『あ、3組の榎本さんだ』

 入学式から数週間経った頃のこと。廊下を歩く俺の耳に聞きなれた名前が入ってきて、反射的に振り返る。

『かわいいよなー。俺タイプ』
『わかる、ちょっと大人っぽい感じ、良いよな』

 そう言った二人組の男子生徒の視線の先には、かすみがいた。友達とにこやかに談笑しながら歩いている。
 教科書を胸に抱えているところを見ると移動教室のようだ。
 その姿も廊下の角を曲がり、すぐに見えなくなった。

 かわいい?大人っぽい?

 なるほど、傍から見るとあいつはそう言う風に見えるのか。
 物心ついた時からずっとそばにいたかすみは、俺にとっては正直幼稚園の頃のかすみと何一つ変わっていなくて、見た目について考えたことなんかなかったから、男子生徒たちの言った言葉がしっくりこないというのが正直なところだった。

『気になる?』

 隣を歩いていた樹が言った。興味津々な声音が癪に触ったが、俺は平気なふりをして『別に』と返す。
 中学が一緒の樹と同じクラスになれたのは幸いだった。

『またまたぁ、気になるくせにー。素直じゃないんだから、凌は』
『ちげーよ。ただ、他のヤツの目にはあいつはそう言う風に映ってるんだなーって意外だっただけ』
『は?』

 意味が分からない、という顔をこちらに向けてくる樹に、俺も同じ顔を向ける。

『お前さ、もしかして、中学の時、榎本が男子から人気あったの、知らないとか…?』

 そんなのは、初耳だった。

『人気、あったのか、あいつが?』

 まぁ、周りと比べたら容姿は良い方かもしれないが…。
 人気があったなんて、知らなかった。
 樹は俺のまぬけな顔を見て、はぁーっと深いため息をつく。

『あのなぁ、中学の時は、お前と榎本の家が隣同士で幼馴染で、大の仲良し両想いっていうのをみーんな知ってたから、男子は手が出せなかったわけ』

 さらに樹は続ける。

『顔は可愛いしスタイルいいし、話しやすいしの三拍子揃ってる榎本をだよ。俺を含め中学のヤローどもは指をくわえてみてるしかできなかったってわけよ』

 くそう、と悔しさをかみしめる樹に、俺は呆れる。
 こいつは、女なら誰でも良いのだ。
 にしても、かすみがそんな男子の憧れの的だったとは…。

『それなのに、お前らいつまでたっても付き合わねーんだもん。さっきみたいなやつ等に榎本を取られちまっても良いのか?』

 返事に詰まった。
 なぜなら、樹は俺がかすみを好きという前提で話しているからだ。
 追いつかない思考を置き去りにするように、樹は続ける。

『高校は、お前と榎本の関係を知らないヤツばっかりなんだぜ?中学の時みたいに皆遠慮しねぇぞ、もちろん俺もな!』
『お前もかよ』
『安心しろ、俺は巨乳好きだから』
『どっちだよ』
『凌、悪いことは言わない。さっさと榎本と付き合え』
 
 ちょっと、待ってくれ。俺が、かすみと、付き合う?
 晴天の霹靂。とまではいかないにしても、似たような衝撃だった。
 そう、それくらい、俺にとってかすみは家族同然、いや、もはや家族だ。
 一緒にいることが当たり前で、節目節目は必ずといっていいほどに共有している。

『付き合えって…。かすみは、家族みたいなもんで…』
『じゃぁ、凌、想像してみろ。榎本が他の男と手をつないで、デートしてあんなことやこんなことをしているところを』

 俺は、樹の言葉をそのまま頭の中で反芻した。あんなことやこんなこと、はかすみの手前割愛したが、さっきみたすみの笑った顔が向けられているのが俺じゃない男だと想像した瞬間、心臓を鷲づかみされたかのような苦しさに襲われた。
 高いところに立った時に感じるような、足元が竦むあの感覚だ。

 そんな俺の脳内を読んだかのように、『ほらな、ダメ、だろ?』と樹に覗き込まれ、苦虫を嚙み潰したような顔になる。

 あぁ、確かに、ダメだと思った。

 かすみの隣に俺以外の男がいて、かすみに触れてほほ笑み合うなんて、想像ですら不快だった。

『でもさ…』

 後に続く言葉を飲み込む。いや、考えたら怖くて言葉にするのが躊躇われたのだ。
 いくらずっと一緒にいるからって、かすみも俺と同じ気持ちとは限らないじゃないか。
 それこそ、さっきまでの俺みたいに家族としか、兄妹としか思ってなくて、気持ちを伝えても振られる可能性だってあるだろ。

 そう思ったら、今のままの関係の方が良いんじゃないかと思うのは、当然だった。

『でももヘチマもないっつーの!万が一、振られたとして、お前と榎本の関係はそんなんで壊れるような薄っぺらいもんなのかよ?』

 頭をガツンと殴られた。物理的ではなく、心理的にだ。
 樹の言葉に目が覚めるようだった。


 俺は、この時居ても立っても居られなくなって、その日のうちにかすみに告白をした。
 もともと思ったことは口に出してしまう性格の俺は、ストレートにかすみに思いを伝えた。
 情けないことに、心臓はばくばくで、目を逸らされた瞬間、あ、ダメかも、とどん底に落ちそうになる。
 かすみの一言一句に耳を傾ける。
 的を得ない言い訳を連ねるかすみは、何かを決心したかのように、姿勢を正した。

『だから、つまり…、私も、凌のこと、スキ』

 そう言って、かすみはやっと顔をあげた。
 はにかんだ顔のかすみと甘い視線が交わる。
 さっきまでの波立った心が嘘みたいに鎮まっていく。
 かすみが俺と同じ気持ちでいてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
 俺たちは、まるでそうすることが初めから決まっていたかのように、お互いに顔を近づけてキスをした。
 初めてのキスは、一瞬だったけれども驚くほどの柔らかさに体の真ん中を突き抜けたあの感覚は忘れられないものになった。

 思いが通じた俺たちは、それからお互いの気持ちを確かめるように、二人の時間を何よりも優先していた。
 学校でも、放課後も、帰宅後も、休日も時間の許す限り二人の時間を大切にした。
 もちろん、部活や友達との時間もあったけれど、それは本当に最低限なもので、周りからもオシドリ夫婦と言われるほどに仲睦まじい名物カップルだった。
 長い間、幼馴染として過ごしていた俺たちは、少しずつ少しずつ恋人としての時間を重ねて、幼馴染では出来ないコトも経験していった。
 至極自然な流れの中で起こる二人だけの秘密。
 それが増えるたびに、絆が深まり愛しさが募っていく幸せを俺はかみしめていた。
 そして、それはかすみも同じだった。
 初めて肌と肌を合わせたのは、高校1年の終わり。
 周りから聞いていた男女のソレは、確かに刺激的でほんの少しの背徳感さえもエッセンスとなって夢中になった。

『なんか、ちょっと怖い』

 俺の部屋のベッドの上、布団にくるまったかすみがつぶやく。
 俺は床に散らばった服を拾って着ながら『なにが』と返す。
 家の中は、静かだ。
 両親は共働きのため、平日の夕方大抵家には誰も居ない。
 かすみは、布団を目深にかぶり、目だけを出してこちらを見る。

『こんなにしあわせで良いのかなぁ、って』

 可愛いこと言うじゃんか、と思った。

『幸せなのは、良いことじゃん』

 俺も幸せだよ、と言えない情けなさを感じつつ、かすみの着ていた洋服を集めてベッドに放り投げた。
 かすみはそれを取って布団の中でもぞもぞと着替えだした。
 かすみの全てを俺は見て、触って、感じて知ってるのに、未だに恥ずかしがって着替えも俺の目を気にする。
 そんな所もかわいいと思った。

『凌は?』
『ん?』
『凌は…幸せじゃない…?』

 いつの間にか着替えたかすみが、ベッドから起き上がりこちらを見ていた。その表情は、悲しそうな、不安そうな、なんとも言えない顔。その顔をみた瞬間、いたたまれない気持ちになる。かすみにこんな顔をさせてしまった自分を殴りたい気分だった。やっぱりさっき、恥ずかしがらずに思ったことを口にすべきだった、と後悔しかない。

『ばぁか』

 かすみのそばに腰掛けて、かすみの頭をくしゃくしゃにかき混ぜる。猫毛の頭はすぐに鳥の巣状態だ。『ちょ、やめてよ』と押しのけようと抵抗するか細い腕を掴むと、力任せにそのままベッドに押し倒して、抱きしめた。

『ーーー幸せに決まってんじゃん』

 耳元で囁いた俺の言葉に、かすみは極上の笑顔を浮かべて見せた。