都会の八月は鹿児島と比べて、不快感の残る暑さが繰り返される。塗り固めたアスファルトから照り返す真夏の陽射しは、立ち並ぶ高層ビルの影の海さえものともせずに、街行く人々の体力と気力を頭上と足元からじっとりと剥ぎ取っていく。
 この蝕むような暑さがもたらす功があるとするならば、それは火照り疲れた体に染み渡るビールの喉ごしくらいのものだろう。
 そもそもアルコール自体あまり得意ではない僕でさえ、熱帯夜に飲む一杯目のビールは格別に感じられた。

 八月の初旬、僕は布田さんに連れられ、はじめて新宿ゴールデン街に足を運んだ。
 個性的な飲み屋がひしめき合って連なる中で、布田さんが選んだ店は、L字型のカウンターに丸椅子が七つ並んでいるだけの小さなバーだった。
「どうなの、春香ちゃんとは最近」
 隣に座って、二杯、三杯と水のようにビールを胃に流し込む布田さんが、一杯目を飲み終えてすでに満足している僕を、下から上へ品定めをするかのように仰ぎ見た。
「どうって、なにがですか」
「言わなくても分かるでしょうが。最近どうなのよって訊いてるのよ。彼女との関係に進展はあるのかって」
 へべれけに酔う布田さんは、最近あまりバイトに顔を出していない。およそ二年半前、僕がシネマ・グリュックで働き始めた頃は毎日のようにシフトに入っていたのに、ここ一ヶ月は、週に一回か、多くて二回のペースに減っている。そのため顔を合わせる機会もめっきりなくなり、この日も僕たちは、しばらくぶりの再会だった。
「進展なんて、ないですよ」
「でも、このあいだ遊んだんでしょ、二人で」
「遊びましたけど」
 人生で一番楽しかったあの日の記憶を思い出し、つい口元を緩めてしまいそうになる。それを布田さんに悟られまいと、必死に表情筋に力を入れる。
「あ、もしかして、そうなの? すでにもうそういう関係なの?」
「そういう関係って、下品だなぁ。そんなのあるわけないじゃないですか。ただの友達ですよ。それ以上でもそれ以下でもなく、ただの友達です」
「あら、前はただのバイト仲間って言ってなかったっけ」
 布田さんは言質を取ったとばかりに口角を吊り上げた。勘の鋭い彼女は、僕が春香さんに恋をしていることを、誰よりも早く、数ヶ月前の時点で察知していた。
「バイト仲間であり、バイト以外でも遊ぶ仲でもあるから、多分、友達ですよ。僕の認識ではそうです。彼女がどう思っているかは分かりませんけど」
「二人で会ってる時点で、あの子も隼人のことが好きに決まってんじゃん」
「えっ」
 思わず内心が反応に出てしまう。喜びと期待で目が輝くのが自分でも分かった。
「まぁ、その好きが恋愛としての好きなのか、友達としての好きなのかは、定かではないけどね」
 布田さんはそんな僕をからかうように肩をすくめて言った。
「……まぁ、僕には関係のない話ですけど」
「関係ないことはないじゃない。だって、バイト仲間であり、友達、なんでしょ?」
「大体、春香さんはまだ十八歳ですよ?」と、まだ二十歳の僕が言う。
「あれ、でも春香ちゃん、四月か五月で十九になったって言ってなかったっけ」
「え、そうなんですか?」
「聞いてないの?」
「……今はじめて聞きました」
「ふぅん、……ま、十八でも十九でも、どっちだっていいけどね」
「…やめましょう、この話はもう」
 僕は強引に春香さんの話を打ち切った。これ以上この話を続けると、なんだかどツボに嵌って、どんどんと僕の中で負の感情が膨らんでいってしまいそうな予感があった。
「私はね、あんたのことを弟だと思ってるの。弟のことが心配なの」
「心配してくれてありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないから、心配してんのよ」
 不満げにそう言って、眉に下りてきた前髪を暑苦しそうに撫で上げる布田さんの左手が、一瞬、バーの淡いオレンジ灯に照らされて、キラリと鈍い光を走らせた。
「えっ!?」
 と、それを見て僕は思わず声を裏返らせる。
「なによ、うるさいなぁ」
「それ、その指のそれ!」
「ん、あぁ、これ」
 布田さんが開いた手のひらを自らの顔の前にヒラリとかざす。彼女のその左手の薬指には、なめらかな銀色を意味ありげに輝かせる指輪が嵌められていた。
「な、なんですか、それ」
「なにって、結婚指輪」
「だから、なんで布田さんが結婚指輪をしてるんですか!」
「結婚したから以外に理由ある? 免許の更新しました。だから結婚指輪します。なんてありえないでしょ」
 布田さんは人生の一大ニュースを、しかしそれこそまさに免許の更新の報告をするかのような口ぶりで、言った。酔っ払っているくせに。
「え…、ケッコン? ケッコンって……、あの、結婚?」
 布田さんが結婚? あの布田さんが? 結婚? 
「そんなにビックリ?」
「ビックリするに決まってるじゃないですか!」
「まぁ、最近シフトに入っていなかったのも、それが理由かな」
「……え、相手は誰ですか?」
「隼人の知らない人だよ」
「ど、どんな人?」
「どんな人っていうか、まぁ、国籍はドイツの人かな」
「えぇ? 外国人っ!?」
 驚きに、さらに驚きが重なる。弾けた僕の叫声が、狭いバーの店内に響き渡る。
「隼人、声デカすぎ」
「どこでドイツ人と知り合うんですか」
 疑問は尽きない。
「そりゃあ、まぁ、インドカレー屋だよね」
「イン…、え、インドカレー?」驚きも尽きない。「いつの話ですか、それ」
「二週間前」
「はぁ!?」
「いちいち隼人は大袈裟だなぁ」
 布田さんの説明によると、それはひどく大雑把なものであったが、今から約二週間前に友達とインドカレーを食べていたところ、隣の席に、そのドイツ人がやってきたのだという。はじめは特に気にすることなく食事を続けていた彼女だったが、程なくして突然、そのドイツ人が声をかけてきた。
「この店、なにが一番おいしいですか?」
 いま考えたら明らかにナンパだよね、と布田さんは言いながら笑う。しかし当時の彼女はそれがナンパだとは一ミリも思わなかったらしく、むしろ流暢な日本語を話す外国人に感心さえした。
 二人が意気投合するのに時間はかからなかった。その場で連絡先を交換し、翌日に二人きりで再会。その日のうちに交際を始め、プロポーズはその一週間後、新宿のラブホテルの一室でだった。
「ちょ、ちょっと、その人、怪しすぎません?」
「怪しくないよ。ちゃんと日本で、ちゃんとドイツ語の先生してる、ちゃんとした人だよ」
「付き合い始めて一週間でプロポーズってのも気になるし、プロポーズの場所がホテルってのも……、なんか嫌だ」
 布田さんが僕のことを実の弟だと思ってくれているのと同じで、僕も布田さんのことは実の姉のように思っている。その姉から唐突に結婚の報告を受ければ、なによりもまず心配し、相手の男を怪しんでしまうのが、弟の(さが)というものだろう。
「隼人はまだまだ青いね」
 布田さんは僕を小馬鹿にするように鼻で笑った。
「僕は布田さんを心配してるんですよ」
「心配してくれなくて結構。前にも言ったけど、これが私の恋愛なの」
「ビビッと来たってわけですか。そのドイツ人に」
「そう、ビビッとね」
「ビビッとねぇ……」
 たしかに、僕と布田さんの恋愛観は対照的だった。なにかと一途な愛を夢見てしまう、純愛こそが正義だと言ってしまう僕に対して、布田さんは「日々是恋愛」を信条に掲げて、瞬間的な出逢いを大切にする。
 僕が春香さんにした一目惚れも、ある意味では瞬間的な出逢いなのかもしれないけれど、だからこそ僕は、どうしてもそこに一途さを求めてしまう。
「そろそろ帰ろうか」
 布田さんは吐息混じりに立ち上がり、テーブルに置いていた長財布を手に取った。
 酔いどれの彼女がこのまま自宅に戻れば、そこには結婚したばかりの夫がいて、その人に向かって、「ただいま」と微笑む彼女の姿を想像すると、それだけで自然と笑みが込み上げてきた。
「今日は僕が出しますよ。結婚祝いってことで」
 と言ってみる。布田さんは驚いた様子で目を丸くして、すぐに呆れるように眉を垂らした。
「アホ。あんたみたいなガキにお金を出させるほど、私は貧乏じゃないのよ」
 と、そう言って煩わしそうに手を払うが、それでも僕は譲らなかった。姉の幸せも祝えないで、なにが弟だ。
 ポケットから財布を取り出す。カードはないから現金だ。後ろでなおも不満を漏らす布田さんを無視して、僕は強引に支払いを済ませた。たしかに二十歳そこそこのガキには手痛い出費になったけれど、不思議と気分は晴れやかだった。

 ゴールデン街を出たあと、新宿駅の構内を千鳥足になって歩く布田さんに、僕はふと思い出して言った。
「そういえば、旦那さんってドイツ人なんですよね。僕、七月まで大学でドイツ語の授業を受けてたんですけど、どうしても気になるところがあって、今度、旦那さんに訊いておいてくれませんか?」
「なにを?」
「えーっと、たしか lieben と verlieben …だったかな。それぞれ『愛する』と『恋をする』って意味なんですけど、どうして『愛する』の前に『ver』が付くと、『恋をする』になるのかって」
「リーベ…、フェアー、ベ…、なにそれ、何語?」
「だから、ドイツ語ですよ」
「分かった分かった。覚えてたら訊いておくわ。リーベとフェアーべね」
 布田さんは芯の抜けた首を頼りなく縦に振ると、そのまま手のひらをヒラヒラとはためかせながら、ひとり改札の向こうに消えていった。
 それから数日が経ち、彼女は、長年働いたシネマ・グリュックを今月いっぱいで退職する運びとなった。
 事務室で説明を受けた支配人の飛田さんが、まるで実の父親のように涙を流して祝福していたのが印象的で、その涙にもらい泣きする布田さんの姿もまた、僕の目には印象的に映った。



 お盆に入り、僕は一週間の休みを取って鹿児島に帰省した。
 羽田から鹿児島までのフライトは約一時間半。特に友達と予定を立てているわけではないから、荷物は少なめだ。
 鹿児島空港で拓磨の車に拾われ、二ヶ月ぶりの実家に足を踏み入れる。
 いつもより短いスパンでの帰省ではあるけれど、リビングに入り、そこで待ち構えていた母さんと顔を合わせた瞬間は、これまでの帰省とは比べ物にならないほどの感動があった。
 六月に胃の癌の手術をした母さんは、術後の経過も良好で、自宅でいつも通りの生活を送っている。手術を終えてからも時々LINEのやりとりはしていたが、相変わらず母さんの文面は素っ気ないから、正直、実際にその顔を自分の目で確かめるまでは、心配を拭いきれないでいたのだ。
「おかえり、隼人」
「ただいま、母さん」
 目の前に映る母さんの姿がぼやけている。部屋に夏の陽炎がかかっているのかと思えば、単に僕の目元に涙が溜まって、視界を滲ませているだけだ。
 僕たち親子は、その場で強く抱擁を交わした。こうして母親の温もりを肌で感じるのは、一体いつぶりのことだろう。
 考えてみると、小学生の頃に珍しくテストで満点を取った僕に母さんが無理やり抱きついてきて以来、こんなに長く、強く、抱きしめ合うのは、はじめてのことだった。
 久しぶりに包まれる母さんの腕の中は温かかった。太陽の焦がすような暑さでも、あるいは春香さんと一緒にいる時に感じる、あの胸が昂るような熱さでもない。ほんのりと優しく内側から溶かされていくような温もりだった。
「元気だった?」
 と、僕よりも先に母さんが訊ねた。
「元気だよ。母さんは?」
「私は、ほら、見ての通りよ」
 母さんは曖昧にそう言って、元気という直接的な言葉を口にはしなかった。本当に元気だった頃の自分と比べて、今の自分がどうであるかは、誰よりも母さん自身が理解しているのだと思う。胃の腫瘍は摘出したが、だからといって、今後の再発が0パーセントになったわけではない。どこかに転移していれば、今度こそ助からないかもしれない。
 実際、父さんがそうだった。同じく胃癌だった父さんは、一度目の手術には成功したものの、その後の検査で転移が認められ、二度目の手術の甲斐なく命を落とした。
 母さんと顔を合わせた瞬間、僕の目から涙が溢れてきたのは、父さんの死に、自分だけ涙を流せなかった当時の後悔が根底にあるような気がした。
 あの頃の僕はまだ大切な人を失うということがどんなに悲しいことか、理解できていなかった。だけど、今回のことではじめて命の有限性を身近に感じ、だからこそ、生きている証とも言える母さんのその温もりで溶かされた僕の感情が、涙となって、溢れ出てきたのだ。
「夜ご飯、作るの面倒だから、出前でいい?」
 母さんが壁にかけた時計に目をやりながら、おどけて舌を出した。時刻は夜の七時。リビングの窓から見える外の景色はまだ明るい。
「もちろん、出前でいいよ」
 当然、僕に拒否する理由はない。
 軽い話し合いの結果、出前は近所のラーメン屋にすることにした。
 豚骨ベースのスープを売りにしている人気店で、最近ではローカル局のテレビ番組で特集を組まれたこともあるらしい。なんでも今年か来年にはカップ麺にして、全国展開をするとかしないとか。
「そういえば、メダカが子供を産んだよ」
 ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろして、あちち、とラーメンの上のチャーシューを頬張りながら、母さんが玄関の方を一瞥した。なぜか母さんは数ヶ月前から、玄関先でメダカを飼っている。
「へぇ、メダカの繁殖って難しくないの?」
「うーん、どうなんだろ。でも、いつの間にかいっぱい増えてた」
「母さん、暇さえあれば玄関に出て、メダカの水槽と向かい合ってるからな」
 僕の隣でラーメンを啜る拓磨が、どこか呆れのこもった口ぶりで言う。
「なんかね、昔の子育てを思い出しちゃうんだよね。だから、なんていうか、つい熱が入っちゃうのよ」
「子育てって、僕たちのこと?」と僕が訊ねる。
「そうそう。メダカってさ、こっちがいくらジッと見つめても、そんなのお構いなしって感じで、そっぽを向いて泳ぎ回るの。エサを入れると、嬉しそうにパクパクパクパク。食べ終わったら、はい、サヨナラ」
「そんなに俺たち奔放な子供だったけ?」拓磨が苦笑する。
「さぁ、どうだったかな」母さんは微笑みながら、「でもね」と続けた。「そんなメダカたちだけど、たまにこっちを向いて、口を動かす時があってさ。それがさ、私にはどうしても、『ありがとう』って言っているように見えるのよね。そんな風に言われたら、こっちだけ俄然、愛情が湧くでしょ?」
「んー、よく分からないや」僕は首を傾げた。
「あんたたちも子供が生まれたら分かるよ、きっと」
「その前に結婚だ」拓磨は自虐気味に肩をすくめた。
「いつになることやら」
「いつにもならない可能性も」
「ま、それはそれでいいんじゃない」
 やがてラーメンを食べ終えた僕は、しばらくリビングのソファでくつろいだあと、夜の十二時を回ったあたりで寝床についた。僕の布団は拓磨の部屋に敷いた。拓磨の部屋といっても、上京するまでは僕も使っていた子供部屋だ。
 この歳になって兄と二人で同じ天井を見上げながら目を閉じるのは、なんだか懐かしい反面、どこか照れ臭くもあった。



 帰省三日目の夜、僕は、実家から車で十分ほどの距離にある鹿児島中央駅近くの大衆居酒屋にいた。
 小学校から高校を卒業するまでの十二年間を共に過ごした唯一の友達にして、無二の親友、タツと会うためで、彼と会うのは今年の正月以来のことだった。
 タツは現在、地元の大学に通っていて、僕と同様に来年の春には就活を控える身でもあった。
「そういえば隼人、お前、成人式出なかったんだってな」
 すでにタツは焼酎をロックで何度も煽り、呂律も怪しくなっている。くっきりとした顔立ちで、捲し立てるように喋るその姿は、いかにも九州男児といったところだ。
「うん、あんまり出る気分じゃなかった」
「まぁ、俺も出てないから別にいいけど」
「え、なんで出なかったの」
「俺はほら、成人式の日は彼女とデートしてたから」
 タツは下品に笑って、白い歯を剥き出しにした。
「彼女って、香奈ちゃん? まだ続いてたんだ」
「なんだかんだでな」
 香奈ちゃんというのは、タツが高校二年の時から付き合っている同級生の女の子のことで、今は地元の病院で事務として働いている。
 僕と違って女性ウケの良いタツは、小さい頃からモテモテで、同級生や先輩、後輩、果ては他校の女子生徒から告白される姿を、僕は近くで何度も見てきた。そんな彼が高二の夏から今日に至るまでの約五年間を、たった一人の女性と共に過ごしているのは驚きで、そしてなにより意外だった。
「タツはもっと、こう…、遊び人! みたいな感じになると思ってたけど」
「俺もだよ。そもそも香奈とこんなに長く続くとは思ってなかったしな」
 タツは焼酎を口に浸すようにして飲みながら、しみじみと言った。
「よっぽど香奈ちゃんが良い子なんだろうね」
「大学に入った当初は、夢のキャンパスライフを思い描いてたんだけどなぁ、俺も。いろんな女の子といろんなことして遊んで……。楽しいだろうなぁ」
「それ、香奈ちゃんが聞いたら多分、ブチギレるよ」
「実際、ブチギレられた」と、タツは笑いながら言って、「隼人の方こそ、どうなんだよ」と僕に顎をしゃくった。
「どうって、なにが」
「東京で彼女はできた?」
「まったく。全然だよ」
 僕は大袈裟にかぶりを振って、酒の中でも特に苦手な焼酎をひと口飲んだ。喉の内側でたちまち火花が弾ける。火の粉が胸に延焼し、胃が煮える。吐き気を催し、慌ててコップの水を一気に飲み干す。
「なんでなのけ。隼人、顔は良いのに」
 昔からタツは僕のことをそう言った。顔は良い。自分ではまったくそうは思わないが、タツの評価ではそうだった。
 褒めてくれるのは素直に嬉しいけれど、なにぶん実感がないから、正直なんとも言いようがない。
 しかし、なんにせよ、僕のその外見の取り柄は、いつも僕自身の内面にある気の弱さや、根暗な性格の波にさらわれた。僕の心に根強くはびこる臆病の前では、外見の良さも、結局は波打ち際に建てられた砂の塔でしかなかった。
「顔が良くても、性格が悲惨じゃどうにもならない」
 と、自分で言っていて悲しくなる。
「悲惨って…、別に隼人、性格悪くないだろ」
「悪くはないけど、臆病だし、根暗だし、内気だし」
「好きな子は? いないの?」
「いるよ、僕にだって、好きな子くらい」
「おっ、まじか! 誰? どんな子?」
「バイトで一緒の女の子。今年の春に知り合って」
「へぇ、好きになったキッカケは?」
「完全に一目惚れ」
「告白は?」
「まだ」
「なんでよ! さっさとせんこて!」
 タツは鹿児島訛りを一段と強めて、テーブルを拳でガシャンと叩いた。机の上の空き皿が大きな音を立てて震え上がる。
「いやぁ、無理だよ、僕には」
 春香さんに対する僕の想いは日々募るばかりだったが、しかし、それと同時に反比例の線を描いて、過去の経験に基づく劣等感が、僕の胸の中に膨らんでもいた。
 彼女のことを想えば想うほどに、実は彼女の方は僕のことなんてなんとも思っていないんじゃないかと勘繰ってしまうのだ。
「こういうのは勢いが大事なんだぞ」
「そうは言っても、僕はタツとは違うんだよ。勘違いして、舞い上がったところで、最後に嫌な思いをするのは結局、僕だ」
 行き過ぎた自虐は心を蝕むだけだと頭の中では分かっているのに、そうやって自分を蔑むことでしか、僕は心の平穏を保つことができないでいる。際限なく広がる臆病の悪循環を、ただ傍観することしかできないでいる。
「……なぁ、隼人、覚えてるか?」僕を哀れむように、タツは目を細めて言った。「人間万事塞翁が馬って言葉。小学生の時、先生に教えてもらったろ」
「なんだっけ、それ」
「中国の故事だよ。昔の中国のどこかに一人の老人が住んでいて、その老人の飼っている馬が、ある日突然、逃げ出してしまうんだ。だけど、しばらく経って、その馬がひょっこり帰ってくる。しかも、そばにもう一頭の駿馬を連れているから驚きだ」
「駿馬って?」
「まぁ、簡単に言えば、足の速い優秀な馬だな。思いもよらず新しい駿馬を手に入れた老人は当然、喜ぶわけだけど、だけど今度はその老人の子供が、その駿馬から落馬してしまって、足の骨を折る怪我をする」
「それは可哀想」
「ところが、そう可哀想でもない」タツはニヤリと笑った。「その老人の息子は、足の骨を折ったおかげで、兵役を逃れるんだ。つまり、戦争に行かなくて済んだってこと。これが、人間万事塞翁が馬」
「はぁ…」
 ぼんやりと相槌を打ってはみるものの、タツがそれで僕になにを伝えたいのかはさっぱり分からない。
「要するにさ、人生っていうのは、良いことと悪いことの繰り返しなんだ。悪いと思っていたことが、巡りめぐって、良いことに転じることもあるってわけ」
 と、そう言って、ひとしきり説明を終えたタツは、椅子の背もたれに深く体を預けて、ジッと天井を見上げた。板張りの空を見つめる彼は、さらに木目をなぞるように目を移ろわせながら、ぼそりと呟いた。
「だからさ、もう昔のことなんて気にすんなよな」
 それは、僕の過去を知る親友だからこそ言える、単純で、ありふれた、しかし重たい一言だった。

 隼人くんのこと、知れば知るほど嫌いになる――――。

 かつての恋人に言われたこの言葉は、今もなお、僕の心に張りついて離れてくれない。以来、僕は好かれようとするより、嫌われないようにして生きてきた。
 嫌われないためには、知られなければいい。深く知られなければ、嫌われることもない。そうやって生きてきた。
 この生き方が間違っているのは、誰よりも僕自身がよく分かっている。分かっていながら分からないふりをして、変わりたいと思っていながら、それでもやっぱり変われないから、段々と心が苛まれていくのだ。

 結局、タツはそれ以上はなにも言わなかった。僕もそれ以上は春香さんの話をしたいとは思わなかった。
 直後に頼んでいた唐揚げが運ばれてきて、二人でそれをつまんでいるうちに、話題も自然と別のものに移っていった。
 中学の頃の担任の話や、お互いの親の話。さすが親友といったところか、話題には事欠かず、そろそろ帰るか、と僕たちが店の前で解散したのは、日を跨いだ夜中の二時のことだった。

 それから二日が経ち、僕は東京へと向かう飛行機に乗った。座席シートに背中をもたれる。左手の窓から射し込む陽の光が煩わしくて、日除けを下げて、目を閉じた。
「もう昔のことなんて気にすんなよな」
 頭の中でタツの言葉が何度も繰り返される。僕だって、できることなら気にしたくないよ、と心の中で言い返してみる。そしたら彼は、なんと答えるのだろう。
「そんなことはどうでもいいから、早くその日除けを上げて、外の景色を楽しめよ」
 無邪気に言って、窓に身を乗り出す親友の姿が、閉じたまぶたの裏に鮮明に浮かんだ。