「噂は本当のようだね」
 落ち着いた声音に、一季はぎくりとする。
 右手にある教室のドア。
 視線を向ければ廊下に賢木が立っていた。
 想像以上の至近距離に驚くも、身体が思うように動かない。尻餅をついたまま、手足を使って距離をとろうとする。
 ゆっくりとした足取りで教室に入ってくる。
 その視線は崩れた瓦礫に向けられていた。
異端審問官(インクイジター)は、その存在故に最小限の魔術しか扱えないと聞いていたけど……」
 考えを転がすように言葉を紡いで、嘆息する。
 あからさまに肩をすくませた。
「いささか面白みに欠けるな。こうもあっさり引っかかるとは」
 興覚めといった口調で心底、残念がっている。
 そんな芝居がかった言動に一季は不気味さを感じた。
 人の生命を軽く考え、簡単に奪う。
 その神経が理解できない。
 そこで賢木がこちらに向き直った。
 じっと見下ろされ、身構える。いつの間にか距離をとることを忘れた。
「なるほど。君の前世は聖人だったんだね」
「?」
 言葉の意味がわからない。
 一方の賢木は考えるような表情で続けてくる。
「どうして僕たち魔術師は人間の魔力を供給源にしてるかわかるかい?」
 急に話を変えてきた。
 会話を引き延ばすべきか。逃げるべきか。東堂の無事を確かめるべきか。
 どくどくと脈打つ鼓動をおさえながら、考えを巡らせる。賢木の真意を探りながら。
「人の魂は不滅だからさ。輪廻を繰り返し、肉体を変えても、その核は変わらない」
 ぞくりと背筋に悪寒が走った。
 心臓を鷲づかみにされる感覚。呼吸がしづらい。
 嫌な予感がする。
 この続きは聞いてはいけない。本能が告げるも、賢木は爽やかに笑ってみせた。
「とはいっても魔力の高低には個人差がある。通常の魔力より遥かに高い、【魔力超過(イクシーダー)】……君みたいな聖人を前世にもつ特異体質はなかなかお目にかかれない」
 ようやく繋がった。
 自分が狙われていた意味。
 偶然、居合わせた口封じではなかった。
 高い魔力を持つ人間。賢木の目的は、最初から変わっていない。
 ただイレギュラーが現れた。それだけのこと。
 賢木は胸の第二ボタンから伸びる紐を手に取る。ポケットから現れた飾緒の先には赤の宝石が輝いていた。
「怖がらなくいい。この【永久機関(賢者の石)】に取り込まれれば、永遠を生きられるよ」
 恐怖は感じなかった。死ぬ実感がない。
 思考は白紙に塗りつぶされている。身体が動かない。
 そっと近づく賢木を拒絶するように目をつぶった。
 痛みもない。触れられた感触もなかった。
 ドッと何かがぶつかる音と鋭い冷気に、目を開いた。
 眼前には目を瞠る賢木と対峙する男子生徒が屹立していた。思い当たる人物はひとりしかいない。
 周囲には虹の粒子が雪のように降っている。
「えげつない趣味してんじゃねーぞ。メガネ会長」
 東堂の一言で、粒子が弾けた。わずかな光を集めて七色に光る。
 賢木は表情を消して一歩、後方へ下がった。
「東堂!」
 名前を呼んで、一季はぎょっとする。
 横顔の東堂が顔面血まみれだった。メガネもレンズもとっくに割れている。
 青ざめた一季は指をさしたまま、口をパクパクさせた。驚いて声が出てこない。
「頭、血、血が……!」
「落ち着けよ。額をちょっと切っただけだ」
 向き直った東堂は困った表情で告げる。
 まるで一季の反応が大げさだとでも言うように。
 メガネを外し、額から流れる血を制服の腕で拭う。
「前言撤回だ」
 賢木は不思議そうに眉根を寄せた。
「わからないな。君ほどの魔術師がどうして異端審問会に属する?」
 考えごとをするように腕を組む。
 対する東堂は表情を変えない。メガネを放り投げ、もう一度、乱雑に血を拭ったあと詰襟の制服を脱ぐ。
 ついでに一季に向って放り投げる。こちらを振り向きもしない。
 文句も言い出せる雰囲気ではなかった。
 見定めるような瞳で賢木は指をさしてくる。
「前にも言ったけど。君のその魔術、かなり危険性(リスク)が高いんじゃないのかな。構築式を身体に取り込んでいる状態だからいつか必ず反動(リバウンド)がくるよ。いいや、言い方を変えよう。それは実質、寿命を縮めていることに等しい行為だ」
「!」
 驚いて東堂を見る。
 その表情は何も変わっていない。けれど少しだけ揺れた瞳を伏せた。
 肯定のようにも思われる、仕草。
 一季にはわからない。
 どうして、そこまでして戦うことを選ぶのか。
 賢木は笑った。好奇心に動かされる研究者のように。
「それは使命感というやつかい?」
 生命を縮めてまで魔術を行使する理由。
 正義感や責務、義務といった考えからくるものと賢木は推察する。単純な興味から。
 だが、東堂は喉の奥で笑うだけだ。
「そんなご大層なもんじゃない。おまえらにとっては取るに足らないことだ」
 軽い口調で否定する。もっとささいな理由だと。
 東堂は一回だけ大きく息を吸った。
「【永久機関(賢者の石)】を作った魔術師には息子夫婦がいた。十七年前、おまえたちは彼らの口も塞いだと思ったんだろうが、生憎たったひとりの生存者がいたんだ」
 東堂が言っていた十七年前の事件。
 まるで見てきたような口ぶりだった。
 そして、改めて知る生存者の存在。
 それが意味すること。
 同じく察した賢木が驚いたように口を開く。
「まさか。君はッ!」
 自信に満ちた笑みを浮かべながら東堂は指を突きつける。
「そうさ。俺は【永久機関(賢者の石)】を作った日向(ひゅうが)哲史(てつし)の孫だ」
 賢木は茫然としているようだった。
 存在しないものを見たような。
 まるで幽霊でも見るかのような。
 当然かもしれなかった。
 誰が想像できるだろうか。
 殺された母親の胎内で生き延びた、その生命力。
 かすかな偶然が起こした現実を前に賢木の声はかすれていた。
「生きていたのか……あの創造主の末裔が」
「死にきれなかったのさ」
 東堂は軽く告げる。
 まるで他人事のように。
 一季にはその態度が別の意味に思えてきた。
 いつでも軽く淡々と話す東堂の口調は環境の裏返しなのかもしれない。
 あまりにつらい現実を他人の人生のように認識する。
 そう割り切ることで怒りも悲しみも、理不尽さえも飲み込んできた。
 一季はそれを弱いとか卑怯だとは思わなかった。
 真正面から向き合っていたら乗り越えられなかったのかもしれないから。
 賢木は視線をあげた。
 まるで神の奇跡を見たかのように呟く。
「……これも縁なのかもしれないな。【創造主の肉親()】が目の前にいるなんてね」
 ついで手をのばした。
 東堂を誘うように。
「提案だ。僕たちの教会にこないか?」
「!」
 一季は瞠目する。
「亡き祖父の意思を継いでみないかい?」
 賢木の発言が理解できない。
「かつての日向の血筋なら申し分ない。他の十二天使は僕が説得しよう」
 賢木の表情は愉悦に満ちていた。
 思いもかけず、価値あるものを見出したような。真作を発見したような喜びが伝わってくる。
 その言動が不可解だった。
 彼の教会は、東堂の祖父と両親を殺して形見を奪った。そのことに何の贖罪も抱いていない。
 あまつさえ悪びれもせず仲間へと引き入れる。
 一季の認識が間違っているのかと思うほど。
 賢木の提案は常軌を逸している。
 これが魔術師の考え方なのだろうか。
 信じられない世界だ。嫌悪しかない。
 そこで東堂を見る。彼も魔術師だ。
 一季は不安になる。振り向かない彼の返答が怖い。
 もし、賢木の考えに同意することがあったら。
「断る」
 きっぱりとした拒絶。
 即答だった。一季が聞き間違いかと思うほど、はっきりとした声音だった。
「俺は決めたんだ。自分の生まれを知った時、この力を手にした時、自分に誓った。何もかも承知で選んだ」
 淡々と話す言葉とは裏腹に、握られた両の拳は震えていた。
 寒さでもなく、怒りからでもなく。
「おまえたち【黄道十二宮(ゾディアック)】の天使全員を見つけ出し、【永久機関(賢者の石)】を必ずこの手で破壊すると」
 言葉とともにあふれたのは強い決意。
 そうだった。
 東堂はむやみに他者の犠牲を望む人間ではない。今も自分の前に立ち、生命を守ろうとしている。
 途端に恥ずかしくなった。
 東堂の言動には他者を思う心や自分勝手な行いを許さない意思があふれていた。
 それを耳にしていながら一瞬でも疑った自分が情けない。
 一瞬の感情に流されそうになるが、かろうじてこらえる。悔やむのはあとだ。
 まずは、この状況を脱してからだ。
 そう思いなおし、前を向く。
「そうか」
 賢木は小さく呟いた。
「それは残念だ」
 次に肩を落とす。
 一瞬の沈黙。
 賢木と東堂がにらみ合った。直後、双方の足元が爆発する。
 光の輪郭が陣を作り、視界を奪う。
「君は運がない。他の十二天使なら君を祖父と両親のもとへ送ってあげただろう。けど、僕は彼らのように優しくない」
 目をこじあければ、緋色の炎と虹色の粒子が周囲を舞っていた。
 賢木は胸の飾緒をボタンから外す。周囲には炎が燃え盛る。
「この【永久機関(賢者の石)】に取り込むことにしよう。その魔力、永遠に使い続けてあげるよ」
「ほざいてろ」
 穏やかに微笑む賢木。対峙する東堂は吐き捨てた。
 同時に腰を落とす。
 それが合図だった。
 互いに炎と氷をまとわせて高速でぶつかり合う。
 熱気と冷気がまじりあう境目、東堂の拳を賢木が受け流していた。
 やがて賢木が振り払うと氷の粒子が消えた。
 賢木は優雅に笑う。
「それが君の限界だよ。自分の【魔力(オド)】だけじゃ高が知れる。僕は、熾天使と力天使に続いて炎のサインを持っているんだ。相性としては最悪だよ」
 見たかぎりでは、賢木が優勢だ。
 氷の粒子が火の粉に消える。瞬きが鈍い。炎に押されているいるようだった。
「そうだな」
 東堂はあっさりと認めた。
 だが、戦意は失われていない。腰を落として拳を握り直す。
 再び強く踏み込んだ時だった。
「何度、繰り返しても同じだよ!」
 賢木が炎を操って、また攻撃を押さえようとする。
「!」
 炎が消えた。虹の粒子も消えている。
 互いの力を打ち消し合った。相殺したのだ。
 さらに東堂は姿勢を低く保ち、攻撃を避ける。
「だが、おまえの顔面を殴り倒すくらいはできる」
 つまりは賢木の懐に入った。
 虹色の粒子が瞬く。東堂が拳を握りなおした瞬間、爆発した。
「貴様……!」
「とっとと歯、食いしばれ!」
 声を張りあげた東堂が拳を突き出した。
 目を瞠った賢木が防御に徹するも、もう遅い。
 ゴッと鈍い音が響きわたる。
 一季の位置からでは、東堂の背中が死角となって見えない。
 一拍後、賢木がゆっくりと倒れた。
 遠くでカシャンッという音がする。おそらくメガネが落下したのだろう。
 ゆっくり立ちあがった東堂は手をはたいた。
「ったく。始めから終わりまで魔術で片付けようとするからそうなるんだ」
 さきほどのやりとりとはうって変わって力が入っていない。まるで粗大ごみをやっと片付けたような口調だった。
 言葉から察するに、勝敗の分け目はフィジカル面の差かもしれない。
 賢木は優れた魔術師かもしれないが、お世辞にも体格的に恵まれているようには見えなかった。
 身長も平均的。すると、肉体ひとつで戦う東堂とは相性が悪いに違いない。
 一季はおそるおそる賢木を見る。
 胸は上下している。
 よかった。気絶しているだけだ。
 賢木の頬は強く殴られたのに口もとに血がついたくらいだ。あざひとつない。
 きっとこれから腫れ上がるのだろう。
 痛みを想像して首のあたりがぞわりとした。
 東堂は、慣れたことなのか賢木を一瞥もせず、瓦礫の中から荷物を引っぱり出す。
 ついた埃や汚れには頓着しない。かざごそとスマートフォンをとりだし、操作する。
 画面をタップしたあとは耳元に持っていく。
「俺だ。後片付けを頼む」
 それだけを告げて電話を切る。
 一季は、よろよろと歩み寄る。
「賢木は……どうなるんだ?」
「さぁな。俺が決めることじゃない」
 殺されかけたというのに東堂はあっさりしていた。
 強がっているそぶりもない。
 気付いたように賢木が握っていた飾り紐を拾いあげた。
「それが……【永久機関(賢者の石)】なのか?」
 目の前にかざして見つめる。
 宝石のついた飾り紐。これが東堂の家族を奪った理由。
 そして、彼の望みはその破壊。
 願いが叶う瞬間と思い、言葉を飲み込むと東堂は眉根を寄せて顔をしかめた。
「これは本物じゃない」
「え?」
 こぼれた呟きに、ぽかんとした。
「ほとんど魔力がない。きっと本物を模倣したまがい物だろう。ただの振り子(ペンデュラム)だ」
 確かめるように眺めて、賢木の胸の上に置いた。
 もう用はないとばかりに、すぐに立ちあがって踵を返す。
「行くぞ。じきに警察がくる」