この日は朝から雨が続いていた。六月も半ばに入り、本格的に梅雨の季節がやってきたのだろうと思った。雨は、自分の中にある暗澹とした部分を露骨に感じてしまう気がして、あまり好きではなかった。
 大学からの帰り道だった僕は、バイトもなかったので、そのまま真っ直ぐ自宅に向かって歩いていた。大通り沿いの横断歩道がちょうど赤になり、足を止める。
 沛然(はいぜん)と降り注ぐ雨をビニール傘越しに眺めながら、久しぶりにバッグの中からスマホを取り出した。授業中は極力スマホを見ないようにするのが僕のポリシーだった。いつだったか、前の席に座っている生徒が授業中に隠れてスマホをいじっているのを見て、なんとなく嫌だなと思ったからだ。
 一、二時間ぶりに光を灯した液晶画面には、不在着信のバナーが幾重にもなって表示されていた。普通ではない着信の量と、その発信元に、僕は思わず画面を二度見した。着信は全部で六件にのぼり、そのすべてが兄の拓磨からとなっていた。
 瞬間、そこはかとない嫌な予感が全神経を駆け巡った。
 雨が突然、横殴りになり、散弾のような雨の雫が僕の頬にピチピチと跳ねた。
 手の中のスマホをジッと見つめる。表示された不在着信のバナーを一つでもタップしたら、折り返し拓磨のスマホに着信がいってしまう。右手の親指がざわざわと震えた。このまま画面に触れてしまえば、不意に抱いた不吉な予感が現実となって、僕に襲いかかってくるような気がした。
 スマホをバッグに戻し、見なかったことにしようかとも思った。そうすれば不吉な予感は予感のまま終わってくれるのではないだろうか、と。そんなことをしてもなにも変わらないのに、そう思わずにはいられなかった。
 信号が青に変わった気がして顔を上げると、信号は赤のままだった。すると、どこからか車のクラクションが鳴り響き、僕は驚いて体を跳ね上げた。
 ハッと視線を落とすと、跳ねたはずみで親指がずれ、いつの間にかスマホのバナーに触れていた。プルルルルルと音が鳴り、ガチャリと弾んで、
「もしもし、隼人か」と拓磨の声。
「……どうしたの、電話」
 間違えてお前の電話番号を押してしまったんだとか、スマホをポケットに入れていたら勝手に着信になっていたんだとか、酔っ払っていたんだとか、お前の声が聞きたくなっただけだとか、とにかくなんでもいいから、大した用事ではないことを祈った。
「母さんがな、癌になった」
「え……」
 拓磨のその一言は、僕の思考を止めてしまうには充分すぎるほどの衝撃があった。
 地上にいるのに息ができない。降りしきる雨音が不快なノイズにしか聞こえない。劇場の幕がゆっくりと閉じていくように、徐々に視界が狭まっていく。ある瞬間で意識がプツンと切り取られ、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「おい隼人、聞こえてるか?」
 兄の声でなんとか意識を保つ。
「な、なに……? 母さんが、なんて? 癌?」
「ああ、このあいだ人間ドックに行ったら、胃に腫瘍が見つかったんだって」
「それで、その…、その……」
 母さんは大丈なの? たったそれだけのことを訊くのが、どうしようもなく恐ろしかった。もし大丈夫じゃなかったら? 医師から余命幾ばくもないと宣告されていたら? 僕は不安に声を押し潰された。
 すると、そんな僕の逡巡を汲み取ったのか、拓磨は、父親を亡くした十四年前から培ってきた一家の大黒柱としての逞しさを申し分なく滲ませた声で、言った。
「大丈夫だ」と。「早期の発見だったから、手術をすれば大丈夫らしい。隼人、お前のおかげだよ」
「僕の……?」
 一抹の安堵を覚えたあとに首を捻る。
「ほら、先月だよ。お前、俺に電話をくれたろ? 母さん大丈夫? って。あの電話がキッカケで、母さんに人間ドックを勧めてみたんだ。もしかしたらお前の第六感的なやつが、母さんの危機を感じ取ったんじゃないかってな。だから、お前のおかげなんだ」
「そうだったんだ……」
 早期発見で治るとはいえ、癌は癌。不安がすべて解消されるわけもなく、お前のおかげだと言われたところで、素直には喜べない。
「で、どうする?」と拓磨は言った。
「どうするって、なにが?」
「お前だよ、鹿児島、帰ってくるか?」
「え……?」
 正直、僕には拓磨の質問の意図が分からなかった。母親の癌を報された息子が、実家に帰らないわけがないだろうと思った。
「無理しなくていいぞ、お前は。大学もあるんだから」
「いや、帰るよ。帰るに決まってるじゃん」
「……そうか、分かった。じゃあ、こっちで待ってる」
 拓磨は少し言葉を溜めてから言って、通話を切った。そのわずかな沈黙にはなにか意味があるような気がしたけれど、それを訊く気にはなれなかった。信号が青に変わった。僕はその場に立ち尽くし、動けなかった。
 呆然とスマホを耳に当てたまま、空を見上げる。鈍色の雨雲が相変わらず所狭しと浮かんでいる。しとど降る雨は、まだまだ止みそうになかった。



 空から見下ろす故郷の景色は、雨のせいもあってか、ひどく濁って見えた。
 今年の正月以来の帰省となるが、その時も無駄に長居をしたわけではなく、三が日を終えるとすぐに東京に戻り、一生に一度の成人式にも出席しなかった。小学生の頃からの親友が一人だけいるにはいるけれど、それ以外に友達と呼べるような知り合いはおらず、懐かしい友人同士が集まって雑然と盛り上がる空気感に馴染めるとは思えなかったのだ。

 あのあと、拓磨との通話を終えた僕は、自宅に戻り、まずバイト先に連絡を入れた。事務室の電話に出たのは、飛田さんだった。事情を伝えると、飛田さんは僕に、とりあえず先一週間の休みを認めてくれた。さらに必要になったら躊躇なく連絡しろよ、とも。

 一夜が明けた今日、僕は羽田空港から昼過ぎの便で鹿児島行きの飛行機に乗った。チケット代は急だったこともあり、拓磨が立て替えてくれた。
 飛行機を降り、鹿児島空港のロビーをひとり歩く僕の心は、半年前とはまるで違った。帰省の高揚感は微塵もなく、慣れ親しんだ故郷を一歩ずつ自らの足で踏みしめるたび、不安や恐怖がムクムクと膨らんだ。
 空港を出ると、すぐ目の前が車道になっていて、その奥に利用者専用の駐車場が広がっている。駐車場の手前には歩行者用の通路があり、その傍らで送迎の車が長い縦列になって停まっている。空港内で落ち着く気のない利用者の大半は、奥にある駐車場には行かずに、そこに車を停めて、飛行機から降りてくる家族や友人たちを待つのだ。それがルール上、オーケーなのかオーケーじゃないのかは、僕は知らない。
「隼人、こっちこっち」
 僕を呼ぶ声が聞こえた。声の方に顔を向けると、車列の中間付近にある車の運転席から、拓磨が顔を出して手を振っていた。くせ毛の髪の毛を短く切って、大きな黒縁のメガネをかけている。この半年で少し太ったようにも見えるが、父さん譲りの鷲鼻(わしばな)と優しい口元は相変わらず健在だ。拓磨と僕の容姿はびっくりするほど似ておらず、拓磨は完全に父親似で、僕は完全に母親似だった。
 車は父さんの代から乗り古している空色のベンツ。僕の家は決して裕福ではないが、車好きだった父さんが三十代の頃にかなり無理をして買ったのだという。
 母さんは当初、このドイツ車の購入に強く反対したそうだが、納車してからは、むしろ母さんの方が頻繁に車に乗るようになったらしい。
 実家に向かう道中、拓磨はハンドルを操作しながら、隣の助手席に座る僕に、母さんの容態と今後の予定を説明した。
 胃癌の診断を受けた母さんだったが、体調の方には問題なく、現在も自宅で元気に療養しているとのことだった。手術は今から一週間後で、その数日前から入院する段取りになっているらしい。

 鹿児島空港から山間の高速道路を渡って、緩やかな稜線を描く城山(しろやま)沿いの国道三号線をひた走る。城山の背中にチラリと覗く桜島の頭を横目にしながら、甲突川に架かる橋を越え、さらにそこから住宅地の中をしばらく進むと、僕の実家が見えてくる。
 平家建ての一軒家で、元は父方の祖父が建てたものだった。祖父の死後、それを父さんが受け継ぎ、今は母さんが受け継いでいる。
「おかえり、隼人!」
 玄関を開けると、普段通りの笑顔をたたえた母さんが、仕掛け絵本のように中から飛び出してきた。
 拓磨から母さんは元気だと伝えられてはいたから、まぁ元気なんだろうなとは思っていたけれど、その想像を遥かに超えて、久しぶりに見る母さんは元気そうだった。とても癌を患っているとは思えない。けど、癌なのだ。
「……ただいま、母さん」
 僕はぎこちない笑みを浮かべて、それに応えた。
「あれ、隼人、また少し痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる? どうせ栄養のないものばっかり食べてるんでしょ。たまにはちゃんと自炊もするんだよ?」
 メールやLINEの文面はいつも素っ気ない母さんだが、実際に会うと、このようによく笑い、よく喋った。昔から歌うのが大好きで、地元の合唱団に所属し、たしか今は団長を務めていたはずだ。
「大丈夫、ちゃんと食べてるよ」
「あらそう。ならいいんだけど」
「僕だって、一人暮らしを始めて、もう三年だからね」
 靴脱ぎを上がって、リビングのソファでひと息ついた頃には、すでに時刻は夕方の五時を回っていた。
 僕は重力に引かれるようにソファに体を倒した。何度も欠伸を繰り返し、気付けばそのまま寝落ちしていて、目を覚ますと、部屋の窓から見える外の景色は、すっかり暗くなっていた。



 夜の七時を回り、僕たち三人はダイニングテーブルに腰を下ろして、半年ぶりに家族水入らずの夕食をとった。
 両親が結婚した時に買ったのだという、このダイニングテーブルには、それぞれ家族の定位置が暗黙の了解として決まっている。
 まず、上座には誰も座らない。生前、父さんがそこに座っていたから。あまり格や立場を気にする人ではなかったらしいが、自然とそうなっていた。その隣の席に母さんが座る。母さんの向かいに僕が座り、僕の隣に拓磨が座る。
 もはや習慣と化したこのルールは、破るとなにか罰があるというわけでもないのに、必要な椅子が四つから三つになった今でも、ずっと続いている。
 テーブルには、この日限りの豪勢な食事が並んだ。アサリの酒蒸しに、カニとブロッコリーのペペロンチーノ、カボチャのスープに、唐揚げもある。どれもこれも僕や拓磨が子供の頃から好きだったものばかりだ。
「最近ね、玄関でメダカを飼い始めたの」
 カボチャのスープをおいしそうに飲みながら、母さんは言った。
「なんでまた」
 そういえば、たしかに玄関脇に、見慣れない水槽が置かれていたような気がする。
「だって、可愛いじゃん、メダカ」
「いや、知らないけど」
「可愛いのよ、メダカ」
「ふぅん、可愛いんだ、メダカ」
 元々、両親は二人とも鹿児島に本社を構える新聞社に勤めていた。結婚を機に母さんは退職して専業主婦になったが、父さんの死後はそういうわけにもいかなくなり、合唱団の知り合いのツテを使って、近所のカフェで働くようになった。
 が、それも還暦を迎えた数年前に、パタリとやめた。その後は父さんの遺産と年金、そして自ら貯めた幾ばくかの貯金を頼りに、詳しくは知らないけれど、それなりに悠々自適な日々を過ごしている。

 父さんの死の原因も胃癌だった。そこに来て母さんも胃癌。やっぱり私たち夫婦は特別な絆で繋がれているのかもしれませんね。と、母さんは癌を宣告してくれた医師に向かって、そう言ったらしい。偶然にもその医師は、父さんの時にも癌の宣告をした人だった。

「そんなことより、東京はどうね」
 母さんが今度はペペロンチーノをフォークでくるくると巻き取りながら、僕に訊ねた。
「相変わらず人が多いよ」
「大学は?」
「順調」
「バイトは?」
「良い感じ」
 この通り、僕は自分の身の回りのことを誰かに話すのがあまり得意ではない。だから大学の友人関係や、バイト先での出来事を、母さんや拓磨に話したことは一度もない。
 しかし、そんな風にいつもすげない僕の受け答えにも、母さんは必ずそこからなにかを汲み取り、うんうん、と嬉しそうに頷くのだった。
「まだ映画館でバイトしてんのけ?」
 拓磨がアサリの殻を手で剥きながら言った。彼は鹿児島に戻って、もう二年目になるが、すっかり地元の訛りを取り戻している。
「まぁね」
「有名人とかも来るの?」と今度は母さん。
「たまにね。小さな映画館だけど、時々舞台挨拶とかもするから。普通にお客さんとして映画を観にくることもあるけど」
「じゃあさ、今までに来た有名人の中で、誰が一番キレイだった?」
 と、母さんは昔からこういった下世話な話をするのが大好きだった。無論、僕がその質問に答えられるはずもなく、
「変わらないね、母さんは。拓磨も、この家も。なんにも変わってない」
 と、ごまかすようにそう言って、改めて部屋を見渡した。
 リビングのレイアウトは、僕がこの家を出ていった時から、ちっとも変わらない。入り口から見て左手側にソファと液晶テレビが向き合うようにして置かれていて、右手側が今いるダイニング、さらにその奥がカウンターキッチンになっている。
「そんなことないよ、結構変わったよ」
「そう? どこらへんが?」
「そりゃあもう、至るところよ。テレビは最新型のに買い替えたし、拓磨は前より少し太ったし、なにより、私は癌になった」
 今の今まで僕が意識的に避けてきた話題を、母さんは、まるでおでこに新しいニキビができちゃったのよ、くらいのトーンで、あっけらかんと口にした。
「それは……」
 言葉に詰まる。どう反応すればいいのか分からない。
「物事は勝手に変わっていくのよ。変わっていないように見えても、実際は変わっている。人もそう。本当に変えたくないものを変えないために、少しずつ、変わっていくの」
 と、母さんは言った。しかしその言葉に一切の諦観はなく、むしろ、変わるからこそ人生は楽しいのだと言わんばかりだ。
「それで?」と、テーブルに前傾になって、忙しなくアサリをしゃぶる拓磨が、ふと僕に上目を向けた。「お前、いつ東京に戻るんだ?」
「いつもなにも……、さっき帰ってきたばっかりじゃん。少なくとも母さんが手術を受けるまではいるつもりだけど」
「いいよいいよ、隼人はもう帰りなさい」
 母さんが手を払う。拓磨もそれに続いて、
「てか、明日の午前の便の航空券、もう取っちゃってるし」
「え…、え? ちょっと待って、そんな簡単に決めないでよ。しばらく鹿児島に残るって。バイト先からも一週間分の休みは貰えたんだから」
「でも、大学、あるだろ?」
「大学も休むよ。休むに決まってんじゃん」
「バイトも休んで、大学も休んで、こっちに残って、なにするんだよ」
「なにって、できるだけ母さんのそばに」
「そばにいて、どうすんの」
「そりゃあ…、だから、僕にできることを……」
「今のお前にできることはな、隼人。ここにいなくてもできる。バイトを休まなくても、大学を休まなくても、できる」
「それは……」
 この時、僕はふと気が付いたような気がした。
 二人が僕を東京にいち早く帰らせようとしている理由も、昨日、電話口で拓磨がわずかに作った沈黙の意味も、どうして彼が三十歳を機に東京の家を引き払い、地元に戻って、再就職をしたのかも。
 そのことにはたと気が付いた瞬間、僕は、家族というものの「重み」を感じずにはいられなかった。
 ここで僕が鹿児島に留まろうとすることは、拓磨が背負うと決めた長男としての責任や、母さんの想いを、なにもかも無下にしてしまうことと同じだと思った。
「そうね、こうして隼人の顔を見られただけで、私、なんか手術も大丈夫な気がしてきたし、それで十分だよ。あんたはもう十分、私に力をくれたよ」
 母さんは言って、何事もなかったように食事を続けた。
 僕は喉の奥から込み上げてくる言葉を、カボチャのスープと一緒に飲み込んだ。すると、自然と目からは涙がこぼれた。



 翌日、僕は拓磨の運転で鹿児島空港に向かった。
 助手席の窓の桟に頬杖をついて、物思いにふけっていると、右手に持ったスマホがピロリンと鳴った。LINEの通知音だ。
 視線を窓の外から右手に下ると、液晶画面に表示されたバナーには、『こんにちは、春香です』とあった。
「えっ」
 と、驚きのあまり声を翻す。拓磨が横目で「なんだよ」と怪訝に言うが、聞こえないふりをした。
 もう一度、液晶画面を確認する。やはりそこにはたしかに「春香」の文字。僕は戸惑いつつ、LINEのバナーをタップした。
『こんにちは、春香です。隼人さん、大丈夫ですか? すみません、飛田さんから事情を聞いて、布田さんに連絡先を教えてもらいました』
『大丈夫だよ。ありがとう』
『あまり無理はしないでくださいね』
『うん、ありがとう。でもこっちは本当に大丈夫。今から飛行機に乗って、東京に帰るよ』
『そうなんですね。では、お待ちしてます』
『うん、また近いうちに!』
 スマホを閉じ、窓から外を見上げてみる。空は快晴。遠方にそびえる桜島が、ちょうど噴煙を上げていた。風は薩摩半島に流れている。
「あーあ、明日は一日中、火山灰の掃除だなあ」
 信号が赤になり、車が止まる。隣で拓磨がハンドルに顎を乗せ、辟易とぼやく。
 僕は微笑を堪えて、おそらく桜島のこの噴煙は見たことがないであろう春香さんに想いを馳せる。いつか一緒に見られる日が来るといいなと、そう思った。



 数日後、僕はシネマ・グリュックにも復帰した。先一週間分を白紙にしていた僕のシフトも、帰ってきたなら働いてくれと、飛田さんが元々のスケジュールに再び組み込んでくれた。
 復帰してからさらに数日後、僕が十二時から二十時のシフトで劇場に入ると、この日、朝番だった春香さんがすでに受付カウンターの中で作業をしているところだった。
「お疲れ様」
 受付に合流して、声をかける。彼女と会うのは約一週間ぶりのことだった。そのあいだに鹿児島では母さんが無事に手術を終え、春香さんにも一応、それは伝えていた。
「あ、お疲れ様です!」
 いつもの笑顔が返ってくる。
「このあいだ、LINE、ありがとうね」
「こちらこそ、そんなことより手術、成功してよかったです、本当に」
「そういえば、お礼というわけではないけど、お土産、買ってきたよ」
「お土産?」
「ほら、春香さん、この前、つけ揚げ食べたいって言ってたでしょ」
「あぁ、たしか、つっきゃげ」
「そう、つっきゃげ。チルドだけど有名な店のやつ、いま事務室の冷蔵庫に入っているから、帰る時に良かったら、ぜひ」
「えぇっ、そんな、悪いですよ」
「悪くないよ、全然。まぁ、要らなかったら別にいいけど」
「じゃあ……、ありがたくいただきます。すみません、別に大したことしたわけじゃないのに…」
 恐縮しきりの春香さんの姿を見て、僕は途端に申し訳なくなった。要らないものを押し付けられて嫌な気持ちになってしまっただろうか。こういう時、女性に慣れている男はどんな振る舞いをするのだろう。
 頭の中の想定では、もっとスタイリッシュにこの話をするはずだったのに、いざ実際に彼女と相対すると、言いたいことの一つも口から出てこない。
「ほんとに、要らなかったら、あの、無理しないでいいから」
 と、さらに念を押してしまう自分が余計に気持ち悪い。
「いえいえ、いただきます。嬉しいです、ありがとうございます」明らかに春香さんは気を遣っているように見えた。「あっ、じゃあ!」と、そんな彼女が折衷案を見つけたとばかりに手を叩く。「今度、ご飯食べに行きません? 私、行きたい店があるんですけど、なかなか一緒に行く人が見つからなくて」
「ご飯?」
 僕は思いも寄らずドキッとした。これが俗にいう食事の誘い、いわゆるデートというやつなのか。しかし、この展開は想定外だ。
「ここの近くにおいしそうなイタリアンがあるんです。ダメですか?」
「う…、ううん、ダメじゃない。行こう、ぜひ行こう」と、情けなく早口になってしまう。
「よかった! じゃあ近いうちに、お互いの休みが合った日に!」
 それからしばらく経って、午後三時。朝番だった春香さんの上がりの時間がやってきた。帰り支度をするために事務室に退いた彼女は、数分後に着替えを済ませて、中から出てきた。受付カウンターにいる僕の前にやってきて、肩がけのバッグの中から半透明の真空パックをチラリと見せる。
「つっきゃげ、ありがとうございます。さっそく今晩食べてみますね」
「うん、お口に合えばいいけど。マズかったらすぐに捨ててね」
 と、その時、春香さんが出てきたばかりの事務室のドアがバタンと開き、中から飛田さんが現れた。
「隼人、悪い!」
 申し訳なさそうに眉を垂らしている。
「どうしたんですか?」
「遅番で入ってた布田ちゃんが風邪で来れなくなっちまってさ、締め作業をするバイトの子が今日いないんだ。隼人、今日、締めまで残れたりしないか?」
 シネマ・グリュックは小さな劇場の上、最近では客入りもあまり芳しくないため、潤沢にバイトを雇う余裕がなく、時々、こんな事態に見舞われる。もちろん就労規則には反しているのだろうけど、しかし、なかなかそうも言っていられないのが現実だった。
「いいですよ。僕もこのあいだ迷惑かけちゃったんで」
「ごめんな。本当に申し訳ない」
「大丈夫です。お金、欲しいんで」
 半分本音で、半分建前だった。お金はもちろん欲しいけれど、決められた時間を超過してまで働きたくは正直ない。だけど、飛田さんの頼みならば仕方がない。
 そもそもシネマ・グリュックは、諸下興業という会社の映画事業部の中の一つで、バイトを含めた人事も、すべてその本社が担っている。本社は赤字続きの映画館にこれ以上の人件費は出したくないだろうし、かといって、これ以上、現場の働き手がいなくなると、今度は営業が回らなくなる。
 要するに、飛田さんも板挟みの状況なのだ。飛田さんも本来ならば、僕にこんな頼みはしたくないだろう。
「本当に大丈夫ですか? 私も残りましょうか?」
 その場に残って、話を聞いていた春香さんが心配そうに言った。とはいえ、彼女は今日は朝の九時から働いているので、頼めるわけがない。
「大丈夫大丈夫。春香さんは朝からいるんだから、もっとダメだよ」
「うう…、すみません…」
 春香さんはなぜか悔しそうにこうべを垂らして、入り口の自動ドアを出ていった。
 ロビーにたった一人、僕だけが取り残された。客もいない。従業員もいない。直前まで春香さんと二人で楽しく話していただけに、かなり寂しい。居心地の悪い静けさの中を、誰かの唸り声のような、ゴー…という換気扇の音が響いている。
 と、それから数分が経った頃、入り口の自動ドアが開き、階段を下って、再び春香さんが戻ってきた。受付にいる僕に小さく頭を下げて、事務室に入っていったかと思えば、すぐにまた出てきて、
「今度こそ、お疲れ様でした。頑張ってくださいね」
 と、それだけ言って、またいなくなる。一体なにをしに帰ってきたのかと、なにがなんだか分からないまま、僕は彼女の背中を見送った。

 夕方の四時半を回って、事務室にいた社員の一人に受付作業を引き継いでもらって、僕は休憩をとった。手狭な事務室の片隅に、折り畳み式の長机とパイプ椅子が置かれている。バイトの人間は休憩の時間になると、いつもそこに座って休むのだ。
 と、その長机の上に、小さな赤い箱がポツンと置かれているのに気が付いた。よく見ると、昔からある有名なチョコレート菓子だ。表面に緑色の付箋が貼られ、そこに、こんな文章が書かれていた。
『隼人さん、かんばってください^_^』
 僕は、しばらくその場に立ち尽くすしかなかった。意味のない言葉が頭の中を入り乱れ、思考が一つにまとまらない。そこにある短い文章を何度も読み直し、目に焼き付け、咀嚼し、飲み込み、ようやく気持ちが落ち着いた。
 春香さんが、締め作業の時間まで残ることになった僕のために、チョコレートを置いていってくれたのだ。劇場を出たあと、コンビニに寄って、わざわざ戻ってきてくれたのだ。他の誰のためでもない、僕のためにだ。
 僕は嬉しくてたまらなかった。涙が出そうになった。すんでのところで、その涙を堪えたのは、近くに飛田さんがいたからだ。飛田さんがいなければ、きっと僕はその場に泣き崩れていたことだろう。
 パイプ椅子に腰を下ろし、慎重に箱を開封する。赤色のビニールに包装されたチョコレートを中から取り出し、さらにそれを慎重に開封する。一瞬、食べずに持ち帰ろうかとも思ったが、いや食べようと思い直した。
 口に入れ、ゆっくりと、味わうように、むしろ味わうのも忘れて、噛む。世界で一番おいしいチョコレートの味がした。



 六月も終盤になったこの日、大学もバイトも休みだった僕は、行きつけの図書館に足を向かわせた。
 新宿駅から丸ノ内線に乗り換えて、さらに二駅進んだところで降車する。地下の改札から地上に出て、連立するビルに挟まれた新宿通りを四谷方面に向かって進んだ場所に、その図書館はある。
 静謐な雰囲気、整然と並ぶ本の山々、そしてそこに氾濫している言葉の海。図書館は、これといった趣味のない僕が唯一、昔から足繁く通う大好きな空間だった。
「本日のお貸し出しは三点になりますね」
「ご返却ありがとうございます」
 カウンターから図書館員の声が聞こえる。忙しそうだが、その声はいつだって穏やかだ。今日は土曜日だからか、来館者も、子供とお母さんの組み合わせの数が多いように思えた。
 いつものようにいくつかの本を棚から抜き取り、空いていた席に座って、一冊ずつページをめくっていく。
 いつもであれば時間を忘れて本の世界に没入し、気付けばもう閉館ですよと声をかけられることもしばしばで、朝の開館から夜の閉館まで一日中、図書館で過ごしていたこともある。
 ところが最近になって、僕のこの優雅な図書館ライフに変化が生じた。いくら本を読み進めても、その内容がまったく頭に入ってこなくなってしまったのだ。今日も一冊目を数ページめくっただけで、すぐに集中が切れた。本を閉じ、天井を見上げて、溜息をつく。
 原因は、自分でもよく分かっていた。
 面白そうな本を見つけると、まず真っ先に、春香さんのことが頭に思い浮かんでしまうのだ。彼女にこの本を紹介したら、どんな反応をするだろう。なにも図書館に限った話ではない。おいしいコンビニのスイーツを発見したら。面白そうな映画の予告を見たら。
 なにをするにしても、その延長線上に浮かんでくるのは、僕とそれを共有している春香さんの姿だった。
「――――」
 その時、どこからか春香さんの声が聞こえた気がした。咄嗟に後ろを振り返ってみるが、当然、彼女の姿はどこにもない。
 まったく、恋と狂気は表裏一体とはよく言ったものだが、僕の場合がまさにそれだった。
 と、そこで僕はふと思い立ち、それならばいっそのこと、春香さんありきで考えてみようと思った。想像の延長線上に春香さんを見据えるのではなく、春香さんを中心にして思いを巡らせるのだ。
 すると不思議なことに、うまく言葉で説明するのは難しいが、とにかく僕の中にある世界がパッと広がった、ような気がした。
 これまで本を読んでも、受動的に物語を吸収するだけだったのが、途端にそこに能動性が生まれた。要するに、僕個人の、つまり、僕オリジナルの物語が頭の中に浮かんできたのだ。

 漠然と、小説を書きたいと、そう思った。

 それは、今日までひたすら惰性に生きてきた僕が生まれて初めて抱く「夢」の実感だった。
 胸が無秩序に弾むのが分かった。まだなにも成し遂げていないのに、未来が煌めいたような気がした。
「小説を書きたい」
 その夢を口にすると、より現実的になった。
 僕は席に積んでいた本を借りられるだけ借りて、図書館をあとにした。
 小説を書くためになにをすればいいのかなんて分からないから、とりあえずノートとペンを買おうと思った。