「ーーーというわけで、香澄のことは私と夫で責任をもってお預かりします」

 優子おばさんが、我が家にやってきたのは電話の日、つまりK大の合格発表の日の翌週。
 おばさんは、凌とのことには一切触れずにただ私がK大へ行くことを望んでいて、自分の家で一緒に住む、ということを端的に説明したのみだった。

「というわけで、っていきなり言われてはいそうですかってなるわけないでしょ優子。どういうことなのよ?香澄、あんたもちゃんと自分の口で説明しなさい」

 優子おばさんの隣で俯く私に、母が言う。もっともな反応だと思いながらも、私の口は重たい。

「…今までずっと黙っててごめんなさい」
「ごめんなさいって…」
「ーーー香澄が決めたことなら、俺は応援する」

 沈黙を決め込んでいた父の声に、私は顔を上げた。その隣で母が「ちょっと、お父さん」と不満げな顔で見やるが、そんな母の横やりも気にすることなく、父は私を真っすぐ見て微笑んでいる。

「香澄、受験勉強頑張ってたもんな。毎日夜遅くまでよくやってたよ。K大合格おめでとう、すごいじゃないか」
「あ、ありがとう…」

 父の言葉で緊張がほぐれていくようだった。

「そうね…、確かによく頑張ってたわよね。S大なら楽勝だって先生も言っていたのにどうして予備校まで、って不思議には思ってたけど、まさか高知の大学が本命だったなんて…。ちょっと気持ちの整理がつかないっていうか…」
「そうよね~、文子は香澄離れが出来てないからぁ」

 優子おばさんはにやにやしながら「これもいい機会なんじゃない」と言った。

「急にいなくなるなんて、寂しいに決まってるじゃないのよ、もう。…って、かすみ、凌くんは当然このこと知ってるのよね?」

 ギクリ、と体が強張る。

「あ、」
「そのことだけど、今二人は取り込み中らしくてまだ言っていないのよ、ね」
「う、うん」

 膝の上に置いていた手に、おばさんの手が乗せられた。まるで、まかせなさい、と言われているような気がして安堵感に満たされる。

「二人の問題だから口出しするのも良くないと思って…。だから、K大のことは凌くんはもちろん、香澄が自分で解決できるまであちらの家族にも黙っててあげてあげましょ」
「そんなこと言われても…、有岡さんたちに聞かれたらなんて答えればいいのよ…」
「そこは、S大行くってことにしておいて、土壇場でやっぱり気が変わったみたい~とでもなんとでも言えるでしょう?」

 まるで、嘘の一つや一つ平気でしょう、と言うおばさんの豪快さに母は気圧されて、うぅ、と唸り隣の父に助けを求める。父は、父で「ま、まぁ、そうだな」と半ば無理やり頷かされていた。さらに、おばさんはたたみかけるように、「それに」と続ける。

「香澄も凌くんももういい年なんだもの、二人のことは二人に任せてあげましょう。ねっ!これでこの話は終わり!文子もお義兄さんも、あと少ししか香澄と暮らせないんだから、可愛がってあげてくださいね。うちに来てからは、私がうんと可愛がるからご心配なく~。あぁ、香澄と暮らせるなんて、本当に嬉しいわ」

 言い切ると、私の頭を抱えるようにして優子おばさんに抱きしめられた。
 凌とのことも両親に話さないといけないのか、という私の不安は払拭されて溜飲が下がっていく。
 それと同時に、あんなに不安で憂鬱だった問題が、拍子抜けするくらいこんなにあっさりと解決したことに、驚いた。
 もんもんと一人悩んでいた時間はなんだったのか、と

 年の功、経験の差というものをまざまざと見せつけられ、まるで最強の味方を手に入れたみたいで、とても心強かった。


 あの話し合い(というか優子おばさんの独壇場)の後、私と優子おばさんは二人で駅のカフェに来ていた。
 ガラス張りになった道路沿いのカウンター席に並んで、私はカフェラテ、おばさんはブラックのコーヒーを飲みながら、久しぶりの再会に会話に花が咲く。

「優子おばさん、本当にありがとう!」

 ここまでの道すがら何度も同じことを繰り返す私に、おばさんは苦笑いを浮かべながらもあたたかい眼差しをくれた。

「かわいい姪っ子が困ってるんだもん、助けるのは当たり前でしょ。伊達に年取ってないわよ、ふふ」

 コーヒーカップを両手で包みながら、おばさんは「それにしても」と外へ向けていた視線を私へと移した。

「あんなに仲良かった香澄と凌くんがね…」

 その後に続く言葉は紡がれることがなく。
 私は、「うん…」とだけ返した。

 なんて説明したら理解してもらえるのか、よくわからなかった。
 好きなのに別れる、好きだから別れるなんて、そんな選択肢があることだって、それを自分が選択することになるだなんて思わなかったんだから。

「でも…、なんだか私たちに似てるなって思って、ちょっと親近感わいてる」
「似てる?」
「そう、私も、理仁さんと付き合ってるとき一度別れたこと、あるのよ」
「えっ、おじさんと?知らなかった」

 意外な事実に、「どうして?」と思わず前のめりになる。おじさんとのなれそめは聞いたことはあったけど、そんなことがあったなんて。

「大学で知り合ったでしょ、私たち。4年になってあの人、海外の大学に入学するなんて言うのよ。しかも、事後報告。はぁ?って感じでしょ」

「う、うん…」

 確かに、微妙に似ていて、私はいたたまれない。その「はぁ?」を言わせてしまう立場にあるのは、私だから。

「こっちは、就活に明け暮れて四苦八苦してるところにそんなこと言われたものだから、カッチーンときて『遠距離なんて無理だから、別れる』って言ってやったの」

 ブチ切れてるおばさんの姿は簡単に想像できた。

「それで?」
「そしたら、『わかった』の一言で終了よ!翌月にはアメリカに飛んでっちゃったもの。考えられる?信じられないでしょ?」

 同意を求められたけれど、とても頷ける立場になかった。

「本当に別れたの?」
「そうよ、別れてやったわ」

 ふんっとふんぞり返るおばさん。当時を思い出して怒りが再燃してきてしまったよう。
 おばさんにぞっこんメロメロのあのおじさんがそんな簡単におばさんと別れたことが信じられない。
 結婚してもう十数年経つのに、おばさんのことをお姫様みたいに扱っているんだもん。
 うちの親とは大違い。子どもが居なくて二人だけっていうのも関係しているのかな。

「あの時は、本当に悲しかったなぁ。向こうが折れて謝ってくると踏んでたのに、まさか『わかった』なんて一言で終わっちゃうなんて思いもしてなくて…。本当に飛行機乗って日本からいなくなっちゃうんだもの。行っちゃった後は、なんで別れるなんて言っちゃったんだろうって泣いたし、私を置いていったあの人を恨みもした」

 恨み、という言葉が私の胸を刺す。


「あぁ、あんなに一緒にいたのに。あの人の私への思いはそんなもんだったんだ、って」

 私も。凌にどう思われようと何と言われようと、そしてたとえ恨まれようと仕方ないと受け入れなければいけない。それを覚悟で、選んだ道なのだから。

「まぁ、結局ね、その年のクリスマスだったかしら、一時帰国したあの人が『やっぱり別れるなんて無理だ』って泣きついてきて元の鞘に収まったんだけどね」
「…おじさんは、おばさんのこと、好きだったのに別れたんだよね…」

 どういう心境だったんだろう。すごく気になる。

「後々聞けば、アメリカなんて遠距離だし、いつ卒業できるかも就職できるかもなんにも目途が立ってない状態で私に待っててくれなんて都合の良いこと言えなかったとは言ってたけど…」

 当時の気持ちを思い出したのか、思い出されたのか、コーヒーカップの中を見つめる目はどこか虚ろだった。

「バカよね。こっちからしたら、何を今さらって感じだったわ」

 この時のおばさんのその少し寂しげな横顔が、とても印象的だった。きっと、幸せな今があってもあの日の悲しみを忘れられないのだろう。
 それほど、深い傷を負ったんだ。きっとお互いに。

「まぁ、別れるって思ってもないこと言った私もバカだった。結果的に、私と理仁さんの場合は事なきを得たわけだけどね。…香澄にとっては、耳の痛い話だったでしょう」

 こちらに向き直ったおばさんは、さっきまでの晴れない表情が嘘のように消えて、いつものおばさんに戻っていた。そして「でもね」と続ける。

「たとえ、結果がどうであろうと、私はあの時確かに傷ついたの。香澄も傷ついているのは知っているし、わかっているつもりだけど、それと同じかそれ以上に凌くんのことを傷つけてしまう可能性もあるってこと、ちゃんと胸に留めておきなさいよ。いいわね」

 ビシッと言われて、私も「はい」と返す。

「それとね、香澄。人は、変われるのよ」

 まるで、変われないと嘆く私を見透かすかのような言葉。

「だから、あなたも凌くんも、大丈夫。離れてから見えてくることもある。これで終わりだと思う必要はないのよ」

 カウンターテーブルの上に置いた私の手を、おばさんの手が優しく包み込んでくれた。そのあたたかさにじんわりと涙が滲む。
 おばさんに大丈夫と言われると、本当に大丈夫なような気がしてくるから不思議だ。
 私は、うんと頷いておばさんの言葉に応えた。

「おばさん…、何から何まで、本当にありがとう…大好き」
「バカね、泣くんじゃないわよ。こっちまでもらい泣きしちゃうじゃない」

 そう言ったおばさんの目は真っ赤だった。
 道路沿いのガラス張りのカフェで二人、涙に目を腫らしている姿は傍(はた)から見ればさぞおかしかっただろう。やっとのことで涙が止まったころにはコーヒーはすっかり冷めてしまっていたけれど、私の胸はほんわか温かで、とても安らいでいた。