ふぅ、と一息ついて、リュンヌは自分の足にぴたりとはまる、ガラスの靴を見る。
 すると、カルケルもまた釣られるように、リュンヌの足元に視線を向けた。

「このガラスの靴は、呪われてるの。小さい頃、足を入れたせいよ。……成長しても、この靴はいつだって私にぴったり、気持ち悪い事この上ないわ。夜に脱いで眠っても、翌朝目を覚ますと、必ずこの靴を選ぶように、魔法が施されてる。……悔しいけど、すごい魔法使いなの、ばば様の娘は」

 靴同士をぶつけても、ガラスの澄んだ音が聞こえただけで、傷一つつかない。

 ――これだけならば、ただ綺麗な靴だっただろうけれど……。

「カルケル、この呪いの靴はね、もともと貴方を標的にして作られた物だったの」
「……は?」
「王子様と灰かぶり、晴れて結ばれた二人の間に生まれた最初の子のために、野茨の魔女は、この靴を用意したらしいの。……初めての子供が呪われたら、どんな顔をするだろうって。だから、女の子が確実に食いつくよう、形にも凝った。……これ、ばば様が、貴方のお母さんにプレゼントしたガラスの靴と、そっくり同じ形なのよ」

 嫌がらせに労力を惜しまないなんて、本当に迷惑な人よね。
 リュンヌは、苦々しく吐き捨てる。

 ――けれど、王家に生まれた最初の子供を呪うという、大それた企みは、無駄に終わったのだ。

 野茨の魔女は、生まれてくるのは女の子だと思い込んでいたが、実際に二人の間に生まれたのは、男の子だったから。

 剣術に馬術にと忙しい活発な男の子が、ガラスの靴に興味なんて示すはずがない。

 もくろみが外れた野茨の魔女だったが、それで懲りるどころか、諦めなかった。今度は、密やかに呪いをかける事にしたのだ。

 あらゆる者の目をかいくぐり、地中に根を伸ばすように、じっくりと。
 
「復讐なんだって」

 リュンヌは、自分が教えられた事実の中で、一番印象に残っている言葉を口にした。

 自分たち家族を目茶苦茶にした魔女が、復讐のために動いているのだと聞かされたとき、リュンヌは理由が分からなかった。
 あの頃より成長した今でも、それは変わらない。

 賢いカルケルならば、あの魔女の真意を汲み取る事が出来るのだろうかと思ったが、自身を呪った魔女の目的を初めて聞かされた彼は、不可解そうに眉間に皺を寄せ、首をかしげている。

「復讐とは、誰に対してだ?」
「全てよ」
「……は……」

 乾いた声が、カルケルの口から漏れ聞こえる。
 馬鹿げている、と唇だけが音にならず動いた。
 理解出来ないのは、どうやらリュンヌだけでは無かったらしい。

 この復讐は、カルケルにとっても理不尽なものでしかないのだ。

 けれど、茨の森の魔女に拾われ、娘として育てられた存在は、自身の行動を絶対だと思っている。

 その理由は――。

「……ばば様の娘は……、あの悪い魔女は、みんなが自分を裏切ったと思い込んでる。さんざん好き勝手にして生きてきたくせに、自分より優先するものができることは許さないの。――半分が精霊だからなのか、成長しないんだって。体はもちろん……心も」

 人は、年を重ねる。
 力が強い魔法使い達も、外見が年を重ねる速度は緩やかでも、精神は月日を追うごとに少しずつ成長していく。

 けれど、精霊は違う。
 そして、茨の森の魔女が育てた娘も、人間とは違った。

「ばば様は、昔から王家とつながりがあって出入りしてた。修行中の弟子二人も、よく連れて行ったんだって。……そこで、王子……貴方のお父さんに会って――恋をしたみたいなの」

 家出したり嫉妬したり癇癪を起こしたり、とにかく騒動に事欠かないワガママ娘は恋に落ちて一時期大人しくなった。

 素直に師であり母である存在にくっついて、ニコニコ顔で城に出入りした。

 なにも知らない人は、微笑ましいと思うかもしれない。
 けれど、人の感性でいう恋とは、全く違った、異質なものだったのだ。

 野茨の魔女は、一目で王子を“自分の物だ!”と思った。
 そして、義母がこうも頻繁にお城を訪れるのは、自分と王子を結びつけるためだと、勘違いを加速させた。

 それが、自分の独りよがりな思い込みだとは、気付かないまま。 

 結局、王子は野茨の魔女に“信頼する魔女の弟子”以上の興味を示すことはなく、軽んじられたと思った野茨は母に訴え……――勘違いを指摘され、家出した。
 その時、母も王子も彼女を追いかけてきてはくれず、恋は破れた。

 まさか母までと思ったら、つまらない小娘を気にかけている――あとは、嫉妬心のまま行動し、意地悪な継母を作り出した。

 だけど、再び野茨の魔女の思い通りにはならないことが起きた。

 灰かぶりなんて呼び名がぴったりの、つまらない小娘を、かつて恋した王子が選んだのた。

 自分を相手にしなかった男と自分が最も疎んじていた少女。
 二人が結ばれるようにと力を貸したのは、己の母。

 生まれた怒りは、この上なく理不尽だったが、強大だった。

「……舞踏会の後、正体を暴かれた野茨の魔女は、呪いの言葉をまき散らしたけれど、貴方のお母さんには、ばば様の善い魔法がかかっていたから、無駄だった。――そのかわり、ねじ曲がった呪いが、貴方に向かったの。……報いを肩代わりしていたばば様は、全盛期ほどの力がない。だから、それを読み切れなかった。貴方がすくすく育つのをみて安心して、貴方のご両親とそろって、生まれつき体の弱い弟の方が狙われるだろうと予想してた」
「……それは、茨の森の魔女が言っていた事なのか?」

 リュンヌは、こくりと頷いた。

「だから、もしも優しい王子様に何かあれば、お前が助けるんだよって」

 ――忘れていた、大切な記憶。

「……君が?」
「多分、もう滅多な事はないと思ってたから、私にそんな風に言えたんだと思うけど……あの時の私は、王子様に恩を感じていたから、一も二もなく頷いたわ」

 リュンヌは懐かしむように微笑んだ。

「――あの時の恩を、今返させて王子様」

 カルケルが、大きく目を瞠る。

「……君は、まさか、俺を覚えているのか?」
「正確には、さっき思い出したの」
「――…………っ」

 リュンヌの答えに、カルケルは顔を両手で覆って俯いてしまう。

「カルケル……?」
「……すまない。嬉しい気持ちと、申し訳ない気持ちがせめぎ合って、どんな顔をすれば良いのか分からない」
「……うん。貴方の心の葛藤は、この灰から伝わってくるわ」

 はらはらと降ってくる灰を眺め、リュンヌは慣れた風に頷く。

 すまない、すまないと言いながら、カルケルは顔を上げない。

「……呪いが解けてから、俺の方から、きちんと名乗り出るつもりだったのに……」

 台無しだ……と、うめき声が聞こえてきたので、リュンヌは寝台に向かい合う形で椅子に腰掛けているカルケルの背中を撫でた。
  
 とたん、びくりと大げさなまでにカルケルが震える。

「嫌なの?」
「……い、嫌じゃないから、駄目なんだ……!」
「なんで? 嫌じゃないなら、いいじゃない」
「……順序がある。……それに、俺だって、たまには格好を付けたい」

 拗ねたような口ぶりの彼に、リュンヌは声を上げて笑った。

「だめよ。ここでは格好付ける必要ない、最初にそう言ったでしょう? ここでの貴方は、ただのカルケルなんだから」
「――っ」
「……思い出せてよかった、カルケル。――私、ばば様との約束のためだけじゃない。貴方のためにも、頑張るわ」

 呪いを解く事。
 そして、茨の森の魔女の、娘――今はもう、嫉妬に狂ってあらゆる幸福を妬む、悪い魔法使いと化してしまったあの魔女を、止める。
 
 一時は、祖母だった人の、最後の願いだから。
 今再び、同じ時を過ごせるようになった、大事な人の未来がかかっているから。

 二つの理由が、リュンヌにもう一度立ち上がる強さを与えた。

「――こんな、半人前の私だけど……貴方の役に、立ちたいの」
「魔女殿……」
「やっぱり、私だと不安?」

 すると、カルケルはすぐさま首を横に振って否定した。

「まさか! そんな事あるものか。俺は、この先を共にするなら君が良い。君以外は考えられない。……どうか、俺と一緒に歩き続けて欲しい」
「うん! もちろんよ!」

 リュンヌが笑顔で頷くと、灰を降らせた王子は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「今のは……愛の告白のつもりだったのだが……もしかして、通じていなかっただろうか……?」
「え? え……? っ、えぇぇっ!?」

 意味を反すうし、リュンヌは一気に顔を赤くした。

「……そ、それは、もちろん、よ」
「え?」
「……私の答えは、決まっているもの。――いつだって、同じ道を歩くつもりよ」

 照れくさそうに笑えば、カルケルが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。

 呆気にとられていたリュンヌは、そのままガバッと抱きしめられた。

 なんだか灰がバサバサ降ってくるが……まだ、埋まりはすまい。
 カルケルの背中に両手を回すと、リュンヌは目を閉じた。

 重なった二つの鼓動は、同じくらい速く強く、脈打っていて――二人の顔は、幸せに満ちていた。