九月は、月並みな言い方をしてしまえば、ジェットコースターのようなひと月だった。
 この日の朝、しぶとい暑さに辟易としながら、シネマ・グリュックの事務室のドアを開けると、そこに満面に笑みをたたえた春香さんが、僕を待ち構えるようにして立っていた。周りには誰もいない。僕と彼女の二人きりだった。
「隼人さん、おはようございます!」彼女は背中に両手を隠して言った。「さぁ、今日はなんの日だか分かりますか?」
「今日……?」
 伏し目になってしばらく考え、ハッとする。あっ! と跳ねるように顔を上げると、春香さんの笑顔が、さらに弾けた。
「そう、今日は隼人さんの誕生日!」
 と、それから春香さんは、僕のために、小さな声でバースデイソングを口ずさんでくれた。
「どうして……」
 なにも言葉が出てこなかった。今の今まで本人さえ忘れていた僕の誕生日を、一体どうして春香さんが知ってくれているのか。
「アレをね、見たんです」
 春香さんは狭い事務室に置かれた休憩用の長机に目を向けた。そこに折り畳み式の卓上カレンダーが置かれている。近付いて、よく見てみると、九月二日の、つまり今日のところのマスに赤マルがしてあり、「隼人の誕生日」と書かれていた。
 僕だけではない。他の従業員の誕生日のマスにも、それぞれ赤マルと名前が記されている。誰がこんなマメなことをしたのだろうと一瞬、怪訝に思いはしたけれど、その犯人は、すぐに思い浮かんだ。
 布田さんだ。先月ここを辞めた布田さんが、まるで沿道の木にマーキングをする犬のように、そこに自分の存在証明を残していったのだ。
 その証拠に、二月にある彼女の誕生日のマスだけ、他と比べて明らかに煌びやかに色付けされている。私は辞めるけど、誕生日は祝えよ、という圧力のつもりだろうか。
 なにはともあれ、母親以外の異性からちゃんとした形で誕生日を祝われるのは生まれて初めてのことで、僕は驚きを隠せなかった。というより、喜び方がよく分からなかった。
「ありがとう…、嬉しいよ、ほんとに……」
 目頭に張った涙を拭う。彼女の誕生日は知らなかったくせに、僕だけがこんな良い思いをしていいのだろうかと思ってしまう。
「泣くほどですか」
 春香さんは困ったように眉を垂らして笑うと、後ろ手に隠し持っていた小さな包みを僕に差し出した。受け取った手の感触で、包みの中身が本であることは分かった。
「今、開けてみてもいい?」
「もちろん」
 カラフルな包装紙を丁寧に剥がしていく。空色の装丁に、千切り雲が点々とし、そこを一人の少年がジャンプしている。タイトルには、『青空の向こう』とあった。
「青空の向こう。初めて見る本かも」
「外国の児童文学で、私が一番好きな本なんです、それ。隼人さん、よく図書館に行くって言っていたから」
「僕が図書館に行くこと、覚えていてくれたんだ」
 僕の胸に押し寄せる感動の波は、もはや止めようがなかった。震える目からこぼれ落ちた一粒の涙が、手元の本を映して、綺麗な空色に光った。
「覚えてないわけないじゃないですか」
「でも、どうして僕なんかに?」
「この前、鹿児島のお土産をいただいたじゃないですか。ほら、つっきゃげ。あれがすごくおいしくて、すごく嬉しくて、それのお返しです」
「お返し……」
 僕は彼女の言葉を反芻する。お返しなら、七月に一緒に遊んでくれたじゃないかと言いそうになるが、そういうことではないんだろうな、とも思った。
「あ、そうだ!」と、そこで春香さんが手のひらをポンと叩いた。「そういえば私、再来週に家族で関西に行くんですよ。なにか買ってきてほしいものとか、ありますか?」
「そんなそんな。それは悪いよ。だって、それだと僕が一あげたのに対して、春香さんが二くれることになっちゃう。この本をもらえただけで、僕はもう十分だよ」
「そうですか? お土産に数は関係ないと思いますけど。気持ちの問題ですよ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「なにがいいですか? たこ焼き? お好み焼き?」
「それって、こっちに持って帰れるものなの?」
「さぁ、やってやれないことはないと思いますけど」
「やってやれないようなことを、わざわざ僕のためにやる必要はないよ」
 すると、そんな僕たちの会話を強引に断ち切るように、事務室のドアがバタンと開き、ロビーから飛田さんが入ってきた。
 時計を見ると、朝の九時を少し過ぎている。事務室のホワイトボードには朝から本社で会議と書いてあるため、おそらく、その帰りなのだろう。
 シネマ・グリュックの母体である諸下興業は映画館運営の他にも、不動産や飲食といった分野にも裾野を広げていて、それらの業績は軒並み順調らしく、噂では、ここ数年、赤字を出し続けているのは、僕たちのいる映画事業だけとのことだった。
「あ、おはようございます」
 僕と春香さんがほとんど同時に言うと、飛田さんはピクリと片眉を上げ、
「ん、あぁ、おはよう」
 とすげなく言った。いつもの陽気な飛田さんとは明らかに様子が違っている。岩のように厳めしい顔が、普段にも増して厳めしい。
 彼の不機嫌の理由は知る由もないが、僕と春香さんはその剣呑な空気から逃れるように、そそくさと事務室をあとにし、受付カウンターに入って、開場作業に取り掛かった。



「昨日の本、すっごい良かった。家に帰ってから一晩で読み終えちゃったよ。読んだあとの充実感っていうのかな、あの…心が暖かくなる感じ? それがもう、最高で、また最初から読み直してるところ」
 翌日、さっそく僕は春香さんに、もらった本の感想を伝えた。
 すると彼女は、まるで星に願い事をする少女のように、両手の指を胸の前で絡ませて喜んだ。
「本当ですか、よかった! そうなんですよ、最高なんですよ。ふふふ、なんだか私自身が褒められた気がして、嬉しいなぁ」
 イギリスの児童文学『青空の向こう』は、姉と喧嘩をしたまま事故死してしまった主人公ハリーが幽霊となって地上に舞い戻り、姉と仲直りをしよう奮闘するファンタジー。
 しかしハリーは幽霊であり、そのため、すぐ近くにいる姉と接触することも叶わない。触れることも、話すこともできない。それでもハリーは諦めきれずに、なんとかして姉に自分の想いを伝えようとする、と、そんな物語である。
「春香さんがあの本を好きになるの、なんか分かる気がする」
「え、どういうところがですか?」
「なんとなく春香さんって、ごりごりのサスペンスとかより、もっとこう、日常的で、なんというか、普遍的な物語が好きでしょ、で、その日常の中に、ちょっとしたファンタジーがあるような」
「あー、たしかに言われてみると、ビッグフィッシュとかもそうですもんね。意識したことはなかったけど、そうなのかも。あと、なんと言うか……、あの本を読むと、うまくは言えないけど、自分の気持ちっていうのは、生きているうちにしか相手に伝えられないんだよなぁ…って痛感させられますよね」
「たしかに、僕もそれは感じた」
「結局、生きるっていうのは誰かとなにかを共有することなのかなって思うんですよね、私。愛だったり、言葉だったり、なんでもいいけど、そういったことを共有するのが、もしかすると生きる意味なんじゃないかなって」
「誰かと共有かぁ、なるほどなぁ」
 僕は春香さんの言葉を味わうように何度も深々と頷いた。今がバイトの時間でなければ、いつまでもこの話をしていられる気がした。それこそまさに、彼女と二人でなにかを共有している今のこの状況が、嬉しくてたまらなかった。

 しかし、人生というのは何事も、そう上手くはいかないものなのだろう。

「それで…――――」
 と、春香さんがさらになにかを言おうとして口を開いた、その時、地上から劇場の入り口に続く階段をバタバタと降りてくる足音が聞こえた。人影がガラスに滲み、自動ドアがゆっくりと開く。現れたのは、安次さんだった。
「よっ、隼人」
 片腕をひょいと上げる安次さんの体つきは、心なしか数ヶ月前、春香さんの歓迎会で最後に会った時よりも、さらに逞しくなっているように見えた。
「え、あ、安次さん…、お久しぶりです……」
 僕は驚くあまり声をどもらせた。というのも、僕も先月、飛田さんに聞くまでは知らなかったのだが、安次さんは五月中旬の時点で、すでにシネマ・グリュックを退職していたらしい。
 早々に就職を決めた彼はその後、片道分のチケットだけを取って海外に飛び立ち、しばらくはバックパッカーのようなことをしていたのだという。
「おう、久しぶり。なんだよ、相変わらず弱っちい顔してんな、お前」
 と、その口ぶりは相変わらず乱暴で、その声を聞くだけで、僕は自分の心臓が弱々と萎縮していくのが分かった。
「はは、えっと……、いつ日本に帰ってこられたんですか?」
「何日か前にな。いやぁ、長旅だったよ」
「海外はどうでした?」
「んー、俺からしたら、こんなもんかって感じかな」
 安次さんは誇らしげに言って、鼻の穴を広げた。彼はきっと底なしに性格が悪いわけではないのだろうけれど、底なしの自尊心の持ち主であることには間違いなかった。
 この日、とっくに辞めているはずの職場にわざわざ現れたのも、どうせ海外生活で得た自分の武勇伝を誰かに自慢したかったからだろう。どんな女と寝た、とか、どんな災難に見舞われて、それをいかにして乗り越えたか、とか。
「すごいなぁ。僕には絶対できないですもん、海外に一人旅なんて」
「ははは、だろうな」安次さんは、へりくだる僕を嘲るように笑うと、今度は僕の隣にいる春香さんに視線を向けた。「春香ちゃんも、久しぶりだね。元気だった?」
「……はい、まぁ」
 曖昧に返事をする春香さんの声が、妙に沈んで聞こえた。チラリと横に目をやると、彼女は安次さんの視線から逃れるように、顔を足元に俯かせていた。
 僕はふと、もしかすると春香さんは、安次さんのことがあまり好きではないのかもしれないと思った。五月の歓迎会の席でなにかあったのだろうか。僕が見ていないところで、嫌なことをされたのだろうか。
 そう思うと、なぜだか急に体が熱くなるのを感じた。頭の中に、義憤という言葉が浮かんだ。春香さんを守らないと。
「そういえば、安次さん」と、気付けば僕は春香さんを自分の背中に隠して、無理やり話題を変えていた。「ここのバイト、辞めたって聞きましたけど」
「あぁ、辞めたけど……、え、なに、二人はそういう関係なの? もしかして俺、邪魔? 早く帰れってこと?」
 安次さんは僕たちを見比べるようにジロリと睨んだ。目尻がピクピクと震えている。
 おそらく今の僕の態度が気に障ったのだろう。見下している後輩が自分に楯突くような態度を取ってきたのだから、自尊心の塊とも言える彼がそうやって苛立つのも無理はなかった。
「いや、別にそういうわけじゃないですけど」
「春香ちゃん、どうしたの、俺のこと嫌いなの?」
 安次さんがさらに詰め寄る。そこには、まるで立場の弱い債務者を恫喝する借金取りのような、そんな嫌らしさがあった。
「別に、嫌いというわけでは……」
 春香さんの声が震えているような気がした。
「嫌いじゃなかったら、なに?」
「私は…、私はただ……」
 と、春香さんがなにかを言いかけた。切実な目をして、相当の覚悟を持って。
 しかし、彼女のその声を強引に阻むように、安次さんが突然、ケタケタと笑い声を上げた。
「はははは、なーんてね。冗談だよ冗談。二人とも、そんな怖がるなって」
「冗談…ですか……」
 僕は止めていた息を吐き出すようにして、安次さんの言葉を繰り返した。とても冗談とは思えなかった。
「そうそう、冗談。ほら、これお土産。みんなで食べて」
 安次さんが大きな袋を受付カウンターにどんと置く。外国のお菓子だろうか、カラフルな色をした謎のキャラクターがチョコレートを食べているイラストが描かれている。
「あ、ありがとうございます…、あの、飛田さん呼んできましょうか? 今ちょうど事務室にいると思うんで」
「いいよいいよ、俺、今から用事あるし」
「は、はぁ……」
「昨日知り合った女とデートなんだ。いいだろ」
 安次さんはそう言い残すと、踵を返し、入ってきたばかりの自動ドアを出ていった。耳たぶを赤く滲ませた彼の後ろ姿が、どこか殺気立っているような気がして、なんとなく、嫌な予感がした。



 九月半ば、遅番として午後の三時にシネマ・グリュックに出勤した僕は、すぐにその違和感に気が付いた。自動ドアからロビーに入って、事務室に向かうために受付カウンターの前を通る。
 そこでまず一つ目の違和感があった。受付に立つ朝番のバイト仲間二人が、僕と目が合った瞬間、なぜか気まずそうに顔を歪めて、視線を逸らしたのだ。
 不思議に思いつつ、事務室に入る。傘を縛って傘立てに差し込み、入り口のタイムカードに出勤の打刻をしようとすると、ちょうど事務室を出ようとしていた三十代半ばの男性社員と肩がぶつかった。これが二つ目の違和感。社員はやはりどこか気まずそうに顔を歪めて、ぎこちない笑みを口元に浮かべた。
「あ……、ごめんね、隼人くん」
「あ、いえ、おはようございます。お疲れ様です」
「うん、お疲れ様、じゃあ、今日も、ね、よろしく」
 と、社員はそそくさと事務室をあとにした。日頃から仲の良い相手というわけではないけれど、それにしたって、いつになく他人行儀なのは明らかだった。
 バイト用の制服に着替え、事務室を出て、受付カウンターに入る。二人いる朝番のうち一人は僕と入れ替わりで退勤するため、
「お疲れ様でした」
 いつも通りに声をかけると、僕の二つ年上のその人は、フリーターの男性なのだが、去り際に無理やり作った笑顔を見せて、
「おう…、お疲れ……」
 と、逃げるように事務室に退いていった。その姿を見て、僕は確信した。この映画館にいるすべての従業員が、僕に対して妙な気を遣っている。
 とはいえ、嫌われるようなことをした自覚はないし、そもそも僕は、自分で言うのもなんだが、嫌われるような人間ではない。これは決して驕りではなく、単に嫌われるほどの存在感が僕にはないというだけの話だ。
「あの、僕、なにかいけないことしました?」
 もう一人の朝番、八幡(やはた)さんに僕は堪らず訊ねた。八幡さんは、少し前にシネマ・グリュックに入ったばかりの四十代の主婦の女性だ。
「え、いやー、どうなんでしょう。なにもしてないと思いますけど」
「でもなんか…、いつもと雰囲気が違うような気が」
「うーん、私には、あんまり、よく分からないかな……」
「そうですか……」
 ただでさえ数日前から春香さんが家族旅行に出かけてしまって、バイトのやりがいを失っているというのに、なんだこの居心地の悪い雰囲気は。僕がなにをしたというのだ。
 と、そんな風に沸々と苛立ちを煮やしていると、入り口の自動ドアがゆっくりと開き、そこから受付カウンターの前を飛田さんが通り過ぎた。手には分厚いファイルを抱えている。どうやら本社からの帰りのようだ。僕はすかさず彼を呼び止めた。
「あの、飛田さん」
「ん? あぁ…、隼人か。どうした」
 飛田さんは足を止め、岩のような顔を鈍重に捻って、僕に向けた。ここ最近、疲れているのか目の下のクマが目立つ。
「あの…、なにかあったんですか? なんだか、劇場の雰囲気がいつもと違う気がするんですけど……」
「あー…、そうだな。少し、事務室で話すか」
 飛田さんは意味深にそう言って、受付奥の事務室の方を顎でしゃくった。
 ザワザワ、ザワザワと、僕の心臓が忙しなく弾むのが、分かった。



 おずおずと事務室に入った僕は、空いていた社員用デスクの椅子を拝借し、支配人デスクに腰を下ろした飛田さんと向かい合った。
「僕、なにか悪いことしましたか?」
 改めて訊ねると、飛田さんはかぶりを振った。
「いや、隼人はなにもしてないよ」
「じゃあ…、なんなんですか、この変な感じ」
「……シネマ・グリュックがSNSをやっているのは、お前も知ってるだろ?」
「……? はい、まぁ、一応」
 シネマ・グリュックは、他の映画館がそうしているのと同様に、数年前から広報用のSNSを開設している。そこに上映予定の映画の予告を載せたり、上映中の映画のレビューを載せたりして、宣伝をするのだ。が、それが一体なんだというのだ。
「そこにな、昨日の夜、こんなメッセージが届いたんだ」
 飛田さんがデスクのノートパソコンの画面を僕にも見えるように動かした。
 映っているのはシネマ・グリュックのアカウントページで、DM、つまりダイレクトメッセージを開いてみると、そこに匿名のメッセージが一件、届いていた。
「え……」
 僕は言葉を失った。頭の理解が追いつかなかった。それなのに、目に映る一つひとつの文字が見えない鋭利な矢となって、僕の心を深く抉った。
 届けられたメッセージには、隼人という男がいかに野鄙(やひ)な男で、これまでにどれだけの女性を傷付け、そして、どのような不純な動機でもって、春香という女性を手にかけようとしているのかが、克明に綴られていた。
 まったくの事実無根だが、その生々しい描写と、ところどころに散りばめられた事実、たとえば僕の年齢であったり、出身であったり――――が、思わず感心してしまうほど巧妙に現実味を演出してもいた。
「お前がこんな男じゃないってことは、ここにいる人間はみんな知ってる」
 飛田さんは憐れむような目をして言った。だから隼人、周りの人たちの態度の変化は、決して好奇や不審から来るものではなく、純粋な同情の現れなのだ、と。
「そっか…、こんなことがあったんですね……」
 天井から地鳴りのように響く換気扇の振動で、今にも体がボロボロと崩れ落ちてしまいそうだった。なによりもまず、春香さんがこの場にいなくて良かったと、心からそう思った。
「一応、これから警察にも相談するつもりだが」
 飛田さんが言いかけたところで、僕はそれを遮った。
「いや、警察には言わなくて大丈夫です。ダイレクトメッセージで届いたってことは、多分、ネットに拡散されたわけではないと思うし、こんなことで飛田さんの仕事を増やしたくはないし、それに……」
「それに?」
「…いや、とにかく大丈夫です。教えてくれてありがとうございました」
 僕は飛田さんに頭を下げて、事務室をあとにした。「それに……」に続く言葉を飲み込んだのは、これ以上、問題の火種を大きくしたくはなかったからだ。
 犯人の見当はついている。安次さんだ。先日の彼の後ろ姿から滲む獰猛な怒りの念は、僕もひしひしと感じてはいたのだ。自分に楯突いてきた生意気な後輩を社会的に貶めてやりたかったのだろう。自尊心の強い男の考えそうなことではある。

 受付カウンターに戻ると、ちょうど八幡さんが接客を終えて、ふうっとひと息ついているところだった。彼女のシフトは夕方の五時までだから、あと二時間弱は僕と二人で仕事をしなければならない。なんとなく、申し訳ない気持ちになった。
「すいません、僕のせいで変に気を遣わせちゃって」
「別に隼人さんが気にすることじゃないですよ。みんな気にしてないです」
「すいません、ほんと」
 それでも僕は謝った。謝る理由はないけれど、謝った。どれだけ慰めの言葉をかけられても、この抉れた僕の心は、もはや修復不可能だと思った。



 事件から二日、三日と日が経っても、シネマ・グリュックの重たい雰囲気が変わることはなかった。バイト仲間は全員、表向きは平然としてはいるけれど、言葉選びだったり、態度だったり、前提として僕に気を遣っているのは明らかだった。
 しばらくは僕も我慢をしていたが、いよいよ居た堪れなくなり、慣れ親しんだこの劇場にはもう、僕の居場所はないと思うようになっていった。
 数日後、とうとう僕はバイトを休んだ。体調不良と飛田さんには伝えたけれど、行きたくない、というのが本音だった。朝からベッドに不貞寝(ふてね)して、大学の友人の代田にLINEを打った。一連の出来事を伝えると、彼はすぐに返信を寄越してきた。
『そんなクソみたいなバイト、辞めちまえ!』
 シネマ・グリュック自体はもちろん、クソではないが、たしかに代田の言う通りだな、とは思った。
 所詮、ただのバイトなのだ。シネマ・グリュックよりも時給が良くて、働きがいのある職場はいくらでもある。代田の言葉に背中を押され、僕の決心はほとんど固まった。辞めようと、そう思った。

 次の日、僕は遅番のシフトで出勤した。この日の終わりに飛田さんに辞意を伝えようと考えていた。
 受付カウンターの前を通り過ぎる時は、今度は僕の方から目を逸らした。事務室に入り、タイムカードに打刻する。出勤の社員は全員、出払っているようで、室内には僕一人しかいなかった。
 ふと、休憩用の長机に派手な紙袋が置かれているのに気が付いた。
 よく見ると、大阪土産の袋だと分かった。慌ててホワイトボードの出勤表を確認する。今日の日付のところに、春香さんの名前があった。家族旅行に出ていた彼女が、ついに東京に帰ってきたのだ。
 と、その時、事務室のドアがゆっくりと開いた。徐々に開いていくドアの隙間から、ドアノブを握る白い手がわずかに見えた。それが春香さんの手であると僕が認識するのに、時間は秒もかからなかった。

 刹那、世界から音が消えた。

 深閑とした空気が、僕たちを伝った。現れた春香さんはその目に僕の姿を認めると、明るい笑顔で両手を広げた。
「ボンジョルノ、プリンチペッサ!」
 久しぶりに耳にする彼女の声が、尊い音色を奏でて、僕の身体の奥深くに、じんわりと染み渡っていく。
 単純なものだ。僕が求めていたのは、周りからの同情でもなければ優しさでもなく、春香さんが、好きな人が、自分にだけ見せてくれる屈託のない笑顔、自分にだけ届けてくれる邪のない声、ただそれだけだった。
「……だから、それだと僕が、お姫様になっちゃうから」
 僕は声を詰まらせながら言った。心臓が高鳴り、息が苦しくなるが、なぜだかそれが心地良かった。
 僕はもう、なににも悩んでいなかった。ひたすら純粋な喜びが、春香さんに会えた幸せが、ここ数日間の嫌な記憶をすべて掻き消してくれた。
「どうだっていいじゃないですか、関係ないですよ、そんなの」
「どうだっていい…、たしかに…、そうかもしれないね……」
「そうそう。関係ないです」
「ねぇ…、春香さん」
 気付けば僕は、自分でも驚くほどに自然と口を動かしていた。
「はい?」
「僕たち、付き合わない?」
 春香さんは一瞬、眉を浮かせて押し黙ったけれど、すぐに笑って、小さくコクンと頷いた。それだけでよかった。
 それ以外の余計な言葉は必要ないと、僕は思った。