彼は百万遍の交差点を北へと進んでいった。「元田中(もとたなか)」と呼ばれる地域だ。この辺りは京大生の下宿先として人気のエリアで、つばきも元田中に住んでいる。
 彼の言う通り、友達の家は交差点のすぐ近くにあった。この距離であれば、寝坊しがちな一限の授業にもすっと出席できそう。そういう私は出町柳駅近くに住んでおり、まあそこから大学へもたかが知れた距離だが、何度も一限をブッチしてしまった経験がある……。
 安藤くんは、勝手知ったる様子で友達のマンションへずけずけと入っていく。

「学、いるー?」

「いるに決まってるじゃないか。君が訪ねてくるっていうのに」

「ちゃんと覚えてくれてて良かった」

「わいがいつ君との約束を忘れたって言うんだ——て、誰だそちらの人は」

 学、と呼ばれた男の子は安藤くんの後ろに待機している私の存在にようやく気づいたらしく、目を細めてぐっと顔を近づけてきた。

「は、初めまして。文学部四回生の西條奏です。ちょっと訳があって安藤くんに連れられて来ましたー……」

 私が自己紹介をした途端、「ほう」と唸り、彼はジト目で安藤くんの方を睨んだ。

「ち、ちがうよ。これはその、浮ついたアレではなくってやな」

「アレじゃなかったら何なんだい?」

「ただの友達? いや、さっき知り合ったばかりだから友達ではないか……そうや、行きずりの人?」

「それ、使い方間違ってると思うよ」

 コントのような二人のやりとりを、私はぽかんとして聞いていた。

「ああごめんね西條さん。怪我してるのに待たせて」

「いや、大丈夫です」

「あれ、怪我してるの? 確かによく見たら擦り傷だらけじゃないか。とにかく手当てしないとな」

 上がって、と学が私に部屋に入るよう促した。二人とも親切だなと素直に感心する。

「お言葉に甘えて、お邪魔しまあす」

 学の部屋はいたるところに観葉植物が置いてあって、家具はダークブラウンの色でまとめられていた。まさに“自然派”ぽい部屋だ。本人は甚平を着ているし、京大によくいる「こだわりの強い人」に間違いない。

「適当に座ってていいよ。あ、紅茶は飲める?」

「は、はい。お構いなく……」

 突然押しかけたにもかかわらず、なんという好待遇だ。安藤くんはというと、何も言わずにソファにどかっと腰を下ろしている。それほど親しい友人同士なんだろう。
学はキッチンの方からティーカップに入れた紅茶を持って来てくれた。私の家にこんなにお洒落なティーカップはない。彼は一体何者なんだ。甚平に洋風のティーカップがこれほど似合う男の子を他に見たことがない。

「ルイボスティー。好きかどうか分からないけれど」

「ありがとうございます」

 なんと。ダージリンでもアールグレイでもなく、ルイボスティーが家に常備してあるなんて、もう上流階級としか思えないっ。

「そういえば申し遅れてたな。わいは御手洗学。恭太とは一回生の頃から付き合いがある」

「御手洗くん。なんだか京都っぽい名前だね」

「ああ、よく言われるよ。下鴨神社に『御手洗祭』があるからだね」

「そうそう。一度行ったことがあるから」

「そうかい。京都に住む学生の特権だよね」

「ええ」

 下鴨神社の『御手洗祭』は毎年夏に開催されている。境内の御手洗池に裸足で入り、お祓いの神様に参拝したあと、神水を飲み身体を清める。夏の風物詩として京都では有名なお祭りだ。御手洗池の水はびっくりするほど冷たくて、心地が良かったのを覚えている。

「それで、怪我はどうして?」

「ああ、これは——」

「バイクに轢かれかけたんよな」

 私が口を開きかけたところで、のんびりとソファでくつろいでいた安藤くんが口を挟んだ。

「そ、そうなんです。恥ずかしい話ですけど」

「それは災難だったね。でも何でそんなことに?」

 私は、先ほど道端で安藤くんに話した内容を御手洗くんにも伝えた。呆れられるかと思ったけど、「大変だったね」の一言で片付けられた。あまり詮索されたくないことだったのでありがたい。

「消毒と絆創膏ぐらいだったらあるけど、それで大丈夫?」

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 御手洗くんは部屋の奥から救急箱を取り出して、消毒液と絆創膏を渡してくれた。初対面の、しかも男の子にそこまでしてもら
えるとは思っておらず、面食らいながら怪我の手当てを済ませた。

「本当に、ありがとうございます。これでもう大丈夫です」

「どういたしまして。いやー恭太が女の子をウチに連れてくるなんて初めてでびっくりしたよ」

「ちょ、余計なこと言わんでええから」

「最近は彼女といちゃついてばかりいたのに、もう別の女の子に乗り換えたのかと」

「人聞きの悪い! 大体僕がこの短期間に彼女を取っ替え引っ替えできるくらいの器があったら、大学生活バラ色やったって」

「確かに。君は時々いいことを言う」

「……別にいいことではない」

 コントのような二人のやりとりを、呆けたように私は聞いていた。何だか、久しぶりに京大生同士の会話を耳にしたような。楽しくなってきてつい笑ってしまった。
 しかし、突然押しかけた初対面の人の家に長居するわけにはいかない。

「あ、私そろそろお暇させてもらいますね」

「え、そうなん? 今からここでタコパしようと思っててんけど」

「タコパ?」

 むろん、タコパ=たこ焼きパーティーというのを知らないわけではない。安藤くんが突然私をたこ焼きパーティーに誘ってきたのが不可解すぎたのだ。

「そ。僕の彼女も後で来るんやけど、良かったら一緒にどう? いいよな、学」

「うむ。わいとしては恭太が彼女といちゃつくのを目の前で見せられるぐらいなら、西條さんにもいてもらった方がいいな」

「おい、余計なこと言うなよ」

 正直、このまま残るかどうかは迷いどころだ。今日出会ったばかりの同級生からたこタコパに誘われて参加するかどうか——たぶん、アンケートを取ったらかなり意見が分かれるところだろう。どうせ同じ大学の友達なんだし、パリピ精神で参加しちゃおうぜ! という人もいれば、いきなりはちょっと……と遠慮する人もいるに違いない。
 うーん、どうしようかなぁ……。
 まあでも、帰ったところでいつものように一人孤食をするだけだし、たまにはこういうのも悪くないか。何より、安藤くんも御手洗くんも悪い人じゃなさそうだから。

「それなら、お言葉に甘えて。あと、もし良かったら友達も呼んでいい?」

「おっけー。賑やかになりそうだ」

 二人の許可が降りると、私はさっそくつばきに電話をした。

『タコパ? どうしたの急に』

「いいじゃん。こういうの、一回生ぶりだし楽しそうじゃない?」

『うーん、まあ確かに。たまには潤いが必要かもね』

「でしょ。じゃあ18時に百万遍まで迎えに行くから」

『分かった。楽しみにしてる』