*
高校生活最後の年、暦は2月へと入った。
共通テストが終わり、安堵する人、焦る人、それぞれの不安とは関係なく一日一日と時間は容赦なく過ぎていく。
痛みすら感じる寒さに手をこすり合わせて、息をはぁっと吐いた。一瞬だけでもあたたかさを感じて、体の強張りがほんの少し解れていく。
「寒いね」
通学路、隣を歩く親友の千野沙和子が言った。年が明けてからは授業がなく、自由登校の毎日が続いているが、今日は数少ない登校日だった。こうして彼女と通学路を歩くのも残り少ないのだと思うと、やっぱり寂しい。
「ホント、寒い。こんな日に限って手袋忘れるとか、バカだわ」
正確には忘れたんじゃない。家を出てマンションのエントランスで気づいたけど、まぁ大丈夫かと思ってそのまま来たのだ。
取りに戻らなかったのは、理由がある。
凌と鉢合わせするのを避けたかったから。
「今日も、寄らなかったんだね」
どこに、なんて聞くまでもないほど答えの明確な質問に、みぞおちのあたりがすーっと冷たくなる。
私は、受験シーズンに入る前まで毎日、隣に凌を迎えに寄って一緒に登校していた。
朝の苦手な凌は、私が寄らないと遅刻ばかりするから。
小学校の集団登校から始まり、かれこれ12年目となる「お迎え」もついに終わりを迎えたのだった。
「…もう、良いんだ」
そう、もう良い。何度も何度も、繰り返し自問して出した私の答えに、「そっか」と短いつぶやきだけが返ってきた。沙和子には、心配かけっぱなしで申し訳なかったけれど、私にとっては心の拠り所となってくれている大切な友人だ。
「最後までご迷惑おかけするかと思いますが、ごめん」
「ホントだよ…世話のかかる親友だこと」
くしゃっと目じりに皺を寄せて笑った沙和子に、振り絞るように「ありがとう」と言う。上手く笑えたかどうかはわからないけど、きっと沙和子ならわかってくれるはず。
学校につくと、久しぶりの顔ぶれにみんな笑顔を見せ、各々に声を掛け合っていた。私も沙和子も、つい先日大学試験を終えて今は合否を待つ身だ。みんなの合否は人づてに聞いたりもしたけれど、やはり話題には出しにくい雰囲気が漂っていた。
「おはよー」
「おー、凌じゃん、久しぶりー。相変わらず遅刻寸前」
「うっせー、間に合えばいーんだよ、間に合えば」
HRが始まる少し前にようやく姿を見せた凌は、皆からからかわれながら自分の席へとたどり着く。だるそうに椅子に座ると、大きなあくびをしてから斜め後ろの席に座る私を見た。
「はよ」
「おはよー」
切れ長の瞳は何か言いたげだけれど、気づかない振りをして、「よく間に合ったじゃん」と精一杯の皮肉を込めて返してあげる。
「俺はやればできる子なんだよ」
そんなこと、知ってるよ。
どれだけずっと一緒にいたと思ってるの。
いつも隣で見てきたんだから。
「合格発表、もうすぐだね」
「俺絶対受かってる自信ある」
「すごい自信。どっから来るのか謎すぎだけどね」
「相変わらず、仲良し夫婦だねぇ」
私と凌の間に体を滑り込ませてきたのは、クラスメイトの樹(いつき)くん。中学からの共通の友人でもある。線の細い彼は、柔和な顔で私と凌を交互に見た。少なくとも長い付き合いの彼の目には『仲良し夫婦』に見えているようで、ほんの少しほっとする。
「大学も一緒だし、羨ましいな~」
「受かれば、の話だけどな」
「樹くんも大学で彼女出来るといいね」
「俺は夢のキャンパスライフを謳歌するって心に決めてるから!榎本、大学でかわいい子と友達になって俺に合コンセッティングしてくれよ!な!」
間近に迫る真剣な顔に気圧されながら、私は愛想笑いを返しておいた。
「あ、そだ凌、今日学校終わったらいつものメンツでファミレスからのカラオケコースだけど、お前も行くだろ?」
いつものメンツとは、部活仲間数人と2年の時に仲良くなったグループのこと。そこに私は入っていない。
「んー…どうしよっかな…」
ちらり、こちらを見る凌。それに気づかない振りをする私。そして、凌の視線に気づいた樹くんが、再び私に向き直る。
「榎本~、今日旦那借りるけど、良いだろ?」
「おい、樹」
「あ、うん、楽しんできなよ。皆で遊べるのもあと少しだろうし」
「さすが榎本、理解ある~!奥さんのお許しも出たし、行こうぜ」
不服そうな凌の顔に、私は首をかしげて見せる。
私の上からな物言いに文句でも言いたいのかもしれないけど、それはHRの開始を告げるチャイムに阻まれてしまう。
しぶしぶ前に向き直った凌の視線から逃れられて、内心ため息をついた。
凌は、高2の夏頃から私よりも彼らとの時間を優先するようになった。
2年になって新しく仲良くなった友達グループから誘われることが増え、最初のほうこそ私に遠慮していたようだけれど、それもおざなりになって休日や放課後も頻繁に遊びに出かけていた。
しかも、悪いことにそのグループには女子もいたのだ。
グループの一人のSNSでは、凌に腕を絡めて笑顔を浮かべた女子が映った写真を目にすることも多々。
そのことに寂しさや嫉妬を感じた私は、一度だけ文句を言ったこともあった。
それこそちんけな連ドラの主人公が口にしそうな「仕事と私どっちが大切なの?」と大差のない言葉だった気がする。
それに対する凌の答えは、『お前とはいつでも会えるんだから少しくらい我慢しろよ』というなんとも冷徹なものだった。
違う、そうじゃない、と叫びたくなるのをぐっと飲み込んだあの時のツラさは今でもよく覚えてる。
別に友達と会うのをやめてと言っているんじゃなくて、私がさみしいということを”わかって”欲しかっただけなのに。
それからも、何度か話し合おうとしたけれど、ことごとく流されてしまった。
でも、二人で会えば凌は優しいまま。別れるなんて選択肢は出てこなくて、私が我慢すれば良い事だと気持ちに蓋をした。
今では、さっきみたいに私から進んで送り出すほどに”あきらめ”となっている。
そんな私の態度に、周りは「寛大な彼女」というレッテルを貼ってなにも疑いもしない。家が隣同士だからいつでも会える、というのが私たち二人が長続きしている最大のメリットだと感じているみたい。
私も最初はそう思っていたけど、今ではそれこそが最大の負の要因でしかなかったと言い切れる。
人は、いつでも会える相手のために、無理やり時間を作ろうとはしないから。
「かすみ」
「…」
「お前、帰らないの?」
「え?…あぁ」
ぼうっとしていた。
教室は、支度をしたり足早に下校したりする人たちでざわついている。さっきまで何をしていたのか思い出せない頭で見上げると、心配そうな表情の凌がいた。私のことを心配してくれていると思うと、嬉しくも、切なくもなる。
「不安なのか?」
何が、だろう。不安な事は、たくさんある。どれのことを言っているのかわからず返答に躊躇っていると、ドアの方で誰かが凌の名を呼んだ。
ーーーいかないで。
たった5文字の言葉が、言えなかった。今も、今までも。
「ほら、呼ばれてるよ。早く行ってあげたら」
口から出たのは、ほら、こんな言葉。
「…」
凌はまた、なにか言いたげな顔をする。
やっぱり、私が口を出すことを快く思っていないのかもしれない。
「今日、夜顔出すわ」
うん、とだけ頷いて、手を振る。
はやく行きなよ、と言わんばかりに。
そんなわたしに、凌は背を向けて小走りに教室を出ていった。
何度、彼の背中を見送っただろうか。
何度、行かないでと思っただろうか。
そのたびにこみ上げてくる切なさに、何度涙しただろう。
こんなに悲しいのなら、終わらせてしまったほうが楽になれるんじゃないかとずっと思っていたけれど、それでも、どうしても、私から断ち切ることは出来なかった。
どうしようもないほどに、凌のことが好きなのだ。
それは、今も変わらない。
でも、それと同じくらい、いや、それ以上に、苦しいーーーー
*
「ーーーかすみ」
凌の、私の名を呼ぶ声が好き。
「かすみ」
そう、この声。少しかすれた、低い声。
「起きないなら、キスするぞ」
「…」
目を開ければ、見慣れた顔が私を見下ろしていた。
「そこは、起きてても寝たふりするところだろ」
「…寝込みを襲うご趣味があったとは知らなかったわ」
軽口に軽口で返せば、凌は「んな趣味ねーよ」と言ってベッドに座った。
何度母に凌を通す前に声をかけてと言っても聞いてくれたためしがない。
もはや息子同然の扱いだから仕方がないと私があきらめるしかなかった。
「こんな時間に寝たら夜寝れなくなるぞ」
言われて時計を仰ぎ見る。夜の10時過ぎだった。
そうだ、私は寝ないで凌の帰りを待っていたのに、机に突っ伏していつの間にか寝てしまったらしい。
「もしかして、今帰ってきたの?」
座っていた椅子ごと凌の方へ向き直り、胡坐をかいた。
いつものスウェットを着た凌の髪は半乾きだと一目でわかる。
お風呂に入ってから来たのだろう。
私の質問に、彼は気まずそうに頷く。
あぁ、こんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「楽しかった?」
「八代が合格決まって、皆で祝ってやった」
「え、絶対浪人決定って言われてた八代くんが?うそー!良かったねぇ!八代くんも皆に祝ってもらえて喜んだでしょう」
模試の判定もいつもC以上を取ったためしがないのに、頑なに志望校を変えなかったつわものの八代君。
その理由は、八代君の一つセンパイの彼女がそこの大学に居るからというなんとも健気なもの。
私も凌からその話を聞いて知って以来ひそかに応援していたのだった。
「嬉しくて泣いてたわ、あいつ」
そういう凌もとても嬉しそうな顔をしていて、わたしまで顔がほころぶ。
凌の、こういうところ、ホント好きだなぁ。
友達のことを自分のことのように喜んだり悲しんだりできるところは、彼の周りにいつも友達が絶えない一番の理由ではないだろうか。
「お前さ、最近なんか変じゃね?」
にこにこして話を聞いていた私に、彼はストレートに言葉を放った。
ドキリとする。
でも、それを悟られまいと、私は笑顔をキープした。
「もしかして、試験ミスった?」
バクバクと音を立てる胸の鼓動に叩かれながら、私は間を取る。こういう時、下手に口を開くと自爆してしまうから。すると、凌は「あれだろ」と話し出した。
「自己採点ギリギリだったんだろ?それでここ最近ずっと不安そうな顔してるんだろ」
凌が単細胞で助かった。
内心でほっと一息ついて、私は「バレた?」と返した。まぁ、あながち的外れでもないから、話に乗っておく。
「凌は大丈夫だったんでしょ」
「まぁ、力は出し切った」
「ホント、頑張ってたもんね」
家から通えてそこそこの私立のS大学、というちょうどいい大学がうちの高校の卒業生の約3分の1の進学先で、凌も私もそこを第一志望校としてこれまで受験勉強に励んできた。別に、一緒のところにしようねと約束したわけではないが、進路希望調査を取り始めたころは、そこしか思い浮かばなかっただけのこと。
でもそれも、今となっては表向きの話。
私は、夏休み明けに志望大学を変えている。凌には内緒で。
地元でもなければ、県内でもない、ここから遠く離れた高知県のK大学。選んだ理由はそれなりにいくつかあるけれど、決定的なものは、その距離にある。
凌と、もうこれ以上一緒に居られない。
凌のことを、嫌いになりたくない。
もう、離れたい。
それだけ。
「別れよう」の言葉が言えない私には、こうするしか道はなくて。
唯一事情を知る沙和子には不器用すぎると言われた。
そして、残酷だ、とも。
3年の春、今の成績ではS大は難しいと言われていた凌は、予備校に通って頑張って成績をあげていった。
それこそ、友達と遊ぶのも控えて勉強していたのを私はそばで見てきたから、目の前でやり切ったと言う彼を見て、心から嬉しい。
私はといえば、担任からS大ではもったいないと言われていて、もっとランクが上の大学を勧められていた。
その中の一つに高知のK大があったのだ。
なんでも、担任の恩師が私が興味のある学部の教授をしているから、視野に入れても良いんじゃないかと言うことだった。
そして私は、無事に受かれば4月から家を出て高知県へ行くのだ。
遠く、凌から離れて、私は私の道を行く。
私の裏切りなんて、きっと、すぐに忘れる。
忘れていいから。
お願い、忘れて。
浅はかにもほどがある私の願いは、いつしか凌ではなく自分への呪文となっていた。
「もう帰るの?」
唐突に立ち上がった凌を見上げる。
あまりに短い滞在に、思わず引き留めるような物言いをしてしまったなと、気まずくなった。
そんな私を見逃さない凌は「なに、寂しいの?」と口の端を持ち上げる。
「ばかだね、もう。用があって来たんじゃないの?」
「あ、そうだった」
ぽん、と手をたたいて、凌はこちらに近づいてくる。
彼の用とやらに皆目見当のつかない私は首をかしげて見守るしかない。
私の前まで来た凌は、両手で私の顔を包み込んだ。
とても、優しく。
お風呂上がりの彼の手は、寒さが深まる2月でもほんのりあったかくて柔らかい。
久しぶりのスキンシップに、顔に血が集まってくるようだった。
あ…、くる。
至近距離で見つめる凌の顔に、さっきまでのふざけた雰囲気はなく、縮まりだした距離にようやくキスされるのだと気づく。
そっと、けれども互いの唇が形を変えて密着するくらいにはしっかりと押し当てられた口づけに、めまいがした。
くらりと均衡が崩れ、倒れる感覚に陥って、とっさに凌のスウェットの裾を掴む。
それが合図となって、一度離れた唇がまた重ねられた。
頬を包まれたままの私は、そのまま椅子の背もたれに体を押し付けるようにして凌からの口づけを受け止める。
合間合間に漏れる吐息は、甘美な響きを伴って部屋に響いた。
好きな人から与えられる刺激は、どこまでも甘く、そして私を悲しくさせる。
こんなに、嬉しいのに、こんなにも悲しい。
「はい、合格できるおまじない」
離れていく気配とぬくもりに目を開ければ、いたずらっ子みたいな顔をした凌がいて、思わず笑ってしまう。
「おまじないって、なにそれ…あはは」
なんだ、それ。
自分がしたかっただけでしょうに。
「俺のおまじないは効果抜群なんだからな…って…」
目の前の彼の顔が、みるみる曇っていく。
「なんで泣くんだよ…」
「ご、ごめ…」
笑いながら、涙が止まらない。手で拭っても拭っても、溢れる涙が頬を濡らす。
キスをされて泣いた私を、凌はどう思うだろうか。凌の顔は涙でぼやけてその表情をうまく読み取れない。
「ごめんじゃなくて…、なんで泣いてるのか聞いてる」
言えるわけない。
もうすぐ、別々の道を行かなきゃならないから悲しくて、苦しいなんて。
あなたをだまして、傷つけようとしているのが、今さら後ろめたいなんて。
好きで好きでたまらないのに、離れなきゃいけないのが、ツラくて泣いてるなんて。
そんなこと、言えるわけないじゃん。
「変なの…、なんで涙なんて…。受験で相当疲れてんのかもね、へへ」
次から次へと流れ出る涙をティッシュで吹いて、鼻をチーンとかんで、愛想笑いでごまかす。
「そうだよな、ここまでずっと走りっぱなしだったもんな俺たち。かすみは特に予備校ハードだったしなぁ。ーーーじゃぁ俺は帰るわ。今は、合否のことは忘れて、ゆっくり休めよ」
「うん、そうする。…おやすみ」
「おやすみー」
「あ、凌」
「ん?」
一瞬の躊躇いを振り払って、私は言った。
「おまじない、ありがとう」
ーーーーうれしかった。
言いたいことを最後までは、言えなかったけど。キスをされて泣いたのは、嫌だったからじゃないんだよということだけは伝えたかった。
「おう」とはにかみながら部屋を後にする凌を見て、ざわついていた私の心も少し落ち着きを取り戻していく。
ドアの閉まる音と遠ざかる足音、遠くで「あら、凌もう帰るの?おやすみー」と見送る母の声を頭の片隅で聞いてから私はベッドにダイブした。
拒むべきだったキス。
もう、別れを決意しているのだから、受け入れてはいけなかったのに。
頭ではわかっていても、体が、心が、それを望んでしまった。
ベッドの上、凌の熱がまだ残っているかのように火照る体が苦しくて自分の体を抱きしめる。
離さないで。
どこにも行かないで。
ここだけにいて。
ずっと、そばにいて。
私のとなりにいて。
云いたくて、云えなかった願いは、鋭いナイフとなって私に突き刺さるのだ。
好き。
大好き。
掛け違えたボタンをそのままに、ここまで来てしまった私たち。
もう、好きという気持ちだけでは、隠しきれない心の奥底にある私のエゴイズムが叫んでる。
これ以上は、一緒にはいられない。
私が、耐えられない。
凌を嫌いにはなれないし、なりたくもないから、私はこの道を選んだ。
この道しか、なかった。
たとえ、凌を裏切り傷つけようとも、私は進むよ。
自分を守る道を選んだ私を、凌は恨むだろうか。
なんて残酷で卑劣なんだと、憎むだろうか。
いっそのこと、嫌いになって。
いっそのこと、憎んで。
いっそのこと、忘れて。
こみ上げる願いはこれでもかというほどに無情で、どこまでも利己主義の自分に吐き気がする。
だから、もう、バイバイ。
こんな最低な彼女、いないほうがマシだよ。
「ごめんね、凌…」
私の上っ面だけの謝罪は、誰にも届くことなく静寂に吸い込まれていった。
かすみの部屋を後にして、隣の自分の家に帰った俺はミネラルウォーターの入ったペットボトルを冷蔵庫から取り自室へとたどり着く。
時計を見れば、11時を過ぎていた。
ペットボトルの蓋を回してよく冷えた水をごくごくと乾いた喉に流し込めば、火照った体がすーっと冷えていった。
肩の力を抜くようにふー、と息を吐く。
濡れた口元を手の甲で拭うと、さっきの光景が思い出された。
濡れそぼる目で見上げてくるかすみの両頬を包み込み、押し当てた唇。
そのやわらかな感触は、しっかりと残ったまま俺の体の芯をまだ揺らしている。
「やば」
思わず声が口をついて出た。
久しぶりだった。
キスも、触れるのも。
最近、どこか上の空で不安そうなかすみを見ていたら、抱きしめたくなった。
でも、抱きしめたら、潰れてしまうんじゃないかとか意味の分からない不安にかられて、キスをした。
たった一度だけ、触れて終わらせるはずだったキス。
久しぶりのそれは、予想以上に刺激的で、かすみの縋りつく手に掻き立てられるように、何度も角度を変えて口づけていた。
ぶっ飛びそうになる理性を呼び戻してどうにか離れたのだ。
なのに、おまじないだと言う俺を笑ったかすみは、次の瞬間には泣いていた。
『変なの…、なんで涙なんて…。受験で相当疲れてんのかもね、へへ』
溢れる涙を何度も拭いながら、それでも笑うかすみを目の当たりにして、ここ最近抱いていた俺の違和感は、確かなものへと変わる。
ーーーやっぱり、おかしい。
かすみは、何か隠している。
けれども、情けないことに、愛想笑いの裏に隠された「何か」は、俺には見当もつかない。
もしかして、別れ話…とか?
いや、まさかな…。
そんなはずはない、と思ったところで、胸の奥がざわつくのを見逃せなかった。
そういえば、かすみと最後に手をつないで並んで歩いたのは、抱きしめたのは、いつだっただろうか。
思い出そうと記憶を辿ってもすぐには出てこない程に、遠い記憶でとても曖昧なものしか浮かんでこない。
付き合い始めの頃は、毎日のように手をつないで一緒に登下校していたのに…。
時間さえ見つけては抱きしめていたのに。
考えれば考えるほど、不安は膨らんでいく。
俺は、不安から逃げるように、ペットボトルをテーブルの上に置いてから布団にもぐりこんだ。
かすみと別れるなんて、考えたこともなかったことが急にリアリティを帯びて頭の中を巡った。
もしかして、かすみは、俺と別れようとしているのか?
でも…、当のかすみは何も言ってこないじゃないか。
ずっと一緒に家族同然で育った俺たちは、付き合う前も今までも、お互い言いたいことは言ってきたから、何か思うことがあるなら言ってくるはずだ。
さっきのキスだって、ちゃんと応えてくれていた。
お互い年を重ねて形を変えてここまで歩いてきたんだから、付き合いたての頃と今じゃ、いろいろ違って当然だろう。
それに、3年になってから会う時間はますます減っていったけれど、それは受験にむけてお互い頑張ろうって話し合ってのことだった。
だから、きっと大丈夫なはず、と自分に都合のいい理由を並べ立てる。
当然、なのだろうか…。
あれだけ、お互いを優先していた俺たちが、だんだんと離れていった原因は明らかに俺だろう。
2年になってから仲良くなったグループとの時間を優先してしまったからだ。
あまりにかすみとの時間を取らない俺にしびれを切らしたかすみが、一度だけ文句を言ってきた事がある。
もっと自分との時間も取って欲しいといった内容だった。
仲の良いグループに女子も混ざってたことが原因だと感じた俺は、これだけ一緒にいるのに俺のことを信用できないかすみに苛立ちを覚えて『我慢しろよ』と突き放す言葉を投げつけた。
あの時、かすみはどんな顔をしていた?
突き放した俺に、かすみはなんて言った?
記憶を辿っても、思い出せない。
そのことに、なぜか危機感にちかい焦燥感のようなものが胸の奥からこみ上げてくる。
あの時よりもずっと前、高校に入ってから俺が告白した時のかすみの言葉、表情、しぐさは、今でも鮮明に思い出せるのに。
*
『あ、3組の榎本さんだ』
入学式から数週間経った頃のこと。廊下を歩く俺の耳に聞きなれた名前が入ってきて、反射的に振り返る。
『かわいいよなー。俺タイプ』
『わかる、ちょっと大人っぽい感じ、良いよな』
そう言った二人組の男子生徒の視線の先には、かすみがいた。友達とにこやかに談笑しながら歩いている。
教科書を胸に抱えているところを見ると移動教室のようだ。
その姿も廊下の角を曲がり、すぐに見えなくなった。
かわいい?大人っぽい?
なるほど、傍から見るとあいつはそう言う風に見えるのか。
物心ついた時からずっとそばにいたかすみは、俺にとっては正直幼稚園の頃のかすみと何一つ変わっていなくて、見た目について考えたことなんかなかったから、男子生徒たちの言った言葉がしっくりこないというのが正直なところだった。
『気になる?』
隣を歩いていた樹が言った。興味津々な声音が癪に触ったが、俺は平気なふりをして『別に』と返す。
中学が一緒の樹と同じクラスになれたのは幸いだった。
『またまたぁ、気になるくせにー。素直じゃないんだから、凌は』
『ちげーよ。ただ、他のヤツの目にはあいつはそう言う風に映ってるんだなーって意外だっただけ』
『は?』
意味が分からない、という顔をこちらに向けてくる樹に、俺も同じ顔を向ける。
『お前さ、もしかして、中学の時、榎本が男子から人気あったの、知らないとか…?』
そんなのは、初耳だった。
『人気、あったのか、あいつが?』
まぁ、周りと比べたら容姿は良い方かもしれないが…。
人気があったなんて、知らなかった。
樹は俺のまぬけな顔を見て、はぁーっと深いため息をつく。
『あのなぁ、中学の時は、お前と榎本の家が隣同士で幼馴染で、大の仲良し両想いっていうのをみーんな知ってたから、男子は手が出せなかったわけ』
さらに樹は続ける。
『顔は可愛いしスタイルいいし、話しやすいしの三拍子揃ってる榎本をだよ。俺を含め中学のヤローどもは指をくわえてみてるしかできなかったってわけよ』
くそう、と悔しさをかみしめる樹に、俺は呆れる。
こいつは、女なら誰でも良いのだ。
にしても、かすみがそんな男子の憧れの的だったとは…。
『それなのに、お前らいつまでたっても付き合わねーんだもん。さっきみたいなやつ等に榎本を取られちまっても良いのか?』
返事に詰まった。
なぜなら、樹は俺がかすみを好きという前提で話しているからだ。
追いつかない思考を置き去りにするように、樹は続ける。
『高校は、お前と榎本の関係を知らないヤツばっかりなんだぜ?中学の時みたいに皆遠慮しねぇぞ、もちろん俺もな!』
『お前もかよ』
『安心しろ、俺は巨乳好きだから』
『どっちだよ』
『凌、悪いことは言わない。さっさと榎本と付き合え』
ちょっと、待ってくれ。俺が、かすみと、付き合う?
晴天の霹靂。とまではいかないにしても、似たような衝撃だった。
そう、それくらい、俺にとってかすみは家族同然、いや、もはや家族だ。
一緒にいることが当たり前で、節目節目は必ずといっていいほどに共有している。
『付き合えって…。かすみは、家族みたいなもんで…』
『じゃぁ、凌、想像してみろ。榎本が他の男と手をつないで、デートしてあんなことやこんなことをしているところを』
俺は、樹の言葉をそのまま頭の中で反芻した。あんなことやこんなこと、はかすみの手前割愛したが、さっきみたすみの笑った顔が向けられているのが俺じゃない男だと想像した瞬間、心臓を鷲づかみされたかのような苦しさに襲われた。
高いところに立った時に感じるような、足元が竦むあの感覚だ。
そんな俺の脳内を読んだかのように、『ほらな、ダメ、だろ?』と樹に覗き込まれ、苦虫を嚙み潰したような顔になる。
あぁ、確かに、ダメだと思った。
かすみの隣に俺以外の男がいて、かすみに触れてほほ笑み合うなんて、想像ですら不快だった。
『でもさ…』
後に続く言葉を飲み込む。いや、考えたら怖くて言葉にするのが躊躇われたのだ。
いくらずっと一緒にいるからって、かすみも俺と同じ気持ちとは限らないじゃないか。
それこそ、さっきまでの俺みたいに家族としか、兄妹としか思ってなくて、気持ちを伝えても振られる可能性だってあるだろ。
そう思ったら、今のままの関係の方が良いんじゃないかと思うのは、当然だった。
『でももヘチマもないっつーの!万が一、振られたとして、お前と榎本の関係はそんなんで壊れるような薄っぺらいもんなのかよ?』
頭をガツンと殴られた。物理的ではなく、心理的にだ。
樹の言葉に目が覚めるようだった。
俺は、この時居ても立っても居られなくなって、その日のうちにかすみに告白をした。
もともと思ったことは口に出してしまう性格の俺は、ストレートにかすみに思いを伝えた。
情けないことに、心臓はばくばくで、目を逸らされた瞬間、あ、ダメかも、とどん底に落ちそうになる。
かすみの一言一句に耳を傾ける。
的を得ない言い訳を連ねるかすみは、何かを決心したかのように、姿勢を正した。
『だから、つまり…、私も、凌のこと、スキ』
そう言って、かすみはやっと顔をあげた。
はにかんだ顔のかすみと甘い視線が交わる。
さっきまでの波立った心が嘘みたいに鎮まっていく。
かすみが俺と同じ気持ちでいてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
俺たちは、まるでそうすることが初めから決まっていたかのように、お互いに顔を近づけてキスをした。
初めてのキスは、一瞬だったけれども驚くほどの柔らかさに体の真ん中を突き抜けたあの感覚は忘れられないものになった。
思いが通じた俺たちは、それからお互いの気持ちを確かめるように、二人の時間を何よりも優先していた。
学校でも、放課後も、帰宅後も、休日も時間の許す限り二人の時間を大切にした。
もちろん、部活や友達との時間もあったけれど、それは本当に最低限なもので、周りからもオシドリ夫婦と言われるほどに仲睦まじい名物カップルだった。
長い間、幼馴染として過ごしていた俺たちは、少しずつ少しずつ恋人としての時間を重ねて、幼馴染では出来ないコトも経験していった。
至極自然な流れの中で起こる二人だけの秘密。
それが増えるたびに、絆が深まり愛しさが募っていく幸せを俺はかみしめていた。
そして、それはかすみも同じだった。
初めて肌と肌を合わせたのは、高校1年の終わり。
周りから聞いていた男女のソレは、確かに刺激的でほんの少しの背徳感さえもエッセンスとなって夢中になった。
『なんか、ちょっと怖い』
俺の部屋のベッドの上、布団にくるまったかすみがつぶやく。
俺は床に散らばった服を拾って着ながら『なにが』と返す。
家の中は、静かだ。
両親は共働きのため、平日の夕方大抵家には誰も居ない。
かすみは、布団を目深にかぶり、目だけを出してこちらを見る。
『こんなにしあわせで良いのかなぁ、って』
可愛いこと言うじゃんか、と思った。
『幸せなのは、良いことじゃん』
俺も幸せだよ、と言えない情けなさを感じつつ、かすみの着ていた洋服を集めてベッドに放り投げた。
かすみはそれを取って布団の中でもぞもぞと着替えだした。
かすみの全てを俺は見て、触って、感じて知ってるのに、未だに恥ずかしがって着替えも俺の目を気にする。
そんな所もかわいいと思った。
『凌は?』
『ん?』
『凌は…幸せじゃない…?』
いつの間にか着替えたかすみが、ベッドから起き上がりこちらを見ていた。その表情は、悲しそうな、不安そうな、なんとも言えない顔。その顔をみた瞬間、いたたまれない気持ちになる。かすみにこんな顔をさせてしまった自分を殴りたい気分だった。やっぱりさっき、恥ずかしがらずに思ったことを口にすべきだった、と後悔しかない。
『ばぁか』
かすみのそばに腰掛けて、かすみの頭をくしゃくしゃにかき混ぜる。猫毛の頭はすぐに鳥の巣状態だ。『ちょ、やめてよ』と押しのけようと抵抗するか細い腕を掴むと、力任せにそのままベッドに押し倒して、抱きしめた。
『ーーー幸せに決まってんじゃん』
耳元で囁いた俺の言葉に、かすみは極上の笑顔を浮かべて見せた。
*
鮮明に思い出せる、かすみとの幸せの日々。
我慢しろ、と突き放したあの日からも、俺たちは同じ気持ちで一緒に前に進んでいたはず…。
本当に?
あの日のかすみを思い出せないのに?
俺たちは…、いや、俺は、もしかしてものすごい思い違いをしてるんじゃないだろうか。
かすみの抗議を受けてからも、時間配分を改めることはせずに友達との時間を優先していた。
何も言わなくなったかすみを、俺は物分かりの良い優しい彼女で良かったと思ったのだけは、覚えている。
かすみの気持ちなんか、気にもしていなかった。
かすみとは家が隣で、会おうと思えばいつでも会えたから。
徒歩3秒のところに居るから夕食の後や休日の朝、友達と遊んで帰ってきた後にだって会えるんだからなにもわざわざかすみを優先するまでもないんだ。
ふと、今日の学校でのやり取りを思い出す。
『榎本~、今日旦那借りるけど、良いだろ?』
『あ、うん、楽しんできなよ。皆で遊べるのもあと少しだろうし』
樹がかすみに許可取りをするのはもはや習慣化し、それに対して笑顔で良いよ、行ってきなよ、というかすみもまた「お決まり」だ。
だから俺は、特段気に留めるわけでもなく、快く送り出してくれるかすみを有難く思っていたけれど、今日は違った。
ここ最近、俺が感じていた「違和感」。
いつもとどこかが違う。
どこが、と言われてもうまく言えないんだけど、笑ってるのに、目の奥には不安が見て取れた。
大学受験の合否待ちという、一番不安なタイミングでもあるから、不安になるのも当たり前だろうと思いながらも、俺はかすみと話す機会を見計らいつつ今日まできてしまったのだ。
結果として、俺のそれは的中するわけだけれど。
一体、かすみは何を隠しているのか。
いくら考えたって、わかるはずもなく。
「あーもう、わけわかんねぇ」
独りごちて、俺はそのままベッドの上で目を閉じる。さっきのかすみの泣き顔がまぶたの裏に浮かんだ。
*
K大学の合格発表の日。
私は、K大の公式サイトの合格者発表のページを、震える指でタップした。合格者の受験番号がならぶ中から自分の番号があるのを確認した。本当に自分の番号だろうか、と何度もなぞるようにして確認してしまった。
椅子の背に倒れるようにもたれかかり、大きく息を吐く。そして、目をつむり天を見上げた。
「受かった…」
この瞬間、私の人生の選択により、新たな道が拓けた。
どこからともなくこみ上げてくるのは、喜びか、悲しみか、それとも恐怖か。
名前の付けられない感情に埋め尽くされていく。
それと同時に、まぶたの裏に浮かぶのは、凌の顔。
数日前にしてくれたおまじないが、効いたね。
ありがとう、凌。
ごめんね。
さよなら。
そう、さよなら。
私の新しい道の先に、凌はいない。
私は、一人で行くから。
閉じていた目を開けると、白い天井が視界に広がる。まるで、これから私が描いていく白地図のように思えた。まっさらな白い紙に描く私のこれからは、どんなものだろうか。
新しい土地、新しい人、そして新しい大学。
全てが変わる、これからの私の人生。
今はまだ不安も悲しみも大きいけれど、きっとかけがえのない経験になるだろう。
逸る胸を鎮まらせて、私はスマホの連絡帳を開いて発信ボタンをタップする。
まだ、やらなくてはいけないことがあった。
「あ、優子叔母さん?久しぶり~!元気してた?」
『香澄久しぶりねぇ、元気よ、なぁに?あんたが連絡してくるなんてめっずらしい』
優子叔母さんは高知県に住んでいる母の妹。
遠いのでなかなか会える機会は少ないけれど、フットワークの軽い叔母さんは暇を見つけてはよく我が家にきてくれて、姪っ子の私を遊びに連れ出してくれる優しい叔母だ。子どもの居ない叔母夫婦は、何かにつけて私の事をかわいがってくれていた。
「あのね、本当は会って話したかったんだけど…、私、K大受かったの」
『あら、おめでとう!…え?K大って、こっちのK大のこと?!』
K大にこっちもあっちも無いと思うけど、と思わず笑ってしまう。これからとんでもないお願いをしなければならないのに。
「うん、高知県のK大のこと。それでね…、アパートが決まるまで4月から叔母さんの家に居候させてほしいの…!お願い!」
『はぁ?礼子(あやこ)から何も聞いてないけど…、ちょっと、どうしたの、急に。わかるように説明しなさいよ』
文子というのは、私の母。年子の姉妹のため姉のことを呼び捨てにしていた。
叔母が混乱するのはもっともなことで、私は事の経緯(いきさつ)をかいつまんで説明した。
凌と離れたいけど離れられなくて、今回の選択をしたこと。でも決して後ろ向きではなく、ちゃんと自分の好きな専攻であること。親同士の仲が良いため、自分の両親にも内緒にしたいこと。事前に家探しが出来ないから落ち着くまでは叔母さんの家に居させてほしいということ。
途中、凌とのことを話しているうちに泣いてしまい上手く説明できない間も、叔母さんは「うんうん」としっかりと耳を傾けてくれていた。
『ーーーうん、とりあえず、わかった。凌くんとのこと、ツラいわね…。あんなに仲が良かったのに…、でも、香澄が決めたことなら、私も尊重したいと思う。それに、香澄の居候は大歓迎よ。香澄と一緒に住めるなんて夢みたい~!家が決まるまでなんて言わずに卒業するまで居てもいいわよ~』
ありがとう、と私が言う前に、『けどね』と叔母さんの声が届いた。
『一つだけ、譲れない所があるの』
「う、うん…」
なんだろう?
スマホを握る手がじとっと汗ばんでくる。
『文子と修二さんにはちゃんと言うこと。とりあえず、来週そっちに行くから、話しましょう。良いわね?』
「うん、優子おばさん、ありがとう…、迷惑かけてごめんなさい」
また、涙が出てきてしまった。
『また、泣いてぇ。こっちこそ、ありがとう。香澄が私のことを頼ってくれて、嬉しいのよ』
電話の向こう、鼻をすする音が聞こえて、こちらも涙腺がまた緩む。
そんな風に言ってもらえて、私は幸せ者だし、こんな形でしか叔母さんに頼れないのが申し訳なく思った。
叔母さんは、やっぱり叔母さんで、うまく言えないけど、変わってなくて。いつも私の味方でいてくれる存在なのはやっぱり間違いない。
またメールするから、と叔母さんは早々に電話を切ってしまう。きっと泣いているのを気づかれたくないのだろう。
母が「優子は人一倍泣き虫なくせに、人には絶対に泣いてるところを見せないのよ」と言っていたのを思い出した。
確かに叔母さんの涙を見た場面は今まで一度もない。
一緒に住んでいる間、目いっぱい孝行しようと心に誓った。
住居を確保できて一安心したけれど、両親に伝えなければならないと思うととても憂鬱だ。
凌の両親と顔を合わせれば、自然と大学の話にもなるだろう。そうすれば両親は、嘘をつかなければならなくなる。それが、たまらなく申し訳なかった。
凌の両親に対しても、もちろんたくさんお世話になってきて私のことを娘同然に接してくれてきただけに、罪悪感はあった。
彼らには、手紙で謝罪を送るつもりでいる。
きっと、凌のことを裏切って傷つけたことを許してはもらえないだろう。
でも、これも、自分が自分で選んだ道なのだ。
自分がどこで誰とどんな風に関わり生きていくのか、自分で選択できることなら自分の意志で選ぶことで変わっていく。
変えるのも変えないのも、自分次第。
他の誰でもない、自らの選択によって、道が作られていく。
そして、自分がしたことは全て自分に返ってくるということも、忘れてはいけない。
私は、スマホのロックを外して、沙和子に一言「受かった」とだけメッセージを送った。
数分も経たないうちに祝いの言葉が返ってきたところを見ると、気にして待っていてくれたのかもしれない。
沙和子とは高校に入ってからの仲だけど、とても気が合って今では一番の友達。その沙和子も、S大を受験している。
本当は…、本当は、私も出来ることならみんなと一緒にS大に行きたかった。
仲の良い友達と、大好きな凌と一緒にわいわいできるキャンパスライフを夢見ていた時期もあったのだ。
その夢を捨ててまでこの道を選ぶ決断を沙和子に伝えた時、バカだと言って一緒に泣いてくれた。
自分でもバカだと思う。
でも、どうしようもないの。
ティッシュで鼻をかんで、涙を拭いて私は、制服に着替える。担任に合格の報告をしに行くためだ。次の登校日でも良かったけど、担任には本当にお世話になったし、気にかけてくれているだろうから、早く伝えたかった。
「そうかぁ!受かったのかぁ!おめでとう、よく頑張ったなぁ榎本!」
ちょうど職員室に居た担任は、それはそれはとても喜んでくれた。
「ありがとうございます。先生のおかげです。先生が勧めてくれなかったらK大なんて選択肢にもなかったので」
「いやぁ、お前が頑張ったからだよ。…でも有岡は寂しがるんじゃないのか?」
有岡とは、凌のこと。
もはや学校イチの名物カップルだから、私と凌の関係は担任はもちろん、他のクラスの先生も知っている。
「あ、先生…、そのことでお願いがあるんですけど…」と私は少し先生に近づいて声のボリュームを落とす。
「私と凌、もう別れちゃったんですよ」
「は?わ、別れたぁ?」
「わわわわっ!しーーー!先生声大きい!」
慌てる私に、先生は「ご、ごめん、びっくりして」と心底驚いた顔をしていた。
まぁ、無理もないか。
かれこれ3年も付き合ってる私たちを、誰もが口々にこのまま結婚するんだねーと言っている程だから。
「別れてることも、私がK大行くってことも、他の人には言わないでもらいたいんです…。お願いします!」
「ま、まぁ、言いふらすようなことでもないからなぁ…。わかったよ、先生からは言わないでおくな」
「ありがとうございます」
「そうかぁ…、先生はお前と有岡の結婚式に呼ばれるの楽しみにしてたんだけどなぁ…」
先生がそこまで考えてくれてたなんて…。
嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちとで板挟みになり、私は曖昧に笑うしかできない。そんな私をみて気まずくなった先生は、「こんなこと言われても榎本も困るよな。こればっかりは、仕方ないもんな」とすかさずフォローを入れてきた。
「最後の最後に、わがまま聞いてもらってすみません」
30分間に満たない滞在を終え、最寄り駅に着いた私は駅ビルをプラプラ歩いていた。
別に何を買うでもなく、ショッピングを楽しむ人たちの喧騒の中を進む。
この、通いなれた駅ビルにさえも、凌との思い出が詰まっていた。
よく行くカフェ、凌の好きなブランドショップ、お気に入りのクレープ屋、ハンバーガーショップにファミレス、雑貨屋…。
私がたまに利用するヘアアクセサリーをメインに扱うお店が目に入る。
凌とお揃いのミサンガを買った店。
凌が、なんでも部活で流行ってるとかいうミサンガが欲しいと言い出して、私が連れてきてあげたのだ。
私に選んでほしいと言うから選んで渡すと、凌は自分でもうひとつ選んで会計へ向かった。2本もつけるのか、と見ていたら戻ってきた彼は自分が選んだひとつを私にくれたのだった。
色も柄も違ったからお揃いと言えるかどうかは微妙だけれど、すごく嬉しかった。
家に帰って、お互いに結び合ったのを覚えている。
そのミサンガは、今も私の左腕にひっそりとあった。
もう1年以上前なのに、なかなか切れないミサンガ。
つけているのも忘れるほど、体の一部と化している。
これを結んだ時、かけた願いは…。
ーーーー二人の関係が、変わりませんように。
当時、2年生になって凌の世界が私だけじゃなくなって広がっていった夏休み、凌がグループの中の女子と二人で買い物しているところを目にしてしまった。あとあと、あの日は何をしていたのかと探りを入れれば、仲間と遊んでいたと凌は嘘をついた。
後ろめたいことがないのなら、事情があって出かけていたんだと打ち明けてくれると願っていたのにそうじゃなかったんだ、と悲しくなった。
あの子との間には何もないから心配するな、って言ってほしかったのに。
こんなことなら、最初から探るような聞き方をせずに問いただしていればよかったと思いながら、私はそれ以上何も聞けなかった。
そんなこともあって私はミサンガにそう願いを込めた。
今でこそバカだな、と思える。
変わらないものなんて、ないのに。
でも、あの時は切にそう願っていた。
そういえば、凌のミサンガは切れたのかな。冬は長袖を着ているから見えないし、気にしてもいなかった。
凌は、ミサンガにどんな願いを込めたのだろう。あの時は、お互い内緒ね、と決めて言わなかったから知らない。
「あれ、榎本じゃん?」
不意に呼ばれて声の方を振り返ると、見慣れた顔ぶれの人達がぞろぞろと歩いていた。
「樹くん…」
私に一番に気づいた樹くんの声に、他のメンバーも次々私を捉える。
みんなで遊んでいたんだろう。
もちろん、そこには凌の姿と、少し離れたところには、あの時凌と二人でいた女子の姿もあって、胸が痛む。
もしかしたら、この高校生活では私より彼女の方が凌といる時間が多いんじゃないだろうか。そう思うと、悔しい気持ちと悲しい気持ちとが入り交ざったドロドロな感情が湧き上がってきた。
凌はメンバーを代表するかのように私に歩み寄ってくる。チノパンにセーターを合わせてダウンジャケット姿がなかなか様になってる。こうして改めて外で見ると、かっこいいなと思う。
「かすみ、なんで制服?」
あ、そうだった。自分が制服だったのをすっかり忘れていた。
タイミングわる…。
瞬時に何かそれっぽい理由を、ない頭をフル回転させて探す。
「あー、ちょっと担任にクラス卒アルの手伝い頼まれちゃって、今帰り」
この前の登校日にクラス卒アルの係の子がまた学校に来なくちゃいけない、と愚痴っていたのを思い出して便乗させてもらうことにした。
「ふーん…。昼飯食べた?」
「まだだよ。そっちこそ、これからみんなでお昼?そこのファミレス?」
安さが売りのイタリア料理がメインのファミレスは、凌たちのたむろ場だ。
「あーうん、そうだけど…、お前この後どうすんの?」
「もうちょっとぶらぶらして、帰ろうかなって」
「そっか、ちょい待ち」
そう言ってメンバーの元へと戻り何か話をしたかと思えば、凌は「悪い、またな」と彼らに手を振る。「榎本、またなー」と手を振る樹くんに、私も手を振り返して応えた。
戻ってきた凌に「ご飯行くんじゃないの?」と聞くと、「やっぱやめた。二人で飯食いに行こうぜ」などと言い出した。
「え、だって、せっかくみんなと約束してたのに…」
「いいじゃん、ここで会ったのも何かの縁だし、久しぶりにデートしよ」
「…」
予想を遥か斜めに超えていく凌の言葉に、フリーズしてしまった。
デート?
そんな単語が凌の口から出たのはいつぶり?
なんなの、急に。
しかも、アポなしですか。
「…やだ?」
凌の相変わらずのマイペースっぷりに、苛立ちがふつふつと湧き上がってくる。
いやだなんて、言えるわけないじゃんか。
こっちが、どんな気持ちでいるか、知らないくせに、今さらそんな彼氏ぶられても困るのに…。
「…おごってくれるんでしょうね」
自分の意志の弱さに辟易しつつ、「やった!」と喜ぶ凌の姿に、私の心は無責任にも弾むのだった。
どうしよう…。
また一つ、凌との思い出が、増えてしまう。
「あれ、榎本じゃん?」
駅ビルで樹がかすみを見つけるよりも先に、俺はかすみの姿を捉えていた。平日の昼間に一人歩く制服姿は特に目立っていたのもあるけれど、それよりもかすみの後姿や頭の形、髪型ですぐにわかった。
でも、声をかけられなかった。
なんでって、1年以上前にお揃いのミサンガを買った店の前で、自分の左腕に結ばれているミサンガをじっと凝視して立ち尽くしていたから。
その姿を見た時、また、地面がすーっと離れていくような感覚に襲われて、かすみの名を呼べなかったのだ。
ずいぶん長いこと切れないで腕にはまっているミサンガを見て、かすみは何を思い考えていたのだろう。
彼女の、その浮かない横顔から想像するに、それは決して「良いこと」ではないように思う。
ミサンガを買いたいと言ったのは、俺。
同じグループの女子が、彼氏に贈るプレゼントを買いたいけどメンズ店で入りづらいからどうしても一緒に来てほしい、と泣く泣く頼まれて付き合ったのがきっかけだった。
その時、その女子から恋人の間でミサンガが流行っているという話を聞いて、かすみとお揃いで付けたいと思ったのだった。我ながら乙女チックだと思い、恥ずかしくてかすみには部活で流行っているからとかなんとかごまかした記憶がある。
何かの拍子に、かすみにその日のことを聞かれた時焦った俺は、とっさにいつものグループと遊んでいたと嘘をついてしまった。
嘘をついたのは、要らぬ疑念を抱かせたくなかったからだけど、こんな後ろめたい思いをするくらいなら最初から事情を話しておくべきだった、と我ながら反省したのを覚えている。
「かすみ、なんで制服?」
尋ねると、かすみは気まずそうな顔をした。そんなたった一瞬のかすみの表情の変化に、最近の俺は落ち着かない。
「あー、ちょっと担任にクラス卒アルの手伝い頼まれちゃって、今帰り」
そんなこと、一言も言ってなかったよな。
そう思いながらも、疑う筋合いのない俺はそれ以上の追及はやめておく。
それに、そもそもお互いの予定を話すほど二人の時間を取っていないということに今気づいた。
そうだよ…、ここのところは特に受験があったから二人でどっかに出かけることなんて全くなかったんだ。
明日はS大の合格発表で、また似たようなメンバーと一緒に見に行く約束をしているからと思い、俺は皆に断りを入れた。
「らぶらぶだねぇー」とニタつくやつ等からの冷やかしを流しながら、俺はかすみと向き直る。
「ご飯行くんじゃないの?」
「やっぱやめた。二人で飯食いに行こうぜ」
「え、だって、せっかくみんなと約束してたのに…」
「いいじゃん、ここで会ったのも何かの縁だし、久しぶりにデートしよ」
「…」
デート、という言葉に、あからさまに反応したかすみ。
その沈黙は、否定か肯定か。
待ちきれずに「やだ?」と聞けば、少しして「…おごってよね」とかすみが言った。しぶしぶでも了承を得た俺は嬉しくて「やった!」と柄にもなく喜んでいた。
「かすみは何食べたい?」
「なんでも良いよ。凌の食べたいもので」
久しぶりのデートにテンションがぐんぐん上がっていく俺とは違い、かすみは至っていつもと変わらない。可愛げのない返答に、俺ばっかりバカみたいだ。
「そっか、じゃぁ、久しぶりにチェリブロで良い?かすみも好きじゃん、あそこのハンバーガー」
「良いね、私も久しぶり」
チェリブロは、ちょっと小洒落たハンバーガーショップで正式名称はチェリーブロッサム。大手全国チェーンのバーガーショップとは違い、値段もそれなりだけどポテトもバーガーも各段に美味い。
駅ビルの最上階にあるそこの窓際のカウンター席に通された俺とかすみは、肩を並べて座りガラスの外を眺めていた。
「この景色、なつかしー。よく来てたよねぇ」
相槌を打ちながら、横目でかすみを盗み見る。目を細めて微笑むかすみは綺麗だった。
その目が見ているのはいつの景色だろうか、と感じるほどにかすみの目は遠くを見ているようで、思わずかすみの名を呼ぶ。
「ん?」
その視線が今度は自分に向けられて、ドキッとする。
何がしたいんだ、俺は。
「い、いよいよ明日だな」
S大の合格発表がとうとう明日に迫っていた。
「かすみは、千野と合格発表見るんだよな?」
「うん。凌はみんなとS大まで行くんでしょ?」
「行くよ」
S大で張り出されるのを見に行こう、と皆で約束している。ネットで見れるけど、よくテレビで見ていたような臨場感を味わおうじゃないか、と今日も話していたところだった。
「ほんっと仲良いよねぇ」
ため息と一緒に出た言葉には、確実に呆れが混じっていた。
「ま、まぁな」
「きっと、大学卒業して社会人になっても時間作って集まってバカやってるんだろうね」
ふふ、と柔らかく笑い、そして俺を見つめて「良かったね」と言う。
「何が?」
「凌にそういう仲のいい人がたくさん居て」
「かすみにだって、千野がいるじゃんか」
「そうだね」
「ーーー俺だって…居るだろ」
「うん、居るね」
ーーーー俺は、ずっとお前のそばに居るよ。
心の中なら言えるのに、当の本人には言えない根性なしだった。
「食い逃げすんなよ」
食事を終えて俺が会計を済ませると、そそくさと一人帰ろうとするかすみを捕まえる。
「え、だめ?」
「だめ。デートって言ったろ」
「…はいはい。お次は、なんでしょうか」
観念するかすみの手を握り、俺は歩き出す。その感覚にまた懐かしさがこみ上げてきた。
ーーーあぁ。
こんなごく普通のデートのどれもが久しぶりだと、懐かしいと思う程に、俺たちは時間を共有してこなかったんだな。
かすみと居る時間は、こんなにも心地いいのに。
「お前、背縮んだ?」
「バカ言わないで、そっちが伸びたんでしょーって…、凌、これ…やるの?」
うそでしょ、と言わんばかりの顔で見上げてくるかすみの背を押して、せまいボックスに二人で入り込む。世間でいうプリクラだ。
「きょ、今日はやめとかない?」
「なんでだよ」
「だって私化粧も薄いし…髪型も…」
「そんなの気にしないよっとー」
俺はさっさと100円玉を投入して操作を始める。適当にフレームやら枚数を選ぶとカウントダウンが始まった。
ーーーーハイ、カメラ見てね♪5・4・3…
「ちょっ、や、ま」
「ほら、笑えよ」
カシャリ
最初の一枚は、頬にキス。次は、後ろからかすみを抱きしめて。最後は、かすみの顎を持ち上げて唇にキスを落とす。
全部が全部、昔よくした懐かしいポーズだった。
スマホに貼ってあるプリクラは、もう色あせてかすれていて顔すら判別が難しい程だ。
「んっ、…し、しのぐ…いつまでしてんのよっ!バカ!」
撮影が終わってもキスをやめない俺の胸を押しのけて、叩いた。
「だって、止まんなくなっちゃって」
「だってじゃないよ、もう」
「もう一回、させて」
「言い方!あ、ほ、ほら、デコらないと時間なくなっちゃう!」
迫る俺から逃げるように、機械のタッチパネルを操作するかすみを後ろから抱きしめる。
「…、凌もやってよ」
「俺わかんないもん」
「もう、言い出しっぺのくせに」
小さなかすみの頭に頬をすり寄せれば、腕の中の彼女はくすぐったそうに身じろいだ。
「ちょっと、邪魔…しないで」
言葉とは裏腹に、さっき俺のことを押しのけて叩いた手はタッチペンを握ったままだ。拒絶されないのを良いことに、抱きしめる腕を強めて、かすみの白いうなじに口づけを落とす。びくりと跳ねた体。構わずそのまま強く吸えば、赤い花びらが白い肌にくっきりと浮かび上がった。それは、かすみは俺のもの、っていう俺の独占欲の現れ。けどこれは、他の男へのマーキングじゃなく、かすみ自身へ伝えるためのものだった。
「なぁ、かすみ」
「な、なに」
ーーー好きだ。
たった3文字の言葉が、言えなかった。昔は、なんの衒いもなく言えたのに。
「キスしたい」
これが、今の根性なしの俺の、精一杯の愛情表現。
「…」
後ろの俺からかすみの表情は見えなくて、不安になる。
タッチペンを置いたかすみは、俺の腕の中でゆっくりと体ごと振り向いた。
俺は俯いたままのかすみを覗き込むように顔を近づけていく。
すると、俺の腕にかすみの両手がそっと置かれた。
また、押しのけられるのか、と身構えたのもつかの間、俺の唇にかすみのそれが重ねられた。
かすみからキスしてくれたのだと、一瞬遅れて理解して、嬉しさでいっぱいになる。
ーーー好きだ。
俺をこんな気持ちにさせるのは、かすみしかいない。
名残惜しくも離れれば、恥ずかしそうに視線を泳がせるかすみの顔がすぐそばにあった。
かすみの後ろで機械が操作を促す声をあげていたが、もうプリクラなんかどうでもいい。写真よりも、実物が目の前にいるんだから。
いつまでたってもこちらを見ようとしないかすみの頬に手を触れる。
目の下を親指でそっとなぞると、おずおずとまぶたが持ち上がって俺を捉えた。
その瞳は、何かを訴えるかのように揺れて、そして俺の感情を揺り動かす。
どうしようもない程に、心が、体がかすみを求めていた。
「な、なんか、いつもの凌じゃないみたい…」
もう一度抱きしめた俺の腕の中、かすみが戸惑いを見せる。
戸惑ってるのは、かすみだけじゃなかった。
俺だって、こんなにもかすみを愛おしく感じて求めているのが不思議だった。
こんな風に、外で抱きしめて、キスをせがむなんて、今までの俺なら考えられない。どちらかと言えば、学校のヤツに冷やかされるのが嫌で外でくっつくのを避けていたくらいだ。
「俺も…そう思う」
「…へんなの。ーーあ、プリクラ出てきた」
唐突にかすみが言って、俺のわきの下を潜り抜けていった。受け取り口から取り出したそれを見て頬を赤く染めて微笑むかすみ。
今日は、なんだかかすみがいつもの100倍かわいく見える。
「はい、半分」
置かれているハサミで手際よく切り分けたそれを受け取って、見ようとしたらかすみの手がそれを阻んだ。
「は、恥ずかしいから、家に帰ったら見て!」
「なんだよ、イマサラじゃん」
そんな恥ずかしがる質かよ。
プリクラの中のかすみがどんな顔をしていたのか気になったけど、手を引っ込めないどころか鞄に押し込もうとするかすみに負けて、仕方なく鞄のポケットにしまった。
「イマサラだから恥ずかしいんじゃん。いつぶりだと思ってるのよプリクラ撮るのなんて」
「確かに」
「…」
妙に納得する俺を、かすみはじっと睨みつけた後、俺を置いて歩き出してしまう。
「お、おい」
何が気に障ったのか、わからない。
慌てて隣に並んで覗きこんだ顔は、怒っても笑ってもいない。少し伏せられた目が、どこか悲しみを演出している。
「かすみ」
「クレープ」
「は?」
「クレープ食べたい」
俺を見上げたかすみは、もう笑っていた。「おごってくれるよね?」とにやにやして言う。「しゃーねーなぁ」と返して、良くかすみと行ったデパ地下のクレープ屋へと二人で歩を進めた。
まるで、昔に戻ったみたいだ。
まだ付き合って1年も経たない頃。
学校帰りはいつもこの駅ビルで必ずぶらぶらしてから家に帰っていた俺たち。
特に目当てのものがあるわけでもなく、俗にいうウィンドウショッピングを楽しみながら、二人で時間を過ごしてた。
手をつないで、エスカレーターを上ったり降りたり、ファミレスやカフェで時間をつぶしたり、かすみの買い物に付き合わされたり。
本当に、俺たちずっと一緒にいた。
「かすみは、いつものチョコバナナカスタード?」
毎回同じのしか頼まないかすみと、毎回違うのを頼む俺。
「うん」
「ははっ、未だにそれなんだ。よく飽きないな」
壁に貼ってあるメニューを見て少し考えてから、俺はイチゴナッツクリームとかすみのチョコバナナカスタードを注文した。
店員が手際よくその場で生地を薄く延ばして焼くのをなんとなく二人で眺めて、あっという間に出来上がったクレープを受け取る。俺とかすみは示し合わせたように、店先に置かれたベンチに腰掛けた。
「ん」
そして、いつものように俺は手に持ったクレープをかすみの顔の前に持っていく。それをかすみは一口かじった。
「おま、一口デカすぎだろ」
「ちっちゃいおとほはひらわれるわよ」
「いや、何言ってるかわかんないから」
笑って、俺も一口頬張る。ナッツが香ばしくイチゴの酸味と合ってなかなか美味い。
「凌のも美味しい。次はそれにしようかな」
かすみの言葉に、俺はすかさず「うそつけ」と突っ込みを入れる。そう言って、本当に注文した試しがない。次来ても、必ずまた同じチョコバナナカスタードになるのが関の山だ。
「だって、やっぱりこれが食べたくなっちゃうのよね」
ふと、クレープを持つかすみの手首、あのミサンガが視界に入った。さっき、神妙な面持ちで凝視していたミサンガだ。
昔、俺が選んでかすみにプレゼントしたやつ。
ミサンガを買いたいと言ったのは、俺。
同じグループの女子が、彼氏に贈るプレゼントを買いたいけどメンズ店で入りづらいからどうしても一緒に来てほしい、と泣く泣く頼まれて付き合ったのがきっかけだった。
その時、その女子から恋人の間でミサンガが流行っているという話を聞いて、かすみとお揃いで付けたいと思ったのだった。我ながら乙女チックだと思い、恥ずかしくてかすみには部活で流行っているからとかなんとかごまかした記憶がある。
何かの拍子に、かすみにその日のことを聞かれた時焦った俺は、とっさにいつものグループと遊んでいたと嘘をついてしまった。
嘘をついたのは、要らぬ疑念を抱かせたくなかったからだけど、こんな後ろめたい思いをするくらいなら最初から事情を話しておくべきだった、と我ながら反省したのを覚えている。
「それ、まだ切れてなかったんだな」
「え?」
「ミサンガ」
「あ、うん。凌は?切れた?」
返事の代わりに左腕の袖をめくってそれを見せる。
「なかなか切れないもんだねぇ」
「だいぶ擦り切れてきてるけどな」
かすみに選んでもらった青と黄色が基調のミサンガは、ところどころ擦り切れてもういつ切れてもおかしくない状態だった。
そういえば、かすみはミサンガに何を願ったんだろう。
確かあの時はお互い秘密にして言わなかったから、かすみがどんな願い事をこのミサンガに込めたのか、俺は知らない。
今なら時効だろうか、と思い切って聞いてみた。
「…願い事ってなににした?」
「それは、お互い秘密でしょ」
「かすみのけち」
「はいはい、何とでもどーぞ」
「じゃぁ、願いが叶ったかどうかだけでも教えてよ。それくらい良いだろ?」
食い下がる俺に、かすみは考えるそぶりを見せた後、口を開く。
「ーーーそれも内緒」
「それも教えてくれないのかよー」
「願い事は、人に軽々しくいうものじゃありませんー」
軽い言葉とは裏腹にかすみの顔は笑ってなかった。
「まぁ、それもそうか」
その表情から、また地雷を踏んでしまったと思い、俺は慌てて話題を変える。
「卒業式終わったらさ、樹たちと一泊で卒業旅行いってくるわ」
樹とあと数人は受かれば同じS大だけど、他の数人は違う大学、もしくは県外の大学に決まったやつもいた。全員で集まって遊べるのも、最後になるから思い出作りに旅行に行こうと皆で決めた。
「いいなぁ、楽しそう。どこ行くの?」
「群馬のスキー場にボードやりに」
「わぉ!ボードやって美味しいごはん食べて、温泉入って幸せだね~」
「かすみも、千野とかと行けばいいのに」
「んー、行けるなら行きたいけどね。沙和子は家族で旅行行くって言ってたから忙しそうで」
「じゃぁ、俺と行く?」
どんな反応をするのかと思えば、「お金ないでしょうが」と一蹴されてしまう。3年になってからバイトをやめてしまったから確かにそんな余裕はない。
「まぁ、今は無理でも、大学入って金貯めたら行こうな」
「うん…行きたいね」
かすみとなら、京都とか大阪とかが良いかもしれない。クレープを頬張りながら、これから先の未来に思いをはせた。
***
泣きそうだった。
何度も、何度も、喉の奥からせり上がってくる圧迫感を押さえつけて必死に堪えた。
ここで泣いたら、凌にあやしまれてしまうから絶対に泣いてはだめ、と言い聞かせて。
どうして。
なんで、今さら、あの日の凌に戻るの。
懐かしい景色を見ながら凌と食べる久しぶりのハンバーガー、プリクラでの甘いキスと熱い抱擁、首筋に咲いた印、いつものクレープ。
まるで、昔に戻ったようなふたりの時間だった。昨日の事のように思い出せるのに、そのすべてが懐かしい。
もう戻らないと思ってた「あの日」にいるような錯覚に陥るほどに。
けれど、幸せもつかの間、現実に引きずり戻され、私は暗い底に落ちていく。
だって、もう、ふたりではいられないから。
それに、たとえ私が今の凌を受け入れたとしても、どうせまた繰り返して、痛みを伴うだけ。
もう、泣きたくない。
お願いだから、これ以上、涙を流させないでほしい。
なのに、優しい凌を恨めしく思う以上に、幸せでどうしようもなくて目の前の幸せを突き放せなかった。
そんな自分も卑怯で許せない。
くるしい。
凌が私にくれるしあわせの全部が、くるしいの。
手にしても、砂のように崩れ落ちていく一時のまぼろしとわかっていながら、私は手を伸ばして掴もうとしてしまう。そしてどれほど強く握りしめていても、指の隙間から零れて最後には何も残らないその寂しさに涙するのだ。
わかっていて、止められない。
まるで中毒のように、凌がくれる幸せに乾き飢えていた。
*
「ーーーー良かったぁ~!受かってたよかすみ!」
沙和子が心底ほっとした声で言った。
S大の合格発表の日。
私の部屋で、沙和子と合否の確認をしていた。
確認のページに自分の受験番号を入力し、せーの、で確認ボタンを押したのだった。手にするスマホの画面には、『受験番号xxxxxのあなたは合格です。おめでとうございます』の文字が表示され、背景には桜の花びらが散っていた。S大はカモフラージュで受けただけだけど、やはり受かっていると嬉しい。
「おめでとう!お互い受験から解放されたね」
そこに尽きる。
長かった受験シーズンがこれで終わったのだと思うと、肩の荷が下りたように体も心も軽かった。
「乾杯!」
「今日は飲んで食べよう!」
部屋のちゃぶ台の上には持ち寄ったジュースとお菓子が既に広げられていた。私と沙和子はジュースの入ったコップを手に取りコツンと鳴らしてから口に運ぶ。緊張で乾いた喉にそれは気持ちよく染みていった。
と、その時、スマホが着信を知らせる。
画面に表示された見慣れた名前に、伸びた手が止まってしまう。
「出てあげなよ。きっと合格の電話だよ」
沙和子に促され、スマホを手に取り通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、かすみ!受かったよ俺!』
凌は、とても興奮していた。
電話の向こう、聞こえるたくさんの人。樹くんの声も混じっている。
『もしもし?聞こえてる?』
「うん、聞こえてるよ。おめでとう、凌」
本当に、おめでとう。
凌が、頑張ってきたのをそばで見てきたから、本当に嬉しい。
『かすみも千野も受かっただろ?』
「うん、受かったよ」
『よっしゃぁ!これで大学生だな俺たち!…ーーー榎本ぉ~俺も受かったんだよ~!春からまたよろしくなぁ!…樹!こら返せよ!…あ、もしもし?悪い、騒がしくって、またあとでな』
テンションの高い樹くんの声に笑ってしまう。ちょっと鼻声なのは、もしかしたら嬉しくて泣いていたのかも。
「うん、樹くんにもおめでとうって伝えといてね。じゃぁね」
最後まで言い終わらないうちに通話は切られ、プープーという電子音を残したスマホをテーブルに置いた。
ふぅ、と一息。
「良かったね」
穏やかな笑みを浮かべて言った沙和子に、私は頷き返す。すると、沙和子は神妙な顔つきでおずおずと口を開きかけて再び閉じた。
「どうしたの?」
「…ううん、なんでもない」
そう言って、伏せられる瞳。
その顔は、なんでもない顔じゃない。
煮え切らない沙和子に、「言いたいことがあるなら言ってよ」と肩を軽く押せば、沙和子は視線をあげて私を捉える。
「…やっぱりS大にするっていう選択肢は…もうないの…?」
耳の奥が、プツンと膜を貼ったような、気が遠くなる感覚。
真っすぐ見つめられて目が逸らせない。
聞くんじゃなかった。
気づかない振りをすればよかった。
そんな薄情な考えを頭の片隅に押しやって、私は、考える。
ううん、考える必要なんか、ない。
確かに昨日の凌との時間は、私を幸せにしてくれたし、やっぱり凌の事が好きだと痛感したけれど、それじゃダメなの。
「…繰り返しなんだよね」
もう、私たち、慣れ過ぎちゃった。
一緒に居すぎたみたい。
「私も、凌も、このままじゃ大人になれないから」
もう、同じ過ちは繰り返したくない。
「そっか…、ごめん、しつこいよね私も。ただ…私は、香澄とS大行きたかったなって」
「沙和子…ありがとう。ごめん…、ごめん。私だって、本当はさ…沙和子と離れたくないんだよぉ」
「うん、うん、わかってる。ちゃんとわかってるから」
鼻がツンとして、目頭が熱くなった。
なんでこんなに、融通が利かないんだろう私は。
凌に一言「別れよう」と言えばいいだけなのに。それができないで、こんなややこしい道しか選べないのが、情けない。
鼻をすすれば、隣で沙和子も手の甲で涙を拭っていて、見合って同時に吹き出した。
「やだ、もう。せっかく合格したのに、なんで私たち泣いてるの。香澄のばか」
「ごめんってぇ…。辛気臭くなっちゃったね。お菓子食べよう、今日は打ち上げなんだから」
こんなになんでも話せて打ち解けられる沙和子と離れるのも、苦しかった。でも、たとえ離れても私たちはきっと大丈夫って信じてる。
「もしさ、歳とってお互いひとり身だったら一緒に暮らそうね」
目じりから滲む涙を指で拭いながら言えば、沙和子は眉間に皺をよせて「絶対ヤダ」なんて酷いことを言う。
「それを言うなら、お互い絶対しあわせになろうね、でしょ」
そうだね、それが正解。
「うん、約束」
「私はさ、香澄と離れててもずっと友達だから」
「うん、ありがとう」
「香澄の選んだ道だから、応援する」
「沙和子…やだもう、泣かせないでよ」
せっかくおさまった涙が、また溢れてきてしまった。
「おかしい、な…、嬉し涙が…」
気持ちを落ち着かせようと試みるも、涙はぽろぽろと粒となって頬を転がり落ちていく。
「泣けばいいよ、好きなだけ」
沙和子の手が伸びて、私の頭を抱えるように引き寄せられるとふんわりと沙和子のシャンプーの香りに包まれた。
「ツラいね…、苦しいね…。なんで、うまくいかないんだろうね…」
耳に届く優しい声に、涙腺が刺激されてしまう。
親にも誰にも言っていない今回の私の決断を、沙和子が知っていてくれて応援して、理解しようとしてくれている。
それだけが、私の支えだった。
「沙和子ぉ…、っうぅ、…ヒック…大好きだよ」
「はいはい、私も大好きだから」
手のかかる親友で、ごめん。
そばにいてくれて、ありがとう。
沙和子は、最高の親友だよ。
今までも、そしてこれからも。
私も、沙和子にとって最高の親友でありたい。
沙和子が私にしてくれたように、沙和子が落ち込んだり悲しんだり悩んだりしたときには、応援して支えたい。
その時のためにも、今を乗り越えなくちゃ。
そう、強く思った。
「ただいまー」
S大の合格報告に行く沙和子を駅まで見送って、学校に報告してくると母に告げて家を出た手前一人適当に時間をつぶしてから家に帰ると玄関に見慣れたローファーがあるのに気づく。
凌のだ。
母と凌の話し声がかすかに聞こえてきた。
いやだな。
今日は、会いたくなかったな。
おめでとうと直接伝えたい気持ちと、S大の話になるのが嫌だという気持ちのせめぎ合いだった。
リビングのドアをくぐると二人から同時におかえりを言われた。ダイニングテーブルで二人向かい合ってお茶してたようだ。テーブルの上には、コップと美味しそうなケーキが置かれている。
「ただいま。凌、合格おめでとう」
「おう、サンキュー。かすみも、受かってよかったな」
私も、「うん、ありがとう」と笑顔で返す。
「凌くんが合格のお祝いにケーキ買ってきてくれたのよぉ。香澄も食べる?」
「食べる食べる。気が利くじゃない、凌のくせに」
「お前なぁ、一言余分なんだよ」
「あ、ペペのケーキだ。やった」
お気に入りのケーキ屋の箱にテンションが上がる。中を覗けば、私の好きなイチゴのミルフィーユがちゃんとあった。
昨日もだけど、私の好きなものをちゃんと覚えてくれているのは、すごく嬉しい。
「あれ?そういえば、報告のあと打ち上げしてくるって言ってなかった?」
「あー、先帰ってきた」
昨日だって私に付き合って遊んでないのに、今日もなんて。
珍しいこともあるものだと思ったけど、私は「そっか」とだけ返して、ケーキとジュースを手にダイニングテーブルの凌の隣の椅子に座る。
「いただきます」
「どーぞ」
「美味しいわよ、ペペのケーキ。あ、私は洗濯物たたんでくるわね」
食べ終わった母は、自分の分の皿とカップを流しへ運ぶとさっさと消えてしまった。
急に沈黙が訪れて、気まずくなる。
さっきから、凌とまともに目を合わせられていない。
大事な人たちに嘘をつくのが、こんなに後ろめたくて心痛いなんて知らなかった。
隠し事なんてなかった私たちの間に、大きな大きな隠し事。
あと、1か月の辛抱。
嘘をつきとおすのが、まるで方便だと自分に言い聞かせるようにして、ここまで来たの。
自分の選んだ道なのだから、たとえ苦しくても進むしか、私に残された道はない。
そう、違う道は、もう捨てた。
あなたのそばにこれ以上いても、私の心はどこにもいけない。
だから、私は笑うよ。
「美味しい!ミルフィーユはやっぱりペペが一番!」
あなたの前で。隣で。
あなたが大好きだから。
「ありがとう、凌」
「どういたしまして」
だけど、ごめんね。
「大学、楽しみだね」
「そうだな」
狭い鳥かごの中で、与えられる痛みと幸福に苦しむのはもう嫌。
だから、もう。
私は、遠くへ行くよ。
あなたを、置き去りにして。