かすみの部屋を後にして、隣の自分の家に帰った俺はミネラルウォーターの入ったペットボトルを冷蔵庫から取り自室へとたどり着く。
 時計を見れば、11時を過ぎていた。
 ペットボトルの蓋を回してよく冷えた水をごくごくと乾いた喉に流し込めば、火照った体がすーっと冷えていった。
 肩の力を抜くようにふー、と息を吐く。
 濡れた口元を手の甲で拭うと、さっきの光景が思い出された。
 濡れそぼる目で見上げてくるかすみの両頬を包み込み、押し当てた唇。
 そのやわらかな感触は、しっかりと残ったまま俺の体の芯をまだ揺らしている。

「やば」

 思わず声が口をついて出た。
 久しぶりだった。
 キスも、触れるのも。
 最近、どこか上の空で不安そうなかすみを見ていたら、抱きしめたくなった。
 でも、抱きしめたら、潰れてしまうんじゃないかとか意味の分からない不安にかられて、キスをした。

 たった一度だけ、触れて終わらせるはずだったキス。
 久しぶりのそれは、予想以上に刺激的で、かすみの縋りつく手に掻き立てられるように、何度も角度を変えて口づけていた。
 ぶっ飛びそうになる理性を呼び戻してどうにか離れたのだ。

 なのに、おまじないだと言う俺を笑ったかすみは、次の瞬間には泣いていた。

『変なの…、なんで涙なんて…。受験で相当疲れてんのかもね、へへ』

 溢れる涙を何度も拭いながら、それでも笑うかすみを目の当たりにして、ここ最近抱いていた俺の違和感は、確かなものへと変わる。

ーーーやっぱり、おかしい。

 かすみは、何か隠している。
 けれども、情けないことに、愛想笑いの裏に隠された「何か」は、俺には見当もつかない。
 もしかして、別れ話…とか?
 いや、まさかな…。
 そんなはずはない、と思ったところで、胸の奥がざわつくのを見逃せなかった。

 そういえば、かすみと最後に手をつないで並んで歩いたのは、抱きしめたのは、いつだっただろうか。
 思い出そうと記憶を辿ってもすぐには出てこない程に、遠い記憶でとても曖昧なものしか浮かんでこない。
 付き合い始めの頃は、毎日のように手をつないで一緒に登下校していたのに…。
 時間さえ見つけては抱きしめていたのに。
 考えれば考えるほど、不安は膨らんでいく。
 俺は、不安から逃げるように、ペットボトルをテーブルの上に置いてから布団にもぐりこんだ。
 かすみと別れるなんて、考えたこともなかったことが急にリアリティを帯びて頭の中を巡った。
 もしかして、かすみは、俺と別れようとしているのか?

 でも…、当のかすみは何も言ってこないじゃないか。
 ずっと一緒に家族同然で育った俺たちは、付き合う前も今までも、お互い言いたいことは言ってきたから、何か思うことがあるなら言ってくるはずだ。
 さっきのキスだって、ちゃんと応えてくれていた。
 お互い年を重ねて形を変えてここまで歩いてきたんだから、付き合いたての頃と今じゃ、いろいろ違って当然だろう。
 それに、3年になってから会う時間はますます減っていったけれど、それは受験にむけてお互い頑張ろうって話し合ってのことだった。
 だから、きっと大丈夫なはず、と自分に都合のいい理由を並べ立てる。

 当然、なのだろうか…。

 あれだけ、お互いを優先していた俺たちが、だんだんと離れていった原因は明らかに俺だろう。
 2年になってから仲良くなったグループとの時間を優先してしまったからだ。
 あまりにかすみとの時間を取らない俺にしびれを切らしたかすみが、一度だけ文句を言ってきた事がある。
 もっと自分との時間も取って欲しいといった内容だった。
 仲の良いグループに女子も混ざってたことが原因だと感じた俺は、これだけ一緒にいるのに俺のことを信用できないかすみに苛立ちを覚えて『我慢しろよ』と突き放す言葉を投げつけた。

 あの時、かすみはどんな顔をしていた?
 突き放した俺に、かすみはなんて言った?

 記憶を辿っても、思い出せない。
 そのことに、なぜか危機感にちかい焦燥感のようなものが胸の奥からこみ上げてくる。
 あの時よりもずっと前、高校に入ってから俺が告白した時のかすみの言葉、表情、しぐさは、今でも鮮明に思い出せるのに。