この国……コントドーフェ王国の第一王子であるカルケルの身を一時預かることにしたリュンヌだったが、その日に晩には、早々に後悔する羽目になった。
「ねぇ、王子様……」
台所にて、リュンヌは調理台の上を睨む。そこには、プスプスと煙を立て焦げ臭い匂いを放っている鍋が鎮座していた。
「……すまない」
鍋を囲むような形でリュンヌと向かい合っていたカルケルが、沈痛な面持ちで謝罪する。
反省しているのはよく分かるが――それでも、言わずにはいられなかった。
「鍋を火にかけっぱなしにしたら、焦げるって……子供でも知ってるよ?」
「……すまない……本当に、すまない……」
「――まさか、鍋を見ていてっていたら、本当に煮立ってもずっと見ているだけの人がいるなんて……」
「――重ね重ね、申し訳ない……!」
はぁ、と駄目になった今晩の夕ご飯……元は、野菜がたっぷり入ったミルクスープだったものを見つめ、リュンヌはため息をついた。
「……王子様だもんね。料理なんて、知らないよね」
よくよく考えれば、相手は王家の人間。
料理なんて分からないに決まっている。
リュンヌの普通が、相手の普通とは限らないのに、確認もせず放り投げてしまった。
「ごめんなさい。ちゃんと、貴方に聞くべきだったわ」
考えなしだった自分が悪いと、リュンヌは非を認め謝罪した。すると、謝られる方が困ると、カルケルは首を横に振った。
「いいや。君は悪くない。素直に教えを請うことが出来なかった、俺の責任だ」
「違うわ。私よ」
「絶対に違う。俺だ」
「……私だってば」
「断固として、俺に問題があったと主張させてもらう」
二人はしばし、睨み合った。
そして思う。
責任をなすりつけ合うのならば分かるが、なぜ自分のせいだと言い合っているのかと。
「……なんだか……間抜けじゃない? 今の私達……」
「…………ま、まぁ……多少は、そうかもしれないな」
気恥ずかしそうな笑みを浮かべ、二人は笑い合う。
「それじゃあ、お互いが悪いって事で、この話はお終い! 夕飯にしましょう!」
「……だが、今日の食事は、たったいま俺が駄目にしたばかりで……」
「あぁ、大丈夫。ランたんを食べれば」
「……何っ!?」
ぎょっと目を剥いたカルケルに、リュンヌは本に出てくる人の悪い魔女のような笑みを浮かべる。
「にひひひ……ランたん、カボチャだから。食べられるわよ?」
「そ、それはたしかにそうだと思うが。だが……やっぱり駄目だろう? ――あ」
引いていたカルケルの口が何か言いたげにぽっかりと開いた。
「? ――ふぎゃっ!」
なんだろうと確認する暇もなく、後頭部に衝撃が走る。
この痛みは……と振り返れば、案の定ランたんがそこにいた。
「ら、ランたん~!」
カボチャお化けは毛糸の手で、ぺしぺしとリュンヌの体を叩いてくる。
「……君が食べるなんて言うから、怒っているんじゃないか……?」
恐る恐るという風に指摘するカルケルに対して、ランたんは同調するように、カボチャ頭を前後させた。
「冗談に決まってるでしょ! ランたんなんて、美味しくなさそうだもん! ……ぎゃあっ! だから痛いってば!」
言い返せば、黙れと言わんばかりにランたんに再度頭突きされる。
悲鳴を上げるリュンヌとは反対に、カルケルは呆気にとられ魔女と使い魔のやり取りを見ていたが……――やがて、声を上げて笑い始めた。
「ははっ……あはははっ、君たちは、いつもこうなのか?」
「はぁ? ちょっと、何を笑ってるのよ! 貴方だって、ランたんに頭突きされて気絶したんだからね! 後ろ頭、痛いでしょう? この子のせいなんだから!」
「あぁ、そうか。くくっ……あの時は俺も、少し暴走していたから……止めてくれて助かった。感謝する。……えぇと、ランたん……?」
怒るどころか、律儀に礼を言うカルケルに、ランたんは胸に手を当ててお辞儀してみせた。そして、それ見たことかと言わんばかりにリュンヌを振り返り、細い手でペペペペッと叩いてくる。
「なによ、この態度の違い! バカ! バカ! ランたんの、バーカっ! 頭にはカボチャが詰まってるのよ!」
「……それは、まぁ……カボチャだからな」
「もう! 王子様は冷静に突っ込まないでよ、バカ!」
言ってしまってから、リュンヌは青くなって口を押さえた。
かしこまらなくていいとは言われたが、バカはマズイだろうと相手の反応を見る。
すると、カルケルはきょとんとした顔でリュンヌを見つめていたが――やがて、肩の力が抜けたような笑みを浮かべる。
すると、ひらひらと灰が舞い落ちてきた。
「……え? 今のコレって、どういうこと? 怒ったの?」
慌てたリュンヌはカルケルと降る灰を忙しなく見比べる。すると、王子様は照れくさそうに外套についているフードを被ってしまった。
「王子様?」
「……カルケルで、いい」
「え?」
「……これから世話になる身だ。俺のことは、カルケルと呼んで欲しい」
「え? え? ……本当に、いいの?」
「俺に二言は無い」
一世一代の覚悟をしたように頷かれ、リュンヌは「それじゃあ」ともごもご呟いた。
「……これから、そう呼ぶわ」
「ああ。だが、今は呼ばないでくれ」
「へ? なんで?」
「…………今、君に名前を呼ばれたら……外套の効果があれど、ここを灰塗れにする自信がある」
そんな自信はいらないが……――呪いのせいで孤立し、人に飢えていたらしい王子様の声は、本気だった。
「わ、わかった、よばない」
「配慮に感謝する。ぜひとも、明日から頼む。心の準備をしておくから」
「……名前を呼ばれるだけでも心の準備が必要って……本当に大変なのね」
「……いや、普段は名前程度では、さほどの不便はないのだが……」
リュンヌの同情のこもった問いに、カルケルはフードをつんと引っ張り、笑みを浮かべて見せた。
「――多分相手が、君だから……なのだろうな」
「……私?」
不思議な笑みだった。
少なくとも、リュンヌはこんな綺麗な笑顔見たことがない。
ずっと見ていたくなるほど透き通っていて綺麗なのに、ずっと見ていると、なんだか胸の辺りが引っかかれたようにヒリつく……そんな、微笑みだった。
――きん、とぶつかり合ったガラスの靴が高い音を立てる。それで、リュンヌは我に返った。
誤魔化すように咳払いして、鍋は流し台に持って行く。
「塩漬けにした魚があるの。それ、蒸し焼きにするわ。……今日は夕飯なし、なんてことにはならないから、安心して!」
「ぁ……あぁ……。……なぁ」
「なに? お腹すいた? でも、すぐには出来ないわよ?」
「…………俺は、君を何と呼べば良いだろう」
「…………」
「もちろん、君たち魔法を使う存在は、おいそれと自分の名前を明かさないという事は、知っている。けれど、いつまでも君と呼ぶわけにはいかないだろうし……茨の森の魔女……というのも、君の祖母殿の通称だろうから、混乱するだろう?」
よく魔法使い達の理を知っているなと感心すると同時に、リュンヌはそんな事で真剣に悩んでくれるカルケルに、好意を持った。
リュンヌを呼ぶとき、まわりはいつも孫だとか、見習いだとか――両方一緒くたにして、見習い孫だとか呼ぶ。
茨の森の魔女という偉大な存在が師であり祖母であるため、リュンヌを区別するための名称など、その程度で充分だった。
けれど、どの例えをあげてもカルケルは首を縦には振らなかった。
そして、渋い顔で仕方がない、と呟いた。
「……おかしな呼び名を付けて、君の気分を害するのも事だ。……今しばらく、君のことは魔女殿と呼ばせて貰いたいが……問題ないだろうか?」
「かまわないわ。……でも、ほんとうに孫でも見習いとかでもいいのに。みんな、呼ぶんだから」
「君は、俺の呪いを解くために助力してくれる存在だ。出来うる限り、最大限の敬意を払いたい」
「貴方って、本当に真面目なのね。……なんなら、少しくらい気安く、“魔女ちゃん”なんて呼んでもいいわよ?」
それは、リュンヌが戯れのつもりで口にした呼び方だった。
この生真面目な王子様が、そんなふざけた呼び方なんて出来るはずが無いと思っていた。
しかし、ぴたりと全ての動きを止めた王子は、ささっと素早く台所を飛び出していく。
何事かと目で追えば、出入り口から顔だけを出し、消え入りそうな声で一言。
「……魔女、ちゃん……」
同時に、ばさばさばさばさばと凄まじい量の灰が降り積もる音がして、王子はたちまち埋もれて見えなくなった。
「お、王子様! 大変だわ! 掘り起こさないと! しっかり、しっかりして王子様!!」
顔を真っ赤にして自分を「魔女ちゃん」なんて親しげに呼んだ王子。
恥ずかしいならば呼ばなくてもよかったのに。
こんな、大量の灰に自ら埋もれてしまうほどに、恥辱を感じたのならば。
(王子様の前では、変な冗談は控えよう! この人、あたまに超がつく真面目人間だわ……!)
ランたんが、慌てるなと持ってきてくれた杖のおかげで、幸いにもすぐに王子は救出できたのだが、心臓に悪すぎる光景を目の当たりにしたリュンヌは固く心に誓った。
――結局夕食は、さらに遅くなったのだった……。