目を覚ますと、知らない部屋に寝ていた。
「えっ・・・え?」
おれは昨夜のことを思い返す。そう、昨日は長年片思いしていた女友達の結婚式に招待されたのだ。
普段は酒は飲まないが、その日だけはどうしようもなく悲しくなって2杯だけ飲んだことは覚えている。
・・・そこから先の記憶がない・・・。
恐る恐る辺りを見渡せば、隣には裸の女。
そして、俺も裸だ。
「目、覚めました?」
彼女は起き上がると俺の方を向いて微笑みながら言った。
俺は慌てて布団で体を隠す。
「えっと・・・ここは?」
「もちろん、ラブホテルです」
「なんで俺たちここにいるんだ?って言うか・・・吉沢!?お、お前、きのう結婚したばかりじゃ・・・・」
「やだな・・・ホントに覚えてないんですか?私、吉沢えりの妹、かんなですよ」
妹?そう言われれば吉沢とは少し違う気もした。だが、言われないと分からないほど瓜二つである・・・
一夜の過ちと言うものは噂には聞いていたが、本当にするものなのか。普段酒を飲まないから、酒量を見誤った。たぶん、記憶がないうちにもしこたま飲んだに違いない。
俺が愕然とうなだれていると、かんなという女性は何事もなかったかのようにシャワーを浴びに行った。
ベッドサイドを見るとコンドームが散乱している。俺は頭を抱えた。
しばらくすると、彼女がバスタオルを体に巻いて戻ってきた。
「昴さん、大丈夫ですか?顔色悪いけど」
「あぁ、ちょっと飲み過ぎてしまったみたいだ」
「そうですねー、すっごい酔ってたもんね」
「あのさ・・・俺たちどうしてこんなことに?」
「それ、私に聞きます?」
彼女は持っていたスマホを操作し始めた。
(・・・まさか、吉沢と似てる彼女を・・・吉沢の代わりに?)
自分のクズさに反吐が出てきた。もし本人だと思い込んでいたとしても、結婚ほやほやの新婦を寝取ろうとするクズということになる・・・。
「とにかく・・・悪かった。なにかお詫びをさせてくれ」
「んー・・・お金はいらないかな」
「そういうわけにもいかないだろう。せめて食事くらい奢らせてくれよ」
「じゃあさ、お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「私とお付き合いしてください」
「へっ!?」
「彼女いないんですよね?童貞子供部屋おじさんだって言ってましたよ。まぁ、もう童貞ではないわけですが」
「ちょ、ちょっと待って!俺の話聞いてたか?俺と君は昨日会ったばっかりじゃないか!」
「・・・」
俺がそう言うと、彼女はムスッとした顔になる。俺、何かしたか?
「あーいや・・・えっと・・・申し訳ないんだが・・・俺はセックスができなくて・・・・」
「昨日あんなに激しかったじゃないですか」
「えっ!?」
「すっごく気持ち良かったの・・・だから・・・責任取ってください」
彼女は顔を真っ赤にしてモジモジしながら言う。
昨日の俺は、俺であって俺ではないわけだし、そんな可愛い仕草されると困るんだが・・・・
「そ、そんなこと言われても・・・俺は君のこと何も知らないし・・・君だって俺のことを何も知らないだろ?」
「知ってますよ・・・姉にずっと片思いしていた事も・・・勇気が出なくて告白できなかったことも・・・何もかも上手く行かなくて引き籠っていることも・・・」
「う、うん。そうだね。なおさら、そんな負け組みたいなおじさんと付き合うことないだろ?きみは可愛いんだし、まだ若いし、もっと若くてイケメンな男を捕まえられるはずだ」
「でも私は・・・そんな昴さんだから好きになったの・・・私の中ではもう決まったことなんです」
「決まっちゃったのか・・・・」
俺は頭を掻きながらため息をつく。
彼女がまだ若く、俺の何に惹かれたかは知らないがどうせ若気の至りであろうことは想像がつく。なら、一旦付き合って、彼女に見合う男性を見つけてあげるというのもひとつのお詫びの印になるのではなかろうか。
(それに・・・)
俺はちらと彼女を見る。見れば見るほど、吉沢と話しているような気分になってしまい、彼女のことが気になって仕方がなかったのだ。
「分かった・・・じゃあ、1ヶ月だけ・・」
「やった!ありがとうございます!」
こうして、期間限定の彼女との交際が始まったのだった。
***
あれから一週間。彼女とは連絡先を交換して、それで終わった。
夜は気付けば吉沢姉妹に似た女優を検索して自慰にふけっていた。
(あーだめだ、まったく思い出せねぇ・・・)
俺との行為を「気持ち良かった」と喜んでくれたのは嬉しかったが、どこか疑う自分もいる。
(いっそ、記憶喪失になりてぇ)
俺は昔からいじめられることが多く、カースト底辺として生きてきた。
高校に入ってからもそれは変わらず、いつも一人で過ごしていた。
吉沢えりはそんな俺とは対照的に、いつだってクラスの中心にいる人気者だった。
俺は彼女に振り向いてほしくて、柔道部に入り、主将まで上り詰めた。
だが、結局一度も告白できなかった。
頑張れば頑張るほど、高みを目指せば目指すほど、余計に告白が怖くなってしまい、結局、卒業とともに逃げてしまった。
仕事も同じだった。最初は重宝されるのだが、期待されればされるほど、本当の自分との解離に怖くなる。そして、また逃げ出すのだ。
俺は臆病で、卑怯で、本当にクズだ。
(クズな自分を受け入れれば、セックスも出来るようになるのかな。でも、そうなったらそれこそ本当にクズだ・・・)
俺はベッドの上で悶々と考え込んでいた。
すると、スマホが鳴る。かんなからのメッセージであった。
『今度の休み、デートしましょ』
俺はため息をついて返信する。
なんにせよ、彼女とは1ヶ月のお付き合いなのだ。ならばいっそ使い倒してやる。
***
「いやぁ~、いい天気ですね」
「そうだね」
俺たちは公園に来ていた。
「今日は何します?」
「とりあえず、このベンチに座って世間話とか・・・」
「えー、なんかつまんないですよぉ」
「じゃあ、なにしたいんだよ」
「えっと・・」
彼女は少し考え込むと、俺の腕にしがみついてきた。
「おい!何やってんだ!」
「恋人なんだから、これくらい普通じゃないですかぁ」
そう言って、上目遣いで俺を見つめてくる。
こんなに積極的な子だったっけ?なんかイメージ違うんだけど。
「ねぇ、昴さん。キスしてくださいよ」
「えっ!?いや、それはさすがにまずいだろ」
「大丈夫ですって。あの時は何回もしてくれたのにぃ」
「うーむ」
俺は彼女の肩に手を置いて、じっと見つめる。
彼女は目を閉じて、唇を突き出す。
(まぁ、一ヶ月だけだしな。いっちょやりますか)
俺は意を決して、彼女に口づけをした。
「うわぁ!初めてが外なんて!」
「俺だってそうだよ。しかも、女子高生とだぜ?犯罪者だよ」
「えへへっ」
彼女は恥ずかしそうに笑う。
その笑顔はやはり吉沢に似ている気がした。
(ダメだ、集中しないと。今は仕事中だぞ)
俺は首を振り、スマホを取り出す。
「そう言えば俺の従弟が、最近婚活アプリ始めたらしくてな。なんでも、結婚相談所より安上がりで手軽だとかなんとか」
「えぇー、婚活サイトは怖いですよ」
「でも、出会いのきっかけにはなるだろ。どうだ、会ってみるのもいいんじゃないか?」
「嫌です、私は・・・昴さんがいいです」
「だから・・・」
俺がそう言いかけた時、彼女は俺のスマホを奪い取った。
そして、慣れた様子で操作し始める。
「あっ!ちょっと待て!」
止める間もなく、画像フォルダを開いてしまった。
「おいやめろ」
「へ~ぇ、こういう女の人が好きなんですかぁ」
「違うって」
「違うなら、なんで保存してるんですか?」
「そ、それは・・・」
確かに俺は吉沢に似た女優ばかり検索していた。しかし、別にそういうわけでは断じてない。
「ねぇ、昴さん。私とこの映画観に行きませんか?」
彼女が指差したのは、恋愛映画だった。
「お前、俺の話聞いてたか?」
「いいから行きましょうよ。もうチケット買っちゃいましたし」
「はぁ、分かった。分かったよ」
俺は渋々了承すると、劇場に入っていった。
上映中、彼女はポップコーンを食べていた。
「おいしい?」
「はいっ!すごくおいしいです」
懸命にかぶりつく姿に愛らしさを覚える。
「あっ、口元付いてるよ」
「えっ、どこですか?ここですか?こっちですか?」
「違う違う、反対だよ」
「えっ?あぁ・・・すみません。取ってくれますか?」
「うん」
俺は手を伸ばして彼女の頬についたソースを取ってあげる。
その瞬間、俺の手が彼女の頬に触れる。
「んっ・・」
彼女は小さく声を上げる。
「ごめんね、ちょっと触っちゃって」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ」
俺は手を離す。
「あのさ、やっぱりこういうのやめない?」
「どうしてですか?私は気にしませんよ?」
「いや、俺が気にするんだ。ほら、周りを見てみてよ」
そう言って俺は周りのカップル達を見渡す。
「別に普通じゃないですか?」
「えっ!?」
「私たちだってカップルですよね?だったらこれくらい当たり前です」
「う、うん。まぁ、そうだね・・・?」
「あっ、映画始まりますよ。楽しみにしてたんです」
「そ、そっか・・・」
***
スクリーンには壮大な景色と、主人公と思われる青年が映し出される。
隣を見れば、昴さんは食い入るように見ていた。
「わぁ・・・すごいな・・・」
私は彼の横顔に見惚れてしまう。
(そう言えばあの日も映画を見たっけ)
昴さんに初めて会ったのは、高校生になった時だった。
彼は2つ上の三年生で、すでに柔道部の主将をしていた。
私はお近づきになろうと思って、彼のクラスメートである姉に相談すると、何と姉も先輩に片思いしていた。
「同じ人を好きになるなんて奇遇だよね」
「本当だね」
「それで、相談なんだけど、私が先に告白したいんだ」
「うん」
「だから、協力してくれないかな?」
「分かった。じゃあ、明日お昼ご飯一緒に食べよう。その時に話しかけてみるから」
次の日、姉の作ったお弁当を持って屋上に行くと、既に彼が待っていた。
「こんにちは」
「あぁ、君が吉沢の妹か」
「はい、お姉ちゃんが、さっき校門に来て欲しいって言ってました」
「あれ?さっき聞いた時は屋上と言われたんだが」
「予定が変わったみたいで・・・」
「了解した」
そう言って彼は踵を返して帰ろうとする。
「あ、あの!」
「ん?」
「この間の試合・・・見てました」
「あぁ、ありがとう」
「私、柔道好きなんです」
「へえ」
「あ、あの!また見に行ってもいいですか?」
「うん、待ってるよ」
そう言って彼は屋上から出て行った。
「かんな、早乙女くんは?」
遅れて来た姉に聞かれて、私は咄嵯に答える。
「帰った」
(ごめんね・・・)
それから私は先輩の姿を追いかけて、短い一年間を終えた。
そして数年がたち・・・私達は早乙女先輩のことなどすっかり忘れたように振る舞った。
やがて姉は職場の上司と結婚することになった。相手は真面目で誠実そうな人だった。
披露宴の席上で、新郎新婦は挨拶をする。
「本日はお忙しい中、ご出席いただき誠にありがとうございます。私たちは、このたび結婚することとなりました。つきましては、皆様方よりお祝いのお言葉を頂戴できればと思います」
司会進行役の女性が言う。
「では、まず初めに乾杯を行いたいと思います。新郎新婦のために、グラスをお持ちください」
会場中の人々が手に持った飲み物を掲げ、声を合わせる。
「それでは、新郎新婦に一言ずつ、ご祝辞を賜りたく存じます。新郎、ご友人代表のスピーチをお願いします」
司会者の言葉を背に、私は立ち上がる。
ロビーに向かうと、そこには早乙女さんがいた。
私は彼に声を掛ける。
「早乙女さん、お久しぶりです」
「君は・・・」
「覚えていますか?妹のかんなですよ」
「あぁ、久しいな。元気だったかい?」
「はい、早乙女さんは?」
「俺は5年ぶりに外に出たよ」
「それはよかったですね」
「信じてないな?」
「いえ、そんなことはありませんよ」
「本当だぞ?結婚式のモブにもなれず、俺は今日という日を迎えたんだ」
彼の息からは強いアルコールの臭いが漂っていた。
先輩は私の顔をじっと見つめていた。
「どうかしましたか?」
「好きだ」
「え?」
「君のことが好きなんだ、吉沢」
「そ、そうですか・・・」
「もう今更遅いな。告白する勇気なんてなかった。叶わなくていいんだ、その先は望めないから」
「そ、そうだったんですね・・・」
(この人、私をお姉ちゃんと間違えてる・・・?)
何もかも遅すぎる両片思いの結末。仕組んだこととは言え、やるせない気持ちになった。
「でも・・・今日だけは許してくれ」
「ちょっ・・・!?」
突然、彼は私を抱き寄せた。
「ん・・・!?」
私はキスされた。
「や、やめてください・・・!」
「すまない、止められないんだ」
(どうしよう・・・!)
私は周りを見渡す。
幸い知り合いはいない。私は咄嗟に彼の腕を掴み、立ち上がらせた。
「こっちに来て下さい」
「どこに連れて行く気なんだ?」
「静かにして下さい」
***
シャワールームから出ると、昴さんはベッドの上に寝転ぶ。
「映画、面白かっただろ?」
「・・・うん」
「俺も観たかったんだがなぁ・・・残念ながら見逃した」
「そうだよね、あれって公開初日に見たから」
私がそう答えると、彼は不思議そうな顔を浮かべる。
「あれ?君と一緒に行ったのか?」
「違うよ。早乙女さん、話がムチャクチャ。まだ酔ってるの?」
「昴だ」
彼は起き上がり、私を押し倒す。
「え?」
「名前で呼んでくれ」
「っ・・・昴、さん・・・っ!?」
「理恵・・・」
彼は私の服を脱がせていく。
私は羞恥で真っ赤になり、目を逸らす。
「可愛いよ」
彼はそう言い、胸に触れる。
「あっ・・・やっ・・・」
彼の手は暖かくて、優しくて、乳頭を舐める舌使いは丁寧で、愛撫されているような錯覚に陥る。
「好き」
彼が耳元で言う。そのまま私は快楽に堕ちていった。
『この人が欲しい』
その為なら――姉も利用してやる。
***
「――かのん?もう映画終わったよ」
気付けばスタッフロールも終わり、館内は明るくなっていた。
私はスカートが濡れていないか確認しながら席を立つ。
「面白かったね」
「あっ、は、ハイ・・・」
映画館の外はすでに薄暗く、雨が降っていた。
「うわぁ、傘持って来てない」
「あー・・・俺もないな」
(どうしよう・・・)
「仕方がない、走るか」
私は彼に手を引かれるまま走り出す。そして大きな通りに出た所で、タクシーを捕まえた。
「家まで送っていく」
「いいの?」
「あぁ、かまわない」彼は運転手に行き先を告げる。
「待って」
「ん?」
「・・・もう少し、おしゃべりしたい」
「・・・わかった」
私達は、そのまま近くのホテルに向かった。
部屋に入ると、すぐにシャワーを浴びる。
「一緒に入るか?」
「だ、ダメだよ。恥ずかしいもん」
「冗談だよ」
彼は笑う。
「・・・ねぇ」
「何だい?」
「どうして私と付き合ったの?」
「言っただろ・・・謝罪だって」
「本当にそれだけ?」
「あぁ」
私は彼に触れようと手を伸ばす。しかし、その手は彼に掴まれた。
「僕たちはそういう関係じゃない」
「あの日、好きって言ってくれたじゃない」
「あれは俺じゃないから・・・」
「男の人っていつもそう言うよね。でも、早乙女さんは違ったよ?」
私は彼の頬に手を当てる。彼の顔は真っ赤に染まり、視線を彷徨わせていた。
「俺は君を愛してない」
「うそつき」
私はそのままキスをする。
「っ・・・やめてくれ!」
彼は私を突き飛ばした。
私は壁に追い込まれ、逃げ場を失う。
彼の目は獲物を狩るような鋭い眼光を放ち、私を捉えている。
(こんなの知らない・・・!)
「君は僕のことが好きなんだろ?ならお望み通り抱いてやるよ」
彼は私をベッドに押し倒し、乱暴に服を脱がせる。
(痛いっ・・・!)
彼は私の首筋に噛みつくように吸い付く。
「ひゃあん・・・!」
彼の手が下着の中へ侵入し、敏感な部分に触れる。
前戯のない挿入に激痛が走った。
「あああっ!!」
「理恵が悪いんだぞ?そんな格好で誘ってくるから」
彼は腰を動かす。
(痛い・・・!)
「僕は君を愛してない」
「嘘つき・・・」
私は涙を流しながら呟く。
「はぁっ・・・もう無理だ」
彼はそう言い、絶頂を迎える。
「ごめんなさい、もうしないから許して下さい・・・」
「わかってくれたなら良いんだ」
彼は満足したのか、私から離れていく。
私は自分の体を見下ろし、泣きそうになる。
この想いは、間違いだったの――?
***
兄はこの地区では有名な柔道選手だった。
俺と14歳も離れた兄は、文武両道で品行方正な人間で、誰もが憧れる存在だった。
俺は兄に憧れて柔道を始めた。いつか、兄のようになれると信じて。
しかしその夢は叶うことがなく、試合はことごとく負けてばかりだった。
「兄ちゃん。おれには無理だ」
「諦めるな。開き直るな。できないなら、出来るまでやればいい」
兄はそう言い、何度も試合に出ることを勧めてくれた。しかし、俺はそれを次第に拒むようになった。
負けるときの絶望。迫りくる現実。
それは、俺が思っていた以上に重く圧し掛かっていたのだ。
兄なんて居なくなればいい、そう何度も思った。口に出したこともある。そのたびに兄は怒り、殴った。
そして、高校2年の時――兄が交通事故で亡くなった。
原因は飲酒運転による暴走。即死だったそうだ。葬式には多くの人間が参列していた。
その中には、よく見知った顔もあった。
「早乙女くん・・・」
クラスメートの吉沢りえは、目の下にクマを作っていた。彼女は葬儀の間ずっと泣いていた。
「早乙女くんのお兄さんが亡くなったって聞いて・・・迷惑だったかな?」
「大丈夫だよ」
「良かった」
そう言って笑う彼女の笑顔はぎこちなく、とても痛々しかった。
その切ない気持ちが恋に変わるのに、そう時間は掛からなかった。
高校生になって、俺は柔道部で形ばかりの主将を務めた。
プライドだけでしがみ付いているだけの俺は、格好の的だった。雑用を押し付けられたり、陰口を言われたりした。
それでも、それ以外の生き方を知らない俺は、それを受け入れていた。
どうしたらみんなのように上手く生きられるのか、おれにはまるで分からなかった。
ある日、1人の女子生徒が声を掛けてきた。
「柔道部主将の早乙女さんですよね?」
「・・・何か用かい?」
「あの、お願いがあるんですけど・・・」
「内容次第だな」
「今度、文化祭でコスプレ喫茶をやる予定なんです。それで、その・・・私、こういう服着たことなくて」
かのんは恥ずかしそうにメイド服を着てみせる。
「だから、その・・・私の代わりにこれを着て接客して欲しいなって思って・・・ダメですか?」
「・・・俺がメイド服を着るの?なんで俺?」
「だって似合いそうな気がして!」
「嫌だ」
「そこをなんとか!」
「ちょっと意味が分からないんだけど、それは俺に見返りはあるの?」
「もちろん!」
「・・・ちなみに何ができるんだ?」
「料理なら得意です」
「よし、引き受けよう」
「ありがとうございます!」
「ただし、条件がある」
「はい!何でもします!」
(今なんでもするって言ったか?)
「君を描いてもいいかい?」
「えっ?早乙女先輩が、私を・・・ですか?」
「うん。君のことが好きなんだ」
(本当は君をモデルにした漫画を描きたいだけなんだが)
「嬉しい!私も好きですよ!(やった!両思いだ!)」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
「はい!任せて下さい!(やった!これで毎日妄想に耽ることができる!)」
(なんか、今変なこと言わなかったか?まあいいか)
***
「ところで、今日は何の日か知ってますか?」
「いや、知らない」
突然そんなことを聞いてきた彼女に、俺は首を傾げる。
(また変なことを考えてるんじゃないだろうな)
「実はですね、私たち付き合ってちょうど1か月になるんですよ!記念にケーキを作ったので、一緒に食べましょう!」
「え・・・甘いものは苦手なんだけど・・・」
そんなことはお構いなしに、彼女はフォークで切り分けたケーキを差し出す。
(・・・あんなことをしたのに、何事もなかったかのように接してくるなんて)
彼女の意図が読めず、戸惑う。
「どうしました?もしかして、私が作ったケーキは不味かったですか!?」
不安げな表情を浮かべる彼女を見て、俺は苦笑する。
「いや、美味しいよ。でも、どうしてこんなに良くしてくれるのかと思ってね」
「私がそうしたいと思ったからです。恋に理由はありませんから」
(ああ、そうだ。この子、文化祭の時の女の子じゃないか)
確かあのとき描いた漫画はクラスでも評判が良くて、俺が描いてることを知ってた子が何人かいたんだよな。
そのせいで俺は学校で有名人になってしまったのだが――。
「君は良い人だね」
「えへへ、照れちゃいます。早乙女さんにも好きになってもらえるよう頑張りますね」
そう言って微笑む彼女を見ていると、胸が熱くなった。
(この子となら―――)
彼女と一緒なら、きっと、もう一度夢を追いかけられるかもしれない。
「君のこと思い出したよ。メイド服のときの」
「あっ・・・!やっぱり覚えてたんですか?」
「そりゃ忘れないさ。君みたいな可愛い子に会えたんだし」
「そ、そうやってすぐに口説くところは変わってないんですね」
彼女は頬を赤らめながら、困ったように笑う。
「早乙女さんは私の憧れでした。いつも堂々としていて、強くて優しくて、とても格好良かったです。だから、ずっと追いかけていました。どうしてもお話したくて、あんな奇行を・・・」
「あのとき俺が描いた漫画、読む?」
「漫画?漫画があるんですか?」
「君をモデルにして描いたんだ。黙っていてごめん」
「いえ、謝らないでください。むしろ感謝したいくらいです」
「そう言ってくれるとありがたいな」
「あの、見せてもらえませんか?早乙女さんの描く漫画ってどんなものなのか興味があって」
「いいよ。これなんだけど」
俺は鞄の中からノートを取り出し、彼女に手渡す。
かのんはページを捲り、読み始める。
「凄い・・・まるで本物みたい。これが早乙女さんの作品なんですか?」
「うん。恥ずかしいけどね」
「全然恥ずかしい作品じゃないですよ!本当に感動しました!」
「ありがとう。君にそう言ってもらえて嬉しいよ」
「それにしても、早乙女さんが漫画を描くとは驚きました」
「俺も驚いてるよ。今は編集の人に見てもらってるんだ。かのん、何か描いて欲しい話とかない?かのんはけっこう突拍子もない事を言うから、たまにはそういうのもいいんじゃないかなって思うんだけど」
「本当ですか!じゃあ、こういうのはどうでしょう?」
かのんがアイデアを出す。
それを聞いた早乙女は目を輝かせる。
「面白そうだ!やってみよう!」
「やった!早乙女さんと一緒に漫画が描けるなんて夢のようです!」
かのんは嬉しさのあまり飛び跳ねる。
俺も思わず笑みをこぼす。
こうして、2人の漫画家生活が始まった。
***
その日俺を出迎えたのは、かのんではなくりえだった。
かのんと似ているが明らかな別人。
彼女は無表情で俺を見つめると、誰もが見惚れるような笑顔を浮かべる。
「こんばんは。理恵です」
「あ、あぁ、久しぶり・・・って結婚式以来かな?」
「うん、そうだね」
りえは俺を抱きしめた。柔らかい感触が心地よい。しかしそれ以上に彼女の体温が熱くて、ドキドキした。
「え、あの・・・?」
「あっ、ごめんなさい、旦那が外国人だから、ついハグの癖がついちゃって」
今のはハグと言うにはかなり官能的のような気もしたが、特に気にしなかった。それよりも、りえが俺を部屋に招いた理由の方が重要だ。
「今、整理してるところだったの」と寝室に通されると、そこには段ボール箱がいくつか置かれていた。
「引っ越しの準備?」
「そうなの、まだ終わってなくて。アルバムとか出てくるとつい見ちゃうんだよね。手伝ってくれたらうれしいんだけど」
俺は言われるまま荷物を取り出してリビングへと運んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「あ・・・お茶持ってくるね」
そう言うと彼女はキッチンへ向かった。
彼女はますます綺麗になった。かのんよりもずっと色っぽいし、胸もでかい。
俺の中に、「下位互換」という言葉がちらつく。
(彼女は姉を見て、どういう気持ちで育ったんだろう)
そんなことに思いを馳せながらソファーに座って待っていると、「お待たせしました~」と言いながら彼女が戻ってくる。しかしその姿はなぜかバスタオル一枚だけだった。
「え!?」と驚く俺の隣に座ると、りえは自分の胸を俺の腕に当ててきた。
「ちょっと何やって・・・」と戸惑う俺を無視してりえは耳元で囁く。
「ねぇ、かのんと付き合い始めたなんて、知らなかったよ。どんなふうに付き合い始めたの?」
「ま、まぁ、成り行きって言うか」
「そうなんだ。私にもチャンスある?」
彼女はさらに胸を押し当ててくる。俺はかのんどころではなくなった。
彼女の指先が俺の頬をつたう。
「吉沢さん・・・あなた新婚じゃないですか・・・どうしてこんなこと・・・」
「ふふっ、だって寂しいんだもん。ねぇ、ダメ?一回だけでいいからさ。私の敏感なとこ、教えてあげる。ほら、ここよ・・・」
りえが俺の手を取って、自分の秘所へ導く。
だが次の瞬間、かのんの「やめてください!」と叫ぶ声が聞こえ、慌てて振り向く。
「かっ、かのん・・・」
「お姉さん!私の彼氏に何をしているんですか!アナタにはドナルドさんがいるでしょ!?」
「だって、面白そうだったんだもん。それに、彼はこういう事には寛容だし・・・ね?」
そう言って上目遣いで俺を見る。ドナルドの価値観とやらは知らんが、実際かなり揺らいでいる。
(しかし、この展開はまずい)
俺は立ち上がり、りえから離れようとする。すると腕を掴まれ引き寄せられる。そして強引に唇を奪われた。舌を入れられ、唾液を流し込まれる。
「むぐっ・・・」
抵抗しようにも力が入らない。かのんはそれを見ていよいよ怒ったのか、そのまま取るものも取りあえず部屋を出て行ってしまった。
「ぷはぁ・・・」
やっと解放された俺は、呼吸を整える。
「ごめんね、冗談が過ぎたみたい」
りえは悪びれた様子で言った。
「あの子のことは分かってるつもり。早乙女さん、責任取れる?」
「俺は・・・俺には無理です。仕事もしていないおっさんだし・・・」
「私だって仕事してないおばさんだわ」
彼女はふっと笑った後、真剣な顔になる。
「あの子はね、ずっと昔からあなたの事が好きだったの。高校生の頃、相談されたことがあるのよ」
「えっ!?」
「一度は諦めた恋だけど、今のあの子を救えるのは早乙女くん、貴男しかいないの。さあ、行って頂戴」
彼女に押されるように玄関を出ると、ちょうどエレベーターが来たところだった。
扉を開くと、中から出てきたのはやはりかのんであった。彼女は俺の顔を見ると、驚いたように立ち止まる。
「あの、ごめんなさい、私・・・」
何かを言いかけた彼女を、俺は抱きしめた。
「えっ、あっ、早乙女さん!?」
「もう泣かないで。俺がずっとそばにいるから」
こんな歯が浮くようなせりふ、普段ならば絶対に言わない。
けど、君が受けた悲しみに比べたら、恥ずかしいなんて思わないよ。
「あ・・・」
俺はかのんを優しく抱き寄せてキスをした。
「かのん。結婚しよう」
「はい・・・」
彼女は涙を浮かべながらも笑顔を見せた。
「両親に挨拶していきます?」
「う、うむ」
「緊張しなくてもいいですよ」
「いや、そんなこと言われても」
「夕飯食べていきます?でも、お酒はダメですよ。絶対に」
「気を付けるよ」
間違いだらけの恋だった。きっとこれからもたくさんの間違いを犯すだろう。
けど、俺たちはそれでも幸せになれるはずだ。
だって俺と君は、愛し合っているんだから。