開放病棟に移ってから、2週間ぶりくらいにスマホを返された。外の世界は、もう冬を迎えていた。自分だけがこの世界の時間から切り離されたような感覚がした。
ツイッターを開いた。ちーちゃんがやっている闘病垢という名の病み垢。るなちゃん、ゆうじくんからたくさんいいねの通知が溜まっていた。浮上しとらんかった間に、この世界の時間もちゃんと流れとって、自分がおらんくても正常に世界は回るんやなって少し、寂しくなった。どこからいいねを押せばいいか分からんくらい、置いてけぼりを食らった気がして、教室で一人寂しく過ごしていたシーンが脳内で再生される。そういうのを、トラウマって言うんかもしれん。ちーちゃんには、友達って言える友達がおらんかったんよ。
1件のDMに気付いた。
〈なるちゃん、何かあった?最近ツイートなくてちょっと心配してた〉
「なる」っていうのはこのアカウントで使ってる偽名で、送り主は春香ちゃん。ちーちゃんは、この界隈で初めての気持ちをたくさん知った。話すことが嬉しい、楽しい、安心する。このアカウントは、そんな気持ちを教えてくれた。本名よりも、「なる」っていうもう一人の自分でいる時の方がよっぽど生きてるって感じがしたんよ。
春香ちゃんとはお互いにいいねをしあって、たまにリプライを送る。それだけの関係。だけどそれ以上の気持ちが芽生え始めとったように思う。友達、って言っていいんかな。どこからが友達なんかな。

次にあてがわれた部屋は個室じゃなくて、4人部屋の一角やった。
隣と対角上にいた患者は時おり苦しそうに呻いていて、ちーちゃんも苦しくて、少し、怖くなった。
前の部屋にいた少女は、とても綺麗なひとだった。黒髪が腰の辺りまで伸びているのに、きちんと手入れされているようだった。ほっそりとした手足は、小枝のようにポキリと折れてしまわないか心配になるくらい華奢だった。表情や雰囲気からは、全然、入院患者みたいには見えんかったけど、ちーちゃんも傍から見ればそうなんかもしれん。
その少女がにっこりと笑いかけて言った。
「今日からよろしくね。名前、なんて言うの?」
「……千夏。中原千夏」
「千夏ちゃんか〜。私、里田恋雪(さとだこゆき)。恋に雪って書いて恋雪」
「かわいい……」
ちーちゃんがぽつりとそう漏らすと恋雪ちゃんはえぇ、そうかな〜と顔をしかめてみせた。
「私、春の方が好きなんだもん。寒いのって嫌すぎる」

歳を聞くと16歳って答えるから、今度はちーちゃんがえぇ!?と声を上げる番やった。
大人っぽいから、20歳くらいかな、なんて思っとった。後から聞いた話では「摂食障害」という病気で、華奢な身体はその病気のせいらしい。確かに、恋雪ちゃんの身体には女性らしい起伏がなくて、摂食障害によって身体の成長が妨げられているみたいだった。

恋雪ちゃんとは、ずっと昔から友達だったような感覚があったんよ。そんなん、初めてやった。仲良くなるのに時間はかからんかった。こんなところに来て初めて友達ができるなんて、神様も皮肉が好きなんかな。もっと早く出会えていれば、あんな夜はなかったかもしれんのに。



〈死にたいって理屈じゃないよね。感情だよね〉
ベッドの上でそう書き込むと、すぐにいいねが2つ降ってきた。虚空ちゃんとゆず@死にたいちゃんからだった。

この界隈は、この世の不幸だけを集めたような世界だと感じることがあるんよ。見ているだけで苦しいと思うことすらある。それでも続けとるのは、ちーちゃんにも似たような気持ちがあって、同じような言葉を吐き出す必要があるから。それと、こんなにも多くの人たちの辛さをどうにかしてあげたい、と半分本気で思っとるからなんよ。

いいねってどういう気持ちだと思う?
見守ってるよ、分かるよ、頑張れってその人のハートを自分にくれているような、そんな気がする。だから、ちーちゃんはとても安心するんよ。

でも、さ。薄っぺらい関係なんじゃないかってちーちゃんは時々思ってしまうんよ。匿名の交流、アカウントの削除。相手といつまでも繋がれる保証はどこにもない。でもやっぱり、薄っぺらいって言葉は少し違う気がする。だって、辛くて、辛くて、仕方がない夜に無数のいいねとリプライとメーセージに救われることが、ある。それによって、一時的にでも助かる命が、あるかもしれん。命を救うかもしれないそのやり取りを薄っぺらい、なんて言葉で片付けちゃいけんよね。繋がりは細い糸のようでも、ちゃんと届く言葉があるから。

ほんとのほんとに、ちーちゃんがほしいのは、心から気持ちを通わせられる相手なんよ。そういう関係は、大勢の人と成り立つような関係じゃないかもしれん。それでも、この世界にいる何億もの人間が、星を繋いで夜空を彩る星座のように誰かと手を繋ぎあえますように。手を繋ぎあえる人が一人もいないなんてことがあるはずないから。そんなこと、あっていいはずないから。手を伸ばし続けていようね。


病院で過ごす時間は夏休みがずっと続いているような気分だった。学校が始まる。現実が始まる。そんな焦りがずっとどこかにあって、とても、苦しかった。恋雪ちゃんとは病室でたくさん話した。昔からの親友になったみたいだった。恋雪ちゃんは、もう長いこと入院しているみたいだった。ご飯をちゃんと食べれるようになるまで、ここにいる必要があるらしい。恋雪ちゃんも、ちーちゃんも、普通の人みたいになれんかった。普通には、頑張れんかった。だけど恋雪ちゃんはとても心の優しい子だった。だから、ちーちゃんは思った。みんなみたいに学校に行けれんからって、みんなみたいに頑張れんからって、それだけで恋雪ちゃんの人生の全てが決まっていいはずないって思ったんよ。みんなみたいにできんことたくさんあるけど、一つくらいできることがあるはずやもん。それに、恋雪ちゃんが普通の子やったら、ちーちゃんが普通の子やったら、友達にはなれんかったかもしれんね。

だけど本当の意味で恋雪ちゃんと友達になれたのは、ある偶然の出来事やった。その日はいつものように、2人でちーちゃんのスマホを見とった。2人の好きなユーチューバーが画面でぼっち飯をしている。これが意外と面白いんよ。
ふいに、ツイッターの通知が画面の上から降りてきた。春香ちゃんからやった。〈入院!?辛かったね。私も入院中だから一緒に頑張ろ!〉
隣で、はっと声にならない声がした。
「嘘やん……。なるちゃん?」
その言葉が、何を言っとるんか、飲み込めんかった。
「なんで、知っとるん……?」
ちーちゃんが言い終わらんうちに、隣で恋雪ちゃん――いや、春香ちゃんは泣き出しとった。それで、分かった。

はるかちゃん、はるかちゃん、はるかちゃん。
伝えたいことがいっぱいあった。でも、言葉にならんかった。胸の底が沸き上がるように熱かった。こんな気持ちに、出口のない暗闇みたいな場所で出会うなんて思わんかった。

「なるちゃん。私、なるちゃんのこと大好き。……でもね、それはここで出会ったからじゃない。もし仮に、ここで出会わなかったかったとしても、なるちゃんは、私の友達やもん。」

ちーちゃんも、そう思うよ。実際に会ったとか会わないとかで友達になれるかどうかが決まるわけじゃない。この病院で出会わんかったとしても、心のどこかで想っとったから。



今の社会は、とても、ひとが孤立しやすいような、そんな気がするんよ。ツイッターを開けばこんなにもたくさんの人が生きづらさを抱えて、苦しんどるのに、現実はみーんな平気そうな顔して笑って、働いて、生きて、生きて。それが、この世界の希薄さを物語っとる。
病のカミングアウトに似とるんやないかな。誰にも告げず、抱え込んでた時は辛かったのに、勇気を持って言ってみたら楽になったみたいな話あるよね。だけどみんなその勇気がないんよね。だって、理解してもらえるか、社会から爪弾きにされるかのどっちかやもん。カミングアウトは、リスクを伴う。
今の社会もそれと同じで、一人ひとりが、辛さを抱え込んどる。辛い人が一人だったらそれは辛い。だけど二人だったら少し、楽になる気がする。もちろん人の相性とかもあるし、単純に計算できる話じゃないんかもしれん。だけど、そういうコミュニティがあればいい。そういう関係性があればいい。ちーちゃんにとって、春香ちゃんがいてくれたみたいに。あなたにとって、そういう世界がありますように。ちーちゃんは祈っとるよ。


これからの春は、2人で一緒に過ごせますように。




その年の春に2人で見た桜は、いつもよりも綺麗だった。薄紅色の花びらの命に心を奪われた。満開の桜並木の中で、ちーちゃんはもう一度、生まれたような気がしたんよ。