安次さんの件については、春香さんも大体のことは把握していた。
 家族旅行から帰ってきて、久しぶりの出勤だった、あの日、事務室で飛田さんに呼び止められ、ひと通りの説明をされたのだという。
「面倒なことに巻き込んでしまってごめんね」
 後日、僕が謝ると、春香さんは小さく笑って、
「忘れましょ」
 と肩をすくめた。少なからず彼女も心に傷を負ったに違いないが、その彼女がもう忘れようと言うのだから、僕も事件のことはすっぱり忘れることにした。
「だって私たち」と春香さんはさらに続けた。「付き合ってるんだから」
 彼女のその一言は、この世に存在するどの言葉よりも崇高で、僕にとっては神の寿ぎそのものに聞こえた。
 僕と春香さんは付き合っている。たったそれだけの事実があるだけで、僕は他のどんな辛い出来事も簡単に忘れることができるのだった。

 やがてカレンダーは九月をめくり、季節は夏からすっかり秋へと変わった。涼しさを感じる時間が徐々に長くなり、バイトで着る制服も、半袖から長袖に移行する人が増えた。シネマ・グリュックは、以前のような居心地の良い職場に戻っていた。
 シネマ・グリュックでの仕事の一つに、二つしかない劇場スクリーンの開場アナウンスというものがある。上映開始の十分前になると、スクリーン入り口の扉の前に立って、客の呼び込みと、チケットの確認をしていくのだ。
「まもなく上映開始いたします」
 と、そう言ってアナウンスをすると、ロビーで待機していた客たちがゾロゾロと入り口の前に列を成し始める。それをバイトが、チケットに印字された日付と映画のタイトル、上映時間を確認しながら、一人ずつスクリーンの中へと流していく。客入りが多い映画の場合は二人で立つこともあるが、大抵の場合はバイト一人でそれを行う。
 上映開始までのこの十分間が、映画館の混み合うピークになる。すでにチケットを買って待機する客、駆け込みでチケットを買おうとやってくる客、そして、前の映画を観て、その余韻をロビーで味わっている客が一堂に会する時間だからだ。
 ところが、通常では繁忙期になるとロビーに客が入りきらない時もあるくらいなのに、悲しきかな、最近は十分前にアナウンスをかけても、しばらく客が来ない回も少なくない。シネマ・グリュックの赤字経営も、そろそろ限界に近付いてきているのかもしれないなと、肌で痛感する日々であった。
 この日も、たった五、六人のためだけに開場アナウンスをして、上映開始のブザーがなるまでの十分間を入り口の前で手持ち無沙汰に過ごしていると、受付カウンターの方から、なにやら急いでいる男性客の声が聞こえた。
 どうやら僕がいま開場している映画を観たいらしい。対応しているのは春香さんで、彼女は努めて冷静に、
「まだ本編は始まってないので、大丈夫ですよ」
 と言ってはいるが、男性客の方にもなにかしらのこだわりがあるのか、頑なになって春香さんを急かした。
「いいから早くして! 席はどこでもいいから!」
 その声を聞くだけでも横柄な客だと分かる。僕が接客を代わってやりたいけれど、スクリーンを離れるわけにもいかないから、ジッと耳をそばだてることしかできない。
「では、こちらでよろしいですか?」
 春香さんが席を指定する。正直、どこでもいいよと言われるのが、バイトにとっては一番厄介だった。観やすい席というのは人によって様々だし、万が一にでも相手にとって観づらい席を選んでしまったら、その責任を追求されてしまいかねない。それに――――。
「馬鹿、そこだとスクリーンがよく観えないだろうが!」
 案の定、男性客は声を荒げた。そう、大抵の場合、こういう人たちの「どこでもいい」は、「どこでもよくない」なのだ。
「はい、すみません、じゃあ……」
 と、春香さんが別の席を指定する。僕には見えないけれど、きっとそれなりに良い席を指定しているに違いない。
「もういい! そこでいい!」
 男性が叫ぶ。カルトンに小銭が跳ねる乱暴な音が鳴る。慌ただしい足音を踏み鳴らしながら僕の横を通り過ぎ、スクリーンの中に入っていく。
「面倒な客に当たっちゃったね」
 僕は受付に戻ると、カウンターに手をつき、くたびれた様子で溜息をつく春香さんに同情の声をかけた。
「まぁ、急ぐ気持ちは分かるんですけどね。なんとなく、本編前の予告からちゃんと観たいんだろうなって。でも、だからといって、どうしてあんな風な態度になっちゃうのかな」
「自分が世界の中心だと思ってるんだよ、ああいう人は。周りが見えてない。だから、相手の気持ちも分からない。コミュニケーションを取るのが下手なんだ」
 と、その時、得意げに語る僕のお腹が不意に、グゥー……っと鳴った。体内から、「どの口がほざいてんだ!」と諌められたような気がして、恥ずかしくなる。たしかに、コミュニケーションが下手なのは僕の方ではないか。
「お腹、空きましたね」春香さんが僕をからかうように目を細めて言った。「今、なにが一番食べたいですか?」
「えー、なんだろ」
 僕はお腹をさすりながら、天井を見上げた。情けない話だが、こういう時、僕はいつも答えに窮する。食べたいものに正解なんてないのに、そこに正解を求めてしまって、思考が渋滞するのだ。
「私は、カレーかなぁ」
 春香さんが僕の答えを待たずに言った。
「カレーが好きなの?」
「大好きです。世界で一番好きな食べ物、カレーです」
「そんなに?」
「世の中にはおいしい食べ物って、たくさんあるじゃないですか。ピザとか、パスタとか、お寿司とか。でも一年中、365日、ずっと食べて飽きない食べ物って、カレーだけだと思うんですよね、私」
「それはさすがに……」
 僕は思わず苦い笑みをこぼしてしまう。
「言い過ぎですか?」
「の、ような気がする」
 が、たしかに、そこまで自信満々に言われてしまうと、彼女のその言葉も意外と真理を突いているような気がしてきて、それがまた可笑しかった。



 この日、大学もバイトもなかった僕は、朝から一人で図書館にいた。料理本のコーナーへ足を向かわせ、そこでカレー特集の雑誌を数冊、手に取った。
 空いている席に腰を下ろす。まずは一冊目。自宅で作れるカレーのレシピ本。パラパラとめくって、すぐに閉じた。自宅でカレーなんて、きっと僕の手には負えない。春香さんと二人で作るのもアリだとは思うけれど、さすがに一回目のデートから自宅でだなんて、もっと手に負えない。
 二冊目をめくる。今度は、東京にある有名カレー店をランキング形式で掲載している雑誌のようだ。僕が知らないだけで、東京にはこんなにもカレー専門店が跋扈(ばっこ)しているのかと驚きを隠せない。
 それにしても、先日、春香さんとカレーの話をしてからというもの、すっかり僕はカレーの口になっていた。毎日カレーを思う日々である。
 とはいえ、一人で外にカレーを食べにいくのは、僕の性格上、無理がある。それならば、と僕は勝手に春香さんとの初デートはカレーにしようと決めていた。図書館に足を運んで、普段は見向きもしないグルメ本を手に取ったのも、そのためだった。
 しばらく雑誌を読み進めたところで、ふとページをめくる手が止まった。そこには麹町にあるインドカレー屋が掲載されていた。見たこともない、もちろん行ったこともないカレー屋だったが、なんとなく、その店に不思議な引力を感じた。
 おいしそうな写真と共に、大まかなメニューが紹介されている。
 今までインドカレーという食文化を気にしてチェックしたことがなかったから、僕はまずそのカレーの種類の多さに愕然とした。
 チキンカレーやマトンカレーはまだ辛うじて分かるが、サグカレーやダルカレーとなると、それがどんなものなのかさえ想像がつかない。
 サグカレーと紹介されて掲載されている写真は、おどろおどろしい緑色をしていて、果たしてこれが本当にカレーなのかと疑問にさえ感じてしまう。が、ランキングを見てみると、かなりの上位なので、まぁ間違いなくおいしいのだろうなと僕は無理やり自分を納得させた。

 しばらくして、僕は読んでいた雑誌を脇に寄せ、バッグからノートとシャーペンを取り出した。
 ノートを開き、腕を高く伸ばして、息を吸う。目を閉じると、僕と二人でカレーを食べる春香さんの姿がまぶたの裏にじんわりと映った。
――――どんな話をしたら彼女は笑うだろう。そして、その時、周りではなにが起きて、それに対して僕はなにを思うのだろう。
 春香さんと出逢い、自分の小説を書くという望外な夢を得てからというもの、図書館にこもり、頭に浮かんだ物語を自分の言葉にして、ノートに書き写していく、そんな時間が心地良くて仕方なかった。
 彼女のことを想いながら文章を書くと、面白いくらいにペンが走るのだ。彼女の何気ない笑顔は幾千もの言葉を補完してくれた。彼女に言われた言葉の一つひとつが、僕の中では永遠の物語になった。
 恋は盲目という言葉があるけれど、それは少し違うなと僕は思った。恋をするとなにも見えなくなるのではない。恋をすると、見えている景色が、色彩が、空気が、温度が、香りが、つまりなにもかもが、ガラリと変わるのだ。それまでずっと惰性に生きるだけだった僕の味気ないモノクロの世界に、春香さんは、そっと彩りを付け足してくれた。
 人付き合いが苦手で、ふと一人になることが多い僕は時々、誰とも分かち合えない不安に襲われることがある。世間ではできて当たり前のことが僕にはできずに、ひたすら劣等感に苛まれる。周りにいる人たちの視線が恐ろしく、彼らの声は、すべて自分に向けられた嘲笑に聞こえた。
 だけど、春香さんの笑顔には、そんな僕の心から劣等感を取り除き、周囲の嘲笑も温かい微笑みに変えてくれる力があった。
 春香さんは、僕にとって美しい払暁(ふつぎょう)だった。夜闇に紛れて翼を折り畳んでいた僕は、彼女がそばにいる時だけ、昧爽(まいそう)の空を優雅に帆翔するハヤブサになれた。彼女がそばにいてくれる時だけ、世界がほんの少しだけ優しくなったように思えた。
 するとその時、雑誌の上に投げていたスマホが突然、ブルブルと震えた。LINEの通知が一件。チラリと横目で確認すると、煌々と灯る液晶画面の三原色が、高尾春香の四文字を映し出していた。
『隼人さん、今度の土曜日、私も隼人さんもバイト休みなんですけど、もし用事がなければ、一緒にカレー、食べに行きませんか?』
 なんということだ。僕は口をあんぐりと開けて驚いた。春香さんと二人でカレーを食べるシーンを妄想していた矢先に、その春香さんから、カレーのお誘いが来るなんて。
『行きたい!』
 着信から十秒と経たずに返信を打つ。
『よかった! 行きたい店があるので、あとでまた詳細を送りますね!』
『了解! 楽しみ!』
 次の土曜日まであと何日だろうと指折り数えながら、図書館のアナログ時計を一瞥する。毎秒を刻む針の動きが、いつも以上に遅く、じれったかった。



 僕が図書館で見つけた麹町のインドカレー屋を、まさか春香さんが指定してくるとは思ってもみなかった。
 どうやら、春香さんも僕と同じ雑誌を読んでいたらしい。つまりあの時、あのページから僕が感じ取った不思議な引力は、誰であろう、春香さんから発せられていたものだったということだ。
 彼女が無意識に発する「なにか」が、図書館の席に座って雑誌をめくる僕の手をピタッと止めたのだ。誰がなんと言おうと、僕はこの偶然、否、奇跡を、運命と呼ぶことにした。

 麹町駅の改札前で集合した僕たちは、空腹を荷物に店へと急いだ。あいにく外は小雨だったが、あまり気にはならなかった。
 目的の店は、駅を出てすぐのところにあった。休日の昼時ということもあってか、店内は多少混み合ってはいたが、それほどダラダラと並ぶことなく、二階の窓際の席に通された。
 僕が窓側に座り、春香さんが通路側に座った。わざとそうしたのは、女性との食事の際は窓から見える外の景色も相手に楽しませるべしと誰かから、おそらくは大学の代田からだったと思うが、聞きかじっていたからだ。
 しかし残念ながら、この店の窓から望める外の景色は、雨で灰色に濁った麹町の殺風景なオフィス街だけであった。
「店の雰囲気も素敵ですね」
 春香さんが羽織っていたカーディガンを脱ぎながら言った。
「いいね、なんだかワクワクしてくる」
 さっそくメニュー表を開く。チキンカレー、バターチキンカレー、マトンカレー、サグカレー、ダルカレー……。その一つひとつの名前の横に、赤いチェックマークが付けられている。チェックが一つのものもあれば、最大で五つのものもある。どうやらこれが、カレーの辛さの指標、というやつらしい。
「隼人さん、辛いのは大丈夫ですか?」
「苦手ではない、かな。でもどうだろ、マトンカレーだとチェックが五個もあるけど、やっぱり相当辛いのかな」
「どうなんでしょう。あ、このサグカレーはチェック一つですよ」
「基準が分からないから、一でも結構、辛かったりして」
 結局、僕たちは二人ともランチセットを注文した。二種類のカレーにナンとサラダが付いてくるセット。僕は無難にバターチキンカレーとサグカレーを選び、春香さんはチェック二つのチキンカレーと、チェック五つのマトンカレーを選択した。
「チェック五個、いける?」
「何事もチャレンジですよ、チャレンジ」
 春香さんは笑って、親指を立てた。
 やや経って、注文したランチセットが僕たちのテーブルに運ばれてきた。二人して両手を合わせ、
「いただきます」
 ルーから立ち昇る香辛料の入り混じった湯気を嗅いだだけでも、僕たちの額にはじっとりと汗が滲んだ。
「そういえば、布田さんが旦那さんと知り合った場所も、ここじゃないけど、インドカレー屋さんだったらしいよ」
 僕は食べながら、ふと思い出して言った。
 結婚以来、布田さんとはめっきり会わなくなってしまっていたが、LINEのやりとりだけは今もまだ続けていた。
 どうやら夫婦生活はそれなりに順調らしい。布田さんもかなり変わった人だが、彼女の夫は、それに輪をかけて変わり者なのだという。
『自分よりも変な奴と暮らしているから、毎日飽きなくて済むんだよね』
 と、布田さんのLINEは溌剌としていて、幸せそうだった。
「布田さんの旦那さんって、ドイツ人なんでしたっけ」
 額の汗をいつもの赤いハンカチで拭い取りながら、春香さんが言った。
 彼女もそうだが、チェック一つのサグカレーを食べる僕もすっかり汗だくだ。お互い顔を真っ赤に染め上げ、漫画のように歯の隙間からヒーヒーと音を立てている。
「そうそう。日本でドイツ語の先生をしてるんだってさ」
「スケールが大きいなぁ。やっぱり私、布田さんのこと好きだなぁ。素敵ですね、布田さん。いつも気怠そうにしてはいたけど」
 布田さんとの記憶を蘇らせているのか、汗みずくの春香さんが目尻を絞った。そこから汗がしたたり、テーブルの上にピチャンと跳ねる。たった数ヶ月の付き合いしかない彼女がそこまで言うのだから、やはり布田さんというのは、不思議な魅力に溢れた女性だったのだろう。
「そもそも外国の人と知り合って二週間で結婚だからね。規格外ではある」
「たしかに、それは規格外ですね」
「なにせ日々是恋愛をモットーに掲げていた人だから」
「日々…こ…、なんですか?」
「日々是恋愛。毎日毎日、ビビッとくる相手がいないか、臨戦体勢だったんだってさ」
「なるほど。その点、隼人さんって真逆な性格ですよね」
「真逆?」
「そう、なんというか、かなり一途というか」
 と、春香さんは何気なく言った。僕も何気なくそれに答える。
「どうなんだろう。自分ではよく分からないけど、けどまぁ、一途…なのかな。少なくとも、その日会ったばっかりの人と体の関係を持っちゃうような人は、あんまり好きじゃないかな。好きじゃないというか、僕とは合わない気がする」
 この時、僕の頭の中には安次さんの姿が、あるいは、かつての恋人の姿が浮かんでいたのだが、言ってすぐに言わなくてもいいことを言ってしまったなと後悔した。布田さんのことを悪く言うつもりはなかったけれど、そう捉えられてしまいかねないと思った。
「……」
 春香さんが一瞬、口をつぐんだ。
「……どうした?」
「あ、いや、そりゃそうだよなぁと思って」
「この前もさ、今の話を布田さんにしたら、鼻で笑われちゃった」
「鼻で、ですか」
「僕がね、『純愛こそが真実の愛だ』って言ったら、布田さん、『だとしたら、この世は嘘っぱちの愛で溢れてる』って。よく分からないけど」
「はは…、布田さんらしいですね」
「だから、僕が間違ってるのは分かってるんだ。僕って結構、こじらせた人間だから、考え方が偏ってるんだよ」
「ううん、隼人さんは間違ってないです、多分」
 春香さんはこうべを垂らして、かぶりを振った。
 心なしか空気が重たい。やはり誤解を与えてしまったのだろうか、なんとかして場を盛り返そうと、僕は慌てて話題を変えた。
「そういえば、僕、夢ができたんだ」
「夢?」
「そう、夢」
「なんですか、夢」
「僕ね、実は――――」
 と言いかけたところで、しかし、やはり僕はどうしても、かつての恋人に言われた言葉を思い出してしまう。
 隼人くんのこと、知れば知るほど嫌いになっちゃう――――。
 果たしてこのまま夢を打ち明けてもいいのだろうか。打ち明けたことで春香さんに軽蔑されてしまわないだろうか。叶わぬ夢だと笑われてしまわないだろうか。嫌われてしまわないだろうか。
 いや――――。僕は躊躇を噛み砕くように歯を食いしばる。鹿児島の親友、タツも言っていたではないか。こういうのは勢いが大事なんだ、と。
「実は、なんですか?」
「僕、小説家になりたいんだ。最近できた夢だけど、結構、真剣に」
 その瞬間、自分の体から魂が抜けていくような脱力感に襲われた。とうとう言ってしまったという後悔と、ようやく言えたという達成感が渾然一体となって、全身の神経を縦横無尽に駆け回る。
「すごい、素敵じゃないですか、それ……」
 春香さんが一瞬、宝石のように目を輝かせた。が、すぐにまた口を引き結んで、輝かせた目に涙を潤ませた。
「……どうしたの?」
「いえ…、なんでもないです」
 その涙を隠すように、彼女は顔にハンカチを押し当て、さらに伏し目になる。
「……?」
「すいません、はは、どうしたんだろ。すみません、意味分からないですよね」
「気分でも悪くなった?」
「そういうわけじゃなくて…、いや、なんでもありません、大丈夫です」
「でも……」
「本当に大丈夫です。ほら、カレー食べましょ」
 春香さんが下向いていた顔をパッと持ち上げた。悲しげな表情の中に作り物の笑顔を浮かべている。その表情の理由が、僕には分からなかった。
「春香さん……」
 この時、僕と春香さんのあいだに、一生埋まることのない、なにかとてつもなく大きな溝が生まれてしまったような、そんな気がした。
 僕は、その得体の知れない不安な気持ちをごまかすように、スプーンいっぱいにカレーを掬って、口の中に放り込んだ。背中に感じる冷たい汗は、カレーの辛さというより、自分の今の感情の現れだった。
 手元の皿に顔を傾け、上目で対面を確認すると、僕と同じような格好で俯く春香さんの肩が震えていた。
 どうして泣いているのだろう。気にはなるけれど、それを訊ねる勇気はない。
 背後の窓に当たる小雨に紛れて、涙のこぼれる音がした。僕は聞こえなかったふりをして、少しぬるくなったカレーを、また食べた。