*
インドカレー屋の日以来、なぜか春香さんは僕を意識的に遠ざけるようになった。
バイト中にいくつか事務的な言葉を交わすことはあっても、僕たちの会話はいつも決まって目には見えない緩衝材に吸収されて、尻すぼみになってしまう。
映画の上映時間が近付くと、彼女は率先して受付カウンターを離れ、スクリーンの開場に向かった。僕と二人きりになるのを避けているのは明らかだった。
しかし、その理由が分からないから、僕としても手の打ちようがなく、付き合っているのに、付き合っていないような、ひたすら悶々とする日々が続いた。
十一月も半ばに入ったこの日、春香さんと同じ朝九時からのシフトに入っていた僕は、受付で二人きりになる時間を見計らい、探りを入れるように声をかけた。
「あのさ、このあいだのカレー、おいしかったよね」
当たり障りのない世間話。とは言っても、もう半月以上は前の話。あれ以来、僕たちは一緒に遊ぶこともなく、それどころかLINEのやりとりさえほとんどしなくなっていた。
「はい…、おいしかったですよね」
と、春香さんはすげなく答える。
「あれからまた別のカレー屋さんに行ったりした?」
「行けてないですね。隼人さんは?」
「僕も全然。大学とバイトが立て込んじゃって」
「そうですよね」
春香さんが相槌を打って、会話が終わる。
「……あのさ、春香さん、あの、なにか嫌なことでもあった?」
痺れを切らして核心を訊ねる。理由もなにも分からないまま、好きな人に嫌われてしまっては、自分を慰めることもできやしない。なんにせよ、春香さんの今の素直な気持ちが知りたかった。
「私は……」春香さんは言いかけ、言葉を飲んだ。「なにもないですよ」
「…そっか。それならいいけど」
「はい、すみません…」
「……あーあ、それにしても、暇だねぇ、今日も」
僕は胸に渦巻く嫌な感情を吐き出すように、大きく溜息をついた。これ以上なにか質問をしても、このモヤモヤが晴れることはないと思った。
「暇、ですね……」
春香さんが相槌を打って、会話がまた終わる。館内がシンと静まり返る。
ロビーに客は一人も見当たらない。今までだって暇な時間の方が多かったけれど、それにしたって最近の暇っぷりは度を越している。すでに正午を過ぎて二時間が経つが、僕は今日、午後になってからまだ一度もチケットを売っていない。
それどころの話ではない。次の映画の上映開始時間まであと三十分もないというのに、未だに一つの席も埋まっていないのだ。
これは極めて異常事態だった。これまでにも一度の上映で二、三席しか埋まらない事態はあったけれど、しかし客が一人も入らないというのは、さすがに僕も経験がなかった。
「次の上映、今から何席埋まるか賭ける?」
「一席も埋まらないと思います」
「僕もそう思う」
「賭け、不成立ですね」
結局、そのあと本当に一人の客も来ないまま、映画の上映時間を迎えてしまった。僕にとってもはじめての経験ではあるが、一応、こうなった時のためのマニュアルは、先輩や社員の人たちに教えてもらってはいた。
まず、映画の本編がスタートしてからしばらくは、そのままの状態で様子を見ることになっている。本編の途中からでもいいから観たいという客が来た場合を想定して、スクリーンには映画を流し続けるのだ。
上映の中断が決まるのは、本編開始から約十五分後。その時間を超えたら、受付の人間が、今回の場合は僕が、まずは事務室にいる社員にそれを報告して、許可をもらったら、今度は急いで映写室へと向かう。
映写室というのは、いつ来ても薄暗く、ひんやりとしている。大きな機械が所狭しと置かれていて、至るところからゴー…、ゴー…と音が鳴っている。まるで戦隊ヒーローのドラマに出てくる悪の組織の秘密基地だ。
中に入ると、隅の方にポツンと置かれた椅子、というより、椅子代わりに使っている古い木箱の上に、背中を丸めて座る老齢の男性の姿があった。
「久我さん、今回の上映、中止だそうです」
「おぉ……、そうか、まぁ、そうだろうなぁ」
僕がそう報告すると、その男性、久我さんは、ゆっくりと腰を持ち上げ、残念そうに眉を垂らしながら、映写機の稼働を止めた。
久我さんは五十年前、この映画館が新宿に誕生した当初からここで働く、ベテランの映写技師だった。
スクリーン内の天井のライトが、微睡むように静かに明転し、誰もいない小さな劇場を煌々と照らしていく。
「誰もいない劇場って、なんだか寂しいですね」
映写室の小窓に顔を寄せ、無人の劇場を上から眺めてみると、真っ白のスクリーンや、誰もいない座席シートには、なんとも言えない寂寥感が漂っていた。
僕が生まれるよりもずっとずっと前、シネマ・グリュックが毎日のように繁盛していた頃に働いていたスタッフが今の惨状を見たら、一体なにを思うのだろう。
当時を知らない僕にはそれを推し量ることしかできないが、きっと、言葉では言い尽くせない、さまざまな想いが溢れてくるのだろう。
すると、僕の隣に立って、我が子を見守るように小窓から劇場を見下ろす久我さんが、嘆息混じりに肩を落とした。儚げに萎れた彼のその横顔に刻まれた深い皺は、シネマ・グリュックの歴史そのものだった。
「こうなってしまうのも、仕方がないことなのかもねぇ……」
「仕方がない?」
「ほら、フィルムからデジタルに移行して、劇場の上映環境も、ここ十数年で格段に上がっただろう? 大きな映画館は最高水準の音響設備と、巨大なスクリーンを取り揃えるようになった。今なんて、4Dなんてものもある時代だ。隼人くんは、4Dの映画を観に行ったことがあるかい?」
「はい、一回だけ。風とか、すごかったです。座席もぐわんぐわん揺れて」
「そうそう、あれ、すごいよなぁ」
久我さんは子供のように目尻をギュッと絞って、笑った。
「まぁ、シネマ・グリュックじゃ考えられないことではありますね」
「そう。だから、ここみたいなひと昔前の映画館がこうやって衰退していくのは、もはや当然の流れなんだろうね。どんなに良い映画を流しても、今の人には受け入れてもらえないのかもしれない」
「僕は……」と、僕は弱々と首を傾げた。「僕は、違うと思います、それ」
「…違う、とは」
久我さんが短い白髪をポリポリと掻きながら、興味深そうに眉を浮かせた。老いてなお、男前だった若い頃の面影をふんだんに滲ませるその端正な顔立ちは、昭和の銀幕スターのような、いぶし銀の格好良さがある。
「あ、すいません、でも、思うんです。良い映画っていうのは、時代とか、価値観とか、そういうのを全部、軽く飛び越えて、観る人すべての胸を打つから、良い映画なんだなって」
「ほう、そう思うかね」
「はい。だから、大丈夫です。お客さんはまた来ますよ。塞翁が馬です。人間万事塞翁が馬。悪い時期を乗り切れば、良い時期が必ずやってきます」
「そうだといいなぁ」
久我さんは、やはり子供のように、くしゃっと笑った。
*
午後三時、僕は少し遅めの休憩を取るために、一旦、受付カウンターから事務室に戻った。
奥にある休憩机から横目に見える支配人デスクでは、飛田さんが険しい表情を浮かべて、ノートパソコンと向き合っている。相変わらず機嫌が悪そうで、顔色も悪い。ここ数ヶ月、ずっと目元に青黒いクマをたたえてはいたか、今日はさらに目を充血させ、口周りの無精髭も、処理されずにそのままだった。
よほど腹に据えかねることがあったのだろうかと心配になるが、考えてみると今日は来場者ゼロを叩き出してしまっているのだ。その責任を負う立場にある飛田さんが殺気立つのも、無理はなかった。
「なぁ、隼人」
突然、その飛田さんがくるりと僕の方に顔を捻った。
「えっ? あ、はい?」
急に話しかけられ、つい気の抜けた返事をしてしまう。コンビニのおにぎりを口へ運ぼうとしていた手もビクッと止まった。
「お前も、もう来年は大学四年だな」
「あぁ…、そうですね。大学四年、ですね」
「就職はどうするんだ? どんな職種に就きたいとか、そういうのはちゃんと考えているのか?」
「就職かぁ、まだあんまり考えてないかなぁ」
言いながら、口の前で止まっていたおにぎりをひと口、頬張る。
「真面目に考えろよ。もう子供じゃないんだから」
曖昧に答える僕に、飛田さんが珍しく語気を強めた。
「は、はい……」
おにぎりと一緒に唾を飲み込む。
飛田さんのその一言で、今まで見て見ぬふりをしていた現実が、たちまち荒波となって僕の胸に押し寄せてきた、ような気がした。
正直、いつから就活を始めるのか、そもそも就活する気はあるのか、自分でもまだよく分かっていない。
本当に小説家になれるのか、なったとして、その仕事一本で食っていくことはできるのか、それも分からない。
しかし、少なくとも小説を書きたいという僕の夢は、決して就活を放棄する免罪符にはなりえないのだと、そのことにはたと気が付いたその瞬間、僕は、はじめて自分が今、人生の重大な岐路に立たされていることを実感した。
*
翌日、僕は大学の講義室で、友人の代田と横並びになって座っていた。講義中にも関わらず、平然とスマホゲームに興じる代田の隣で、僕は机に突っ伏し、思い悩んでいる。
将来、僕が小説家になれる確証はどこにもない。むしろその可能性はすこぶる低く、それならば、いっそのこと一般の企業で働きながら、その傍らで夢を追う方が堅実ではあるように思える。
とはいえ、だ。好きでもない仕事を無理して続けられるほど、人見知りで社交性に乏しい僕の心は強くない。甘えなのかもしれないけれど、現実として、そうなのだ。
顔を上げ、隣を見ると、代田が真剣にスマホを睨んでいる。彼は前期の授業でいくつか単位を落としたことで、すでに留年が確定している身だった。
留年が決まった人間は人類最強だと豪語する代田の、その呑気さが、なにをするにしてもまず悩むことから始めてしまう僕にとっては、羨ましくもあった。
「そういえば」と、そんな代田が視線をスマホから僕に向け、浮ついた口元を嫌らしく吊り上げた。「このあいださ、今はもう社会人やってるサークルの先輩に、はじめて風俗に連れて行ってもらった」
「え、マジ?」
「マジマジ」
「どうだった?」
「どうだったって、お前、野暮なこと訊くな。俺の顔を見ろよ。この世の天国だったって、そう書いてあるだろ。以来、ハマっちゃってハマっちゃって。今までバイトで貯めてた金、全部使っちゃったよ」
「マジか」
「ああ、マジ寄りのマジだ。隼人も一回、行ってみるか?」
代田がだらしなく目尻を垂らす。今にも記憶だけで絶頂してしまいかねない、まさに恍惚といった表情だ。
「そんな醜い顔になるなら、僕はいい」
「え、俺、そんなブサイク?」
代田は自虐するように笑い、鏡にしたスマホの画面で自分の緩んだ顔を確認すると、たしかにこれはブサイクだ、とさらに笑った。
「代田はさ、そんなんでいいの?」と、僕は哀れむように訊ねる。
「そんなんって?」
「だから、留年が決まったからって、そんな風に遊んでばっかいてさ、そろそろ将来のこととか、真剣に考えた方がいいんじゃないのかって」
自分のことは棚に上げて言う僕に、代田は昂然と鼻を鳴らした。
「ふん、俺は今を楽しめればそれでいいんだよ。今を楽しめないような奴が、将来を楽しめるわけないからな」
「そんなの、ただの現実逃避でしょ」
「今日の小さな幸せが、一つひとつ積み重なって、いつか大きな幸せになるんだよ。俺は足元に転がる、そんな小さな幸せを少しずつ拾い上げてるんだ」
「風俗に入り浸っているような奴が積み重ねて得られる大きな幸せって、なに」
「そりゃあ、お前、ハーレムだろ」
「親が聞いたら泣くね」
「隼人こそ、どうなんだよ」
代田がやり返すように僕に言った。
「僕はちゃんと考えてるよ。就活、どうしようかなぁって」
「そうじゃなくて、あの子のことだよ。ちょっと前に俺に連絡してきたろ。バイトの女の子との間で変な噂が立って、居場所がなくなりそう、とかなんとか」
「あぁ、それ」ただでさえ就活のことで悩んでいる最中なのに、さらに気が重たくなる。「正直、よく分からん」
「で、実際、その子のことは好きなの?」
「好きだよ。ていうか、結局あのあと付き合うことになった」
「え、マジで?」
「マジ寄りのマジ」僕は肩をすくめて苦笑する。「でも、今はなんか、本当に付き合っているのか、よく分からない状況」
「どういう意味だよ」
「別れてはいないんだけど、なぜかずっと避けられてる」
「なんで」
「それが分かってたら、こんなに悩んでないよ」
「隼人、お前、なんか相手が傷付くようなことを言ったんじゃないの」
「そうなのかなぁ」
「無意識に言ったんだよ、絶対」代田はなぜか断定口調だ。「俺も経験あるぜ、そういうの。前の彼女にさ、『少し太ったんじゃない?』って言ったんだ。そしたら相手は殊の外それを気にしてたみたいで、速攻でフラれちゃったもんな、俺」
「それは代田、デリカシーがなさすぎるよ」
「でも、結局はそういうことだろ? 相手のどこに地雷があるのかなんて分からないんだよ。だから、どうやったって地雷は踏んでしまう。大事なのは、踏んだ後だ」
「地雷は踏んでしまったら、爆発して、それでおしまいでしょ」
「本来の地雷はな。けど、人間の地雷は、そうじゃない。そのあとの振る舞い方次第で、どうにでもなる」
「でも、代田は爆発したんでしょ」
「ああ、大爆発だった」代田はケラケラと笑い、「あ、そうだ」と、さもついでの話をするかのように眉を浮かせた。「そういえば俺、来年の春からアメリカ行くから」
「は? アメリカ?」
「そう、アメリカ」
「……旅行でってこと?」
「違う違う。まぁ、留年も決まったことだしな。ここはひとつ思い切って、俺にしかできないことをしてみようかなって」
「ま、待って、大学は?」驚きのあまり声が絡まる。「ど、どど、どうするの」
「休学する」
「お金は」
「ちゃんと貯めてるに決まってるだろ」
「でも……、風俗で使い果たしたって」
「それはそれ、これはこれだよ。ちゃんと使い分けてる」
「英語は? ちゃんと喋れるの?」
「まぁ、今まさに勉強中ってとこだな」
「……はは、なんだよそれ、ははは」
僕はこの日、人は驚きのキャパシティを越えると、今度は笑いが止まらなくなるのだと知った。
*
それは、突然の報せだった。
この日、いつも通りシネマ・グリュックでの遅番勤務を済ませた僕が、事務室で帰り支度をしていると、飛田さんに突然、声をかけられた。
「隼人、春香さん、ちょっといいかな」
時刻は夜の十一時前。この時、その場には僕の他に、同じ遅番だった春香さんと、副支配人の笹塚さんがいた。
笹塚さんは三十一歳の男性で、元々はバイトだった身から社員に昇格し、そのまま副支配人にまで昇り詰めた叩き上げだ。爽やかな短髪に、キリッとした太い眉、ややエラの張った輪郭は、いかにも寡黙な仕事人といった雰囲気を醸している。
「今日は、お前たちに大事な話があるんだ」
渋面を浮かべる飛田さんは、重々しく支配人デスクに腰かけ、胸の前で厳めしく腕を組んでいる。僕と春香さんは漠然とした嫌な予感を抱きつつ、空いていた椅子に腰を下ろし、その飛田さんと向かい合った。
「大事な…話?」
「来年からな、その、シネマ・グリュックの営業規模をな、大幅に縮小することになったんだ。数ヶ月前から何度も会議を重ねて、それが最善だという結論に至った」
「え……」
僕も春香さんも声を詰まらせた。足のつま先に重力を感じる。それなのに体は宙に浮いたように据わりが悪い。
「どういう、ことですか?」
と、先に口を開いたのは春香さんだった。
「この劇場の経営が限界に近付いてきていることは、お前たちも薄々と感じてはいただろう。このあいだなんて、ついに客ゼロの回を出しちまったくらいだ。もう何年も赤字が続いていて、それが回復する見込みも、今のところない」
飛田さんはそう言うと、悔しそうに唇を噛んで、肩を落とした。
実際、シネマ・グリュックの客足は日増しに減っていくばかりで、その経営状況は、飛田さんの言葉の通り、もはや限界だった。
さらに言うと、本社の諸下興業が展開する映画以外の事業は軒並み順調な経営を続けているのが現状で、要するに、かつては隆盛を極めたシネマ・グリュックも、今や本社の足手まといでしかなくなっていたのだ。
「それじゃあ、この映画館、潰れちゃうんですか?」
春香さんが訊ねると、飛田さんは、いや、と首を振った。振った、というより、震わせた、と言った方がいいかもしれない。それくらい弱々しい動きだった。
「いま言ったように、あくまで規模の縮小だ。半世紀も続くこの映画館を、そう簡単に潰すわけにはいかないからな。ただ――――」
「――――僕もそれがいいと思います」と、僕は飛田さんの声を遮って言った。仕事終わりにわざわざ呼び止められた理由が、今ようやく分かった気がした。「だから要するに、僕たちバイトが、ここを辞めるしかないって、そういうことですよね?」
「そういうことだ」
飛田さんは項垂れるように頷いた。
「しょうがないですよ。この映画館がなくなってしまうくらいなら、そうするべきだと思います。上映回数を減らしてでも、人員を減らしてでも、ここは存在し続けなくちゃ」
僕にとってライフ・イズ・ビューティフルがそうであるように、春香さんにとってビッグフィッシュがそうであるように、映画には、時代を超えて、価値観を超えて、人々の心になにかを届ける特別な力がある。映画で得た感動、怒り、恐怖といったさまざまな感情が、愛や優しさの教訓となって、その人の人生に息づいていく。過去から連綿と受け継いできたその流れを途絶えさせないためにも、映画館はそこに在り続けなければならないのだ。
「ごめんな……、俺の力不足で、お前たちにも迷惑を……」
とうとう嗚咽して泣き始めた飛田さんは、やがて耐えきれなくなったのか、あとの流れはすべて笹塚に任せると言って、先に事務室を出ていった。去っていく飛田さんの背中が、岩のように大きかったあの背中が、悄然と丸まって、小さく見えた。
「飛田さんはね、バイトの子たちがここに残れるように、最後の最後まで本社と交渉をしてくれていたんだよ」と、それまでずっと黙っていた笹塚さんがはじめて口を開いた。「でも、駄目だった。現実は厳しかった」
支配人デスク横の背の高い棚に手を伸ばし、そこから一冊のファイルを取り出す。中には退職に関するいくつかの書類が綴られていて、それを一つひとつ丁寧に説明していく。その時間は僕には永遠のようにも、ほんの数秒のようにも感じられた。
結局、僕たちバイトは全員、解雇ではなく、退職勧奨という形を取って、今年の十二月末にシネマ・グリュックを辞めることとなった。それが会社にとっては一番痛手とならない、冷酷ではあるが、冷静な判断ということらしい。
笹塚さんが最後に出した同意書に署名をしながら、僕は、数カ月前の記憶を頭に蘇らせた。いつも大きな体をゆさゆさと揺らして笑っていた飛田さんが、思えば、あの頃から笑わなくなった。不機嫌を溜め込み、日に日にやつれていくのが分かった。
あぁ、そうか……。
込み上げてくる想いを、同意書に自らの名前を書き殴ることで、なんとか抑える。
あの頃から飛田さんは僕たちを守るために、ひとり奔走してくれていたのか。本社と現場の板挟みになりながら、そんな中で決断を下した飛田さんの苦渋を思うと、胸が痛くなった。去り際に彼が見せた涙の意味を痛感し、生涯、決して忘れるわけにはいかないと、そう思った。
「来年からは、どんな感じになるんですか?」
僕に続いて署名を終えた春香さんが訊ねた。
「当面は社員だけで仕事を回すことになるね。でも、この先なにが起こるかは分からない。飛田さんだって、次の株主総会のあと、どうなってしまうか、まだ定かじゃないんだ」
「え……、飛田さんも辞めちゃうんですか?」
椅子から跳ね上がるようにして立ち上がり、前のめりになる春香さんの瞳が、川面に映る月明かりのように揺れていた。
「まだ辞めるかどうかも、なにも分からないってことだよ。でも――――」
そのあとに続く言葉を、笹塚さんはすんでのところで飲み込んだ。が、彼がなにを言おうとしたのかは、僕にはなんとなく想像がついた。
結局、経営が立ち行かなくなった時に真っ先に首を切られるのは、使い勝手のいいバイトか、使い勝手の悪くなった現場の年長者と決まっている、ということなのだろう。
*
僕と春香さんが劇場をあとにしたのは、夜の十一時半を過ぎてからのことだった。
新宿駅に向かって大通り沿いを並んで歩きながら、隣の彼女を一瞥する。なんとなく、このままだとバイトの契約終了と同時に、僕たちの関係も自然と終わってしまうような気がした。
この恋愛が、この先どうなっていくのか、それは分からない。だけど、今のまま気まずさだけを残して、彼女と離れ離れになってしまうのは、どうしても嫌だった。
「ねぇ、春香さん」
覚悟を決めて、声をかける。
「どうしました」
春香さんは前を向いたまま、小さく反応した。車道を走る車のヘッドライトが、まだ少し赤らむ彼女の横顔を舐めるように照らす。
「来月のクリスマス、どうする?」
「どうしましょうか」
「…あのさ、ちゃんと話をしよう。今みたいに有耶無耶の関係になったまま会えなくなるのは嫌だから、ちゃんと二人で話そう」
「……あの、隼人さん」
「なに?」
「私は……、私は、隼人さんが思っているような――――」
春香さんが切実な目をして、僕になにかを言おうとした、その時、ネオンに煌めく新宿の夜空を、車のクラクションが切り裂いた。
どうやら横断歩道のない車道を、酔っ払いの男が横切ろうとしたらしい。急停止した車の窓から運転手が顔を出し、その男に向かって、なにやら悲鳴めいた怒声を浴びせている。
「ごめん、私は、なに?」
反射的に音のした方に向けていた視線を、春香さんに戻す。
「……ううん、やっぱり、なんでもないです」
不意の叫声に意気を削がれたのか、春香さんは無理やり笑顔を作ってそう言うと、そのまま逃げるように僕のもとを離れて、雑然とした新宿駅の中へと姿を消した。
僕は、そんな彼女の背中を、ただ呆然と黙って見送ることしかできなかった。
インドカレー屋の日以来、なぜか春香さんは僕を意識的に遠ざけるようになった。
バイト中にいくつか事務的な言葉を交わすことはあっても、僕たちの会話はいつも決まって目には見えない緩衝材に吸収されて、尻すぼみになってしまう。
映画の上映時間が近付くと、彼女は率先して受付カウンターを離れ、スクリーンの開場に向かった。僕と二人きりになるのを避けているのは明らかだった。
しかし、その理由が分からないから、僕としても手の打ちようがなく、付き合っているのに、付き合っていないような、ひたすら悶々とする日々が続いた。
十一月も半ばに入ったこの日、春香さんと同じ朝九時からのシフトに入っていた僕は、受付で二人きりになる時間を見計らい、探りを入れるように声をかけた。
「あのさ、このあいだのカレー、おいしかったよね」
当たり障りのない世間話。とは言っても、もう半月以上は前の話。あれ以来、僕たちは一緒に遊ぶこともなく、それどころかLINEのやりとりさえほとんどしなくなっていた。
「はい…、おいしかったですよね」
と、春香さんはすげなく答える。
「あれからまた別のカレー屋さんに行ったりした?」
「行けてないですね。隼人さんは?」
「僕も全然。大学とバイトが立て込んじゃって」
「そうですよね」
春香さんが相槌を打って、会話が終わる。
「……あのさ、春香さん、あの、なにか嫌なことでもあった?」
痺れを切らして核心を訊ねる。理由もなにも分からないまま、好きな人に嫌われてしまっては、自分を慰めることもできやしない。なんにせよ、春香さんの今の素直な気持ちが知りたかった。
「私は……」春香さんは言いかけ、言葉を飲んだ。「なにもないですよ」
「…そっか。それならいいけど」
「はい、すみません…」
「……あーあ、それにしても、暇だねぇ、今日も」
僕は胸に渦巻く嫌な感情を吐き出すように、大きく溜息をついた。これ以上なにか質問をしても、このモヤモヤが晴れることはないと思った。
「暇、ですね……」
春香さんが相槌を打って、会話がまた終わる。館内がシンと静まり返る。
ロビーに客は一人も見当たらない。今までだって暇な時間の方が多かったけれど、それにしたって最近の暇っぷりは度を越している。すでに正午を過ぎて二時間が経つが、僕は今日、午後になってからまだ一度もチケットを売っていない。
それどころの話ではない。次の映画の上映開始時間まであと三十分もないというのに、未だに一つの席も埋まっていないのだ。
これは極めて異常事態だった。これまでにも一度の上映で二、三席しか埋まらない事態はあったけれど、しかし客が一人も入らないというのは、さすがに僕も経験がなかった。
「次の上映、今から何席埋まるか賭ける?」
「一席も埋まらないと思います」
「僕もそう思う」
「賭け、不成立ですね」
結局、そのあと本当に一人の客も来ないまま、映画の上映時間を迎えてしまった。僕にとってもはじめての経験ではあるが、一応、こうなった時のためのマニュアルは、先輩や社員の人たちに教えてもらってはいた。
まず、映画の本編がスタートしてからしばらくは、そのままの状態で様子を見ることになっている。本編の途中からでもいいから観たいという客が来た場合を想定して、スクリーンには映画を流し続けるのだ。
上映の中断が決まるのは、本編開始から約十五分後。その時間を超えたら、受付の人間が、今回の場合は僕が、まずは事務室にいる社員にそれを報告して、許可をもらったら、今度は急いで映写室へと向かう。
映写室というのは、いつ来ても薄暗く、ひんやりとしている。大きな機械が所狭しと置かれていて、至るところからゴー…、ゴー…と音が鳴っている。まるで戦隊ヒーローのドラマに出てくる悪の組織の秘密基地だ。
中に入ると、隅の方にポツンと置かれた椅子、というより、椅子代わりに使っている古い木箱の上に、背中を丸めて座る老齢の男性の姿があった。
「久我さん、今回の上映、中止だそうです」
「おぉ……、そうか、まぁ、そうだろうなぁ」
僕がそう報告すると、その男性、久我さんは、ゆっくりと腰を持ち上げ、残念そうに眉を垂らしながら、映写機の稼働を止めた。
久我さんは五十年前、この映画館が新宿に誕生した当初からここで働く、ベテランの映写技師だった。
スクリーン内の天井のライトが、微睡むように静かに明転し、誰もいない小さな劇場を煌々と照らしていく。
「誰もいない劇場って、なんだか寂しいですね」
映写室の小窓に顔を寄せ、無人の劇場を上から眺めてみると、真っ白のスクリーンや、誰もいない座席シートには、なんとも言えない寂寥感が漂っていた。
僕が生まれるよりもずっとずっと前、シネマ・グリュックが毎日のように繁盛していた頃に働いていたスタッフが今の惨状を見たら、一体なにを思うのだろう。
当時を知らない僕にはそれを推し量ることしかできないが、きっと、言葉では言い尽くせない、さまざまな想いが溢れてくるのだろう。
すると、僕の隣に立って、我が子を見守るように小窓から劇場を見下ろす久我さんが、嘆息混じりに肩を落とした。儚げに萎れた彼のその横顔に刻まれた深い皺は、シネマ・グリュックの歴史そのものだった。
「こうなってしまうのも、仕方がないことなのかもねぇ……」
「仕方がない?」
「ほら、フィルムからデジタルに移行して、劇場の上映環境も、ここ十数年で格段に上がっただろう? 大きな映画館は最高水準の音響設備と、巨大なスクリーンを取り揃えるようになった。今なんて、4Dなんてものもある時代だ。隼人くんは、4Dの映画を観に行ったことがあるかい?」
「はい、一回だけ。風とか、すごかったです。座席もぐわんぐわん揺れて」
「そうそう、あれ、すごいよなぁ」
久我さんは子供のように目尻をギュッと絞って、笑った。
「まぁ、シネマ・グリュックじゃ考えられないことではありますね」
「そう。だから、ここみたいなひと昔前の映画館がこうやって衰退していくのは、もはや当然の流れなんだろうね。どんなに良い映画を流しても、今の人には受け入れてもらえないのかもしれない」
「僕は……」と、僕は弱々と首を傾げた。「僕は、違うと思います、それ」
「…違う、とは」
久我さんが短い白髪をポリポリと掻きながら、興味深そうに眉を浮かせた。老いてなお、男前だった若い頃の面影をふんだんに滲ませるその端正な顔立ちは、昭和の銀幕スターのような、いぶし銀の格好良さがある。
「あ、すいません、でも、思うんです。良い映画っていうのは、時代とか、価値観とか、そういうのを全部、軽く飛び越えて、観る人すべての胸を打つから、良い映画なんだなって」
「ほう、そう思うかね」
「はい。だから、大丈夫です。お客さんはまた来ますよ。塞翁が馬です。人間万事塞翁が馬。悪い時期を乗り切れば、良い時期が必ずやってきます」
「そうだといいなぁ」
久我さんは、やはり子供のように、くしゃっと笑った。
*
午後三時、僕は少し遅めの休憩を取るために、一旦、受付カウンターから事務室に戻った。
奥にある休憩机から横目に見える支配人デスクでは、飛田さんが険しい表情を浮かべて、ノートパソコンと向き合っている。相変わらず機嫌が悪そうで、顔色も悪い。ここ数ヶ月、ずっと目元に青黒いクマをたたえてはいたか、今日はさらに目を充血させ、口周りの無精髭も、処理されずにそのままだった。
よほど腹に据えかねることがあったのだろうかと心配になるが、考えてみると今日は来場者ゼロを叩き出してしまっているのだ。その責任を負う立場にある飛田さんが殺気立つのも、無理はなかった。
「なぁ、隼人」
突然、その飛田さんがくるりと僕の方に顔を捻った。
「えっ? あ、はい?」
急に話しかけられ、つい気の抜けた返事をしてしまう。コンビニのおにぎりを口へ運ぼうとしていた手もビクッと止まった。
「お前も、もう来年は大学四年だな」
「あぁ…、そうですね。大学四年、ですね」
「就職はどうするんだ? どんな職種に就きたいとか、そういうのはちゃんと考えているのか?」
「就職かぁ、まだあんまり考えてないかなぁ」
言いながら、口の前で止まっていたおにぎりをひと口、頬張る。
「真面目に考えろよ。もう子供じゃないんだから」
曖昧に答える僕に、飛田さんが珍しく語気を強めた。
「は、はい……」
おにぎりと一緒に唾を飲み込む。
飛田さんのその一言で、今まで見て見ぬふりをしていた現実が、たちまち荒波となって僕の胸に押し寄せてきた、ような気がした。
正直、いつから就活を始めるのか、そもそも就活する気はあるのか、自分でもまだよく分かっていない。
本当に小説家になれるのか、なったとして、その仕事一本で食っていくことはできるのか、それも分からない。
しかし、少なくとも小説を書きたいという僕の夢は、決して就活を放棄する免罪符にはなりえないのだと、そのことにはたと気が付いたその瞬間、僕は、はじめて自分が今、人生の重大な岐路に立たされていることを実感した。
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翌日、僕は大学の講義室で、友人の代田と横並びになって座っていた。講義中にも関わらず、平然とスマホゲームに興じる代田の隣で、僕は机に突っ伏し、思い悩んでいる。
将来、僕が小説家になれる確証はどこにもない。むしろその可能性はすこぶる低く、それならば、いっそのこと一般の企業で働きながら、その傍らで夢を追う方が堅実ではあるように思える。
とはいえ、だ。好きでもない仕事を無理して続けられるほど、人見知りで社交性に乏しい僕の心は強くない。甘えなのかもしれないけれど、現実として、そうなのだ。
顔を上げ、隣を見ると、代田が真剣にスマホを睨んでいる。彼は前期の授業でいくつか単位を落としたことで、すでに留年が確定している身だった。
留年が決まった人間は人類最強だと豪語する代田の、その呑気さが、なにをするにしてもまず悩むことから始めてしまう僕にとっては、羨ましくもあった。
「そういえば」と、そんな代田が視線をスマホから僕に向け、浮ついた口元を嫌らしく吊り上げた。「このあいださ、今はもう社会人やってるサークルの先輩に、はじめて風俗に連れて行ってもらった」
「え、マジ?」
「マジマジ」
「どうだった?」
「どうだったって、お前、野暮なこと訊くな。俺の顔を見ろよ。この世の天国だったって、そう書いてあるだろ。以来、ハマっちゃってハマっちゃって。今までバイトで貯めてた金、全部使っちゃったよ」
「マジか」
「ああ、マジ寄りのマジだ。隼人も一回、行ってみるか?」
代田がだらしなく目尻を垂らす。今にも記憶だけで絶頂してしまいかねない、まさに恍惚といった表情だ。
「そんな醜い顔になるなら、僕はいい」
「え、俺、そんなブサイク?」
代田は自虐するように笑い、鏡にしたスマホの画面で自分の緩んだ顔を確認すると、たしかにこれはブサイクだ、とさらに笑った。
「代田はさ、そんなんでいいの?」と、僕は哀れむように訊ねる。
「そんなんって?」
「だから、留年が決まったからって、そんな風に遊んでばっかいてさ、そろそろ将来のこととか、真剣に考えた方がいいんじゃないのかって」
自分のことは棚に上げて言う僕に、代田は昂然と鼻を鳴らした。
「ふん、俺は今を楽しめればそれでいいんだよ。今を楽しめないような奴が、将来を楽しめるわけないからな」
「そんなの、ただの現実逃避でしょ」
「今日の小さな幸せが、一つひとつ積み重なって、いつか大きな幸せになるんだよ。俺は足元に転がる、そんな小さな幸せを少しずつ拾い上げてるんだ」
「風俗に入り浸っているような奴が積み重ねて得られる大きな幸せって、なに」
「そりゃあ、お前、ハーレムだろ」
「親が聞いたら泣くね」
「隼人こそ、どうなんだよ」
代田がやり返すように僕に言った。
「僕はちゃんと考えてるよ。就活、どうしようかなぁって」
「そうじゃなくて、あの子のことだよ。ちょっと前に俺に連絡してきたろ。バイトの女の子との間で変な噂が立って、居場所がなくなりそう、とかなんとか」
「あぁ、それ」ただでさえ就活のことで悩んでいる最中なのに、さらに気が重たくなる。「正直、よく分からん」
「で、実際、その子のことは好きなの?」
「好きだよ。ていうか、結局あのあと付き合うことになった」
「え、マジで?」
「マジ寄りのマジ」僕は肩をすくめて苦笑する。「でも、今はなんか、本当に付き合っているのか、よく分からない状況」
「どういう意味だよ」
「別れてはいないんだけど、なぜかずっと避けられてる」
「なんで」
「それが分かってたら、こんなに悩んでないよ」
「隼人、お前、なんか相手が傷付くようなことを言ったんじゃないの」
「そうなのかなぁ」
「無意識に言ったんだよ、絶対」代田はなぜか断定口調だ。「俺も経験あるぜ、そういうの。前の彼女にさ、『少し太ったんじゃない?』って言ったんだ。そしたら相手は殊の外それを気にしてたみたいで、速攻でフラれちゃったもんな、俺」
「それは代田、デリカシーがなさすぎるよ」
「でも、結局はそういうことだろ? 相手のどこに地雷があるのかなんて分からないんだよ。だから、どうやったって地雷は踏んでしまう。大事なのは、踏んだ後だ」
「地雷は踏んでしまったら、爆発して、それでおしまいでしょ」
「本来の地雷はな。けど、人間の地雷は、そうじゃない。そのあとの振る舞い方次第で、どうにでもなる」
「でも、代田は爆発したんでしょ」
「ああ、大爆発だった」代田はケラケラと笑い、「あ、そうだ」と、さもついでの話をするかのように眉を浮かせた。「そういえば俺、来年の春からアメリカ行くから」
「は? アメリカ?」
「そう、アメリカ」
「……旅行でってこと?」
「違う違う。まぁ、留年も決まったことだしな。ここはひとつ思い切って、俺にしかできないことをしてみようかなって」
「ま、待って、大学は?」驚きのあまり声が絡まる。「ど、どど、どうするの」
「休学する」
「お金は」
「ちゃんと貯めてるに決まってるだろ」
「でも……、風俗で使い果たしたって」
「それはそれ、これはこれだよ。ちゃんと使い分けてる」
「英語は? ちゃんと喋れるの?」
「まぁ、今まさに勉強中ってとこだな」
「……はは、なんだよそれ、ははは」
僕はこの日、人は驚きのキャパシティを越えると、今度は笑いが止まらなくなるのだと知った。
*
それは、突然の報せだった。
この日、いつも通りシネマ・グリュックでの遅番勤務を済ませた僕が、事務室で帰り支度をしていると、飛田さんに突然、声をかけられた。
「隼人、春香さん、ちょっといいかな」
時刻は夜の十一時前。この時、その場には僕の他に、同じ遅番だった春香さんと、副支配人の笹塚さんがいた。
笹塚さんは三十一歳の男性で、元々はバイトだった身から社員に昇格し、そのまま副支配人にまで昇り詰めた叩き上げだ。爽やかな短髪に、キリッとした太い眉、ややエラの張った輪郭は、いかにも寡黙な仕事人といった雰囲気を醸している。
「今日は、お前たちに大事な話があるんだ」
渋面を浮かべる飛田さんは、重々しく支配人デスクに腰かけ、胸の前で厳めしく腕を組んでいる。僕と春香さんは漠然とした嫌な予感を抱きつつ、空いていた椅子に腰を下ろし、その飛田さんと向かい合った。
「大事な…話?」
「来年からな、その、シネマ・グリュックの営業規模をな、大幅に縮小することになったんだ。数ヶ月前から何度も会議を重ねて、それが最善だという結論に至った」
「え……」
僕も春香さんも声を詰まらせた。足のつま先に重力を感じる。それなのに体は宙に浮いたように据わりが悪い。
「どういう、ことですか?」
と、先に口を開いたのは春香さんだった。
「この劇場の経営が限界に近付いてきていることは、お前たちも薄々と感じてはいただろう。このあいだなんて、ついに客ゼロの回を出しちまったくらいだ。もう何年も赤字が続いていて、それが回復する見込みも、今のところない」
飛田さんはそう言うと、悔しそうに唇を噛んで、肩を落とした。
実際、シネマ・グリュックの客足は日増しに減っていくばかりで、その経営状況は、飛田さんの言葉の通り、もはや限界だった。
さらに言うと、本社の諸下興業が展開する映画以外の事業は軒並み順調な経営を続けているのが現状で、要するに、かつては隆盛を極めたシネマ・グリュックも、今や本社の足手まといでしかなくなっていたのだ。
「それじゃあ、この映画館、潰れちゃうんですか?」
春香さんが訊ねると、飛田さんは、いや、と首を振った。振った、というより、震わせた、と言った方がいいかもしれない。それくらい弱々しい動きだった。
「いま言ったように、あくまで規模の縮小だ。半世紀も続くこの映画館を、そう簡単に潰すわけにはいかないからな。ただ――――」
「――――僕もそれがいいと思います」と、僕は飛田さんの声を遮って言った。仕事終わりにわざわざ呼び止められた理由が、今ようやく分かった気がした。「だから要するに、僕たちバイトが、ここを辞めるしかないって、そういうことですよね?」
「そういうことだ」
飛田さんは項垂れるように頷いた。
「しょうがないですよ。この映画館がなくなってしまうくらいなら、そうするべきだと思います。上映回数を減らしてでも、人員を減らしてでも、ここは存在し続けなくちゃ」
僕にとってライフ・イズ・ビューティフルがそうであるように、春香さんにとってビッグフィッシュがそうであるように、映画には、時代を超えて、価値観を超えて、人々の心になにかを届ける特別な力がある。映画で得た感動、怒り、恐怖といったさまざまな感情が、愛や優しさの教訓となって、その人の人生に息づいていく。過去から連綿と受け継いできたその流れを途絶えさせないためにも、映画館はそこに在り続けなければならないのだ。
「ごめんな……、俺の力不足で、お前たちにも迷惑を……」
とうとう嗚咽して泣き始めた飛田さんは、やがて耐えきれなくなったのか、あとの流れはすべて笹塚に任せると言って、先に事務室を出ていった。去っていく飛田さんの背中が、岩のように大きかったあの背中が、悄然と丸まって、小さく見えた。
「飛田さんはね、バイトの子たちがここに残れるように、最後の最後まで本社と交渉をしてくれていたんだよ」と、それまでずっと黙っていた笹塚さんがはじめて口を開いた。「でも、駄目だった。現実は厳しかった」
支配人デスク横の背の高い棚に手を伸ばし、そこから一冊のファイルを取り出す。中には退職に関するいくつかの書類が綴られていて、それを一つひとつ丁寧に説明していく。その時間は僕には永遠のようにも、ほんの数秒のようにも感じられた。
結局、僕たちバイトは全員、解雇ではなく、退職勧奨という形を取って、今年の十二月末にシネマ・グリュックを辞めることとなった。それが会社にとっては一番痛手とならない、冷酷ではあるが、冷静な判断ということらしい。
笹塚さんが最後に出した同意書に署名をしながら、僕は、数カ月前の記憶を頭に蘇らせた。いつも大きな体をゆさゆさと揺らして笑っていた飛田さんが、思えば、あの頃から笑わなくなった。不機嫌を溜め込み、日に日にやつれていくのが分かった。
あぁ、そうか……。
込み上げてくる想いを、同意書に自らの名前を書き殴ることで、なんとか抑える。
あの頃から飛田さんは僕たちを守るために、ひとり奔走してくれていたのか。本社と現場の板挟みになりながら、そんな中で決断を下した飛田さんの苦渋を思うと、胸が痛くなった。去り際に彼が見せた涙の意味を痛感し、生涯、決して忘れるわけにはいかないと、そう思った。
「来年からは、どんな感じになるんですか?」
僕に続いて署名を終えた春香さんが訊ねた。
「当面は社員だけで仕事を回すことになるね。でも、この先なにが起こるかは分からない。飛田さんだって、次の株主総会のあと、どうなってしまうか、まだ定かじゃないんだ」
「え……、飛田さんも辞めちゃうんですか?」
椅子から跳ね上がるようにして立ち上がり、前のめりになる春香さんの瞳が、川面に映る月明かりのように揺れていた。
「まだ辞めるかどうかも、なにも分からないってことだよ。でも――――」
そのあとに続く言葉を、笹塚さんはすんでのところで飲み込んだ。が、彼がなにを言おうとしたのかは、僕にはなんとなく想像がついた。
結局、経営が立ち行かなくなった時に真っ先に首を切られるのは、使い勝手のいいバイトか、使い勝手の悪くなった現場の年長者と決まっている、ということなのだろう。
*
僕と春香さんが劇場をあとにしたのは、夜の十一時半を過ぎてからのことだった。
新宿駅に向かって大通り沿いを並んで歩きながら、隣の彼女を一瞥する。なんとなく、このままだとバイトの契約終了と同時に、僕たちの関係も自然と終わってしまうような気がした。
この恋愛が、この先どうなっていくのか、それは分からない。だけど、今のまま気まずさだけを残して、彼女と離れ離れになってしまうのは、どうしても嫌だった。
「ねぇ、春香さん」
覚悟を決めて、声をかける。
「どうしました」
春香さんは前を向いたまま、小さく反応した。車道を走る車のヘッドライトが、まだ少し赤らむ彼女の横顔を舐めるように照らす。
「来月のクリスマス、どうする?」
「どうしましょうか」
「…あのさ、ちゃんと話をしよう。今みたいに有耶無耶の関係になったまま会えなくなるのは嫌だから、ちゃんと二人で話そう」
「……あの、隼人さん」
「なに?」
「私は……、私は、隼人さんが思っているような――――」
春香さんが切実な目をして、僕になにかを言おうとした、その時、ネオンに煌めく新宿の夜空を、車のクラクションが切り裂いた。
どうやら横断歩道のない車道を、酔っ払いの男が横切ろうとしたらしい。急停止した車の窓から運転手が顔を出し、その男に向かって、なにやら悲鳴めいた怒声を浴びせている。
「ごめん、私は、なに?」
反射的に音のした方に向けていた視線を、春香さんに戻す。
「……ううん、やっぱり、なんでもないです」
不意の叫声に意気を削がれたのか、春香さんは無理やり笑顔を作ってそう言うと、そのまま逃げるように僕のもとを離れて、雑然とした新宿駅の中へと姿を消した。
僕は、そんな彼女の背中を、ただ呆然と黙って見送ることしかできなかった。