ビシッと手で壁を作って拒絶したと言うのに、彼は嫌な顔をしていなかった。それどころか「良かった」と喜色を浮かべている。
 出会ってから強く拒絶されて続けていて、自分の言葉を全て否定されているのだから。もう嫌になっても良いはずなのに。何故、嫌な顔の一つもしないのかしら。何故、私を見ても罵倒の一つもしないのかしら。
 喜色を浮かべる彼を前にすると、私はどんどんと困惑してくる。どうすれば良いのか分からなくなってきて、左側の前髪を更に厚く下ろしてからスッと俯いた。
 すると目の前の彼から「そう言えば」と、唐突に声を上げられ「お主」と尋ねられる。
「な、なんでございましょう」
 ビクビクと尋ね返すと、「何も怖がる事はなかろうて」とカラカラと笑われた。「申し訳ございませぬ」と縮こまって答えると、「謝る事はない」とおおらかに言われる。
「我が問いたかったのはな、主の名だ。何と申す?我に名を申してみよ」
「私の名、でございますか」
「左様、あるであろう?どんな者だって名はある。妖怪だって、皆持っているのだぞ」
「な、何故私の名を」
 恐ろしげに尋ねると、目の前の彼は腕を組みながら笑い「無粋な事を申すな」と言った。
「知りたいから問うておる。それ以外の理由があるか?」
 ほれ、申してみよと破顔されながら催促され、私は逡巡してしまう。
 私の名前は・・。近頃では皆、私の事を憐と呼ぶ。藤の方様から「これからは憐と名乗りなさい。その方が貴方には相応しいですから」と言われ、憐と名乗る様申しつけられているから。憐、と名乗る方が・・良いのよね。
「憐と申します。憐れな憐と、お覚え下さいませ」
「憐、か」
 彼はポツリと呟くが。すぐに「まことか?」という怪訝な声が、私に降りかかる。
「主の名は、まことにその様な名なのか?」
 心の奥を見透かされた様に確かめられ、私はうっと口ごもってしまった。はいとすぐに言えば良かったものの、口ごもってしまったせいで、「違うのだな?」と不機嫌な声で言及される。
 私がちらと少し顔色を窺うと、目の前の端正な顔は、目に見えて分かる程の不機嫌に歪んでいた。
「全く、我は嘘の名を聞いたのではないぞ。真の名を申せ、真の名を」
 目をスッと細められながら威圧的に言われてしまい、私はばつが悪い思いでいっぱいになる。