春香さんがシネマ・グリュックで働くようになって早一ヶ月、五月の半ばになって、今さらながら彼女の歓迎会が、新宿の大衆居酒屋で行われることになった。発案者は酒好きの布田さんで、その提案に、これまた酒好きの飛田さんが食いついたのだ。
 歓迎会には、普段僕とはほとんどシフトの被らないバイト仲間をはじめ、劇場に勤める社員の人も何名か参加した。
 居酒屋の入り口前に夜七時集合。僕が一番乗りだった。次に布田さんが現れ、飛田さんが現れ、そのあと春香さんがやってきた。彼女は店の前に立つ僕を見つけると、外だからか、いつもより控えめに両手を広げて、
「ボンジョルノ、プリンチペッサ!」
 と言った。それはイタリア語で「こんにちは、お姫様」という意味の言葉で、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』の中で主人公のグイドが、事あるごとにドーラに向かって言う名台詞でもあった。
「だから、それだと僕がお姫様になっちゃうから」
「どっちでもいいじゃないですか」
「どっちでもいいことはないと思うけど……」
 僕の正直な口元がみるみると緩んでいくのが自分でも分かる。
 実は先月のあの会話のあと、春香さんはすぐに映画を借りて観てくれたらしく、それ以来、彼女は僕と会うたびに両手を広げて、その名台詞を口にするようになった。
「ボンジョ…、なにそれ?」
 横から布田さんが訝しむ。
「あ、いえ、ただの映画の台詞ですよ」
 僕は取り繕うようにそう言ったけれど、この甘い響きのイタリア語は、今や僕の中では、春香さんとの秘密の合言葉のような存在になっていた。この台詞を春香さんから言われるたびに、僕は、自分の体がじんわりと火照っていくのを感じた。
「隼人さんにオススメしてもらった映画に出てくる台詞なんです。ライフ・イズ・ビューティフル。私、あの映画、大好きでした」
 春香さんは興奮気味にそう言った。僕に対してどうというわけではなく、ただ純粋にその映画にハマっただけ。分かってはいるけれど、彼女が僕の好きなものを好きになってくれただけで、それだけで僕は嬉しかった。
「あー、あれか。たしかに、そんな台詞あったね。てか隼人、なんなん、私には好きな映画をオススメしてくれたことなんか一度もないのに」
 布田さんが僕をわざとらしく睨む。
「あれ、そうでしたっけ?」
 僕もわざとらしく肩を浮かせて、彼女のその視線をおどけていなした。
 やがて大体の参加者が揃ったところで、僕たちは店の中に入った。寒さがなくなり、かといってそう暑くもない季節。春香さんは淡いオレンジ色をした薄手のニットを着ていて、それがまたよく似合っていた。
 店員に案内された部屋は、六人がけのテーブルが二つ横並びになり、その四方を背の低いパーテションで仕切った、即席の個室になっていた。
僕の隣には安次(やすじ)さんが座った。安次さんは僕の一つ歳上の大学四年生で、就活中の身。そのためバイトにはここ最近、めっきり顔を見せておらず、僕も彼と会うのは久しぶりのことだった。
「久しぶりだなっ、隼人!」
 安次さんは相変わらず乱暴な口ぶりで言って、僕の背中をバチンと叩いた。小中高と帰宅部を貫いてきた僕と違って、安次さんは幼い頃から野球一筋の人間だった。その体躯はアスリート並みに隆々としていて、彼の中では軽く叩いたつもりであっても、僕の背中には波打つような強い痛みが走った。
「あ……、お久しぶりです、安次さん」就活で忙しいはずの彼の参加は想定外で、正直、あまり喜ばしいものではなかった。「就活は順調ですか?」と訊ねてみる。訊ねてくれと目で迫られているような気がした。
「いやぁ、自分でも怖いくらいに順調でさ、多分、いま受けているところからも内定もらえるだろうな」
「すごいですね、さすが」
「ま、俺なら余裕だろ。ははは」
 実際、安次さんが就活を順調に進めていることに驚きはなかった。彼は、人見知りなんて言葉は我が辞書には存在しないとばかりに、誰とでも気さくにコミュニケーションを取ることができた。というより、彼は生まれながらに人の上に立つ術を知っていて、かつ目上の相手の懐に入るのがうまかった。世の中で成功するのは、こういう人間なんだろうなと、僕は安次さんに会うたびに思った。世間が求めているのは僕ではなく、彼のような人間なのだ、と。
「就活が終わったら、またグリュックで働くんですか?」
「どうだろうな。せっかくだから旅行にも行きたいし、働いたとしても、あんまりシフトには入らないかもな」
「なるほど……」
 心の安堵を相槌で隠す。僕は安次さんのことが少し苦手で、嫌いというわけではないが、得意ではなかった。根っからの女たらしで、それをはばかる素振りさえ見せない彼のその性格は、いちいち僕に劣等感を思い出させた。
「あ、ごめん、挨拶が遅れた。初めまして、俺、露島(つゆしま)安次。よろしくね」早速、安次さんは向かいに座る春香さんに声をかけた。「四月に入ったんだってね。大学にも入学したばっかりって聞いたよ。大変でしょ。仕事にはもう慣れた?」
「初めまして、高尾春香です。仕事は、はい、隼人さんにいつも助けてもらって、ようやく最近、コツを掴んできたような気がします」
 春香さんは言って、斜向かいの僕に笑顔をくれた。釣られて僕の口もゆるりと綻ぶ。「そんな、僕なんて別に」と面白くない返答しかできない自分を呪う。
「春香ちゃんは、どうして映画館で働こうと思ったの?」
 安次さんは立て続けに質問を重ねた。しかも早速、ちゃん呼び。やはり彼には太刀打ちできない。
「子供の頃から働いてみたかったんです、映画館」
「へぇ、じゃあ好きな映画は?」
 僕がしようと思って、できなかった質問を、安次さんは軽々としてみせた。
 先日、春香さんが僕に好きな映画を訊ねてくれたあと、僕も彼女に同じ質問をしようとは思ったのだ。けれど、ちょうどそのタイミングで仕事が立て込み、それ以来、機会を逸して、ずっとできずにいた。
「ビッグフィッシュ!」
 春香さんは前のめりになって即答した。ビッグフィッシュ。大きな魚? 僕の観たことのない映画だった。
「ビッグフィッシュって、あっ、あのティム・バートンの? あれ俺も好き! いいよね、なんかこう…、胸がパァッと明るくなるっていうか」
 安次さんはそれを知っていた。観たこともあった。お互いに観たことがあるから、当然のように会話は盛り上がる。
「そうなんですよ! 胸がパァッとなって、あぁ素敵! って。私、あの不思議な世界観が大好きなんですよね。特にあの、主人公が水仙の花に囲まれながら、ヒロインにプロポーズするシーンとか、今でも憧れるなぁ」
「正確には、二人はまだ付き合ってすらいなかったのにね」
「そうそう! 主人公のあの強引さというのか、愚直さというのか、とにかく格好良いんですよ、ほんと」
「たしかになぁ。あれは男でも憧れる」
 盛り上がる二人の中に、僕が割って入る余地はどこにもなかった。愛想笑いを浮かべて、何気なく視線を逸らし、ビールのジョッキに口をつける。
 隣でなおも話し続ける安次さんと春香さんの声が重なり合って、不快なラジオのように聞こえてくる。頭の後ろが、なんだかじわじわと熱い。脳みそがその熱にやられて溶けていくような、心地の悪い、嫌な感覚だった。



 その日の晩、歓迎会から帰宅した僕は、そのままベッドに身を投げ、苛立ちを吐き出すように枕に頭をうずめて叫んだ。のたうちまわり、頭を振り乱し、枕のシーツをワニのように噛み締めた。
 情けない話、僕はまだ春香さんの連絡先すら知らずにいた。知りたい気持ちは山々なのに、「教えて」の一言がどうしても言えずに、決心を引き伸ばして引き伸ばして、今日になった。だからこそ、今日の歓迎会は最大のチャンスだったのだ。
 それなのに結局、今回もまた消化不良に終わってしまった。連絡先の「れ」の字も切り出せず、それどころかビッグフィッシュの件以降、ほとんど彼女と話せないまま、気が付けば歓迎会はお開きとなり、参加者はそれぞれ現地で散り散りとなった。
 と、まぁ、そんなことがあったがために、帰宅後、僕がベッドの上で悶々と身をよじらせていると、枕元に放り投げていたスマホの液晶が突然、明るく灯った。動きを止め、肩で息をしながら、画面を見てみると、定期的に送られてくる母さんからのLINEだった。
『元気? 私は今日、久しぶりに学生の頃の友達と食事に行ってきました。再会は嬉しかったけど、気付けばお互いに健康の話ばっかで、結局、最後は言葉よりも溜息の数の方が多くなってしまって、可笑しかったです』
 一見するとただのLINEだが、その、ただのLINEに、僕は強い違和感を抱いた。いつも母さんは、『元気?』の一言くらいしか寄越さないのに、今日に限って、やたらと文が長いのだ。だからどうというわけでもないが、少し気にはなった。
『僕は元気だよ』
 メンタル的には絶不調だが、残念ながら体の方はすこぶる元気だ。ここで軽く風邪でも引いてしまえれば、今のこの言いようのない不安もいくらか紛れてくれるだろうか、なんてことを考えてしまうくらい、心は荒れている。
『そう、よかった』
 母さんのLINEは、またすぐにいつもの簡素な文面に戻ったが、不意に訪れたあの妙な違和感は、まだべっとりと僕の胸に残ったままだった。

 鹿児島にいる母さんは現在、僕の十歳上の兄、拓磨(たくま)と二人で暮らしている。元々は拓磨も東京の企業に勤めていたのだが、三十歳を機に退職し、地元に戻って、小さな出版社に再就職した。
 父さんはすでに亡くなっている。僕が小学一年の時に、胃の(がん)だった。そのため、僕は父さんのちゃんとした姿をあまりよく覚えていない。
 ただ、写真で見ると元気だった頃は力士のように恰幅の良かった父さんが、亡くなる頃には見る影もなく痩せ細っていたことだけは鮮明に記憶している。
 手術を受ける準備のため、明日からしばらく入院するという日の夜、父さんは、ダイニングテーブルの椅子に座る僕と拓磨に向かって、笑顔で言った。
「ちょっと戦ってくるわ」
 父さんのその言葉の意味は当時七歳の僕にはよく分からなかったけれど、高校生の拓磨が隣で歯を食いしばって涙を堪えているのを見て、なにかのっぴきならないことが起きようとしているのだけは想像できた。
 その後、父さんはたしかに見えない病魔と戦った。そして、その戦いの最中にあっても、病室で僕たちと面会する時は決して笑顔を絶やさなかった。
 やがて亡くなり、病院から自宅に戻ってきた父さんは、口を真一文字に引き結んでいた。
「今日の父さん、笑ってないね」
 僕が言うと、いつも気丈な母さんが珍しく嗚咽した。拓磨も、親戚も、駆けつけてくれた父さんの会社の人たちも、みんな一斉に泣いた。泣いていないのは、僕だけだった。

 母さんとのLINEを終えた僕は、とりあえず拓磨に電話をかけた。心地の悪い違和感を杞憂に終わらせるための、いわば確認作業のつもりだった。
 ベッドに座り直して、スマホの画面を耳に当てる。三コール目で拓磨は出た。元々あまり連絡を取り合う兄弟ではないから、兄の声を聞くのは、今年の正月以来のことであった。
「もしもし、どうした急に」
 弟からの唐突な電話に、拓磨の声は驚いていた。
「いや、別に拓磨に用があって電話したわけじゃないんだけどさ」
「はぁ?」
「あのさ、母さん、元気?」
「母さん? 母さんは、別に元気だよ。さっきもさ、久しぶりに友達と会ったって話を延々とされて、むしろ俺の方が疲れて元気ないくらいだ」
「それならいいんだけど」と僕は安堵の息をつく。母さんも久しぶりに友達と再会して、気分が昂っていたのだろう。少しアルコールも入っていたのかもしれない。「……じゃあ、それだけだから」
「なんだよそれ。隼人の方こそ元気ないじゃん」
「僕は元気だよ。少し飲み過ぎただけ」
「そうかそうか。お前も酒を飲む歳になったのか」拓磨はなぜか感慨深そうに言った。「あ、そういえば、お盆は帰ってくるのか?」
「一応、帰るつもりではいるけど」
「そうか。帰ってくるなら、早めにチケットは取っとけよ」
「拓磨がチケットを取ってくれたら、助かるんだけど」
「甘えるんじゃねぇよ」
 拓磨はわざと父親ぶった言い方をして、笑った。やがて話すこともなくなり、久しぶりの兄との電話は、ものの数分足らずで終了した。
 ベッドに再び仰向けになって寝転ぶ。時刻はすでに夜中の十二時を回っているというのに、胸がざわざわと波打ち、ちっとも眠くなかった。無理やり目を閉じてみても、まぶたの裏に浮かんでくるのは、春香さん、安次さん、春香さん、母さん、春香さん、春香さん、春香さん……。眠れるわけがない。
 明日は朝イチで大学の授業が入っていた。しかも出席率が評価に直結するタイプの面倒な授業だ。このまま中途半端に寝落ちして、朝寝坊をしてしまうのが一番駄目で、かつ、ありがちなパターンだと思った。それならばと、僕は思い切って今日は朝まで寝ないことに決めた。
 ベッドから起き上がり、部屋の明かりをつけ、テレビの電源をオンにする。深夜のバラエティを流し見しながら、コーヒーを淹れる。せっかくだからと冷蔵庫から余っていたチョコを持ち出し、コーヒーと一緒に背の低い円卓に並べる。クッションに胡座をかいて、テレビのチャンネルをザッピングする。
 しかし、人の体というのは不思議なもので、そこまですると今度は逆に急激な睡魔がやってくる。重たいまぶたを持ち上げてはコーヒーを啜り、首をカクンと重力に任せる。しばらく経つとまた、まぶたを持ち上げ、コーヒーを啜り、首を落とす。
 気付けば翌日の昼になっていた。もちろん授業には間に合わず、しかも皮肉なことに、毛布も被らずに寝落ちしてしまったせいで、僕はこのあと数日間、辛い風邪に悩まされることになった。
 当然、風邪を引いたところで、歓迎会のモヤモヤが解消されることはなかった。



 一週間後、まだ少し鼻声の残る僕は、布田さんと二人で居酒屋にいた。新宿の外れにポツンと佇む個人経営のこの店は、昔からの彼女の行きつけらしく、安い値段のわりに出てくる料理はどれもおいしかった。
「どうした隼人、一回死んできました、みたいな顔して」
 僕の向かいに座る布田さんが、奇妙なものを見るような目をして言った。
「すいません、まだ本調子じゃなくて」
「バイトも休んでたもんね。ま、バイトを休んだ理由は他にあるのかもしれないけど」
「どういうことですか?」
「春香ちゃんのことで、悩んでるんじゃないの?」
 すべてを見透かしているかのような口ぶりで言う布田さんに、図星の僕は分かりやすくうろたえた。
「は? ……え? なんですか、え、は、春香さん? なんで…、なんで春香さんの名前が今出てくるんですか」
「好きなんでしょ、あの子のこと」
「好きとか嫌いとか…、そういうのじゃないですから。ただの、バイト仲間ですから」
「ふぅん、あっそ」
 と、そう言ってつまらなそうに片肘をつく布田さんから視線を逸らし、僕は、元々あまり得意ではないビールを啜るようにして飲んだ。
「大体、春香さんは僕のことなんて眼中にないですよ」
「どうしてそう思うの」
「だって…、彼女は多分、男女関係なく誰とでも仲良くなれるタイプだろうし、その気になれば、すぐに彼氏も作れる。そういう点で、僕とは根本的に違うんですよ」
「そういう点って、どういう点よ」
「だから、恋愛における感覚というか、価値観というか」
「じゃあさ、隼人にとっての恋愛の価値観って、どんなもんなの」
「そりゃあ……」僕はしばらく答えに窮し、数秒経って、喉から声を捻り出すように、「純愛ですよ、純愛」と答えた。「純愛こそ、真実の愛です」
 無理やり捻り出したにしては、それなりに自分の中でも腑に落ちる答えではあった。
 誰かれ構わず体の関係を持ってしまうような、つまり安次さんのようなタイプの人間と、たった一人の女性を愚直に愛するタイプの人間。僕は間違いなく後者のタイプだし、前者のようなタイプの人間とは相容れない自信もある。
「へぇ…、純愛ねぇ。ま、別にその考えを否定するつもりはないけど」布田さんは肩をすくめてそう言うと、「けどさ」と続けた。「純愛こそが真実の愛なのだとしたら、この世は嘘っぱちの愛だらけになっちゃうね」
「嘘っぱちの愛? って、なんですか?」
 この時、なぜか僕の脳裏には中学の時の失恋が浮かんだ。
 たった一週間で別れを告げてきた僕の元恋人は、驚くべきことに、その三日後には新しい彼氏を作っていた。仲睦まじげに校内を練り歩くその子と、その子の彼氏。その光景をただ遠巻きに眺めることしかできない情けない僕。
 要するに、僕の中にある凝り固まった恋愛の価値観には、その当時のハードな失恋が多分に影響しているのだ、と思う。
「さぁね」と、布田さんは意味ありげに首を捻った。「そんなこと、私に訊かれても分からないよ」
「てか、布田さんの方こそ、どうなんですか。恋愛の価値観、あるんですか?」
 僕がやり返すように訊ねると、布田さんは得意げに鼻孔を広げて、ビールジョッキを片手に胸を張った。
「私? 私は、そりゃ日々是恋愛よ。人生、いつどこで誰とどんな出逢いをするか分からないから、私はいつだって臨戦体勢。誰だって恋愛対象だし、好きになるのに理屈はいらない。今のその人が好きなんだから、その人の過去にも未来にも興味はない」
「誰でもアリってことですか?」
「違うよバカ。たとえばさ、私たちの隣のテーブルに誰かが座ったとするでしょ? その時、もしその人にビビッと感じるものがあれば、私は迷わず声をかけるってこと」
「その人が結婚してても?」
「関係ないね」
「前科者でも?」
「もっと関係ないね」
「宇宙人でも?」
「関係な…、いや、それはさすがに関係あるかも」
「駄目じゃないですか」
「いやいや、宇宙人はムリでしょ、さすがに」
「その宇宙人がイケメンだったら?」
「少し考える」
 と、そんなくだらない話をしていると、しばらくして、僕たちの隣のテーブルに二人組の男がやってきた。年齢は布田さんと同じ三十歳前後といったところ。顔もなかなか悪くない。仕事終わりなのか、二人ともくたびれた様子で、しかし店員が現れるとサッと爽やかな笑顔になって、ビールを二つ注文した。
「あれ? 声をかけるんじゃないんですか?」
 からかう僕に、布田さんは平然と眉を浮かせた。
「タイプじゃないから」
「日々是恋愛のくせに」
「ビビッと来ないと駄目なの。ビビッと」
 その後、僕たちが新宿駅前で解散したのは、夜の十一時を過ぎてからのことだった。
 別れ際、ヘベレケになった布田さんは、僕の鼓膜に言葉の置き土産を残していくかのように、
「隼人ぉ、あんたさぁ、このままだと、辛い思いをするかもよ」
 と言った。
 僕にはその意味がいまいち理解できずに、家に帰ってからもしばらく一人で考えてみたけれど、結局はなにも分からないまま、気付けばアルコールで重たくなった頭を枕にうずめて、スヤスヤと眠りについていた。