十二月二十五日。
 日頃の寒さの鬱憤を晴らすかのように街は華やいでいる。凍てつく冬の飄風(ひょうふう)も、今日ばかりは出歩くカップルが営む愛の良い引き立て役となっている。
 僕にとっては生まれて初めて身内以外の異性と過ごすクリスマスの夜だった。が、これが世間一般で言うところの普通のデートではないというのは、誰よりも僕が一番、分かっている。
 僕たちは今、付き合っている恋人同士というより、ただ別れていないだけの赤の他人のような関係だった。春香さんがどうして僕に心を閉ざしてしまったのか。僕は今日、それがどうしても知りたかった。
「そういえば、このあいだ飛田さんが持ってきてくれたケーキ、すごかったね」
 大勢の人で賑わう自由が丘の夜道をブラブラと散歩しながら、僕は隣を歩く、僕よりも少し背の低い春香さんに首を傾けた。
「え?」
 春香さんが片耳を上げて聞き返す。クリスマスの喧騒に掻き消され、なかなか普段の声量だと相手の耳まで届かない。
「飛田さんのケーキ、すごかったね」
 もう一度、今度は春香さんの耳元に口を寄せて、言う。
「ああ、あれはたしかに強烈でしたね」
 春香さんは口角を歪めるようにして小さく笑った。
 僕たちが飛田さんに退職勧奨を受けてから、今日までのおよそ一ヶ月のあいだに、いくつかの新事実が発覚した。
 諸下興業で働く飛田さんとは同期入社の人間が数名、首を切られたということ。飛田さんはからくも現場に残ることとなったが、これまでずっとシネマ・グリュックの運営を支えてくれていた営業担当の社員が、他社に引き抜かれたということ。
 そのほとんどがネガティブなニュースばかりだったが、そんな中にあって飛び抜けて特大の驚きをもたらしたのは、意外にも飛田さんの微笑ましい身の上話だった。
 衝撃の事実は、十二月の半ばに飛田さんが突然、大きなケーキを持って、事務室に現れたことで明らかになった。
 凡庸な人間の感覚ではとても思いつかないセンスでもってデコレーションされたカラフルなスポンジケーキだった。
「……これ、飛田さんが作ったんですか?」
 くすんだ青色をするそのケーキに面喰らいながら、僕が訊ねると、飛田さんは馬鹿を言うなと鼻を鳴らして笑った。
「ミラが作ったんだよ」
「ミラ?」
 ちょうどその場に居合わせた春香さんも首を傾げる。
「そう、ミラ。あれ、言ってなかったか。ミラは俺のパートナーだよ」
「え、飛田さん、結婚してたんですか?」
 還暦を超えた男性に対して、こんな驚き方をしてしまうのも失礼な話ではあるけれど、あまりに意外すぎて、僕と春香さんは目を丸くした。
「いや、結婚はしてはいないけどな。そのケーキはミラからお前たちへの感謝の印だそうだ。今までどうもありがとうって」
 飛田さんの説明によると、ミラさんはフィリピン出身の女性で、飛田さんとは、もうかれこれ二十年以上も前から事実婚のような状態なのだという。
「ケーキ、見た目はすごかったけど、味はすごくおいしかったよね」と、僕は当時の味を思い出して言った。
「なんだか、懐かしい味がしました」
「そうそう。童心にかえる味がした」
 どうやらココナッツと蜂蜜をベースにして焼き上げたらしいミラさんのケーキは、見た目こそ禍々しかったけれど、その雑然とした味わいが、どこか子供の頃に食べた駄菓子の味を想起させた。
 と、そんな話をしながら、しばらく歩いていると、ふと春香さんが前方を指差して、「あっ」と言った。大通りから緑道沿いに入ったところに一軒のカフェが見える。太い丸太を組んで建てられた、北欧のような雰囲気のある小さなカフェだった。
「どうした?」
「隼人さん、あそこのカフェでちょっと休憩しませんか」
「いいね。知ってる店なの?」
「友達が前にあそこでバイトしてたらしくて、ココアが一番人気で、おいしいらしいです」
「ココア。それは最高」
 店に入ると、入り口のドアに吊るされた小さな鈴が、チリンチリンと僕たちの来店を歓迎した。
 壁際の席に腰を下ろす。向かい合う春香さんの後ろがちょうど円形の小窓になっていて、そこから外の街路樹に装飾されたイルミネーションがよく見える。
 と、その時、僕は、夜の自由が丘を映すその窓ガラスに、白色の綿胞子が触れては消えていくのに気が付いた。
「あ、見て、後ろ」
 いつの間にか、外に雪が降り始めていた。どうやら積雪の期待はできそうにもないが、イルミネーションに照らされながら、生まれてきた刹那の喜びを味わい尽くすようにそこに降り注ぐ粉雪の淡い情景は、僕たちの心に泡沫の感動をもたらした。
「素敵ですねぇ……」
 春香さんはそっと指先を伸ばし、雪の流れを辿るように小窓をなぞった。
「店に入った途端に雪が降るなんて、ツイてないなぁ」
 と、そう言って口惜しそうにする僕の情けない顔が、窓の結露に紛れて映っている。ガラス越しに春香さんと目が合い、ごめん、子供みたいだよね、と言い繕う。
 すると彼女は、どこか儚げな目をガラスに映して言った。
「窓から見えるくらいがちょうどいいんですよ。外に出て手のひらに乗せても、冷たさだけを残して、すぐに消えてしまうから」
「そんなものかな」
 雪を見るとつい興奮してしまうのは、僕が雪とはあまり縁のない九州で生まれ育ったからなのだろう。
「そんなものです」
 春香さんが視線を窓から正面の僕に戻して、微笑する。いつも通り、なにもないように。だけど僕の目には彼女のその微笑みが、胸の内に秘めた悲しみを隠すための化粧のようにしか見えなかった。
 やがて、カップになみなみと注がれたココアが運ばれてきた。ひと口飲んで、息を吐く。染み入るような温かさが体の中を巡った。
「おいしい!」
 そもそもココアをあまり飲まない僕ではあるが、たしかに、この店の一番人気にふさわしい味だとは思った。
「おいしいですね」
 春香さんも両手で包むようにしてカップを持ちながら、ホッと息をつく。
「流してる音楽もいいね、この店」
 店の天井のスピーカーから、穏やかな音楽が流れていた。歌詞のないピアノだけの演奏のようだが、定番のクリスマスソングだと分かる。
 僕がサビのメロディを口ずさむと、春香さんはいまいちピンと来ない様子で小首を傾げた。
「これ、なんていう曲でしたっけ」
「なんだっけ、あれだよ、ほら、あの、マライア・キャリーの……」
「あ、あれか、恋人たちのクリスマス」
「そう、それ!」
「ピアノソロもいいけど、やっぱり歌詞が欲しいですね」
「たしかにね。歌詞、分かる?」
「歌詞、分からないなぁ」
 春香さんが苦笑をこぼし、
「僕も。全然分からない」
 僕も苦笑をこぼす。会話が終わる。沈黙になる。その沈黙が嫌で、堪らず僕は話題を変えた。
「そういえば」
 と、そう言って、コートのポケットをガサゴソと漁る。中には春香さんへのクリスマスプレゼントが入っている。黄色いサテンの生地に赤と緑のリボンを結んだ巾着袋で、中身は赤色のハンカチだった。いつだったか、赤色のハンカチがお気に入りと彼女が言っていたから、それにしたのだ。
「クリスマスプレゼント。今のうちに渡しておこうと思って」
「クリスマス……」
「うん、ほら、前にさ、春香さん、赤色のハンカチが好きって言ってたでしょ。だから… ――――」
「――――あの、隼人さん」
 と、その時、プレゼントをポケットから取り出そうとする僕の動きを阻むように、思い詰めた表情で肩を力ませる春香さんが口を開いた。
「え、あ、どうした?」
「なんで、そんなに……」
 その声が震えているのが分かる。揺らめく瞳が湿っている。やがて彼女は、なにかが心の中で決壊したかのように、静かに涙を流し始めた。
「ど、どうしたの?」
「…いや、なんでもないです、すみません、すみません……」
「な、なんで、なんで泣いてるの、なんで謝るの」
 あまりに突然の涙に、僕はうろたえるしかなかった。ポケットに手を入れたまま、体が動かない。訳が分からず、僕も泣いてしまいそうだった。
「……」
 ズルズルと鼻を啜る音だけが返ってくる。
「僕のこと、もう嫌いになった?」
「そうじゃなくて…、でも、私、もう辛いんです……」
「辛いって、なにが辛いの……」
「隼人さんのこと、好きになればなるほど……」春香さんはそう言いかけて、それを打ち消すように、かぶりを振った。「今日はもう…、帰ります……」
 そのまま荷物を手にして立ち上がる。二人分のココアの料金をテーブルに置いて、僕に向かって弱々と頭を下げる。
「ちょ、ちょっと待って、春香さん。じゃあ…、じゃあ今度の正月。今日はもういいから、今度の正月にまた会おう。ね?」
 僕は行こうとする春香さんの腕を慌てて引き留め、なにかに縋るように、捲し立てるように、言った。このまま行かせてしまったら、もう二度と彼女には会えなくなるような、そんな気がした。
 しかし、結局、春香さんはただ一言、消え入るような「さようなら」を置き土産にして、ひとり店を出ていってしまった。
 去り際に彼女が鳴らした入り口のドアの小さな鈴が、チリンチリンと、僕の鼓膜にやたらと虚しく響いて消えた。
 視界のひらけた小窓を呆然と見つめた。春香さんが残していった一筋の結露の線が、不意に自分の顔と重なり、ピエロのような泣き顔を作っていた。



 十二月三十日。今年も残すところあとわずかとなった、この日、春香さんの歓迎会でも使用した新宿のとある大衆居酒屋で、僕たちはシネマ・グリュックのお別れ会を開催した。
 会には僕をはじめとする現役のバイトの他にも、布田さんのようにすでに辞めていった元バイトや、もちろん支配人である飛田さんや、他の社員の人たちも軒並み参加していて、その場に姿がないのは、春香さんだけだった。
 団体客用の宴会場で、僕とは対角線上の離れたテーブルに腰を下ろす安次さんが、なにやら楽しそうに騒いでいるのが見える。
 九月のあの事件については、結局、本当に安次さんがそれをしたのかどうかも確信のないまま、僕と春香さんが口を閉ざしたことで、誰に知られることもなく闇へと消えた。
 僕は今でもあれは安次さんの仕業だと思ってはいるけれど、ただ、その安次さん自身が、まるでそんなことなどはじめからなかったかのように平然と振る舞い、相変わらずその並外れた社交性でもって、その場の空気を図々しくもうまく取り仕切っているから、もうどうでもいいや、と、所詮は程度の低い人間がしたことなのだと、僕もそう思うことにした。
「おい、隼人!」
 向かいの席に座る布田さんが、こちらも相変わらずへべれけに酔っ払いながら、僕に向かって箸を差した。
「なんですか」と僕はすげなく返事をする。
「あんた、どうするの」
「なにがですか」
「グリュックを辞めたら、また別のところでバイトするの?」
「まだなにも決まってはいないけど、一応そのつもりではいます」小皿のチャンジャをつまみながら答える。「だけど」と続けた。「だけど、来年になったら就活も始まるし、そんなに無理してバイトをする必要もないのかなって」
 この時点ですでに飲み会も中盤に差し掛かっており、会全体に漂う惜別の雰囲気に呑まれてしまったのだろうか、僕は苦手なくせにいつも以上に酒を煽ってしまって、少し気持ちが悪くなっている。
「へぇ、あんた、就活するんだ」
 布田さんは意外そうに眉を浮かせた。
「まだなにも具体的には考えてないですけどね。そもそも僕が会社員に向いているのかどうかも分からないし」
「向いてないだろうねぇ。あんた、コミュ力低いし」
「ですよねぇ」僕はチャンジャを飲み込む勢いで、情けない相槌を打つ。「でも、就活は一応しておいた方がいいのかなぁとは思ってて。それに先月、飛田さんに言われたんですよ。真面目に考えろ。もう子供じゃないんだからって」
「あの飛田さんが、そんなこと言ったの?」
「そう、あの飛田さんが」
 宴会場の前方では、顔を真っ赤に染め上げた飛田さんが、備え付けのカラオケ機材に抱きつくようにしてマイクを握り、溜まりに溜まった鬱憤を吐き散らすかのように、古い邦楽を熱唱している。天井に下がった液晶画面を見ると、曲は薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』とあった。
『このまま――――、何時間でも――――』
 飛田さんのその騒音にも似た歌声を掻き消すように、
「気持ち悪いぞ!」
「おじさんが歌うな!」
 酔いに任せた社員たちから野次が飛ぶ。そうなると当然、飛田さんの歌声にもさらに熱が入る。
「あんなだけど、飛田さんも意外と私たちのこと、心配してくれてるみたいだからね」
 布田さんは、どこか感慨深そうに言った。
「東京のお父さんって感じです。僕にとっては」
「いやぁ、飛田さんがお父さんはキツいでしょ」
「キツいですかね」
「キツいキツい」
「キツい、ですよねぇ」
「……てか、そんなことより」布田さんの語気が急に強まる。手にしていたグラスの焼酎を一気に飲み干し、「なんで」と詰るような目をして言った。「なんで今日、春香ちゃん、来てないの」
「い、いきなり? そんなこと、僕に言われても」
「あんたに言うしかないでしょ。あんた、彼氏なんでしょ」
 布田さんは、僕と春香さんの関係を知る唯一のバイト関係者だった。とはいえ、彼女が知っているのは、僕と春香さんが九月の末から付き合っているという部分だけで、それ以降の僕たちになにがあったのかは、なにも知らない。
「それは、そうですけど……」
 果たして僕と春香さんはまだ付き合っているのだろうか。脳裏にクリスマスの日の出来事が蘇る。
 燦々と光るイルミネーション。それに照らされ、白く輝く淡い粉雪。カフェに流れるピアノの旋律。ココアの香り。そして、嗚咽して泣く春香さん。
 あの日の彼女のあの涙は、あのさようならは、僕との決別を意味していたのではないのだろうか。
「あんた、春香ちゃんになにかしたんでしょ」
「実は、クリスマスの日に二人で会ったんですけど、そこで春香さん、どういうわけか泣いたんですよね……」
「最悪じゃん。なんで泣かせたの」
「それが分かったら苦労しないですよ」
「なにかひどいこと言ったんじゃないの。女の子を泣かすって、あんた、それ万死に値する行為だよ」
「ひどいこと……」
 僕はコップに注がれた水を飲みながら、自分の記憶を辿った。が、思い当たる節は見つからない。
「ふぅん……」
 布田さんは、意味ありげに頬杖をついた。
 と、そこでふと僕は、たしか五月頃だったと思うが、布田さんに言われた一言を思い出した。
『隼人ぉ、あんたさぁ、このままだと、辛い思いをするかもよ』
 あの時、布田さんがなにを思ってそう言ったのかは分からないけど、いま改めて考えてみると、事実として今の僕は現状、彼女のその言葉の通りになっている。
「あの…、布田さん」
「なに?」
「どうして――――」
 当時の言葉の真意を訊こうかと思って、空になったグラスの底を名残惜しそうに片目を閉じて覗き込む布田さんに声をかけると、それと重なるようにして、前方のカラオケにいる飛田さんが、その布田さんの名前を粗野に呼んだ。
「布田ちゃん、こっちこっち! いつもみたいに歌ってくれ!」
 職場の飲み会があると、いつもこうなる。絵に描いたような昭和のオヤジの悪ノリではあるが、そのたびに布田さんは満更でもなさそうに立ち上がり、
「しょうがないなぁ」
 と、そう言って飛田さんからマイクを受け取る。すると、宴会場の熱気が一気に沸き立つ。飛田さんの時とは比べ物にならない拍手が起こる。
 というのも、布田さんの歌唱力はそこらへんの歌手とも引けを取らないほどに圧巻で、そしてそれは、シネマ・グリュックで働く者ならば全員が知っている、いわば飲み会の風物詩のようなものだった。
 布田さんは定番の卒業ソングを何曲か選んで歌った。普段の派手でガサツな彼女からは想像もつかない、繊細で流麗なその歌声は、去る側と見送る側のどちらの人間の胸にも熱く響き渡った。
 中には聴き入って目元をハンカチで拭う人もいたくらいで、布田さんと入れ替わりで僕の向かいの席に座った飛田さんに至っては、感動のあまりか、恥じらうことも忘れて慟哭(どうこく)してしまっている。
「飛田さん、この三年間、改めて本当にありがとうございました」
 良い機会なので、僕は酔った勢いに任せて素直な気持ちを口にした。
 鹿児島から上京してきてまだ間もない頃、まさに右も左も分からない状態だった僕を、誰よりも親身になって助けてくれたのが飛田さんだった。人付き合いの苦手な僕が今日までシネマ・グリュックで働けたのも、いつもそこに父親のような存在の飛田さんが居てくれたからなのだ。
「おお…、うぉぉおお、隼人ぉぉ……!」
 そうやって泣きじゃくる飛田さんだが、今はまだシネマ・グリュックに籍を留めてはいるものの、今後どうなっていくのか、来年も現場で支配人を続けているのかどうかは分からない。高給取りの年長者であるのもその理由の一つだが、なにより彼は今回の一件で、僕たちバイトのために、本社と何度も対立してしまっているのだ。いちいち口うるさく楯突いてくる社員なんて、組織の上層部からしたら目障り以外の何物でもないだろう。
「バイトは辞めても、今度は客として映画を観に来ますから、だから飛田さん、来年も絶対にグリュックに居てくださいね」
 心から願いを込めてそう言うと、飛田さんは泣くのをやめて、赤く腫れ上がった目をギュッと細めて、うんうん、と何度も強く頷いた。
 宴会場の前方では、なおもカラオケ大会が盛り上がりを見せている。
 布田さんに代わってマイクを手に取ったのは副支配人の笹塚さんで、いつもクールな彼が選んだ曲は、意外にも歌って踊るアイドルソング。その驚きのギャップに会場はどよめき、一段と沸いた。



 しばらくして、僕はトイレに立った。宴会場を出てすぐのところにある男子トイレには、大便器が一つと、黄ばんで悪臭を放つ小便器が二つ並び、洗面台の鏡はひび割れ、至るところに卑猥なポスターが貼られている。
 まさに大衆居酒屋かくありきだなぁ…。なんてことを、ぼんやり考えながら用を足していると、隣の小便器によく知る一人の男が現れた。安次さんだ。
「なぁ、隼人」
 僕と並んで用を足す安次さんは、すでにかなり酔っ払っている。
「どうしました?」
「春香ちゃん、最近どうしてる?」
「はい?」
「春香ちゃんだよ。元気にしてるかな?」
「普通に元気にしてると思いますよ。ちょっと前は、なんか、嫌なことがあって落ち込んでたみたいですけど」
「あー…、はは、そうかそうか。それは、可哀想だなぁ」安次さんのその反応は、自分があの出来事の犯人であると自白しているようなものだった。嫌らしく唇を吊り上げ、ニタニタと笑っている。「今日も来てないみたいだし、どうしてるかなってな。俺もな、心配なんだよ。あの子のことは」
「別に安次さんが心配することではないとは思いますけど」
「いやぁ、だってほら、俺、春香ちゃんと一回ヤッちゃってるからさ。やっぱり、一夜を共にした仲としては、心配もするだろ?」
「え――――」
 一瞬、僕の視界が真っ暗になった。頭が回らなくなり、体には重たいなにかを感じた。みるみると酔いは覚めていくのに、それと反比例して、平衡感覚が失われていく。
 視界が戻る。目の前に貼られた卑猥なポスターがやけに生々しい。辛うじて動く首を捻ると、すぐ隣で安次さんが醜怪な笑みを浮かべて、僕を見ている。
「あれ、言ってなかったか? 五月にあの子の歓迎会があったろ? あの日の帰りに、サクッと一発な」
「そんな……」
 脳裏に半年以上前の記憶が映し出される。好きな映画の話で盛り上がる春香さんと安次さん。そういえば、たしかにそこで二人は連絡先を交換していた、ような気がする。歓迎会が終わると、僕と春香さんは店の前で別れた。笑顔で僕に手を振る彼女の、その隣には、たしかに安次さんがいた、ような気もする。
「そのあともしばらく連絡が来てな、正直、面倒ではあったんだ。そもそも俺はあの子と付き合う気なんてサラサラなかったしな。そしたら、あの態度だよ。ほら、このあいだ久しぶりに映画館で会ったろ。なんだよあれ。嫌われたもんだよなぁ、俺もさ」
 安次さんは僕に見せつけるように恍惚の表情を浮かべて、そう言った。

 その瞬間、僕はハッとした。

『純愛こそが正義。すぐに体の関係を持っちゃうような人は、あんまり好きじゃない』

 十月のインドカレー屋で、僕はたしかにそう言った。思い返してみると、春香さんの態度が急変したのは、その時だった。

 もしも安次さんの言っていることが本当なのだとしたら――――。

『私は隼人さんが思っているような――――』

 あの日、言い淀む春香さんの頭の中には、当時の安次さんとの記憶が蘇っていたのかもしれない。

『隼人さんのこと、好きになればなるほど――――』

 僕のことを好きになればなるほど、僕が言ったあの言葉が、彼女の背中に重くのしかかってきたのかもしれない。軽はずみに口にした僕の一言が、彼女を苦しめていたのかもしれない。

 だからこそ彼女は、それ以来、自分から僕を意識的に遠ざけるようになったのだ。

 知られれば、嫌われてしまうから。

――――しばらく僕は小便器の前に立ち尽くしていた。すぐ隣の宴会場からは、安次さんの溌剌とした笑い声が聞こえていた。
 すると突然、喉の奥から急激な吐き気が込み上げてきた。慌てて個室に駆け込み、大便器の中に頭をうずめると、胃の中にあったものが口からすべて溢れ出てきた。
 胸の中でムクムクと憎悪が広がっていくのが自分でも分かった。それは決して春香さんに対する憎悪ではない。もっと抽象的で内向きな、安次さんに対する恨みともまた違う、別の種類の憎悪のような気がした。
 冷静になって考えてみれば、この一連の出来事に悪者はいない。春香さんはもちろん、安次さんだって、SNSの一件はまた別として、悪いことはしていない。
 二人の情事は僕と春香さんが付き合う前の話だし、なにより男と女のことだ。僕が知らないだけで、世間ではよくあることなのだろう。
 だから、ここに一つの悪が存在するとするならば、それは、そんなことさえ許容できない僕の狭い心なのだ。

 それ以降のことは、正直覚えていない。トイレを出たあと、再び宴会場に戻ったかどうかも定かではない。気付けば僕はいつの間にか自分の部屋のベッドにいて、暗闇の中で煌々と灯るスマホの画面を見つめていた。LINEを開き、無意識に打ち込んでいたのは、春香さんへ向けた別れのメッセージだった。
『僕なんかのことはもう忘れてください。僕も春香さんのことはできるだけ考えないように頑張るから。色々と辛い思いをさせて、それに気付けなくてごめんね。さようなら』
 こうして、僕の人生で二度目となるこの恋は、またしても心痛を伴う悲恋となって、無情なる終わりを迎えたのだった。