女の声。

(この声……!)

 忘れもしない。
 野茨の魔女の声だ。
 彼女が会話の主導権を握りだした時点で、リュンヌはとうとう我慢できなくなり、飛び出した。

「勝手に、私の生き死にを決めないで貰いたいわね!」

 自分だけではなく、ランたんまでもが、もの凄い勢いで飛び出し、野茨の魔女の顔めがけて頭突きした事には驚いたが……。

「魔女殿……!」
「カルケル、助けに来たわよ! もう安心だから!」
「――あぁ」

 本当に安堵したように笑ったカルケルは、リュンヌに手を差し伸べる。

「魔女殿、こっちへ」
「うん!」

 当然のように伸ばされる手。
 そして、当然のように握り返すリュンヌ。カボチャお化けのランたんは、くるくるとまわりながら、やはり定位置であるようにリュンヌのそばに落ち着く。

 そのやり取りを見ていた魔女は、気に入らないとばかりに顔をしかめた。

「――なんなの? 無能な小娘がしゃしゃり出てきて、私に張り合おうとでもいうの?」
「……私は、ばば様の弟子として、貴方を止める義務があるの」

 薄紅色の――自分と同じ髪色をした女を、リュンヌは静かに見据えた。
 いや、違う。自分が、彼女に似たのだ。

(……お母さん……)

 あの日、自分の目の前で奪われた母がいる。手が届く範囲にいるのに、会いたかったと抱きつける距離なのに、違う。

 そこにいるのは姿形を奪っただけの、他人だ。体は間違いなく母でも、中身が違う。

 自分を優しく呼ぶ声は、この声ではなかった。
 皮肉なことに、大好きな両親の声はもう記憶から薄れているのに、両親を奪ったあの声だけは、今でもはっきり覚えていた。

(……お母さんは……)

 むかしむかし……取り戻そうと、茨の森の魔女は幼いリュンヌに言ったが――あれは、支えをなくした幼子のためについた、嘘だったのだろう。

 そんな事だろうとは、もう随分前に理解していたが、実際目にすると、やはり苦しかった。

「ふん! 茨の森に住まう魔女は、最高峰の魔法使いよ! お前のような輩が、弟子を名乗らないでちょうだい!」

 母の姿で、好き勝手する魔女。
 リュンヌが大好きな母の顔で歪んだ表情を浮かべる魔女。
 
(お母さんは、もうどこにもいない)
 
 あくまで理解していただけだった事実が、現実味を持ち始める。
 リュンヌの母は、もうこの世にいない。
 目の前にいるのは、母の体を奪い、母を貶める悪い魔女。

 ならばリュンヌは、茨の森の魔女との約束に従い、止めなければいけない。
 これ以上、母の体で悪事を重ねられる前に。

「ばば様の教えに背いた貴方にだけは、言われたくないわ」

 ことのほか、リュンヌの声は冷たいものになった。
 魔女の眉が、ぴくりと跳ねる。

 痛いところを突かれた動揺ではなく、憎たらしい言葉を聞いたという不快感で。

「私ほど、あの婆に相応しい弟子はいないわ。私ほど、あの人に相応しい家族はいないわ。……それを、お前みたいな無能が家族面なんて、反吐が出る……!」
「反吐が出るのはこっちの方よ。……魔法は、人を幸せするためのものっていうのが、ばば様の教えだったのに……貴方は、何をしてきたの? 悪い魔法は、代償に負う傷も大きいのよ。――もうやめなさい、ばば様は何時だってそう言っていたはず」
「お説教はけっこうよ! ――なんの力も無い小娘は、黙って引き下がりなさい! 身の程知らずにくっついてきた、愛しの王子様の目の前で息絶えろ! 恋で身を滅ぼせばいい!」

 魔女は叫んだ。
 ガラスの靴に自らがかけた呪いを、強制的に発動させるために。

 しかし、リュンヌは首を横に振ると――長いローブをまくって見せた。
 精巧なガラスの靴はなく、白く小さな素足がちょこんと見えている。

「ガラスの靴は、もうないわ」
「……え? そんな、馬鹿な事……! 私の呪いが、お前のような非力な小娘に解けるはず……、そうか! 茨の婆か! あの人が入れ知恵したんだね! そうやって、いつもいつも、私以外を優先して……!」
「違うわ」

 リュンヌは、杖を構える。
 裸足の彼女は、長く秘されていた真実を口にした。

「ばば様は……茨の森の魔女は、もうこの世にいないから」
「――…………?」

 一瞬、全ての時が止まったように、魔女が動きを止めた。
 それから、徐々に強張った笑みを顔に広げる。

「なに、それ? そんな嘘を言って、お前みたいな小娘を遣わせるほど、あの人は私に会いたくないっていうの? ――ふざけないで! あの婆が死ぬわけないでしょう! どこに行ったの! どこに逃げたのよ! 私をこんなに不幸にしておいて! こんなに惨めで悲しい気持ちにさせておいて! ――許せない!」

 がなりたて、魔女は棒立ちのフラムの首に手をかける。

「フラム……!」

 カルケルが叫ぶと負けないほど大きな、けれど焦ったような声で野茨の魔女が叫ぶ。

「動かないでちょうだい! ――そうよ、そうやってあの婆が……母さんが私から逃げ回るなら、もっともっと目立ってやるわ。私を無視できないくらいに……。このお人形は、貰っていってあげるわ! そうすれば、母さんだって目の色変えて追いかけてくるでしょうからね!」
「もう、おいかけっこはお終いよ!」

 フラムを人質にすると宣言し、逃走しようとする魔女に向かって、リュンヌは杖を振るう。

 ぼこん!
 魔女の頭に、こぶりなカボチャが落下した。

「っっ!」

 ぼこ、ぼこん、ぼここん!
 続けて何個も何個も。

「なに、このふざけた魔法は……あっ!」

 魔女はハッとしてリュンヌをにらみつけた。
 
「小賢しい手を!」

 魔女の足下に転がったカボチャ。それが蔓を伸ばし足に絡みついていた。

 己の魔法に自信があり、リュンヌの魔法は取るに足らない。そう思っていた相手だからこそ、油断したのだ。

 リュンヌの必死の魔法は、うまく作用し魔女の動きを封じてくれた。
 そして、仕上げとばかりに伸びた蔓が大きくしなり、野茨の魔女の杖を飛ばす。

「なによ! なんなのよ!こんな下手な魔法! なんで、解けないの! なんで母さんが相手してくれないのよ!」

 心が揺らげば魔法も揺らぐ。
 見下していたリュンヌの魔法からうまく逃げられないと気付いた魔女は、癇癪を起こした。杖を拾うそぶりも見せずわめき散らす。

「なんで! どうして来てくれないの、母さん! もう嫌い! 大嫌いよ、許さない!」
「いい加減にして」

 まるで幼子だ。だからといって同情心がわくはずもない。
 リュンヌは自分をなかの気持ちを抑えるように一度息を吐く。それから、声を荒らげる事なく、静かに告げた。

「貴方、結局何もみてないのね」

 声音に込められた哀れみを感じ取った魔女は、きっとリュンヌを睨む。
 しかし、リュンヌもまた、魔女をにらみ返した。

「逃げるなら、どこへでも逃げればいいわ。そのかわり、カルケルの弟と、その体は返しなさい。私のお母さんなんだから。それから、どこへでも行けばいい。……どうせ、もう誰も追いかけたりしないんだから」
「――何ですって……!?」
「だって、そうでしょう? ……貴方を止めようと一生懸命だったばば様も、わたしのお母さんも、貴方が殺したんじゃない……!」

 意外な事を言われたかのように、魔女は目を見開いた。

「殺し、た?」
「そうよ。だから、貴方を大事に思ってた人はもう、この世に誰もいないのよ」

 そして、リュンヌは今度は大きく息を吸った。

「私は、貴方なんて大嫌い! ばば様の頼みじゃなければ、止めようなんて思わなかった! 貴方が、お母さんの体を使って好き勝手してなければ、直接会う気も起きなかった……! 私はね、貴方なんて大嫌いで、顔を見るのも声を聞くのも嫌なの! だって貴方は、私のお父さんとお母さんを殺した、この世で一番許せない悪人だもの!」
「そんなの……! あの子が悪いんじゃない! 私を裏切って婆の味方して、一人だけ幸せになって! 私は不幸なのに!」

 リュンヌが感じたのは、悔しさだ。
 この人は、この期に及んで自分だけなのだ。
 
「不幸なのは、私達家族や……――理不尽に呪われて、人生をめちゃくちゃにされた、カルケルよ!!」

 ――それでも、善き魔法使いと言われた魔女は“娘”を諦めることができなかった。

「不幸だったのは……貴方に何度裏切られても信じたかった、茨の魔女の方よ」
「母さんが……不幸?」
 
 誰が、彼の魔女を殺したのか。
 これだけ言っても、まだ理解出来ないのか。

 どうして、力ある魔法使いだった育ての親が急激に老いたのか、分からないのか。
 怒りはもちろん大きかったが、悲しみも同じくらい大きかった。