小さなリュンヌの世界は、怖い物だらけだった。
何に対しても怯え、ぬいぐるみを抱いたまま隅で震えるだけの幼子を一人にしておけないと思ったのか。魔女は、自分の行く先々に、リュンヌを伴うようになった。
あるときは山。あるときは川。あるときは船の上。そしてあるときは――お城。
お城には、仲の良い友達がいるのだと話してくれた。
そしてリュンヌはいやいやお供していたお城で、王子様と出会った。
怖がりだったリュンヌの手を引いて、怖いだけでは無い世界を見せてくれた王子様は、あっと言う間にリュンヌの中で世界一かっこいい存在になっていた。
王子様に恩返しがしたい。
それじゃあ、立派な魔法使いになって役に立とう。
決意したリュンヌを、魔女は孫のように可愛がり時に厳しく接してくれた。
リュンヌも次第に祖母のように慕い始めた。
それもこれも、全部王子様のおかげ。
これからきっと、上手く行く。
そう思った矢先に、リュンヌは灰に埋められた。
自分を潰そうとするかのような灰に、あの怖い女の人が残していったガラスの靴と同じものを感じたリュンヌは――この時、一度は薄れかけた魔法への恐怖心を爆発させた。
目を覚ました後、大好きな王子様のことを忘れた彼女は――初歩中の初歩魔法しか使えなくなっていた。
(……あぁ、そうだった……)
魔法が怖い。
心の奥底に根を張る、この感情。
これこそが、自分が魔法使いになれない原因だと、リュンヌは浮上していく意識の最中で、自覚した。
魔法は怖い。
魔法は、人を傷つける。
――それくらいなら、魔法なんて使えないほうがいい。
幼いリュンヌが、自らにつけた枷。
良いことも悪い事も、全て忘れたリュンヌは、呪いの靴のせいで魔法が使えないのだと思い込み、呪いさえ解ければ自分は素晴らしい魔法使いになれるのだと考えていた。
王子様がお姫様を救い出す――そんな、幼い頃両親に読み聞かせて貰った数々の物語のように、思い思われることで悪いものを退けられると信じていた。
(逃げていたのは、わたしの方だわ)
カルケルに、逃げるのかと言った事。
それはそのままそっくり、自分自身へ向けた言葉だったのだ。
カルケルに自身を重ね見ていたのかも知れない。
諦めない彼に、希望を見いだし、慰められていたのかも知れない。
――自分の世界を広げてくれた王子様が、また自由に外の世界へ飛び出していく姿を、この目で見たかったのかもしれない。
(思い出した。……泣いてばっかりだった私の手を引いてくれたのは……貴方だったんだわ、カルケル)
あの王子様のためなら、自分も……逃げない。
――そう心に決めて目を開けると、心配そうな灰の双眸とぶつかった。
「魔女殿! 気が付いたか!」
「……カルケル」
「よかった……!」
「……ありがとう、カルケル」
繋がれたままの手を見て、リュンヌの口から自然とお礼の言葉がこぼれた。
「いつだって……私が迷ったときに手をひいてくれるのは、貴方なのね……王子様」
「魔女殿?」
リュンヌは寝台で上半身を起こす。
そして、きょろきょろと辺りを見まわした。
「ランたんは?」
「……君の足元だ」
「……あ」
リュンヌが目を覚ましたら、強烈な頭突きでもお見舞いしてきそうだったランたんは、足元で丸くなり動かなくなっていた。
「すまない。さっきまでは、君の足をさすったりして動いていたんだが、急に……」
「……ランたん……、私達を王都からここまで運んだりして、疲れたのかも……」
足の痛みはなくなっている。
ランたんが、なにかしてくれたのだとしたら……リュンヌの正式な使い魔ではないランたんにはかなりの負担がかかったはずだ。
「……靴の色、君が倒れた時は真っ黒だったんだ。ランたんが手でさすっていたら、少しずつ色が薄くなってきて……俺は、君の手を握って呼びかけることくらいしか出来なかったんだが……」
「それでも、帰ってこれたわ。二人のおかげよ」
「……そうか。俺でも、君の役に立てたなら、よかった」
リュンヌは、眠っているランたんに近付いて、そのカボチャ頭を撫でた。
「ありがとうね、ランたん」
反応はなかったが、中の灯がかすかに光った気がした。
そっと、ランたんが普段休むときに使っている籠の中に移動させ、リュンヌは改めてカルケルと向かい合った。
「……それじゃあ、カルケル、話をしましょう。……少しだけ長い、昔話を」
「……」
「私が知っている限りのことを、今から貴方に話すわ。……例えば、貴方の呪いとわたしの呪い……貴方が見てしまった、ガラスの靴にかけられている呪いね。……これは、根本が同じなのよ」
「何だって……?」
リュンヌは一度深呼吸して、きゅっと目尻をつり上げた。
「昔ね、嫉妬に狂った魔女がいたの。彼女は悪い魔法をあちこちで使って、いろんな人を不幸にした。……それが、茨の森の魔女の、たった一人の娘よ」
茨の森の魔女の、最愛唯一の娘。
彼女は、母の字にあやかって、“野茨の魔女”と呼ばれていた。