***


 泣きそうだった。
 何度も、何度も、喉の奥からせり上がってくる圧迫感を押さえつけて必死に堪えた。
 ここで泣いたら、凌にあやしまれてしまうから絶対に泣いてはだめ、と言い聞かせて。

 どうして。
 なんで、今さら、あの日の凌に戻るの。

 懐かしい景色を見ながら凌と食べる久しぶりのハンバーガー、プリクラでの甘いキスと熱い抱擁、首筋に咲いた印、いつものクレープ。
 まるで、昔に戻ったようなふたりの時間だった。昨日の事のように思い出せるのに、そのすべてが懐かしい。
 もう戻らないと思ってた「あの日」にいるような錯覚に陥るほどに。
 けれど、幸せもつかの間、現実に引きずり戻され、私は暗い底に落ちていく。
 だって、もう、ふたりではいられないから。
 それに、たとえ私が今の凌を受け入れたとしても、どうせまた繰り返して、痛みを伴うだけ。
 もう、泣きたくない。
 お願いだから、これ以上、涙を流させないでほしい。

 なのに、優しい凌を恨めしく思う以上に、幸せでどうしようもなくて目の前の幸せを突き放せなかった。
 そんな自分も卑怯で許せない。
 
 くるしい。
 凌が私にくれるしあわせの全部が、くるしいの。
 手にしても、砂のように崩れ落ちていく一時のまぼろしとわかっていながら、私は手を伸ばして掴もうとしてしまう。そしてどれほど強く握りしめていても、指の隙間から零れて最後には何も残らないその寂しさに涙するのだ。
 わかっていて、止められない。
 まるで中毒のように、凌がくれる幸せに乾き飢えていた。






「ーーーー良かったぁ~!受かってたよかすみ!」

 沙和子が心底ほっとした声で言った。
 S大の合格発表の日。
 私の部屋で、沙和子と合否の確認をしていた。
 確認のページに自分の受験番号を入力し、せーの、で確認ボタンを押したのだった。手にするスマホの画面には、『受験番号xxxxxのあなたは合格です。おめでとうございます』の文字が表示され、背景には桜の花びらが散っていた。S大はカモフラージュで受けただけだけど、やはり受かっていると嬉しい。

「おめでとう!お互い受験から解放されたね」

 そこに尽きる。
 長かった受験シーズンがこれで終わったのだと思うと、肩の荷が下りたように体も心も軽かった。

「乾杯!」
「今日は飲んで食べよう!」

 部屋のちゃぶ台の上には持ち寄ったジュースとお菓子が既に広げられていた。私と沙和子はジュースの入ったコップを手に取りコツンと鳴らしてから口に運ぶ。緊張で乾いた喉にそれは気持ちよく染みていった。
 と、その時、スマホが着信を知らせる。
 画面に表示された見慣れた名前に、伸びた手が止まってしまう。

「出てあげなよ。きっと合格の電話だよ」

 沙和子に促され、スマホを手に取り通話ボタンを押した。

「もしもし」
『あ、かすみ!受かったよ俺!』

 凌は、とても興奮していた。
 電話の向こう、聞こえるたくさんの人。樹くんの声も混じっている。

『もしもし?聞こえてる?』
「うん、聞こえてるよ。おめでとう、凌」

 本当に、おめでとう。
 凌が、頑張ってきたのをそばで見てきたから、本当に嬉しい。

『かすみも千野も受かっただろ?』
「うん、受かったよ」
『よっしゃぁ!これで大学生だな俺たち!…ーーー榎本ぉ~俺も受かったんだよ~!春からまたよろしくなぁ!…樹!こら返せよ!…あ、もしもし?悪い、騒がしくって、またあとでな』

 テンションの高い樹くんの声に笑ってしまう。ちょっと鼻声なのは、もしかしたら嬉しくて泣いていたのかも。

「うん、樹くんにもおめでとうって伝えといてね。じゃぁね」

 最後まで言い終わらないうちに通話は切られ、プープーという電子音を残したスマホをテーブルに置いた。
 ふぅ、と一息。

「良かったね」

 穏やかな笑みを浮かべて言った沙和子に、私は頷き返す。すると、沙和子は神妙な顔つきでおずおずと口を開きかけて再び閉じた。

「どうしたの?」
「…ううん、なんでもない」

 そう言って、伏せられる瞳。
 その顔は、なんでもない顔じゃない。
 煮え切らない沙和子に、「言いたいことがあるなら言ってよ」と肩を軽く押せば、沙和子は視線をあげて私を捉える。

「…やっぱりS大にするっていう選択肢は…もうないの…?」

 耳の奥が、プツンと膜を貼ったような、気が遠くなる感覚。
 真っすぐ見つめられて目が逸らせない。
 聞くんじゃなかった。
 気づかない振りをすればよかった。
 そんな薄情な考えを頭の片隅に押しやって、私は、考える。
 ううん、考える必要なんか、ない。
 確かに昨日の凌との時間は、私を幸せにしてくれたし、やっぱり凌の事が好きだと痛感したけれど、それじゃダメなの。

「…繰り返しなんだよね」

 もう、私たち、慣れ過ぎちゃった。
 一緒に居すぎたみたい。

「私も、凌も、このままじゃ大人になれないから」

 もう、同じ過ちは繰り返したくない。

「そっか…、ごめん、しつこいよね私も。ただ…私は、香澄とS大行きたかったなって」
「沙和子…ありがとう。ごめん…、ごめん。私だって、本当はさ…沙和子と離れたくないんだよぉ」
「うん、うん、わかってる。ちゃんとわかってるから」

 鼻がツンとして、目頭が熱くなった。
 なんでこんなに、融通が利かないんだろう私は。
 凌に一言「別れよう」と言えばいいだけなのに。それができないで、こんなややこしい道しか選べないのが、情けない。
 鼻をすすれば、隣で沙和子も手の甲で涙を拭っていて、見合って同時に吹き出した。

「やだ、もう。せっかく合格したのに、なんで私たち泣いてるの。香澄のばか」
「ごめんってぇ…。辛気臭くなっちゃったね。お菓子食べよう、今日は打ち上げなんだから」

 こんなになんでも話せて打ち解けられる沙和子と離れるのも、苦しかった。でも、たとえ離れても私たちはきっと大丈夫って信じてる。

「もしさ、歳とってお互いひとり身だったら一緒に暮らそうね」

 目じりから滲む涙を指で拭いながら言えば、沙和子は眉間に皺をよせて「絶対ヤダ」なんて酷いことを言う。

「それを言うなら、お互い絶対しあわせになろうね、でしょ」

 そうだね、それが正解。

「うん、約束」
「私はさ、香澄と離れててもずっと友達だから」
「うん、ありがとう」
「香澄の選んだ道だから、応援する」
「沙和子…やだもう、泣かせないでよ」

 せっかくおさまった涙が、また溢れてきてしまった。

「おかしい、な…、嬉し涙が…」

 気持ちを落ち着かせようと試みるも、涙はぽろぽろと粒となって頬を転がり落ちていく。

「泣けばいいよ、好きなだけ」

 沙和子の手が伸びて、私の頭を抱えるように引き寄せられるとふんわりと沙和子のシャンプーの香りに包まれた。

「ツラいね…、苦しいね…。なんで、うまくいかないんだろうね…」

 耳に届く優しい声に、涙腺が刺激されてしまう。
 親にも誰にも言っていない今回の私の決断を、沙和子が知っていてくれて応援して、理解しようとしてくれている。
 それだけが、私の支えだった。

「沙和子ぉ…、っうぅ、…ヒック…大好きだよ」
「はいはい、私も大好きだから」

 手のかかる親友で、ごめん。
 そばにいてくれて、ありがとう。
 沙和子は、最高の親友だよ。
 今までも、そしてこれからも。
 私も、沙和子にとって最高の親友でありたい。
 沙和子が私にしてくれたように、沙和子が落ち込んだり悲しんだり悩んだりしたときには、応援して支えたい。
 その時のためにも、今を乗り越えなくちゃ。
 そう、強く思った。





「ただいまー」

 S大の合格報告に行く沙和子を駅まで見送って、学校に報告してくると母に告げて家を出た手前一人適当に時間をつぶしてから家に帰ると玄関に見慣れたローファーがあるのに気づく。
 凌のだ。
 母と凌の話し声がかすかに聞こえてきた。
 いやだな。
 今日は、会いたくなかったな。
 おめでとうと直接伝えたい気持ちと、S大の話になるのが嫌だという気持ちのせめぎ合いだった。
 リビングのドアをくぐると二人から同時におかえりを言われた。ダイニングテーブルで二人向かい合ってお茶してたようだ。テーブルの上には、コップと美味しそうなケーキが置かれている。

「ただいま。凌、合格おめでとう」
「おう、サンキュー。かすみも、受かってよかったな」

 私も、「うん、ありがとう」と笑顔で返す。
 
「凌くんが合格のお祝いにケーキ買ってきてくれたのよぉ。香澄も食べる?」
「食べる食べる。気が利くじゃない、凌のくせに」
「お前なぁ、一言余分なんだよ」
「あ、ペペのケーキだ。やった」

 お気に入りのケーキ屋の箱にテンションが上がる。中を覗けば、私の好きなイチゴのミルフィーユがちゃんとあった。
 昨日もだけど、私の好きなものをちゃんと覚えてくれているのは、すごく嬉しい。

「あれ?そういえば、報告のあと打ち上げしてくるって言ってなかった?」
「あー、先帰ってきた」

 昨日だって私に付き合って遊んでないのに、今日もなんて。
 珍しいこともあるものだと思ったけど、私は「そっか」とだけ返して、ケーキとジュースを手にダイニングテーブルの凌の隣の椅子に座る。

「いただきます」
「どーぞ」
「美味しいわよ、ペペのケーキ。あ、私は洗濯物たたんでくるわね」

 食べ終わった母は、自分の分の皿とカップを流しへ運ぶとさっさと消えてしまった。
 急に沈黙が訪れて、気まずくなる。
 さっきから、凌とまともに目を合わせられていない。

 大事な人たちに嘘をつくのが、こんなに後ろめたくて心痛いなんて知らなかった。
 隠し事なんてなかった私たちの間に、大きな大きな隠し事。
 あと、1か月の辛抱。
 嘘をつきとおすのが、まるで方便だと自分に言い聞かせるようにして、ここまで来たの。
 自分の選んだ道なのだから、たとえ苦しくても進むしか、私に残された道はない。

 そう、違う道は、もう捨てた。
 あなたのそばにこれ以上いても、私の心はどこにもいけない。

 だから、私は笑うよ。

「美味しい!ミルフィーユはやっぱりペペが一番!」

 あなたの前で。隣で。
 あなたが大好きだから。

「ありがとう、凌」
「どういたしまして」

 だけど、ごめんね。

「大学、楽しみだね」
「そうだな」

 狭い鳥かごの中で、与えられる痛みと幸福に苦しむのはもう嫌。
 だから、もう。
 私は、遠くへ行くよ。
 あなたを、置き去りにして。