まだ冬の寒さの残る卒業式。




 私が卒業するのは後2年後だけれども、陽向は今日で思い出が沢山詰まったこの北高校を巣立つ。
 サッカー部だった陽向。たまたま友人の美羽の誘いを受けて見に行った試合で私は陽向に一目惚れをした。




 自由自在にボールを操る姿。ガムシャラにゲームメイクへ向き合う姿。何より、サッカーが好き、楽しい、と全身で表しているような姿に強烈に惹かれた。




 そこから追いかけて追いかけて、やっと振り向いてもらえて彼女になったのに、陽向は高校卒業後、少し離れた土地で一人暮らしを始める。恩師の母校と同じ大学に通う為。
 寂しくないといったら嘘になる。




 だけど、憧れの田仲先生と同じ大学に通って高校の教師を目指したい。いつかはサッカー部の顧問になってサッカーの楽しみを生徒に伝えたい。という明確な夢を持つ陽向を応援したい気持ちも確かにあるのだ。




 つまりは、遠距離恋愛を頑張るしかないじゃない。
 寂しいけれど、覚悟を決めて頑張るしかないじゃないか。




 涙をぐっと堪えて仲間達との別れの挨拶をする陽向を見つめる。
 陽向のサラサラの黒髪。高い身長。三白眼の少しクールそうに見える雰囲気。だけど、笑顔は少し幼くなって可愛いところ。




 その全てが好きだ。




 性格も、私が陽向を好き、大好きと言って押して押して押しまくっていた頃は軽くあしらわれていたけれど、私の本気度が伝わったのと根負けしたのか、付き合うようになってからは私の事をとても大事にしてくれるようになった。




 陽向が初めての彼氏だから比較対象はいないけれども、陽向は優しいと思う。
 付き合ってからも陽向は受験勉強に忙しかったけど、折を見ては私との時間を作ってくれた。




 それは一緒に登下校したり、たまの息抜きのデートだったり。どんな時間だって陽向と一緒だと特別なものに思えた。




 そんな大好きな陽向が私に気付いてこちらにやってくる。



「風花ごめん、お待たせ」

「ううん。陽向、改めて卒業おめでとう」

「ありがとう。手出して?」

「ん?はい」素直に手を差し出すと、陽向は制服の第二ボタンを引きちぎって私の手に乗せた。


「学ランの醍醐味でしょ?」
 といたずらっ子のように笑う陽向に向かって「大好き」と呟き、堪えていた涙を流した。




 *




 涙の陽向の卒業式から2ヶ月。私は高校2年生になった。



 陽向は卒業式の翌日にはマンションに入居し、先日大学の入学式を迎えた。スーツを着た陽向の画像が送られてきた時、かっこ良すぎて画面割れるかと思った。即保存したけれど、どんどん大人っぽくなっていく陽向の姿に若干の寂しさも覚えたな。

 


 大学生になった陽向は何だか忙しそうだ。



 授業もあるし、生活費の足しになるように居酒屋でアルバイトも始めたし、学校の友達とサッカーサークルも立ち上げた。
 慣れない生活の中で頑張っている陽向の邪魔だけはしないようにしなくちゃ。
 陽向はもう大学生なんだから、高校生の時みたいにLINEにすぐ返事がないくらいで落ち込んでちゃダメだ。



 そう自分に言い聞かせた。
 だけど、いつになっても既読にすらならない。返事は忘れた頃にしか返ってこない。




 ねぇ、陽向。陽向の心に私はまだいる?

 ねぇ、陽向。遠距離恋愛頑張るって決めたのに、子どもな私はもう辛くなってきちゃったよ。

 ねぇ、陽向。会いたいよ。




 陽向は、帰省するはずだったGWに帰って来られなくなった。サークル活動で近所の小学校のサッカーコーチをする事になったらしい。
 寂しいけど仕方ないよね。陽向の夢の為だもん。



 そうやって物分かりの良い子のフリをしていたけど、会えなくなった落胆と送ってもなかなか来ない返事に、毎日泣いた。



 私、遠距離恋愛を甘く考えていたのかもしれない。恋愛初心者の私にいきなり遠距離恋愛はハードルが高かったのかもしれない。そんな想いと陽向を好きな気持ちがせめぎあって苦しい。









「そんなに悩んでるならさぁ、いっその事風花から会いに行っちゃえば?」

カフェでアイスコーヒーのブラックをストローで飲みながら、美羽はあっけらかんとそう言った。
大人っぽい美羽はコーヒーをブラックで飲む姿も様になる。

「風花、付き合う前は高村先輩にがんがん攻めてたじゃん?あの時の勢いはどこいったのさ?あの頃の風花、あたし好きだったよ」



目から鱗だ。そうだ、振り向いて欲しくて私は諦めずに何度だって陽向に告白した。陽向の迷惑になるなんて考えずに。
思いついたら即行動。それが私には出来ていたじゃないか。
美羽の言葉にハッとした。



「ありがとう、美羽。なんか目が覚めた。そうだよね、陽向が会いに来られないなら私から会いに行ったら良いんだ。陽向と付き合えて平和ぼけしてたみたい」


「頑張んなよ、肉食風花」


にやりと笑った美羽からの有難いエールを受けて、私は注文したアイスカフェラテを勢いよく飲み干した。




 美羽と別れて家に帰宅した私はお小遣いとお年玉の残りを財布に入れて、陽向の今住んでいる最寄り駅までの時刻表と値段をうんうん唸りながら鼻息荒く計算していた。




そんな時、珍しく陽向の方からメッセージ。




 それは、夏休みは絶対休みをもぎ取って帰省するから、私がかねてから行きたいって言っていた、イルカショーが有名な水族館に行こう。っていうお誘いだった。



「え!嬉しい!」思わず声が出た。




私が会いに行こうとしているのを見透かしたような陽向からのメッセージ。
 良かった。陽向の心の中に私はまだ居るみたいだ。



 陽向が提示してくれた日にちに了承の返事をして、手帳のその日は可愛いシールとか貼ってみたりした。
 早く陽向に会いたい。楽しみだな。








 約束の水族館デートの日。この日の為に買ったワンピースを着用し、少しメイクもして待ち合わせ場所の駅に向かった。
 




 だけどこの日、陽向は待ち合わせ場所に来なかった。何時間待っても現れない、何度電話しても繋がらない。
 まさか事故にでも遇った?!なんて気が気じゃなくて、ひたすら陽向の無事を願った。
 そして待ち合わせの時間から5時間が経った頃、待ちぼうけを食らっている私にやっと陽向から着信があった。




「もしもし?!陽向?無事?」
「ごめん、風花!俺昨日サッカー部の時の連中とオールしちゃって、目覚ましに気付かなくて今起きた。本当にごめん、埋め合わせしたいから日にち変更して欲しい」



 オール。大学生になって陽向が使うようになった言葉だ。



 気付いていたけど、気付かないフリをずっとしていただけかもしれない。
 私と陽向はもう同じ温度で、同じ世界を見ていない。





何度も一緒に登下校した高校と駅までの通学路。
隣に陽向がいて、陽向と並んで歩けるのが嬉しかったな。


図書館で勉強する姿を盗み見した時の陽向の横顔。
私、陽向の横顔も好きだったの。知らなかったでしょ。


初めて手を繋いだ映画館デート。
映画の最中にいきなり手が伸びてくるんだもん、正直それ以降、内容なんて頭に入ってこなかったよ。


夕焼けが包み込む教室でした初キス。
私のファーストキス。ドキドキした。けど、それより歓びの方が大きかった。


大好きなサッカーをする陽向の姿。
私が一目惚れをした、陽向の一番綺麗な笑顔が見れる時。





走馬灯のように流れるきらきらと輝く陽向との思い出達が、急速に色を失っていく。



それはカラー写真が徐々にモノクロ写真へと変わっていくように。
乾ききっていない水彩画に墨汁が垂らされたように。
どんどん黒が広がっていく。





これ以上、綺麗な思い出が色褪せて汚れていくのは嫌だ。





私の頬に自然と涙が一筋伝う。
寒くもないのに、指先がぶるぶると震える。


「いらない」
私の口から、自分で思っているよりも冷たい声色で拒絶の言葉が零れた。


「え?風花?」



 次から次へと溢れ出てくる涙で声が震えないように、必死に唇に力を入れてサヨナラの言葉を発する。



「ごめんね陽向、別れよう。私、もう、辛いや……」



 泣きながら一方的に別れを告げたその日、私達の淡い恋愛は終わった。





 *
 



 泣き腫らした目で美羽に会って、陽向と別れた事を報告した時、美羽は苦しそうに顔を歪めながら私を思いっきり抱き締めて「よく頑張った」って言ってくれた。




 陽向と別れてしばらく経ってから、陽向から頻繁にメッセージがくるようになった。



 内容は『会って話し合いたい』とか『俺はまだ風花が好き』とか、そんな感じの。
 なんて返事して良いのか分からなくて返信してなかったけど、陽向をブロックする気にもまだなれなかった。



 そんな風にのらりくらりと過ごしながら季節は巡り、秋。
 私の17歳の誕生日が近付いてきた。



 そして、陽向からのメッセージ。
『どうしても風花の誕生日を祝いたい。10月の第3日曜日、11時。あの水族館で待ってる。風花が来ても来なくたってずっと待ってる』



 ズルいなぁ陽向。こういう書き方をしたら私が来るって分かってるはずなのに。
 だけど、あの日電話だけで別れを告げたのは私も後悔しているし、ちゃんと前を向く為にも、直接会ってサヨナラをしよう。




 10月の第3日曜日。悲しいくらいに澄み渡った青空。約束の11時から少し遅れて水族館に到着すると、陽向は既に入口で待っていた。



「久しぶり」
私の姿を見つけて、ホッとしたような安心した顔を見せる。



「うん、久しぶり、陽向」
やっぱり生身で見る陽向は高校生の時より随分と大人びている。私の知っている陽向じゃないみたいで変な感じがする。



「今日は来てくれてありがとう。あの日は本当にごめん」
神妙な面持ちで頭を下げられる。



「もういいよ、終わった事だから。それより、最後に楽しもう?ね?」
私が“最後”という言葉を発した時、陽向の目に少しの動揺が見えた気がしたけれど、それにはあえて気付かないふりをした。



「……。分かった。あ、チケットはもう買ってあるんだ。このまま入ろう?」



「ありがとう、チケット代払うね」
私が財布を出そうとしたら、その手を制された。



「チケット代はこの前のお詫びとして受け取って」



「いや、でも」



「お願い。ね?」
 陽向の懇願するような目に負けて、甘える事にした。



「ありがとう。じゃあ、入ろうか」



 最初は少しだけ気まずかった会話も水槽の中を自由自在に動き回る魚や生き物たちを見ていると、段々と弾み出す。



 だけど、目の前に陽向がいるのに、付き合っていた頃のようなときめきは、もう無い。



 うん、私ちゃんと陽向の事を想い出に出来ている。ちゃんと陽向の事を過去に出来ている。
 クラゲがゆらゆらと揺れる水槽を見ながら、私はその事にひどく安心した。



 メインのイルカショーも見たし、そろそろお別れの時間。
 陽向は駅まで送る、と言ってくれたけど、私はそれを断った。



「じゃあ、陽向元気で。夢、絶対叶えてね。後、次の彼女は大事にしてあげてね、なんて。それは余計なおせっかいか。今までありがとう、バイバイ」




 私は陽向に笑顔を向け、そのまま振り返らずにその場を去った。
 陽向、大好きだったよ。だけど、さようなら。




 帰り道に少しだけ雨に打たれた。陽向と付き合っていた時は、陽向のサッカーをしている姿が見られない雨の日は嫌いだったけれど、今は雨も嫌いじゃないと思える。




 まるで私の門出を祝ってくれる祝福の雨みたいだ。




 私は笑顔のままで少し出来た水たまりに飛び込んだ。