梅雨が終わると、すぐに夏がやってきた。
 街を半袖で出歩く人の姿も多くなった。街路の木々は青々と茂り、うずたかく積もった入道雲と水色の空は、もはや自然が織りなす神秘の芸術だ。
 しかし、大学生にとって七月は、避けては通れない地獄の月でもある。学期末試験が目前にまで迫ってきているからだ。
 かくいう僕も例に洩れず、選択科目の第二外国語の試験を明日に控える身。第二外国語はドイツ語だった。が、それを選んだ理由は特にない。単位さえ取れればいいという感覚で、強いていえば、そういえばたしかシネマ・グリュックのグリュックもドイツ語だったなぁ、くらいの興味でしかなかった。
 とはいえ、当たり前ではあるが、軽い気持ちで単位を取れるほどドイツ語は易しくはなかった。最初の授業の時点で頭はパニックを起こし、耳に流れてくる呪文のような言葉の羅列を、脳は理解するのを放棄した。
 そもそも一、二年の時に第二外国語の英語を落としてしまったせいで、こうなったのだ。英語がダメなら、他の言語で。我ながら安直な発想である。
 そんな危機的状況にも関わらず、今の僕の意識は明日の試験を飛び越え、明後日に向けられていた。なぜか。明後日は、僕にとって人生最大の日だった。春香さんと初めて二人で遊ぶことになったのだ。
 先月交わしたあの約束が、お互いの予定を合わせているうちに今月にずれ込み、明後日になった。ずれ込んだ分だけ緊張のゲージは青天井で、数日前から僕の心臓は常にドクドクと高鳴っている。
 夜ご飯に行く店だけは決めていて、あとはなにも決めていなかった。こういう時は男の方から予定を決めるべきなのだろうけど、もし僕が決めた場所を春香さんが気に入らなかったらと思うと、怖くなって、結局なにも決められなかった。
 そんな優柔不断な自分に対する自己嫌悪もあるのだろう、約束の日が徐々に近付くにつれ、僕の頭にはある一つの疑問が、床に残ったセロテープの痕のように、しつこく張り付いて離れなくなった。
 春香さんは、僕のことをどう思っているのだろう。いかんせん僕は異性から好意を持たれたことがないから、相手からの優しさに恋愛感情が含まれているかどうかを見極める力がない。このあいだのチョコレートだって、ただ単に彼女の優しさからくるものだったのかもしれないし、残業する僕への同情の現れだった可能性もある。
 そう考えると、明後日のデートに浮き足立っているのは自分だけなんじゃないかと思えてきて、途端に恥ずかしくなってくる。
 春香さんとの物語を小説にしたいという、先月に芽生えた夢は際限なく広がり、しかしその一方で、広がれば広がる分だけ、想像と現実が乖離していく。
 春香さんを想像の中心に据えれば据えるほど、彼女の輪郭がぼやけていく。ふと想像から立ち止まり、俯瞰の視点で自分を見下ろした時、一人だけ舞い上がる醜怪な僕の姿がそこにあるのだ。
「なぁ、隼人」
 大学構内にあるスタディルームで、ドイツ語の教科書と睨み合いながら、頭では春香さんのことばかりを考えている僕に、隣の席に座る代田(しろた)が声をかけてきた。代田は僕の大学の同級生で、彼もまた明日にドイツ語の試験を控える、危機的状況の中にいる一人だ。
「なに?」
 期待と不安で浮ついた口元を引き締め、僕が反応すると、代田は茶髪がかったパーマ頭を片手で掻き上げながら、机の上のノートをシャーペンで差した。
「これってさ、マジでなんなの?」
「これ? どれ?」
 代田のノートを覗き込む。そこには「lieben(リーベン)」と「verlieben(フェアリーベン)」という二つのドイツ語の動詞が書き並べられていた。
 とはいえ、マジでなんなの、と訊かれても、すでにドイツ語に関しては白旗を上げている僕に分かるはずもない。
 辞書を引くと、前者は「愛する」で、後者は「惚れる、恋をする」と訳されている。二つの字面の違いである「ver(フェア)」は非分離前綴りといって、この「ver」の有無によって、あとに続く動詞の意味も変わってくる。
 たとえばlieben を使った文章では、
 Ich liebe dich.(イッヒ リーベ ディッヒ) は、「私は君を愛している」
 そして、verlieben を使った文章では、
 Ich verliebe(イッヒ フェアリーベ) mich in dich.(ミッヒ イン ディッヒ) は、「私は君に恋をしている」
 その意味が違うのは一目瞭然だが、違うなら違うでもっと分かりやすくしてくれよ、というのが代田の主張だった。「ver」の有る無しだけじゃ、分かりづらいよ、と。
「だって、見た目はほとんど一緒じゃん」
 と代田は口を尖らせる。スタイルも良く、顔立ちも悪くない彼は贔屓目なしに見ても色男だが、その口調からはどうしても軟派な印象が拭えない。
「ニュアンスの違いなんじゃないの」
「ニュアンスってなんだよ」
「ニュアンスはニュアンスだよ」
「そうやってすぐ横文字を使うんじゃねぇよ。ここは日本だっての」
「僕たちは今、その横文字の勉強をしてるんだっての」
「で、この verliebe のあとの、mich(ミッヒ) ってのは?」
「辞書には、主格の ich(イッヒ) の四格ってある。あ、でも verliebe のあとの mich は sich(ズィヒ) の格変化なのかも」
「sich ってなに」
「辞書には、再帰代名詞って書いてる。辞書には。自分に、とか、自分自身に、とか。辞書にはそう書いてる」
「なんでそのナンタラ代名詞は verlieben には付いて、lieben には付かないんだよ。不公平だろ、そんなの」
「知らないよ、そんなの」
「大体さ、verlieben も lieben も、人称によって語尾が変わるってのが、そもそも気に食わないんだよなぁ。verliebe とか、verliebst(フェアリープストゥ) とか、verliebt(フェアリープトゥ) とか。もう今だって、自分でなに言ってんのか分かんねぇもん」
 さらにドイツ語には、私、君、彼、などの人称によって語尾が変化するほかにも、男性名詞、女性名詞、中性名詞と名詞ごとに種類があり、その種類によって、英語の「the」や「a」に相当する「der(デア)」や「ein(アイン)」の形が変化する。
 要するに、なにがなんだか、さっぱり訳が分からないということだ。
「言葉って難しいよなぁ」
 僕は独り言を呟くように言った。
 ドイツ語に限った話ではないけれど、たとえばこの「ver」の有無のように、ほんのわずかな差異であっても、言い間違えたり、書き間違えたりしてしまうと、テストでは減点の対象になるし、相手に与える印象も当然、変わる。
「隼人の鹿児島弁も、たまに外国語かよって思う時あるよな。最近はあんまり言わなくなったけど、こっちに来たばっかりの頃はよく、だからよ! って言ってただろ? 俺、あれ聞いた時は最初、お前に怒られたのかと思ったもんな」
 と、懐かしそうに目を細める代田に、僕も思い出して笑った。
「ああ、たしかに。だからよ、は東京の人には通用しないね」
 鹿児島の人間は時々、相手の言葉に同調する際、「だからよ!」と語気を強めて言うことがある。それは100パーセントの同意を意味しているのだが、耳馴染みのない人には、どうやら僕たちの「だからよ」は、「だからどうしたのよ」のように聞こえてしまうらしい。
「このアイスおいしくない?」
「だからよ!」
「え……、ごめん……」
 と、悲しき勘違いが生まれてしまう。
 ドイツ語も、鹿児島弁も、もちろん標準語も、つくづく言葉というのは、屈強なくせして繊細で、曖昧で、便利だけれど、危うい、相互理解の上でのみ成り立つコミュニケーションツールなのだ。
 と、まぁ、そんな話をしているうちに、大抵の学生がそうであるように、問題の解決を見ないまま時間だけが刻々と過ぎ、気付けば僕たちは翌日の試験本番を迎えていた。
 当然、この日の試験は散々なものに終わった。テスト用紙の解答欄すべてを当てずっぽうで埋め尽くしたのは人生で初めてのことで、もはや試験結果に希望はなく、あとはもう日頃の出席日数や課題の出来に一縷の望みを託すしかなかった。
 だけど正直、今の僕にはそんなことなど、どうでもよかった。悲惨なテスト結果に慄然と震え上がるのは、もう少しあとでいい。僕はうなだれる代田には別れも告げずに、いの一番でテスト会場をあとにした。
 明日はいよいよ春香さんと二人で遊ぶ日。いくらファッションに疎い男であっても、想いを寄せる異性とのデートとなれば、どんな服を着て行こうかと迷ってしまうものだ。
 これでもない、あれでもない、と自宅の鏡の前で、数少ない服のバリエーションを試しているうちに、いつの間にか外ではコオロギが夜の到来を唄っていた。
 思えば今日は朝からなにも食べていない。それなのに空腹も疲労も感じないのは、やはりそれだけ僕が明日のデートに浮き足立っているということなのだろう。
 結局、最後までこれだと思える服を決めきれないまま、明日だけはなにがあっても寝坊してはならないと万全を期して、僕は日も跨がぬうちにベッドに入った。
 眠りに落ちるまでが嫌に長く感じ、いざ眠りに落ちると、夢も見ぬ間に翌日の朝になった。



 約束の時間の十分前に、僕は待ち合わせ場所の新宿駅東口前に到着した。数分待って、春香さんもそこにやってきた。
 結局は白のTシャツに濃紺のジーンズと無難な格好に落ち着いた僕に対して、春香さんは水色のコットンシャツに白のロングスカートをうまく着こなしている。大勢の人たちでごった返す新宿駅東口前にあって、颯爽と現れた彼女の姿は良い意味で浮いているように見えた。
「おはよっ」
 僕は口元をニヤつかせながら、片手を上げた。自然と語尾も弾んだ。
「おはようございます。ごめんなさい、待っちゃいました?」
「全然。僕もちょうどいま来たところ」
 スマホの画面を見ると、デジタル時計が昼の一時を示している。夜のイタリアンは予約を七時に入れているので、それまではまだ六時間もあった。
「夜までどうします?」
「春香さん、なにかしたいことある?」
「うーん、とりあえずブラブラしますか」
 僕たちはひとまず近くの喫茶店に入って、うだるような暑さにバテた体を冷まそうということになった。
 静かなジャズが店内を流れていた。お互いに昼食もまだだったので、アイスコーヒーとサンドウィッチをそれぞれ一つずつ注文した。
「いいですね、このジャズの感じ」
 春香さんが運ばれてきたコーヒーを飲みながら言った。
「たしかにいい。なんていう曲だろう」
「実は私も分かりません。けど、分からないけど、良いって思えるって、素敵ですよね」
 と、そう言いながら、春香さんは自前の赤いハンカチを、たすき掛けしていた小型のバッグから取り出した。それを見て、僕はふと思った。
「春香さんって、いつも赤色のハンカチ使ってないけ?」
 前々からハンカチをよく使う子だなぁとは思ってはいた。そんな、何気のない上品さも彼女の魅力の一つなのだが、思い返してみると、使っているのはいつも柄の違う、けれど決まって赤色のハンカチのような気がした。
「あ、バレました?」春香さんは少し恥ずかしそうにしながら、綺麗に折り畳まれたそのハンカチを口元に当てた。「なんか好きなんですよねぇ、赤色のハンカチ。別に赤色が好きってわけではないけど、ハンカチは赤色がいいんです。なんとなく」
「なんとなく」
「そう、なんとなく」
 春香さんが笑うので、僕も笑った。
 しばらくして、食事を終えた僕たちは喫茶店をあとにし、今度は映画館に向かった。シネマ・グリュックではなく、もっと大きなシネコンだ。
「なにか観たい映画があるの?」
「そういうわけじゃないけど、劇場ロビーをウロウロするの好きなんですよ、私。公開予定のチラシを見たり、どんなグッズが売られているのか確認したり」
「分かる。なんか、異世界に迷い込んだみたいなワクワク感があるよね」
「そうそう、ワクワク感。いいですよね、あれ」
 新宿の靖国通りを大久保方面に横断して、歌舞伎町に入る。夜の名残を寥々と漂わせた猥雑な通りをまっすぐに進むと、目の前に巨大なゴジラの像が目印になったビルが見えてくる。というより、通りに入った時点で、すでにゴジラが大きな口を広げて周囲を睨み散らしているのが見えているので、そこを目指して歩いていく。
 そのゴジラのビルのエスカレーターを昇って三階。TOHOシネマズ新宿のロビーは、いつ来ても格式高い高級ホテルのような絢爛さがある。スクリーンの数はシネマ・グリュックの五倍。その一つひとつの大きさも桁違い。従業員はいつ誰を見ても忙しそうにしていて、シフトの大半を雑談で過ごしている僕たちとは比べてしまうのもおこがましい。
「隼人さん、この映画おもしろそうですよね。あ、これも。こっちは来年公開かぁ」
 ロビーに入るなり、春香さんは玩具屋に来た少年のように目を輝かせて、グッズ売り場とチラシ置き場を動き回った。
「春香さん、なんか、子供みたい」
 後ろから僕が苦笑をこぼすと、彼女はくるりと振り返って、
「だって、楽しいじゃないですか」
 天真爛漫な笑顔が僕の網膜を刺激する。彼女の笑顔には無限の種類があって、どれを取っても嘘がなく、純真で、愛おしい。
「春香さん、これ、かわいくない?」
 グッズ売り場の一角に、かなり際どくデフォルメされた動物のキーホルダーが何種類も置かれていて、僕はその中の一つを手に取った。どうやら公開中のアニメ映画に出てくるキャラクターのようで、名前は分からない。
「かわいい。ブサかわ? キモかわ?」
「これ、牛け? 豚け?」
 デフォルメされすぎて、もはや原型を留めてすらいないその生き物に、僕は思わず訛ってしまう。「け」というのはつまり、「かな?」という意味である。
「うーん、多分、牛け」
 春香さんは、僕の訛りを可笑しそうに真似して笑った。
 ひとしきりロビーの散策を楽しんだあと、僕たちは入り口の自動ドアを引き返した。次は本屋にでも行こうかという話になったのだ。
 入り口を出てすぐ右手が大きな窓ガラスになっていて、そこから地上を見下ろすと、来る時にも通った歌舞伎町のセントラルロードと、その両脇に派生する狭窄な通りが、一面に広がっているのが確認できる。複雑に入り組んだ新宿の街並みを、人々の頭頂部がアリの大群のように忙しなく行き交っている。
 それがなんだか、休むことなく動き続ける都会そのものを表しているように見えてしまって、少し辟易としたけれど、はたと隣を一瞥すると、窓ガラスに手を当て、興味深そうに外を見下ろす春香さんの横顔があり、僕は彼女のその横顔を見るだけで、都会の喧騒に疲弊した心がゆっくりと、じんわりと溶けるように癒されていくのを感じるのだった。



 本屋では、ほとんど僕が喋っていた。この本おもしろいよ、とか、あの本がおもしろそう、とか。きっとあとからこの時の自分を思い返して、また自己嫌悪に陥るのだろう。その場では春香さんも健気に反応してはくれていたけれど、熱弁する僕の姿を気持ち悪いと感じていたかもしれない。
 その後しばらく経って、予約していた時間になったので、僕たちは明治通り沿いにあるイタリアンレストランに向かった。
 ビルの地下一階にひっそりと佇む隠れ家的なレストランで、僕は一瞬、身構えたが、意外にも店内はオレンジの照明が地中海の暖かな気候を思わせる、雰囲気の良いカジュアルな造りになっていた。
 厨房を囲うようにしてカウンター席がコの字にあり、その奥にテーブル席がいくつか壁に沿って置かれている。
 そのうちの一角に案内された僕たちは、ソファ席に春香さんが座り、向かいの木製の椅子に僕が座った。
 なぜかメニュー表が一つしか見当たらず、仕方がないから、テーブルの真ん中にメニューを開いて、二人で片肘をついて左右から覗き込んだ。
「どんな料理なのか、さっぱり分かりません……」
 春香さんが眉間にギュッと皺を寄せた。
「僕も……」
 メニュー表には馴染みのない単語がズラリと並んでいて、どれを注文したら、なにが出てくるのか、さっぱり分からなかった。
 いや、正直に言うと、それほどさっぱりではなかったけれど、一つひとつのメニューを指差し、なにこれ、なにこれ、と言い合っているのが楽しかった。
 しばらく悩んだ挙句、僕はシラスと豆苗のアーリオオーリオを、春香さんはベーコンとキノコのカルボナーラを注文した。せっかくだからと、そこにマルゲリータを追加し、飲み物は二人とも水でいっかとなった。
「そういえば、隼人さんって普段は標準語ですけど、さっきみたいに、ふとした瞬間に突然訛りますよね」
 春香さんがふと思い出したように微笑して言った。
「そうけ?」
「ほら、いま訛った」
「え、いま訛ったけ?」
「ほらまた」
「うう…」と僕は肩を縮める。「直したいんだけど、なかなか直んなくて……、なにせ鹿児島生まれ鹿児島育ちを二十年近くやってきたものだから」
「別に直さなくていいんじゃないですか?」
「え、なんで?」
 時折口をついて出てしまう地元の訛りは、なかなか東京に馴染めない僕を象徴しているような気がして、小さなコンプレックスの一つではあった。東京に住む以上、できるだけ標準語を話さなければならないとずっと思って生きてきたから、まさかそれを直さなくていいと言われるなんて、思ってもみなかった。
「だって、訛るってことは、自分の地元に強い愛着があるってことじゃないですか。地元が嫌いだったら訛りませんもん、普通。だから、そのままでいいじゃないですか? 私は隼人さんの鹿児島訛り、素敵だと思いますよ」
「そうけ……?」
「あっ」
「あっ」
 二人同時に声が出て、二人同時に肩を揺らして、笑い合った。
 それから少しして、僕たちのテーブルにそれぞれのパスタが運ばれてきた。
 食べる前に手を合わせ、誰に言うでもなく、小さな声で、「いただきます」と呟く春香さんの姿を見て、すでにフォークを手にしてパスタを巻こうとしていた僕も、慌ててそれの真似をした。
 最初はアーリオオーリオとはなんぞやと思っていたが、食べてみると、よく知るあのペペロンチーノで、しかし味は今までに食べたことのないレベルの絶品だった。春香さんもカルボナーラをおいしそうに食べていて、安心した。
「最高ですね。ずっと気になってたんです、このお店。やっぱりおいしい」
「どこで知ったの、ここ」
「前に友達がおいしいよって教えてくれたんです。今日、来れてよかった」
「うん、よかった。ほんと、おいしいよね」
「隼人さんって、苦手な食べ物はあるんですか?」
 春香さんは嫌い、ではなく、苦手な、と表現した。
「グリンピースとしいたけ。こればっかりは、どう頑張っても食べられない」
「グリンピースはちょっと分かります。私も苦手かも。でも、しいたけは……、おいしくないですか?」
「うーん、みんなそう言うんだけどね。僕は昔から駄目なんだよ。春香さんは?」
「私は…、ゴーヤかなぁ」
「ゴーヤこそ、おいしくない?」
「みんなそう言うんですけどね、私は苦手なんです」
 おいしい食事に僕たちの会話も自然と弾んだ。手術に成功した母さんの回復具合、兄の拓磨がいよいよ痛風になったこと。あるいは春香さんの両親がトイレの電気を消したか消さなかったかで大喧嘩したこと、小学生の頃の同級生が十九歳で結婚したこと。最近、どんなドラマを観たとか、どんな映画を観たとか。
「そういえば」と、僕は盛り上がる話の流れで言った。「このあいだ、僕も観たよ、ビッグフィッシュ」
「あ、観たんですね! どうでした? 最高じゃなかったですか?」
「もうね…、最高だった」
 春香さんが一番好きだというビッグフィッシュは、ユアン・マクレガー主演のファンタジー映画で、父と息子の少し変わった関係と愛情を描いたヒューマンドラマでもある。
 子供の頃から父親に嘘の冒険譚を聞かされてきた息子が、大人になり、自分の父親の本当の話を知ろうとするのが、この映画の大きな主軸となっている。
「なんとなく、ライフ・イズ・ビューティフルに似てますよね。いや、もちろん雰囲気とかは全然違いますけど、どっちともお父さんと息子と嘘の物語だし」
「そうそう! もう観始めた瞬間、あ、好きだわって思った」
「好きな映画のジャンル、意外と私たち、近いのかもしれませんね」
「ふふ、そうかもしれないね」
 映画の中で、僕が一番好きだったシーンがある。中盤、サーカス会場で見かけた女性に一目惚れした主人公エドワードが、長い時間をかけて彼女の居場所を突き止め、プロポーズをするシーンだ。
 エドワードは、彼女が好きだという水仙の黄色い花を辺り一面に集めて、そこで愛の告白をする。
「あなたは私のことをまだなにも知らないでしょ」
 女性は困惑しながら、そう返す。
「残りの人生をかけて知るよ」
 それに対してエドワードは、根拠もなにもないままに、しかし自信たっぷりの様子で、そう言うのだった。
 と、そうやってビッグフィッシュの話に花を咲かせていると、そこに店員が焼きたてのマルゲリータを運んでやってきた。焦げ目のついた小麦色の生地の上に、真っ赤に艶めいたトマトソースが溢れている。湯気と一緒に立ち昇るトマトとバジルの香りはまさに至極で、見ているだけで恍惚となった。
「いやぁ、これは間違いないね」
「間違いないですね」
 元々切り分けられていたピザを一ピースずつ、それぞれの皿に取り分ける。まず僕がひと口食べて、うまい! と唸り、次いで春香さんもかぶりと食べて、おいしい! と幸せそうに表情を溶かした。
「そういえば春香さんって、普段はなにしてるの?」
 考えてみると、僕はまだ春香さんのことをほとんど知らない。これが直感的な恋の代償なのだろう。僕は彼女が今日までなにを食べ、誰と知り合い、なにに悲しみ、なにに喜んで生きてきたのかを、なにも知らなかった。
「友達と遊ぶ時以外は、家でダラダラしてることが多いですかねぇ。本を読んだり、映画を観たり。隼人さんは?」
「僕も基本的には家にいるかな。あとはよく図書館に行く」
「へぇ、図書館! いいですね」
「多分、外に出て騒いだりするより、部屋にこもってなにかをする方が、性格的に合ってるんだと思う」
「さっきの本屋でもそうでしたけど、かなりの本好きなんですね」
「父さんの影響でね。実家に帰ると、びっくりするくらい本が沢山あるよ」
「読書家だったんですね、お父さん」
 春香さんは、僕の父さんがすでに死んでこの世にはいないことも知っている。
「読書の虫って言葉は多分、僕の父さんのためにあるんだと思う。まぁ、僕もほとんど父さんの記憶はないんだけどね」
「へぇ…、それをしっかり引き継いでるんですね、じゃあ」
「そうなのかなぁ……」
 僕が間延びした声でそう言ったところで、ふと、テーブルにしばしの沈黙が訪れた。いつもの僕なら、この沈黙に耐え切れずに、急かされるように口を走らせてしまうのだけれど、なぜだか今は、この沈黙が心地良かった。この沈黙にこそ、幸せを感じた。
 やっぱり、僕はこの子のことが好きなんだ。
 僕はこの時、春香さんへの想いを、より一層に強めた。今すぐにでも彼女に好きと伝えたかった。
 だけど、伝えられない。喉の先まで出かけた「好き」の二文字は、出口を見つけた途端に怯んで、胃の中へと戻っていく。
 たった二文字じゃないかと、僕の中の僕が言う。そのたった二文字が、この世界のどの言葉よりも重いんだと、やはり僕の中の僕が言い返す。
 今ここで勢いに任せて想いを伝えても、春香さんが嫌な思いをしてしまったら本末転倒ではないか。せっかくの幸せな時間に水を差したくはない。
 おいしい料理を食べて、楽しい会話をして、今はそれでいいじゃないかと、僕は自分に、そう言い聞かせた。