小鳥のさえずりを聞きながら、リュンヌは茨の森を慣れた足取りで歩いていた。

「……うーん……、軟膏用の薬草は、これくらいあれば足りるし……あとは……」

 手にした籠を覗き込み、難しい顔でうんうん唸りながら道を行く。
 風にたなびいた薄紅色の髪が、つんと木の枝に引っ張られた。

「痛っ……!」

 後ろによろめき、リュンヌは不満の声を上げる。
 なんとか視線を動かせば、細い髪が木の枝に絡まっていた。 

「……うー……とれない……」

 絡まった髪をほどこうとするが、上手くいかない。
 うめき声を上げたリュンヌは、いっその事、切ってしまおうかと小さな鋏を籠から取り出した。

「お困りですか、可愛い魔女殿」
「あっ……」

 リュンヌが鋏を入れるより先に、やんわりと伸びてきた手に押しとどめられる。

 大きな手が、器用に枝に絡まった髪をたちまち解いていくのを、リュンヌは魔法みたいだと見つめる。

「君は目を離すと、本当に何をしでかすか分からないな」

 これでいい、とリュンヌに自由をもたらした救世主は、苦笑を浮かべる。
 ついでとばかりに髪を撫でられたリュンヌは、顔を真っ赤にしてふくれた。

「今のは不可抗力よ……! だいたい、貴方はどうしてこんなところにいるの? 館で書類とにらめっこしてたはずじゃない、ねぇ“茨の森の領主”様?」
「あぁ、気にしていてくれたのか? ――可愛い魔女殿の声がしなくなったから、心配で探し来たんだよ」

 また、負けた。
 リュンヌはツンと、唇を尖らせる。
 そして、気障なことを素面で口にする領主様を見上げた。

「――貴方って、本当に恥ずかしい事を、照れなく言う人よね」
「恥ずかしい事なんて言っていない。俺はただ、思ったことを口にしているだけだ。可愛い魔女殿」
「ほら、また!」
「可愛い君を、可愛いと言って何が悪いんだ。俺は、出会った頃から君を可愛いと思っていたことは知っているだろう? 呪いのせいで自制していた分も、これからは自重せず口に出せる」

 カルケルはもう、魔法の外套を着ていない。けれど、王子らしい煌びやかな装いでもない。
 長袖のシャツの上に、刺繍が施された袖なしのベストを着けただけの格好だ。

 それでも、甘やかに笑う彼はいつだって、一等きらきらして見える。

「……貴方って、本当に王子様だわ」
「ああ。もちろん君限定の、だがな」

 お手をどうぞ。
 そう言って差し出された手に、リュンヌは自分の手を重ねる。

 ――カルケルは、結局自ら王太子の位を退いた。

 呪いが解けたとしても、自分が長らくその責務を放棄していた事実は、変わらない。
 不甲斐ない兄に変わり、立派に責務を勤め上げた弟王子こそ、次の王に相応しい。
 自分は今まで支えて貰った分、これからは臣下として国に尽くしたい。

 そう王に直訴したカルケルは、望みを聞き届けられた。
 そして、主がいなくなり、所有権が王家へと戻った茨の森の、新たな主に任ぜられたのだ。

「……ねぇ、本当によかったの?」
「なにがだ?」
「ここの“領主”になった事よ」

 茨の森を含む、ここら一帯が、カルケルの領地になった。
 近隣の村人は、そんな彼を茨の森の領主様と呼ぶ。
 お城の生活の方が、賑やかで華やかだっただろうに、とリュンヌは思う。
 けれど、カルケルは手放したものを惜しくないと笑う。

「ここには、君がいるからな」
「……まぁ、カルケルが来てくれなかったら、私住むところもなくなってたけど」

 森はあくまで茨の森の魔女の物。
 彼女亡き後は、王家へと返還される。
 リュンヌはあくまでも弟子で、正式な引き継ぎもされていなかったから、所有権はなかったのだ。

 もしかしたら、それを気の毒がったカルケルが、また無理をしているのではないかと案じていたのだが……。

「君は、俺と一緒にいるのが嫌なのか?」
「い、嫌じゃないけど……」
「じゃあ、好きなのか?」
「…………」
「そこで黙らないでくれ。……顔を見ていなければ、嫌なのかと誤解するところだったぞ」

 リュンヌの真っ赤な頬をつついたカルケルは、悪戯っぽく笑った。
 
「……貴方、私をからかって遊んでるでしょう?」
「からかう? まさか。――俺は、誠心誠意、魔女殿に愛を伝えているだけだ」
「っ! そういう所が……!」

 臆面も無く言ってのけたカルケルに引き寄せられて、リュンヌは自然と目を閉じる。
 そうすると、自分の唇に温もりが重なり、胸の中に幸福感が広がるのだから、不思議だ。

「ずるい」
「? 何がだ?」
「……私ばっかり、貴方を好きになっている気がするわ」
「それは心外だな。……俺の方が、絶対に君に夢中だ」
「私よ」
「いいや、こればかりは譲れない。俺だ」

 見つめ合った二人は、こつんと額を合わせて吹き出した。

「……それじゃあ、家に帰ろうか、……リュンヌ」
「うん!」

 魔法使いは、名前を明かさない。
 魔法使いが、誰かに名前を明かすとき。それは、その人に人生を委ねても構わないと思ったときだ。

 ――つまり、人生を共にしたいと思った相手にだけ、魔法使いは真名を明かす。

 リュンヌの名前を呼んだカルケルは、幸福そうに微笑む。きっと、自分も同じような顔をしているのだろうなと、リュンヌは思った。
 
 繋いだ手は、温かい。
 大切な温もりは、二度と手放すまい……そう思ったのはどちらだったのか――絡めた手に力を込め、愛しいものがいるだけで鮮やかに色づく世界の中、二人はもう一度だけキスをした。