リュンヌは夢の中にいた。
あの忌々しいガラスの靴ではなく、木のサンダルをはいて、庭先で父と走り回っていた。
『ほーら、捕まえたぞ! じょりじょりの刑だ~』
『きゃー! おひげ、いたーい!』
あごひげを生やした父に頬ずりされ、小さなリュンヌはきゃらきゃらと子供らしい笑い声を上げる。
そんな風にじゃれ合っていた父と娘は、ふわふわと箒に乗って家に向かってくる人物を見て『あっ!』と声を上げ、顔を見合わせた。
『みて、おとーさん! おかーさん、かえってきた!』
『本当だ。ほらリュンヌ、手を振ってごらん』
父に肩車され、リュンヌは満面の笑みで箒に乗った魔女に向かって手を振る。
微笑んだその人は、片手を振り返すと、ひゅんと一気に降りてきた。
『ただいま、二人とも。変わりはない?』
『うん、ないよー』
『ああ、大丈夫だよ。君が心配するようなことは、何もない。それより、君のお師匠様の方はもう良かったのかい?』
『ええ、ひとまず。家出娘を捕まえられたみたいだからね』
ゆるく曲のついた薄紅色の髪をたなびかせた母は、父と軽く抱擁を交わすと、リュンヌに向かって両手を広げた。
『さぁ、お帰りのキスをして、小さな魔女さん? そして、お母さんが留守にしている間、お父さんと、どんな大冒険をしたのか聞かせてちょうだい?』
『うん!』
とびつくと、優しい両手がリュンヌを包み、頭を撫でてくれた。
そして、ひとしきり話を聞くと、リュンヌの頬を挟んで笑顔をくれる。
『貴方は、私達の宝物よ。とっても可愛い、小さな魔女さん』
『うちの魔法使い二人が、世界一だな』
愛おしそうに自分を見下ろし、微笑む両親。
リュンヌが小さい頃の……一番幸せだった頃の夢だ。
――それは、突然ひっくり返る。
その日。
リュンヌは、両親が誕生日にくれたカボチャお化けのぬいぐるみを、母お手製の布袋にいれて背負い、帰路を急いでいた。
手には、色とりどりの花。
今日は、いつもより長いお仕事に出ていたお母さんが帰ってくる日だ。
お父さんは、もうお家について、お母さんのために、ご馳走を作っている。
リュンヌは、お母さんのために綺麗な花を摘んでいこうと、ちょっと寄り道したのだ。
丘の上にある我が家が見えてきたところで、リュンヌは足を止めた。
家の前に、誰かいる。
もしかしてお母さんかも、と一瞬期待に目を輝かせたが、リュンヌに気付いて振り向いたその人は、全く知らない人だった。
その人は、フードを後ろに押しやりながら微笑む。
「こんにちは、お嬢ちゃん。ねぇ、お母さんはまだ帰っていない?」
「……おかあさんの、お友達ですか?」
にっこりと笑った人は、しゃがみ込むとリュンヌに視線を合わせて頬を撫でた。
その爪は、母と違って長く、つやつやとした色が塗られている。
「ええ、ええ、お友達よ。わたしの母が、貴方のお母さんの、魔法の先生なの。わたしたち、一緒に魔法を習った仲なのよ」
そんな大親友に、今日は是非にと頼まれていたものがあるの。
そう言って、母の友達を名乗った女性は、リュンヌの前に一足の靴を置いた。
きらきらと光るそれは……――。
「ガラスの靴よ。女の子を幸せにしてくれる、魔法がかかっているの。……ねぇ、コントドーフェ王国の“灰かぶり”……彼女のお話は知っていて?」
リュンヌは、こくこくと何度も頷いた。
子供向けの絵本にもなっているそのお話を、リュンヌはとても気に入っていたのだ。
自分もいつか、こんな素敵な魔法使いになって、困っている人を助けてあげたいと思っていた。
「それにも出てくるでしょう、ガラスの靴。あれと、おんなじ靴なの。貴方のお母さんがね、可愛い娘に贈り物がしたいっていうから、特別に用意したのよ」
さぁ、はいてみて。
帰ってくるお母さんを、喜ばせてあげましょう?
優しい声が、リュンヌを誘う。
リュンヌがもう少し大きかったら、状況の不自然さに気づけただろう。
客人が来ているにもかかわらず、父が家の外に出てこない、その異常さに気づき、女の手を振り払えたかもしれない。
けれど、リュンヌは幼かった。
お母さんを喜ばせる。
その一言で、幼い少女は木のサンダルを脱ぎ、用意されたガラスの靴をはいた。
ぎゅっと締め付けられるような感触に、尻餅をつく。
その瞬間、にこにこと笑っていた女の人は、指を差して大笑いを始めた。
「あはははははははは! はいちゃった! はいちゃったわねぇ、あなた! ――わたしが、あの女の友達? そんなわけないじゃない! あんな女、わたしを裏切って自分だけ幸せになろうとした、あんな女……!」
「――っ、お、おとうさん……!」
変貌に怯えたリュンヌは、助けを求め父を呼んだ。
すると、女は三日月のように目と口を細め、リュンヌを見下ろした。
「あら、あのつまらない人間のこと? 外見は全然わたしの好みじゃないし、うるさいから、薪に姿を変えて、火にくべてやったわ!」
「……っ、ぉ、おとうさん……! おとうさん、たすけてぇ! おとうさん……おとうさん!!」
「あはははは! 薪は火の中、もっくもく~、煙になってもっくもく~」
意味はわからなかったが、目の前の女の人がとても恐ろしいことを言っている気がして、リュンヌは懸命に父を呼んだ。
優しくて強い父だ、すぐに自分の声を聞いて飛び出してきてくれる。そして、この怖い女の人を追い払ってくれる。
信じてあげた声は、女の笑い声によってかき消される。
「おとうさ……っ、おかあさん……っ、たすけ……」
父は、この女の人になにかされた。
母はいま、家にいない。
じわじわと迫ってくる、得体の知れない恐怖心。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、リュンヌは両親を呼んだ。
鋭い声とともに、二人の間に小さな雷が落ちたのはその直後だった。
「娘から離れなさい!」
怖い顔をした母が、息を切らせて立っていた。
「おかあさん……!」
「あらぁ、はやいのね? 茨の婆は? 置いてきたの?」
「……娘から離れろ、と言ってるの」
「いいわよ、別に。用事はもう、終わったもの」
母の眉が、ぴくりと動いた。
「貴方の宝物に、わたしからの贈り物よ。ねぇ、うれしいでしょう? いつか恋して花開く娘に、ガラスの靴の贈り物!」
満面の笑みを浮かべる女と対照的に、母の顔からは血の気が失せた。
「あ、貴方……!」
「でも丁度良かったわ。この子、頭が弱いのか、せっかく教えてあげても、理解出来ないみたいで。やっぱりこういうのは、あなたに直接教えてあげないとね。――あのむさ苦しい人間、薪に変えて、火にくべてやったわ。う~ん、今取り出せば、体だけなら取り戻せるかもね! もっとも……焼きすぎのパンみたいに黒焦げで、余計見れたものじゃないでしょうけど!」
優しい母は目を見開き、見たことも無いほど恐ろしい形相になり――女に掴みかかった。
「よくもっ!」
「裏切り者へ、当然の報いだわ」
言いながら、女はリュンヌを蹴りつけた。
「あっ!」と叫んだ母の関心が、リュンヌの方へ向く。
その瞬間、女は笑みを浮かべ――リュンヌの母へ向かって杖をふった。
一気に地面を、茨の蔦が這う。
そして蔦は――転がった娘の方へ駆け寄ろうとした母の心臓を、貫いた。
「……ぁ……」
一拍の間のあと、母の口からはかすれた声とともに赤い血がこぼれた。茨に貫かれた胸も同様に、真っ赤に染まっていく。
「お、おかあさん……?」
「……は――やく……にげ――」
あはは、うふふ。
耳を塞ぎたくなるような笑い声が響く。
勝利に酔った、悪辣な笑い声だ。
聞きたくない、見たくないと思うのに、体が動かない。
「おかあさん、いや……いやだ……おきて、おかあさん……! おとうさん、どこ……! おかあさんがっ……! ねぇ、おかあさん、おとうさん……!!」
強く優しく逞しい父。
優しくお淑やかで愛情深い母。
今までたしかにあったはずの幸せが、ぐらぐら揺らいでいく。
リュンヌはがたがた震えて、ただ見ていた。女が、母に近付いて――。
「コレはもう、いらないわ」
自らの体もまた、茨で貫く瞬間を。
「もぉーらったぁ」
不気味に歪んだ顔。
そして、母とは違って血も流さない体。
服か皮のように、ずるりと脱げた、人の姿。
そして現れたのは、とても人間とは思えない、とんがった耳に小さな羽を背中にもった、リュンヌより少しだけ大きい程度の少女。
可愛らしい顔に、いやらしい笑みを刷き、彼女はリュンヌの母の体ごと消えた。
貰った。
その言葉通り、母を連れて行ってしまったのだ。
「か、かえして……! かえしてよぉ! おかあさん、かえして! リュンヌのおとうさんとおかあさん、かえして……!!」
誰もいなくなった虚空に向かって、リュンヌは大声で叫んだ。
「……あぁ、これは……なんてことを……なんてことを……!」
箒に乗った魔女がやって来たのは、その後だった。
白髪の魔女は、リュンヌが何を言わずとも状況を察し、痛ましそうに一人取り残された娘を見下ろした。
「わたしとおいで、小さな魔女ちゃん。一緒に、あの二人を追いかけよう」
憐憫と罪悪感で溢れた魔女の目を、リュンヌはボンヤリ見つめ返す。
うながされるまま、“茨の森の魔女”と名乗った彼女の手を取る。
――その日から、リュンヌの世界は怖いものでいっぱいになった。