を聞いてもふわふわと笑っているだけの江坂さんはあっぱれとしか言いようがない。私だったら聞いていられず別の話題を振ってしまうだろう。
 楽しい時間はあっという間で、気がつけば午後10時を回っていた。

「そろそろお開きにする?」

「せやな」

「あ、ちょっと待って」

 後片付けでも始めようとしたところで、御手洗くんが甚平の袖口をまさぐった。なんだなんだと見つめていると、袖口からスマホを取り出して耳に押し当てた。

「ちょっとごめん」

 みんなにそう断りを入れて、彼は隅っこの方で誰かと電話を始めた。御手洗くんが電話中なので私たちも大きい音を立てるわけにもいかず、自然とその場は一時静まり返る。
 電話はすぐに終わったらしく、御手洗くんは「いやーまいったな」と頭を掻いて戻って来た。

「どないしたん?」

「なんか、明日妹がうちに来るみたいで」

「ああ、例の妹さんか」

「そうそう。あいつ、わいの生活に口出ししまくるからなあ。面倒なことになった」

「御手洗くん、妹さんがいるんだ」

 江坂さんが彼に問う。妹、という響きに、私の心臓がどくんと一回跳ねた。

「うん。年子だから妹というより後輩みたいなもんだけど」

「そっか。でもいいよね。兄妹って羨ましい。私は一人っ子だから」

 つばきがちらりと私の方を見た。何を言いたいのか、私には分かる。だけどこの明るい空気感の中で、私の抱えているものをぶちまけるのは場違いだ。私はつばきに気づかれないように、ゴクンと唾を飲み込んだ。
 しかしその不自然なほど緊迫した私とつばきの無言のやりとりは、この家の家主にははっきりとした違和感として映ったらしい。

「二人とも、どうかした?」

 御手洗くんが私の方をじっと見て何かあったのかと首を傾げた。その声に、他の二人も反応して「どないしたん」と興味を私たちの方へと向けてきた。
 もう逃げ場はない。
 今後付き合いを続けていくとすればいずれはバレてしまうかもしれない。でもそれ以上に、心の中で疼いているこの大きな不安を、誰かに知って欲しいという気持ちが大きかった。
 私は、大きく深呼吸をして聴衆の方を向く。

「私も妹がいたんだ」

 言ってしまえば、なんだそんなことかと拍子抜けした様子の安藤くんと江坂さん。しかし御手洗くんだけは、私の台詞のおかしさに気づいたようだった。

「いる、じゃなくて、いた(・・)?」

「そうなの。込み入った話になるんだけど……」

 つばきの真剣な表情が私の胸に突き刺さる。続きを話そう。つばき以外、誰も知らない私の妹の話を。

「今年の6月にね、私の双子の妹——華苗(かなえ)っていうんだけど……失踪しちゃったの」
 西條さんの口から「失踪」という言葉を聞いて、僕は思わず息を呑んだ。
 ニュースや小説の中でしかそんな言葉は耳にしたことがない。失踪、つまり行方不明ということか。
 西條さんの表情は強張り、僕もつられて頬がヒリヒリと突っ張るような感じがした。気のせいかもしれないけど、それぐらいの緊迫感が彼女を纏っていた。

「確かあの日は妹と一緒に買い物に出かけるところだったの。電車に乗る前に妹が『忘れ物したからちょっと待ってて』って家に戻って行って。それっきり、妹は私の前に現れなかった」

 事情を知っているらしい三輪さんが眉をしかめる。彼女の話を聞いた僕は、なんとなく違和感を覚えずにはいられなかった。

「手がかりとかないん? いろいろと話が飛んでる気がするんやけど……」

 たぶん、真奈も学も同じことを思っていたんだろう。僕の疑問にうんと頷いている。

「それが……私、実はよく覚えていなくて」

「覚えてへんって?」

「その日の記憶が曖昧なの。それ以外にも、なんだか記憶が飛ぶことが多くて。あんまり深く考えると頭がくらくらしてきて……」

 うう、と彼女は自分の頭を抑えた。

「カナ、もういいよ」

 三輪さんが西條さんの肩を支える。

「無理に思い出そうとしなくてもいいよ。警察からの話はあたしが聞いてるし。まだ何も手がかりがないんだって言ってたわ」

「……ごめん」

 これは最初に西條さんが言ったとおり、かなり「込み入った」話だ。今日会ったばかりの僕たちが聞いても良かったのかと心配になる。

「いや、こちらこそごめんなさい。空気重くして。妹が早く戻って来たくなるように、私も前を向いて生きなきゃーって思ってた
とこなんだ」

「そっか。無理は禁物だよ」

「ありがとう」

 西條さんは胸に手を当てて少し乱れた呼吸を整えていた。彼女は胸の内を話すことで自分を保とうとしたのかもしれない。僕だ
ってずっと恋人が欲しいという気持ちを学に話すことで、叶わない思いを昇華させてきた。それと何ら変わらないのではないか。
 西條さんが少し落ち着いたところで、三輪さんが「あたしたちそろそろ帰るね」と彼女の手を引いた。僕たちもそろそろお暇しようと思っていたところだったのでちょうどいい。

「じゃあ、また。今日はありがとう」

「こちらこそ。突然押しかけてごめんね。楽しかったわ」

 三輪さんと西條さんが先に玄関から出て行った。家に帰って、西條さんの気持ちが落ち着きますように。

「僕たちも帰るわ。学ありがとな」

「いつものことさ。気をつけて帰って。江坂さんも、また」

「はい。お邪魔しました」

 盛り上がっていたたこ焼きパーティの終わりはしんみりとした夜風に吹かれ、秋の深まりを感じさせた。
 それから一ヶ月が経ち、辺りの木がすっかり紅葉し、連日観光客が京都に押し寄せる季節がやって来た。京都の秋は短い。つい先日始まったばかりだと思っていたのに、もう冬用のコートを着なければ寒い時期になった。

「学、今年のNFはどうするん?」

 一日だけの短期バイトを終えた僕は学と近所の居酒屋で飲み始めていた。価格が安く、味もそこそこ美味しい焼き鳥屋だ。金なし大学生にはちょうど良いこの店は京大の近くにあるということもあり、店内は暇を持て余した京大生であふれている。
 普段は焼酎なんかを好んで飲む学が、今日はひたすらビールを飲んでいる。何かあったんだろうか。先ほどから頬が上気し、大丈夫かとハラハラさせられている。

「NF? 今さら行かないさ」

 NFというのはNovember Festivalの略で、京都大学の文化祭のことだ。毎年11月の下旬に四日間にわたって行われる伝統ある学生のお祭りらしい。ほとんどの学生は一、二回生の時にクラスやサークルのメンバーとお店を出店する。かくいう僕も、一回生の時にチヂミの店を出して青春っぽい雰囲気を味わった。

 しかしそんな文化祭も、三回生、四回生となれば出席しない人が多くなってくる。その四日間は授業もないため、あえてこの期間に旅行に行くという学生が多い。僕も二回生、三回生のNFには出席しなかった。なんてったって、一緒に行く人がいない。いや、学がいるのだけれど、そうじゃない。文化祭といえば恋人とちゃらちゃらお祭り気分を味わい、彼女に可愛らしいピアスなんかを買ってあげて、お腹いっぱい甘いものやご飯を食べる——そんな妄想が常に頭から離れない僕は、男だけの寂しいお祭りなんぞはなから参加したいと思えなかったのだ。
 だけど、今年は違う。
 僕には真奈という恋人がいる。心に思い描いた文化祭ライフを堂々と送れるじゃあないかっ!
 ……と最近気がついてからというもの、どこかフワフワした感覚に陥っている。おかげで今日の単発バイトでミスしかけた。野外コンサートイベントの案内スタッフをやったのだが、入場者の人数を数えていたところで妄想が止まらなくなった。代わりに人数カウントの手を止めてしまい、上の人に怒られる始末だ。
 とにもかくにも、僕はこの三年半で失われた青春を取り戻そうと、今年はありとあらゆるリア充イベントを堪能するつもりでいた。

「そうか〜学は行かへんのか。残念やなぁ」

「毎年のことなのに今回だけ残念がられるとは、心外だね」

「いや、いつの時代もリア充の自分の目には他人の生活の充実度なんて映らへんのよ」

 枝豆をボリボリむさぼる僕に、ジト目を向けてくる学。たぶん、逆の立場だったら僕は学に本気でキレかかっている。酔っ払いの勢いであたかも僕がモテ男のような発言をして、学はさぞ鬱陶しいと感じているだろう。

「本当はさ、わいも行きたかったんやけど」

 珍しく本音を漏らす学。おお、どうした? 学が文化祭というザ・青春イベントに興味を示すなんて珍しい。

「行ったらええやん。あ、申し訳ないけど僕は真奈と行くから別の人と——」

「それぐらい分かってるわい。だから、別の人を誘ったんだ」

 え、ええ!?
 それは初耳だ。なんでそんな重要なことを黙ってたんだ!

「ちなみに、誰を誘ったん?」

 学にだって僕以外にも友達ぐらいいるだろう。だから誰を誘っていたところで意外でも何でもないのだが。一応気になったので聞いておく。

「三輪つばき」

「……」

 ……うん。前言撤回。
 学が女の子を誘うなんて、天変地異の前触れとしか思えない。

「な、なんでまた。てか、え? 二人はそんなに仲良かったん?」

 一ヶ月前、学の家でタコパをした日に三輪つばきと西條奏に初めて出会った。その日以降、僕はとくに二人と接点はなく、たまに構内で見かけるぐらいだ。それも一、二回程度しかない。

「時々連絡を取っていたのさ。それでふと思いついて誘ってみたんだが」

「ふと思いついて」女の子を誘える学は一体何者なんだ……。というか彼は恋人はつくらない主義ではなかったのか。彼が愛しているのは(彼曰く)哲学の先人たちの言葉と思いだけだと思っていた。
 それにしても、三輪つばきか。ハキハキとしていて京大によくいるタイプの女の子だと思った。学の趣味ってああいう子なんだ。僕は、学が彼女のような強い女の子の尻に敷かれている様を想像してみた。ククク、口が達者な学にはそれぐらいの女の子がちょうど良いかもしれない。少なくとも、真奈みたいなふわふわ系女子だと彼をコントロールできまい。

「なんで断られたん?」

「彼氏と回るから。以上」

「……うぬ」

 学はもうほとんど残っていないビールのジョッキを口に近づけた。そうか、今日いつもよりビールをたくさん飲んで酔っているのはこれのせいか。
 気になる女の子に彼氏がいる——この状況はもうどうしようもない。手を出せば確実に悪者になり、噂が広まりでもすれば今後のリア充ライフへの道が閉ざされてしまうだろう。大学というのは意外と狭い世界である。自分の存在など誰も気に留めていないと思っていても、知らないところで噂されていることもある。自慢じゃないが、経済学部四回生の中じゃ、僕は「モテないけどどうしても恋人が欲しいイカ京」としてみんなの心の中にいる。

「それにしても、学が女の子に興味があるなんて、付き合い四年目にして初めて知ったわ」

「自惚れてたんだ」

「はい?」

「『愛されたいという欲求は、自惚れの最たるものである』——ニーチェの言葉だ」

「ほう。学くんも『愛されたい』と願ったわけだ」

「それが間違いだということにも気づかずになぁ」

「間違いってことはあらへんやろ」

「間違ってたんだよ。彼氏のいる女に声をかけたのが間違い」

「知らへんかったならしゃーない」

「……」

 学の顔を見ると、耳まで真っ赤だ。おいおい、今日の学どうしたんだ。普段はいけしゃあしゃあと僕に恋愛成就のアドバイスをしている彼も、自分のことになるとこれほど弱々しく映るのものか……。
 僕は無言でテーブルに身を乗り出し、彼の肩をポンと叩いた。

「残念やったな。今日のところは僕の奢りで——と言いたいところやけど、学、今日飲み過ぎや。さすがに奢りはなしで」

「君って人は、生真面目すぎるんだよ。女の子にモテないだろ?」

「そやな。でも彼女はおるで」

 傷口に塩を塗りたくられた学は口を三角にとんがらせて僕のことを睨みつけていた。
 
 翌日、NF一日目がやって来た。僕はお昼前に待ち合わせをしている真奈に確認の連絡を取ろうとスマホを開く。LINEの通知が一件あったので、彼女からの連絡だろうとLINEを開いたが、連絡は学からだった。

『旅に出ます。探さないでください。学』

「なんじゃこりゃ」

 哲学好きにしては陳腐な台詞を送ってくるやつだなぁ。
 旅と言ってもNFの期間に旅行に行って来るということだろう。昨日の今日だし、傷心旅行に違いない。まあ、学の心の傷が一刻も早く治ることを祈ろう。
 僕は学からのメッセージにあえて返信をせず、真奈に待ち合わせ時間の確認をした。すぐさま「おっけー」と返事が来た。相変わらず返信が早すぎる。
 彼女との待ち合わせの時間までに服装と髪型を整える。NFには毎年多くのお客さんがやってくる。大学構内でのデート中に知り合いに会う確率はかなり高い。みっともない格好でデートしているところを見られたら最悪だ。

「これでええか」

 結局適当なセーターにコーデュロイのパンツという無難な服装に落ち着いた。ニット帽でもかぶって行こうかと一瞬迷ったがやめておく。帽子やアクセサリーはお洒落上級者じゃなければ着こなせない気がする。あくまで個人的見解だが。
 あ、そうだ。夕方以降寒くなるらしいからコートを持って行こう! 彼女が寒がった時にさっと着せてあげるんだ。これぞ「スマートな男」。真奈の喜ぶ顔が目に浮かぶ。妄想だけで心が溶けてしまいそうだ。
 とまあ、冗談はさておき、そろそろ待ち合わせの時間だし出かけるとするか。

「恭太くん、お待たせ」

「ああ、待ってへんよ」

 京阪電車の出町柳駅、真奈がスタスタと僕の方まで近づいてきた。ショートパンツに黒のロングブーツ、上はブラウンのポンチョを羽織りベレー帽までかぶっている。真奈だからこそ似合うゆるっとふわっとした服装に、僕は早くも心を持っていかれそうだった。

 ちなみに交際一ヶ月、真奈は僕のことを「恭太くん」と呼んでいた。「君付け」で彼女から名前を呼ばれることに憧れを抱いていた僕にとって、彼女に名前を呼ばれる度に幸福度が上昇する。単純野郎で申し訳ないな、うへへ。

「行こか」

 真奈には何度か京大に来てもらったことがあるので、慣れた様子で大学までの一本道を歩いた。京大へと向かう人々が普段より格段に多い。大きな文化祭だし、近所の住人がたくさん遊びに来ているのだろう。
 百万遍の本部構内入り口までたどり着き、いざNFの舞台へ。構内に足を踏み入れた途端、多くのお客さんでざわついていた。ほとんどが学生だが、中にはやはり中年のおばちゃんやお年寄りの方まで歩いていた。

「わ、すごいね。やっぱり人が多い」

「そやな。普段家に引きこもってる奴らが集合したらこうなるわな」

「みんな引きこもりなの?」

「そやで。適当に授業をさぼってる連中ばっかやから」

「ふふ」

 まったくもって無責任な発言なのに彼女はおかしそうに笑う。実際、京大生といえども授業への熱意は人それぞれで、平気で授業をサボり大学からフェードアウトする人もたくさんいる。しかしこういうお祭りの時だけはしっかりと顔を出しにくるものだ。今この瞬間にも、一年ぶりに見る顔と何人かすれ違った。
 右も左も学生たちが営む露店で埋め尽くされている。唐揚げ、焼き鳥、スープ、クレープ、おしるこなんかが定番で、長蛇の列ができている店もあった。
 せっかく文化祭に来たのだから、僕たちも何か食べ物を買おうじゃないか。
 と左右に視線を行ったり来たりさせていたが、なかなか決まらんっ。種類が多すぎるし、店の前に人がうようよいて何が何だかさっぱり分からない店もある。

「らっしゃい!」

 僕と真奈が何を買おうか考えあぐねていたところで、威勢の良い声で客引きをしていたイカ焼きの店のお兄さんが、「寄っていかない?」というふうにぎらつくまなざしを僕らに向けてきた。

「どうする? 食べる?」

「うん。お腹も空いたし買おうかな」

 これも何かのご縁だと割り切って、5個入り300円のイカ焼きとついでにビールを買った。彼女はジンジャエール。

「あふっ、おいひい」

 クスノキ前に腰掛けて、僕らはイカ焼きを頬張った。
 あつあつのイカに甘酸っぱい醤油が絡まって絶妙に美味しい。素人が作ったイカ焼きとはいえ、お祭りの露店で食べるのとほとんど変わらない。
 イカ焼きを食べて胃袋にスイッチが入ったのか、真奈が「他のものも食べよう!」とはしゃぎ出す。こういうところは妙に子供っぽくて可愛らしい。
 それから僕たちは唐揚げ、チュロス、はしまき、クレープと甘いも辛いも関係なく食べたいものを買い尽くした。道を歩くだけで様々なお店の学生たちから客引きに合い、あっちこっちをふらふらと歩かされた。僕なんかよりも数倍素直な性格をしている真奈は、「〇〇はどうですか?」と勧誘される度に「美味しそう」だの「わー食べたいです」だの、ほいほいついて行ってしまう。
 おかげで僕の財布はすっからかん——いや、単価が安いのでそんなことはないのだが、気持ち的には大盤振る舞いした気分だった。

「あーお腹いっぱい!」

 ようやく胃袋の活動が終了したのか、大きく伸びをした彼女。僕もほっと一息。財布を鞄の奥底へとしまった。

「何か見に行く?」

「うん、行こう」

 文化祭は何も食べ物だけが売りではない。文化系サークルの人たちはこの日に楽器や歌の発表をしているし、物づくり系サークルは物品販売を行っている。日頃の取り組みの発表の場として文化祭はもってこいの舞台なのだ。
 真奈からGOサインが出たので、僕たちは本部構内を後にし、本部構内のさらに南に位置する吉田南構内へと移動した。
 予想通り、「14時から歌います! byアカペラ部」「初心者歓迎! お抹茶を点ててみませんか? 茶道研究会」「心に響く一枚が見つかる。写真部展示会へいらっしゃい」と、様々な団体が催しの勧誘をしていた。
 思わず目移りがしてしまったが、真奈と話し合って、写真部の展示を見に行くことに。
 展示はキャンパス内にある校舎の一室で行っているようだった。決して綺麗とはいえない校舎だが、お祭り気分で中に入ると不思議と気にならない。普段授業を受けている教室が、展示会場になると非日常感満載になる。

「わ〜猫ちゃんだ」

 写真部の今年の展示のテーマは「猫」らしく、様々な角度から撮影された猫の写真が壁一面に飾られていた。

「猫、好きなん?」

「うん、言ってなかったっけ?」

「初耳」

 聞けば実家で猫を飼っていたそうだ。そりゃ、猫の写真はたまらないだろうな。連れてきて正解だ。

「かわいいねぇ」

 猫撫で声で写真に向かって呟く。そんな君が可愛いよ、なんて思っても照れ臭くて言えない。
 真奈は夢中になって写真に見入ったあと、展示室に待機していた写真部の人と会話をし、気が済んだのかようやく「別のところに行こう」と声をかけてくれた。正直、僕自身そこまで写真に興味はなかったのだが、彼女が喜んでいる姿を見ると来て良かったと思う。
 その後もアカペラ部の発表、陶芸体験、農業交流サークルによる「トマトすくい」なんかを体験して、少し休憩することにした。
 自動販売機で彼女のために温かいココアを買い、その辺の椅子に腰掛けようとしたときだった。

「安藤くんに江坂さん」

 後ろから声をかけられた僕らははっと振り返る。

「西條さん、三輪さん?」

「うん。久しぶり」

「久しぶりやなあ」

 僕と真奈はこちらにやって来た西條奏と三輪つばきに挨拶をした。まともに話すのはあのタコパ以来だから、一ヶ月ぶりだ。

「えーっと、どちら様だっけ……」

 西條さんがなぜか小首を傾げている。あれ、一ヶ月前とはいえ一緒にタコパしたのにもう忘れたんだろうか。
 不思議に思っていると、三輪さんも眉を潜めている。しかし彼女が「安藤くんとその彼女の江坂さんだよ」と耳打ちすると、「あ、ああ」と慌てた様子で「こんにちは」と挨拶してくれた。

「二人も来てたんや。あれ、でも三輪さんって確か彼氏と——」

 と言いかけたところでしまった、と口を噤む。僕が三輪さんのデート事情を知ってるのは昨日学に聞いたからだ。それなのにここで口にしてしまえば、学が僕に余計な個人情報を話したことがバレて気を悪くするのではないか……。

「ああ、御手洗くんね。二人は仲良いものね」

「す、すんません……」

「いいわよ、慣れてるから」

 涼しい顔で答える三輪さん。慣れているというのは、色恋沙汰には噂話がつきものだということだろうか。それなら確かに僕にも身に覚えがある。

「彼、なーんか予定が入っちゃったみたいで。来られなくなったのよ」

「それで補欠役の私と回ってるんだよねえ」

「ごめんって。埋め合わせは今度焼肉でも奢るからさ」

「やった〜。あ、でも焼肉よりお寿司がいい」

「お寿司はこの前食べたじゃない」

「あれ、そうだっけ?」

 本気で不思議そうに首を傾げる西條さん。好きなものを食べたことを忘れるなんて、よほど天然なのかワザとなのか。どうやら今日の西條さんは忘れっぽいらしい。

「お二人はデート? 相変わらず仲良いね」

「まだ熱々の交際一ヶ月目ですから」

 と答えたのは僕ではなく真奈の方だった。そうかと思えば彼女はぐっと僕の右腕に自分の左腕を絡めてきた。
 お、おえ? 急にどうしたんだっ。
 真奈がこんなふうに幸せアピールをするなんて珍しい。基本的には僕の一歩後ろを歩いてくれるタイプの控えめな女の子だからだ。

「それはお熱いことで。江坂さん、幸せそうだね。羨ましい」

 西條さんが真奈の方を見て微笑んでいる。その笑顔を見て、真奈はよりいっそう腕に力を入れてきた。公共の場で突然の密着攻撃を受けた僕は反射的に硬直してしまう。くそ、これだからモテないインキャ男は。彼女からの幸せな攻めに対応しきれていない。むむむ、これから要修行だな……。

「幸せですっ」

 おお、やっぱり真奈のアピールがすごい。そんなに必死にならなくても、見たら分かるってー。

「それはそれは、邪魔して悪かったわね」

 今度は三輪さんがふふふ、と意味ありげに笑った。なんだなんだ、二人して高校生みたいないじり方じゃあないか。
 とはいえ、高校時代にこれほどの幸せないじりを受けたことがなかった僕は、正直悪い気はしない。というより気持ちがいい。ふっふ!

「じゃあ私たちはこれで。おデート、楽しんでね」

「言われなくても楽しいですよぉ」

 今度は両腕で僕の右腕に絡みつく真奈。さ、さすがにそれはやりすぎじゃないですか、真奈さん。
 西條さんと三輪さんが僕らに手を振って去っていく。真奈は二人の背中が見えなくなるまで腕を解こうとしなかった。二人の姿が遠のいて、ようやく彼女が僕から離れる。寂しいような、ほっとしたような感覚に襲われた。
 僕たちは椅子に腰を下ろし、僕は少し冷めてしまったココアを彼女に渡した。

「もうびっくりしたで。こんなところで密着するから」

 非難覚悟で言おう。実のところ、まだ真奈と手を繋いだことがない。学にもまだこの事実は伝えていない。だって、もし彼にこのことが伝わったら鼻で笑われるに決まっているからだ。「フン、恭太くん、君も懲りないねぇ」などと適当な言葉で馬鹿にしてくる学の顔が目に浮かぶ。
 恋人ができても所詮、僕は冴えない京大生のままだということだ……嗚呼。
 真奈の方はたぶん、手ぐらい繋ぎたいはずだ。でもこれまで自分から手を繋いでくることはなかった。あくまで僕が主体的に動き出すのを待っているというふうに。
 しかし今日、ついに彼女の方から行動に出た。不甲斐ない僕に業を煮やしているのかもしれなかった。

「だって、そうでもしないと恭太くん、私と手すら繋いでくれないから」

「……申し訳ございません」

 やはり。まったく予想どおり、彼女は奥手な僕にやきもきしているらしかった。

「いやあ、どうしても知り合いに会うかもと思うと難しくて……」

「うん、分かるよ。だから私からしてあげたの。それに……」

 そこで一旦言葉を切ると、彼女はその先の言葉を紡ぐかどうか迷っている様子だった。上目遣いに僕のことを見つめる。うぐ、そんな目で見つめられたらHPがもたないじゃないか……!

「どうしたん?」

「恭太くんって、あの二人と仲良いの? 大学で会ったりするのかなあって」

 一瞬、彼女の言っていることの意味が分からなかった。僕があの二人とそれほど関わりのないことは、さっきの「久しぶり」という挨拶からすぐに分かることではないのか。
 僕は、潤んだ瞳で僕を見上げる彼女を見つめた。むっと口を閉じて、何か言いたげな表情をしている。

「あのタコパ以来、全然会ってへんよ」

「そっか……それなら良かった」

 良かった?
 僕があの二人と仲良くしたら、真奈に都合が悪いことでもあるんだろうか。いや、ちょっと待て。もしかして真奈は……。

「真奈、きみは二人に嫉妬して……」

「え、そんなことないよっ」

 さっと視線を逸らし、飲みかけのココアを一気に流し込む真奈。そんなに慌てて飲んだら気管にでも入ってまうよ——と言いかけたところで案の定ケホケホとむせた。

「ごめんごめん。変なこと言うて」

「……ううん、私の方こそごめんね」

 なんとなく、二人の間に気まずい空気が流れる。真奈と付き合い出して一ヶ月だが、こんな雰囲気にのまれたのは初めてだ。
 ココアを飲み終えた真奈は、考え事でもしているのかめっきり話さなくなった。今日会ってから今までいい感じでザ・青春的な文化祭デートを楽しんでいたのだが一気に熱が冷めたみたいだ。
 あああああ、余計なこと言ってしもたな……。
 彼女が黙りこくってしまったのは明らかに僕の発言が原因だ。とはいえ一度謝罪したのにさらに詫びなんか入れると、余計に空気が重たくなりそうだ。
 こ、こうなったら。
 僕は、緊張しながら彼女の手をすっと握った。
 初め彼女はビクッと肩を震わせ、僕の行動に目を丸くした。そんな彼女にお構いなしに、僕はより一層手に力を入れる。真奈がきゅっと僕の手を握り返す。おおお、なんて柔らかくてあったかいんだ。と、彼女の手の感触を噛み締める余裕はなかった。だって僕の心臓は、初めての行為に年甲斐もなく激しく脈打っているのだから。

「い、嫌だったら言うて」

「嫌じゃないよ」

 真奈の掌から伝わる温もりは、僕の頭を次第に熱くした。だんだんと手が汗ばんでくる。気持ち悪いと思われてたらどないしよう、と冴えない男は考えてしまう。
 しかし真奈の方は手を繋いだことに満足してくれたのか、唇をきゅっと結び何も言わずに手を握り返してくれていた。それが僕の行為に対する肯定の意だと分かりほっとする。
 これは絶対に誰かに見られたなあ。
 真奈の方は自分が通っている大学ではないので知り合いに会う確率は低いだろう。ホームタウンにいる僕は、あとで要らぬ冷やかしのメッセージが来ないかと内心ヒヤヒヤしていた。
 その後、僕は真奈が気に入ったハンドメイドのピアスを買ってあげた。彼女は控えめに「ありがとう」と笑う。しかし先ほどから明らかに口数が少ない。照れているのかもしれないが、なんとなく別の理由な気もする。男の勘ってやつだ。
 鴨川の方面に夕日が沈み出し、お客さんの数もまばらになってきたところで、僕たちもそろそろ帰ろうという話になった。

「夜ご飯でも食べていく?」

「ごめん、今日バイトがあるの」

「そっか。じゃあご飯は別の日に」

「うん」

 おかしいな。真奈の様子が変だ。明らかに元気がない。

「あのさ、今日僕が何か気に障ることしたかな? そやったら教えてほしい。今後またしないとも限らないし」

 僕がそう言うと、彼女はハッとして僕の方を見た。漆黒の瞳に飲み込まれそうだ。

「いや、恭太くんは何も悪いことなんてないんだけど……」

 真奈は明らかに今の心境を僕に伝えようかどうか迷っているようだった。何度も僕の顔と自分の足元を交互に見る。なんだなんだ。気になるじゃないか。
 そして、ついに意を決したかのように口を開いた。

「私以外の女の子と、あんまり仲良くしないでほしいの」

「え?」

 一瞬、彼女が何を言いたいのか分からなかった。
 仲良くしないでほしい。
 私以外の女の子と。
 意味は分かる。しかし、なぜ急にそんなことを言い出すのだ。考えられるとすればやっぱり。
 僕は彼女に、予想していた言葉を投げ掛けようとした。しかし僕が口を開くよりも先に、彼女が「いや、別にたいしたことじゃないんだけど」と切り出す。

「なんとなくね、恭太くんが他の女の子と仲良くしてるところを見たくないっていうか……」

「な、なるほど」

 ぐるぐると、思考がめぐり彼女の真意を読み取ろうと必死だった。
 しかしどう考えても行き着く答えは一つ。
 彼女は西條さんたちに嫉妬しているのだ……!
 僕はまったくそんな気はないのに、真奈は彼女らに僕をとられるんじゃないかと危惧している? いやいや、でも。だって。僕は日本の大学生の中でもトップを争うほどの「モテない男」だぞ? そんな僕なのに嫉妬なんて。
 嫉妬、というワードが頭の中で渦を巻くにつれ、気分が高揚していくのが分かった。
 まさかこの僕が誰かの嫉妬の対象になるなんて! ああ、人生捨てたもんじゃない。真奈からすれば死活問題なのかもしれないが、僕としてはこれほど有頂天にさせられることはない。

「ごめん、そんなこと言われても迷惑だよね」

 真奈は自分の発言が自分勝手だと承知しているらしく、両手を合わせて「ごめんね」のポーズをとる。その仕草すらなんだか可愛らしくて笑いがこみ上げてきそうだ。

「いやいや、滅相もない! もちろん、他の女の子と仲良くなんかせえへんよ!」

 高笑いしながら僕は彼女に言い切った。

「本当? ありがとうっ」

 安堵と喜びが入り混じった表情で彼女は笑った。これが、女の子から求められる男の気分か。こんなものを世の男性たちはこれまで楽しんでいたのだな。ほんと世の中不公平だ。

「じゃあ、これからは他の女の子との付き合いはなしね。連絡とかもしちゃダメだよ」

「分かった分かった〜任せて」

 いま鏡があったら、鼻の下を長くした自分のアホ面が映ることだろう。
僕は、求められる喜びを噛み締めたまま、出町柳駅で彼女を見送った。夕映の鴨川の景色がどこか懐かしさを感じさせる。鴨川デルタでは今日も頭のおかしい大学生たちが上半身裸で川に飛び込んでいる。浅い川なので飛び込んだとたんドスンと尻餅をついて馬鹿みたいに痛そうだ。それなのにゲラゲラ笑っている男たち。僕はいま、彼らの気持ちが分かる気がした。
今日はいい夢が見られそうだなあ。

駅前に停めていた自転車を回収して、ほろ酔い気分で北白川の自宅へと漕ぎ出した。ビールを一杯飲んでしまったから文字通りほろ酔いだ。どうか警察に捕まりませんように。
しかし、この時の僕はまだ知らなかった。
 これから彼女がとんでもなく変貌していくということを……。

「『恋愛成就の哲学』か……」

 木枯しが落ち葉を舞い上げる11月下旬、本格的に冬が近づいてきて残りの大学生活も数えるほどになってきた。それなのに私の行動は変わっていない。常に心を預けられるパートナーを追い求めている。
 今日も図書館で恋愛力向上に効きそうな本を探しているのだけれど、どれも胡散臭い……。ていうか、本を読んで知識を入れさえすれば恋愛だって成功するに違いない! と息巻いていた自分を責めたい。どの本を読んでも、ムズカシイことばかり書いてある。これならネットで検索した「好きな男の心を掴む! マル秘テクニック7選!」の方がまだ参考になりそうだ。

 まず好きな男がいないからね。

 一番のハードルはそこだ。恋焦がれる相手がいるならば、その相手にアタックする戦略を立てればいいのだが、如何せんその相手がいないのだ。
 そもそもどうやって出会う? というところに立ち返ると、友達の少ない私は結局マッチングアプリに頼らざるを得ない。
 ということで、図書館で本を探しつつ時々スマホを取り出して何某かの男とマッチングしていないかチェックしていた。

「う〜ん、やっぱりピンとくる人がいないんだよね」

 図書館内なので、あくまで静かにそう独りごちる。
 私はそっとスマホをスカートのポケットにしまう。図書館での恋愛本を調べるのはやめだ、やめ。そもそも大学図書館ってお堅い本しか置いてないし、こんなところで恋愛を学ぼうとしていた私が馬鹿だったわ。
 恋愛本を読むのは諦めて、私は図書館に設置してあるパソコンの前に座った。蔵書検索で「失踪」というワードを打ち込む。
 タイトルに「失踪」が入る本がいくつかヒットした。その中のめぼしい本が置いてある棚まで向かい、『失踪宣告』というタイトルの本を手に取った。
 言わずもがな、妹の華苗について何か手がかりがないかを調べるためだ。

「『不在者の生死が不明になってから7年間が満了したときに死亡したものとみなされる……』」

 死亡。
 その言葉を目にした途端、薄寒い感覚に襲われた。華苗がいなくなってからもうすぐ半年が経とうとしている。7年などまだ遠い未来の話だが、はたして妹はそれまでに帰ってくるんだろうか……?
 華苗のことを考えているうちに、頭がぼわわんと重たくなってきた。いつもそうだ。華苗やYouTube時代の自分について思い出そうとすると頭痛がしてそれ以上考えられなくなる。私は、心の病にでもかかってしまったんだろうか。

「華苗ちゃん?」

 後ろから妹の名前を呼ばれて、私は『失踪宣言』から顔を上げて振り返った。そこには、三冊の本を胸に抱えて私をまっすぐに見つめる女の子がいた。さらさらの黒髪にメガネをかけていて、とても真面目そうな子。抱えているのはどの本も法律の本だ。法学部の子だろうか? 

「えっと……」

「あ、忘れちゃった? ほら、一回生の時に一緒にぱんきょーの『法律大全』の授業受けてた常盤(ときわ)です」

「常盤……さん。ひ、久しぶり」

「久しぶり。元気だった?」

「うん。元気」

 私のことを華苗と間違えた常盤さんは、華苗が行方不明だということを知らないのだろう。同級生だけで二千人いるので、ぱんきょーの授業を一緒に受けていた程度の知り合いなら、その場限りの付き合いになっていてもおかしくない。華苗は経済学部だったし、法学部らしい彼女とはほとんど会うこともなかっただろう。

「二回生になってから全然会ってなかったし、どうしてるのかなって時々気になってたの。元気そうなら良かった」

「あ、うん……。常盤さんこそ変わらないようで」

「経済学部だったよね。確か経済学部って卒論書かなくていいんだよね。いいな〜」

「そうだね。ゼミの発表も終わっちゃったし」

 華苗から経済学部のことはよく聞いていたので、それっぽいことを言ってごまかす。

「そっかそっか〜。それじゃもう来年の就職に向けてぱーっと遊ぶだけだね」

 真面目な見た目に似合わず、彼女も卒業論文を書き終えたらぱーっと遊ぶつもりらしい。確かにこの時期の四回生は皆社会人になる前に最後の学生生活を謳歌しようと必死だ。

「常盤さんは卒論なんだね。頑張って」

「ええ、頑張る。ありがとう」

 法律本を抱えたまま彼女は手を振って机と椅子が置いてある学習コーナーへと向かっていった。
 華苗がいなくなってからまだ半年も経っていない。ゼミの活動もまだあっただろうに、経済学部の友達は寂しがっているだろうか。
「……華苗」

 名前を呼べば、「なに、奏」と出てきてくれるかもしれないとふと思ってしまう。華苗は私と違って、いつも朗らかで明るい子だった。どちらかと言えばお絵かきや読書といったインドアな遊びが好きな私とは対照的で、華苗は外で遊ぶことが好きだった。

「奏、一緒に虫取りしようよ」

「えー虫なんか触れないよ」

「大丈夫大丈夫。私が捕まえるから」

「じゃあ行く意味ないじゃない」

「いいから来てって」

 幼い頃から私を外へ連れ出し、明るい世界を教えてくれたのは妹だった。学校の友達も華苗の方が多くて、そのおかげで私も華苗の友達と仲良くなれた。私はクラスに一人、二人仲が良い子がいればいい方だったので、華苗の友達の多さには驚かされる。
 まるで太陽と月のように、私たち姉妹は別の母親から生まれてきたのではないかというぐらい性格が違っていた。

「奏はいいよね。大人っぽくて賢くて羨ましい」

「そんなことないよ。私は華苗の性格が羨ましいって」

 華苗は私のことを「賢い」と言うけれど、華苗だって一緒に京大に合格した。知能的にはほとんど同じなのだ。それなのに、ちょっと本が好きで難しい映画を見るだけで、私のことを「賢い」と思い込んでいる。

「なんで私じゃなくて、華苗なんだろ……」

 言ってはいけない一言を誰にも聞こえないぐらいの声量で呟く。誰からも好かれて周囲を明るくさせる華苗より、日陰で一人息を潜めて暮らしている私の方が、いなくなるにふさわしい人間だったのに、と。
 ダメだ。つい思考が暗い方へと持っていかれる。華苗だって、自分の代わりに私に犠牲になってほしかったなんて思っていないはずなのに。一人でいると、いつもマイナス思考に陥る癖、なんとかしたいなあ。楽しいことを考えなきゃ。
 調べ物が済んだ私は図書館から出るべく手にしていた本を棚に戻した。図書館内ではレポートや卒業論文の執筆に追われている学生たちがこぞって机に座っている。もうレポートを書く必要のない私は場違いのようだ。
 二階から一階に降りてゲートをくぐり、そのまま出口へと向かっていたときだ。

「西條さんやん」

「安藤くん、久しぶり」

「久しぶり? NFで会ったばかりやんか」

「そうだっけ」

 安藤くんが首を傾げる。NF? そうだ、昨日までの四日間、京大最大のお祭りであるNFが行われていた。だけど私、NFで安藤くんと会ったかしら……? そもそもNFに行ったんだっけ……。
 
 頭にほわほわとモヤがかかったようになる。またいつものアレだ。最近記憶が飛んだり曖昧だったりすることが増えてきた。そろそろ病院にでもいかないとやばいのかもしれない。
 メガネをかけた真面目系男子、経済学部四回生の安藤恭太が前方から歩いてきた。

「図書館で調べ物でもしてたん?」

「うん、ちょっとね。安藤くんは? レポートでもあるの?」

「いや、学のレポート手伝わされててさ〜」

「へえ、そうなんだ。御手洗くんって自分でレポート書きそうなのに意外」

「やつは結構不真面目やねん。いま旅に出てるくせして、『レポート書かなきゃいけないから手伝ってくれ』って」

「それで手伝うなんて人がいいのね」

「ちゃうちゃう。今の彼女を紹介したお礼に手伝えって脅迫されてんねん」

「彼女って江坂さんか。御手洗くんの紹介だったんだ」

「そやで」

 得意げに答えたかと思ったその時、彼は急にはっと何かを思い出したかのように固まった。どうしたんだろう?

「そやった。真奈から止められてたんや……」

「止められてるって何を?」

「いやあ、他の女の子とあんまり仲良くしないでほしいって言われてて」

「へ、へえ……」

 なんだかそれってちょっと束縛っぽくないのかな。
と思ったものの、出会って一ヶ月かそこらの人に余計な口出しは良くないと思い、心の中だけにとどめておく。

「女心はムズカシイわ」

「そうだね」

 あくまで当たり障りのない返事しておく。失礼ながら安藤くんは、服装といい話した感じといい、正直モテるタイプではないのだろう。もしかして江坂さんが人生初めての彼女だったりして。でも、今現在幸せならば私なんかよりもずっと前を歩いている。

「江坂さんと今後も上手くいくといいね」

「そやな。ありがとう!」

 じゃあ、と彼は片手を上げて図書館の入館ゲートへと歩いていった。反対に私は出口へと向かう。

「雨……」

 図書館にずっといたため気がつかなかった。しとしととした雨が図書館前の赤煉瓦のタイルに打ちつける。一気に気温が下がったせいか、私はブルッと身震いした。
 あーあ、傘持ってないや。
 天気予報なんて見ていなかった。誰か知り合いが通りかかれば嬉しいけれど、友達の少ない私にそんな偶然は起こらない。
 仕方なくもう一度図書館の中に入ることにした。一階の端の方に勉強用の机が並んでるから、そこで時間潰しでもしよっと。
 手慰みにマッチングアプリでも確認してみるか〜とポケットからスマホを取り出す。一応、背後に人がいないかと振り返ったけど大丈夫そうだ。アプリなんかやってるところを他人に見られるのはまだ抵抗がある。

 一日に何度もアプリを開く癖があるので、新しくマッチングしていることなんて少ないかなーと思いつつ見るのだが、これがなんと予想外にマッチングが成立している。
 世の中にはこんなに恋人に飢えた人間がいるのか。それなのに晩婚化、少子化だなんてなんだか別世界の話みたいだ。

「どれどれ……」

 と周囲に聞こえない程度の声で呟き、マッチングした男性のプロフィールを一つずつ確認していった。

『趣味はサッカー。お酒はビールが大好きです!』

『年上から年下まで割と守備範囲は広いので気軽にお話ししましょう』

『仕事が土日なので、時間が合う社会人の方、学生さんを探しています』

 う〜ん……。
どのプロフィールも似たり寄ったりでピンと来ない。そうなるともう外見で判断するしかなくなるのだが、サングラスをしていたり帽子を深くかぶっていたりする写真の人が多く、外見も分かりにくいっ。本気で恋人を探しているならちゃんと顔を出すのが鉄則でしょう? 
 私自身のプロフィールは少し遠目だがもちろん素顔を晒すようにしている。華苗とのツーショット写真で、華苗の顔にはモザイクをかけたものだ。この写真でマッチング率はかなり高いし、プロフィール写真としては申し分ないのだろう。
 私はさらにマッチングした男性を順番に見ていく。マッチングしたすべての人にメッセージを送らなければならないという仕組みではないので、メッセージでやりとりしたくない場合は申し訳ないがそのまま放置することになる。「ライク」した時は良さそうな人だと思っていても、いざ連絡をとるという段階になると気乗りしない場合も多いのだ。人の心は複雑怪奇。

『上っ面だけのやり取りは苦手です。真面目に恋愛できる人を探しています。』

「この人、マッチングしてくれたんだ」

 連絡を取ろうか迷っている男性が多いなか、私の目を引いたのは恋愛に対し、率直な意見を持っている男性だった。ツンツン
の黒髪に黒いジャケットを羽織った24歳の男の人なのだが、前回見た時より一枚写真が増えている。昔の写真なのか最新の写真なのか分からないが、髪の毛が立っていなくて優しそうに微笑んでいる。心なしか、新たな写真は他の写真とは顔も違って見えた。目尻に皺が寄っていて、穏やかそうな顔に見える。写真を加工しているのだろうか。ツンツン頭の写真は格好つけだったのか。私には新しい写真の方が魅力的に見えた。

 名前を見ると「ユカイ」と書いてある。ユカイって珍しい名前だな。そもそもこれはニックネームで本名ではない可能性もあるのだし、珍しい名前だとしても不思議ではないか。

 私は散々迷ったあと、ユカイと連絡をとることにした。まずはメッセージだけでどんな人なのかを知れたらいいな、ぐらいの軽い気持ちだった。やりとりをしたからといって、必ずしも会わなければならないということはない。お互いが会ってもいいなと思ったところでそういう話をすればいいのだ。

『はじめまして。奏といいます。よろしくお願いします』

 無難な挨拶を送り、少し待っても返信が来ないことを確認すると私はスマホをポケットにしまった。ふう、とひと息ついて席を立つ。アプリに夢中になっているうちに一時間も時間が過ぎてしまったようだ。そろそろ雨も上がったかもしれないと思い、再び出口へと向かう。

 予想通り、雨はすっかり上がり晴れ間が見えていた。にわか雨だったようだ。よく見れば小さな虹がかかっている。
 今日はこの後つばきと夜ご飯を食べることになっている。出町柳駅付近のカフェで待ち合わせをしているので、サドルの濡れた自転車に跨がり目的のカフェに向かった。
「お待たせ〜」

 カフェにたどり着くとつばきはすでに席に座っていた。ランチからディナーまで揃うこの店は、一回生の頃からの御用達だ。価格もそれほど高くないので大学生の私たちでも入りやすかった。

「お疲れ。何食べる?」

「ちょっと待って」

 何事もテキパキとこなすつばきは余計な雑談もせずにメニュー表を私の前に広げた。私は、メニュー表を開かなくても大抵のメニューは把握していたのだが、念のため新しい料理が出ていないか確認する。どうやらメニューは今までと同じらしい。となれば頼む料理は決まっていた。

「ミートドリアにする」

「おけ〜」

 この店のミートドリアはお肉がジューシーで、チーズがたっぷりかかった私好みの味だ。人によっては味が濃すぎるのかもしれないが、私にとってはちょうど良い味付けで何度でも食べたくなる。

「つばきは何にするの?」

「あたしはマルゲリータ」

 つばきは大のピザ好きだ。メニューにピザがあって、他のものを頼むわけないか。

「今日は神谷くんはいいの?」

 つばきの彼氏、神谷真斗は私の知っている限りではかなりつばきに惚れ込んでいて、二人で会う頻度も他のカップルたちに比べるとかなり多いなと感じる。もっとも、当事者たちにとっては自然な頻度かもしれないけれど。

「うーん、そのことなんだけどさあ……」

 つばきはため息をついてお冷やを一口飲む。もともと今日一緒に夜ご飯を食べようと誘ってきたのはつばきの方だった。なるほど、神谷くんについて何か相談があるのだと悟る。

「最近会ってくれないんだよねえ」

「え、珍しい」

「この間のNFだって断られたの知ってるでしょ」

「NF? あれ、そうだっけ」

「また忘れたの?」

「うん。NFに行った記憶がないんだよねえ」

 安藤くんといいつばきといい、私がNFに来ていたと言っている。それなのに私自身にはその記憶がない。最近物忘れがひどいとはいえ、NFに行ったこと自体を忘れるなんて、我ながらどれだけ忘れっぽいんだよとツッコミたくなる。

「まあカナが忘れっぽいのはいいとして、とにかくその日はもともと真斗とNFを回る予定だったのよ。それなのに急に『やっぱり今日は行けない』って連絡が来てさ。だからカナのこと誘ったんじゃない。覚えてないの?」

「そう言われればそうだったような気もする……」

 チカ、チカ、と頭の中でぼんやりとした光が明滅する。NFの日の朝、確かにつばきから連絡を受けた気がするのだ。朝、今日は一日家でゴロゴロするかと意気込んでいたところLINEの通知が鳴った。誰だろうと不思議に思って開いてみると、つばきからメッセージが一件。確か、『真斗に急用ができたらしい。今日一緒にNF回れない?』だった。そうだ、思い出した! 人から聞いた話で記憶が紡がれていくなんて、人体の不思議としか言いようがない。

「とにかくNFもドタキャンされちゃって。その三日前も映画デートしようって約束してたのに大学でやることあるからって断られたのよ。そんなに忙しい人じゃなかったのにここ一ヶ月くらいずっとそんな感じ」

 つばきはまた「はああ」と大きく息を吐き、今度は頬杖をついた。つばきの声にいつものハリがない。彼女に元気がないなんて珍し過ぎて、神谷真斗との一件がかなり深刻なものであることを物語っている。