月のない夜だった。
上村一季は、その日も遅くまで街へと繰り出していた。
最近、中高生を標的とした怪事件が発生していて、家でも学校でも警戒しろとの注意を受けている。知っていても従う気にはなれなかった。
予定に入っていた塾には向かわず、気になっていた書店や電気店などを巡り、どこかで夕飯をすませようと思った時だった。
通り慣れた駅近くの商店街。
小さな路地へ足を向けた。
理由は特にない。たまたま気になっただけ。少しの好奇心。
単なる暇つぶしに今まで通ったことのない道を歩いてみたかった。
そんなささいな気まぐれから何かがずれていって。
当たり前だと思っていた日常は崩れていく。
最初は見間違いかと思った。
景色の向こう側。路地の反対側が陽炎のように揺らめいていた。
色は緋。
思わず頭上を見上げる。星のない空が薄いカーテンに覆われていた。
何度も瞬きをして目をこする。目の前の景色は変わらない。
じきに耳鳴りもしてきた。異質な空間へと迷い込んだような気がしてくる。
わずかに覚えた恐怖。それでも好奇心の方がまだ勝っていた。
周囲を見渡しながら路地を進む。薄暗く細い道幅は、ジグザグに曲がっていてわずかに通りの向こう側が見える。先に進もうとした瞬間、
アスファルトの地面に添えられた手が見えた。
ぎくりとして足をとめる。
路地裏で人が倒れていた。それも複数。
異様な光景に思考が停止する。
あと五歩で交差する路地。わずかに開けた空間には六人。女子高生と思われる。意識を失っているらしくぴくりと動かない。
そこで一季も異常を感じとる。病気か怪我か事件か事故か。
いやな予感がするものの、行動には移せない。経緯がわからないということもある。しかし、事情を知っても動けるかは別の話だ。
つまりは、そんな状況に置かれた経験がないともいえる。すでに正常な判断は難しい。
実際に一季にできることは目の前の状況を眺めることだけだった。
〈時の流れは残酷ね〉
頭の中に女の声が響いてきた。
続けてため息がもれる。
〈これだけの人間の魔力を集めても、ほんの雀の涙。嘆かわしいこと〉
〈無駄口をたたくな。マスターの元に戻るぞ〉
男性の声音だった。
残念そうに呟く女性の声とは違い、諫める口調はぞくりとするほど冷たい。
壁に身を隠しながら、様子を窺う。
視線を這わした先を確認して目を瞠る。
女子高生たちの前には白銀の狼と黒豹が屹立していた。
〈マスターの結界を通り抜けてくるとは……魔力超過か〉
〈それもかなり。思わぬ収穫だわ〉
口にして狼と豹が振り向いた。二匹同時に。
こちらの存在を気付かれている。
音は立てていない。動きも最小限だった。
すぐにその認識は間違いだと気付く。最初から存在を知られていたのだ。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。とっさに逃げだす。後方へつま先を向けるも、
〈動かないでね〉
眼前には豹がいた。一瞬のうちに先回りされている。
狼は動いていない。その意味は退路を塞がれたも同然。挟み撃ちにされた。
身体が動かない。鼓動も早くなる。呼吸も乱れていく。
後悔もできない。恐怖もない。目の前の現実を受け入れられないだけだ。
〈おとなしくしてね。死にたくはないでしょう?〉
優しげな言葉とは裏腹に迫るのは死の恐怖。
ゆっくりと近づく豹を見つめる。
かたかたと震える手足。器に注がれた水のようにゆっくりと迫る何か。
豹と共に近づいて、限界を迎える。
心臓を鷲づかみにされた、その瞬間、
「そうはいくか」
そっけない声とともに何かが頭上から降ってきた。
弾丸のような早さと突風のような衝撃に襲われ、かたく目をつぶる。
痛みはない。
うっすらと片目だけの視界には虹の粒子が瞬いた。
(……雪?)
一季は思わず見惚れた。
すぐに思い違いだと気付く。春先の今、雪が降るほどの低い気温ではない。
頭上には雪のように降り注ぐ粒子がいくつも舞っていた。それを追うように視線を下ろしてぎくりとする。
自分の一歩前、先ほど豹がいた場所に氷注がいくつも突き出ていた。まるでアスファルトの地面から発生したかのように。
治まりかけていた鼓動がまたうるさく騒ぎ出す。
さきほどまでの状況よりも、さらに信じられない出来事が起きている。そう確信したからだ。
〈貴様……何者だ!〉
声を張りあげたのは豹だった。飛んで避けたらしい。
姿勢を低くして威嚇するも、相手は意に介さない。
氷柱の向こう。何者かが一季と向き合うように片膝をついていた。
ゆっくりとした動作で立ちあがる。
「そう聞かれて答えるヤツがいるかい?」
振り返った相貌は自分とそう変わらない少年だった。
レザージャケットにシャツ、スキニージーンズという服装。背は高い。
端正な顔立ちには、場違いと思える強気な笑みを浮かべていた。
狼も警戒するように頭を下げる。口元からは牙を覗かせていた。
〈俺たちを殺さなかったこと……じきに後悔することになるぞ〉
「問題ない」
少年は、ざっと靴底をこする。次にわずかに足幅を広げた。
その瞬間、足元から光があふれる。視線を落せば地面に陣が浮き上がっていた。
「今から殺す」
牽制以上の明確な殺意。
突き刺さるような空気。生きた心地がしなかった。感覚がすでに麻痺しているように。
少年が腰を落とした。豹とじりじりと間合いを詰める。
「やめ……ッ!」
一季は声をあげた。
止めたかったのか。
助けてほしかったのか。
誰も傷つけたくなかったのか。
理由はわからない。けれど、身体が勝手に動いた。
手をのばして、何かに触れようとした時、
視界が暗転する。身体が強く引かれた。
「な……ツ!」
一季は驚くしかなかった。
正面には豹と対峙していた少年が自分に殴りかかろうとしている。
心臓が絞めつけられる。身体が硬直した。
相手も動きを止める。眼前に拳が突き出された状態で。
一季が地面にへたり込む直後、女性の哄笑が響いた。
頭上を見れば、ビルの隙間から緋色の陽炎が薄れていく。完全に消失した時には女性の笑声も聞こえなくなった。
やがて舌打ちが聞こえてくる。
「空間転移か。逃げ足の早い」
苛立たしく呟いたのは少年だった。
「あんた一体……」
一季はのろのろと立ちあがる。
何を話していいのか。何を訊けばいいのか。
まとまらない思考。
それでも言葉を紡ごうとすれば、
「待て」
はっきりとした声音に遮られた。
今さらになって一季は気付く。
突然、現れた彼は何者なのか。
自分に危害を加えないという保証はどこにもなかった。
三度、襲われる恐怖。
今度こそ、生命を狙われたら抗う術はない。
すでに精神状態は恐慌寸前だ。次の瞬間には、何が起こるか予想もできないし、一季も自分が的確な状況判断ができるとは思えなかった。
また、行動に移すことなど論外だった。
もちろん、そう明確な判断ができたわけではない。飽和する一歩手前のメンタルでは何も考えることができない。それが身体の動きを鈍くさせていることも。
翻弄されるしかない。
抵抗の意思すら奪われた一季はじっと見返すことしかできない。
それを知っているのかいないのか、やがて少年が神妙な面持ちで告げる。
「腹が減った」
ゴロゴロと雷のような音があたりに響く。
今度こそ一季の頭の中は真っ白になった。
上村一季は、その日も遅くまで街へと繰り出していた。
最近、中高生を標的とした怪事件が発生していて、家でも学校でも警戒しろとの注意を受けている。知っていても従う気にはなれなかった。
予定に入っていた塾には向かわず、気になっていた書店や電気店などを巡り、どこかで夕飯をすませようと思った時だった。
通り慣れた駅近くの商店街。
小さな路地へ足を向けた。
理由は特にない。たまたま気になっただけ。少しの好奇心。
単なる暇つぶしに今まで通ったことのない道を歩いてみたかった。
そんなささいな気まぐれから何かがずれていって。
当たり前だと思っていた日常は崩れていく。
最初は見間違いかと思った。
景色の向こう側。路地の反対側が陽炎のように揺らめいていた。
色は緋。
思わず頭上を見上げる。星のない空が薄いカーテンに覆われていた。
何度も瞬きをして目をこする。目の前の景色は変わらない。
じきに耳鳴りもしてきた。異質な空間へと迷い込んだような気がしてくる。
わずかに覚えた恐怖。それでも好奇心の方がまだ勝っていた。
周囲を見渡しながら路地を進む。薄暗く細い道幅は、ジグザグに曲がっていてわずかに通りの向こう側が見える。先に進もうとした瞬間、
アスファルトの地面に添えられた手が見えた。
ぎくりとして足をとめる。
路地裏で人が倒れていた。それも複数。
異様な光景に思考が停止する。
あと五歩で交差する路地。わずかに開けた空間には六人。女子高生と思われる。意識を失っているらしくぴくりと動かない。
そこで一季も異常を感じとる。病気か怪我か事件か事故か。
いやな予感がするものの、行動には移せない。経緯がわからないということもある。しかし、事情を知っても動けるかは別の話だ。
つまりは、そんな状況に置かれた経験がないともいえる。すでに正常な判断は難しい。
実際に一季にできることは目の前の状況を眺めることだけだった。
〈時の流れは残酷ね〉
頭の中に女の声が響いてきた。
続けてため息がもれる。
〈これだけの人間の魔力を集めても、ほんの雀の涙。嘆かわしいこと〉
〈無駄口をたたくな。マスターの元に戻るぞ〉
男性の声音だった。
残念そうに呟く女性の声とは違い、諫める口調はぞくりとするほど冷たい。
壁に身を隠しながら、様子を窺う。
視線を這わした先を確認して目を瞠る。
女子高生たちの前には白銀の狼と黒豹が屹立していた。
〈マスターの結界を通り抜けてくるとは……魔力超過か〉
〈それもかなり。思わぬ収穫だわ〉
口にして狼と豹が振り向いた。二匹同時に。
こちらの存在を気付かれている。
音は立てていない。動きも最小限だった。
すぐにその認識は間違いだと気付く。最初から存在を知られていたのだ。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。とっさに逃げだす。後方へつま先を向けるも、
〈動かないでね〉
眼前には豹がいた。一瞬のうちに先回りされている。
狼は動いていない。その意味は退路を塞がれたも同然。挟み撃ちにされた。
身体が動かない。鼓動も早くなる。呼吸も乱れていく。
後悔もできない。恐怖もない。目の前の現実を受け入れられないだけだ。
〈おとなしくしてね。死にたくはないでしょう?〉
優しげな言葉とは裏腹に迫るのは死の恐怖。
ゆっくりと近づく豹を見つめる。
かたかたと震える手足。器に注がれた水のようにゆっくりと迫る何か。
豹と共に近づいて、限界を迎える。
心臓を鷲づかみにされた、その瞬間、
「そうはいくか」
そっけない声とともに何かが頭上から降ってきた。
弾丸のような早さと突風のような衝撃に襲われ、かたく目をつぶる。
痛みはない。
うっすらと片目だけの視界には虹の粒子が瞬いた。
(……雪?)
一季は思わず見惚れた。
すぐに思い違いだと気付く。春先の今、雪が降るほどの低い気温ではない。
頭上には雪のように降り注ぐ粒子がいくつも舞っていた。それを追うように視線を下ろしてぎくりとする。
自分の一歩前、先ほど豹がいた場所に氷注がいくつも突き出ていた。まるでアスファルトの地面から発生したかのように。
治まりかけていた鼓動がまたうるさく騒ぎ出す。
さきほどまでの状況よりも、さらに信じられない出来事が起きている。そう確信したからだ。
〈貴様……何者だ!〉
声を張りあげたのは豹だった。飛んで避けたらしい。
姿勢を低くして威嚇するも、相手は意に介さない。
氷柱の向こう。何者かが一季と向き合うように片膝をついていた。
ゆっくりとした動作で立ちあがる。
「そう聞かれて答えるヤツがいるかい?」
振り返った相貌は自分とそう変わらない少年だった。
レザージャケットにシャツ、スキニージーンズという服装。背は高い。
端正な顔立ちには、場違いと思える強気な笑みを浮かべていた。
狼も警戒するように頭を下げる。口元からは牙を覗かせていた。
〈俺たちを殺さなかったこと……じきに後悔することになるぞ〉
「問題ない」
少年は、ざっと靴底をこする。次にわずかに足幅を広げた。
その瞬間、足元から光があふれる。視線を落せば地面に陣が浮き上がっていた。
「今から殺す」
牽制以上の明確な殺意。
突き刺さるような空気。生きた心地がしなかった。感覚がすでに麻痺しているように。
少年が腰を落とした。豹とじりじりと間合いを詰める。
「やめ……ッ!」
一季は声をあげた。
止めたかったのか。
助けてほしかったのか。
誰も傷つけたくなかったのか。
理由はわからない。けれど、身体が勝手に動いた。
手をのばして、何かに触れようとした時、
視界が暗転する。身体が強く引かれた。
「な……ツ!」
一季は驚くしかなかった。
正面には豹と対峙していた少年が自分に殴りかかろうとしている。
心臓が絞めつけられる。身体が硬直した。
相手も動きを止める。眼前に拳が突き出された状態で。
一季が地面にへたり込む直後、女性の哄笑が響いた。
頭上を見れば、ビルの隙間から緋色の陽炎が薄れていく。完全に消失した時には女性の笑声も聞こえなくなった。
やがて舌打ちが聞こえてくる。
「空間転移か。逃げ足の早い」
苛立たしく呟いたのは少年だった。
「あんた一体……」
一季はのろのろと立ちあがる。
何を話していいのか。何を訊けばいいのか。
まとまらない思考。
それでも言葉を紡ごうとすれば、
「待て」
はっきりとした声音に遮られた。
今さらになって一季は気付く。
突然、現れた彼は何者なのか。
自分に危害を加えないという保証はどこにもなかった。
三度、襲われる恐怖。
今度こそ、生命を狙われたら抗う術はない。
すでに精神状態は恐慌寸前だ。次の瞬間には、何が起こるか予想もできないし、一季も自分が的確な状況判断ができるとは思えなかった。
また、行動に移すことなど論外だった。
もちろん、そう明確な判断ができたわけではない。飽和する一歩手前のメンタルでは何も考えることができない。それが身体の動きを鈍くさせていることも。
翻弄されるしかない。
抵抗の意思すら奪われた一季はじっと見返すことしかできない。
それを知っているのかいないのか、やがて少年が神妙な面持ちで告げる。
「腹が減った」
ゴロゴロと雷のような音があたりに響く。
今度こそ一季の頭の中は真っ白になった。