目を覚ますと、天井に小さな黒いシミがあるのに気が付いた。あんなシミ、いつからあったのだろうと首を傾げながら、体を起こす。一日の始まりが天井のシミなのだから、あまり気分はよろしくない。
 支度を済ませ、一人暮らしの部屋を出る。意地の悪そうな曇り空に見下ろされながら、最寄りの駅までの道のりを歩いていると、道端のコンクリートブロックの上で、小さなスズメが死んでいた。飛行中に車と衝突でもしたのだろうか、頼りない羽は惨たらしく裂け散り、そこにわらわらとアリの大群が群がっている。物言わぬひとひらの羽根の傍らに青々とした雑草が芽吹き、冬の名残を持った冷たい風が、それを揺らした。雑草は耐え、羽根は吹き飛ばされた。
 いつもと同じ時間に電車が駅のホームに現れ、いつもと同じ車両に足を踏み入れる。すでにラッシュの峠は過ぎているからか、車内はかなり空いている。一番端の席に座って、横の銀色のポールに頭を寄りかけた。
 溜息が出る。すでにこの日、何度目かの溜息だ。特になにをしたわけでもないのに、疲れている。肉体的にというより、精神的に、人生に疲れている。
 なぜかは分からない。理由なんて特にない。通っている大学にも、多くはないが、友人はいる。地元に帰れば、大切な家族と親友が待っている。今の環境に不満があるわけではないのだ。
 それなのに、心が満たされずに、どこか寂しいのはなぜだろう。むしろ自分が周りの人たちに恵まれていると思えば思うほどに、孤独を感じてしまうのはなぜなのだろう。
 いつもふとした瞬間に、僕は、言いようのない虚しさに襲われる。夢も希望もない将来への不安なのか、あるいは過去に対する恐れなのか。それさえも分からない。ただ漠然とした「なにか」に押し潰されそうになる。心が荒むとは、こういうことなのだろうか。
 終点の新宿駅に着いて、電車を降りる。たとえラッシュは超えても、駅のホームは多くの人で溢れかえる。
 前を行く赤の他人に歩幅を合わせて階段を昇り、地下から地上の改札に出る。いつもの風景を横目に、いつもの道を歩いていく。通り過ぎていく人たちの顔は、昨日も今日も、みんな同じ顔に思えた。
 見慣れたビルに辿り着き、見慣れた看板を仰ぎ見る。地下へと伸びる階段を降り、古びた自動ドアを抜ける。今日もまたいつも通りの日常を惰性に過ごして終わるのだろう。
 無意識に覚悟を決めて、事務室のドアノブを捻る。扉がゆっくりと開く。中から蛍光灯の硬い光が漏れてくる。
 見慣れた事務室に、見慣れない女性がいた。人工的な照明が暖かい後光となって、燦々と彼女を輝かせていた。
「あ、こんにちは、私、高尾春香といいます。今日からここでアルバイトをさせてもらうことになりました。よろしくお願いします」
 彼女は明るい笑顔を浮かべて、頭を下げた。
「あ……、あっ、僕は、柏葉隼人です。よろしくお願いします」
 この瞬間、僕の心に直感的な恋が生まれた。恋愛経験が限りなくゼロに近い僕にとって、この恋の実感は戸惑いだった。
 かくして、彩りに溢れた僕の青春の日々は、なんの前触れもなく、このうらぶれた事務室の片隅から、唐突に始まったのであった。



 シネマ・グリュックでの邂逅から、およそ一年が経った三月の初旬。再び連絡を取り合うようになって、ようやくお互いの休みが重なった、この日、僕と春香さんは雑然とした新宿の通りを、ただブラブラと歩いていた。
 途中で見つけたコーヒーショップで僕はホットのコーヒーを、春香さんはホットのカフェオレをテイクアウトした。少し啜って、息を吐いても、空気は白く濁らない。世間は相変わらず忙しないけれど、その一方で、春らしい穏やかさも感じた。
「そろそろ就活、始まる感じですか?」
 春香さんは綺麗な空色をした薄手のトレンチコートを涼しげに羽織っている。彼女の隣で黒のブルゾン姿の僕は、うんと頷いて言った。
「少しずつね。まぁ、本当はもっと早くから始まってはいるんだろうけど。企業の説明会とかもね、調べてみると数えきれないくらいたくさんあるんだよ」
 まるで別の世界のように思っていた就職活動も、いざ始まってみると、たちまち怒涛の勢いで身近に押し寄せてきた。まるで空の上でスカイダイビングのカウントダウンをされているかのような気分だった。否が応でも、避けてはいられない。
 とはいえ、どんな職種を希望するにせよ、エントリーシートに自己PR、自分の長所短所と、昔から自分を外に表現するのがなにより苦手だった僕にとって、そもそも就職活動というのは想像以上に難敵だった。
「小説を書くっていう夢は、どうするんですか?」
 春香さんが少し心配そうに眉を垂らした。去年の春、僕は生まれて初めて夢を抱いた。自分の思い描いた物語を文章にしたい、小説にしたいという、途方もない夢である。それを春香さんに打ち明けたのは、やはり去年の、十月。麹町のインドカレー屋でのことだった。
「もちろん、その夢も忘れてないよ。これからもずっと地道に続けていくつもり。けど、就職もしたい。この先の人生がどうなるかなんて分からないけど、今できることは、とにかくやっておこうと思ってさ」
 僕が言うと、春香さんはホッと安堵の息をついた。
「あぁ、よかった」
「よかった?」
「あぁ、ごめんなさい。なんというか、隼人さん、変わってないなぁと思って。変わってなくて、よかったなって」
「うーん、僕的には変わらないといけないなと思って、頑張ってるんだけど」
 今年で僕も二十二の年だ。今のままではいけないことくらい、誰よりも僕自身がよく理解している。変わらなければならない。変わりたかった。それなのに春香さんは小さくかぶりを振って、
「ううん、変わらないでください、隼人さんは」と言った。「もちろん、人は変わる生き物です。隼人さんも、私も。だけど、それと一緒に大切なものまで、その人の芯の部分まで変えてしまったら、そんなの悲しいじゃないですか。だから、変わらないっていうのも、大切なことだと思います」
「じゃあ、僕、このままでいいの?」
 そういえば、母さんも春香さんと同じようなことを言っていた。人というのは、本当に変えたくないものを変えないために、少しずつ変わっていくのだ、と。
「はい、ずっとそのまま、隼人さんのままでいてください」
 しばらく話に夢中になって歩いていると、その道のりに足が馴染んでいるせいか、いつの間にか僕たちはシネマ・グリュックの前にやってきていた。ここに来るのは最後の出勤以来のことだ。背の高いビルに踏みつけられるようにして、地下に押し込まれた映画館の内気な雰囲気は相変わらずで、良いように言えば古き良き昭和の空気を今でも残し、悪いように言えば、寂れている。
「ねぇ、隼人さんと、春香さんが思い出に浸るような口ぶりで言った。「私のバイト初日の日のこと、覚えてますか?」
「覚えてるような、覚えないような」
 僕はおどけて首を捻る。あの日が僕の分岐点だった。あの日から、僕のモノクロの人生は彩り始めた。そんな大切な日を、忘れるわけがなかった。
「お客さんの料金区分、開場のアナウンス、チケットの発券後はキャンセル不可。トラブルの元になるから。空いている席は白で、すでに埋まっている席はグレー。お客さんが選んだ席をパソコンでタッチすると、白が赤に変わる。これ全部、隼人さんが教えてくれたんです」
「へぇ、僕って結構、良い先輩だったんだ」
「そうですよ。自分で言っちゃ台無しですけど」
「ははは、たしかにね」
「でも、本当に良い先輩でしたよ、隼人さんは」
 春香さんはそう言って、上空を見上げた。新宿の狭い空を大型船のような形をした雲が悠然と泳いでいる。
 道行く人の話し声は絶え間ない。いつもであれば辟易とする雑音も、今日はなぜだか賑やかな歌声に聞こえる。街全体が音楽を奏で、祝福を歌っている。
 すると、ビルの一階にあるガラス扉の向こうから、一人の男性が地下の階段を昇って、僕たちの目の前に現れた。飛田さんだ。どうやらそのガラス扉に飾っている映画ポスターを新しいものに差し替えに来たらしい。
 果たして不器用な飛田さんにそれができるだろうかと心配しながら見守っていると、案の定、ちぎったガムテープを指に絡めたり、指に絡んだガムテープを、今度はシャツの裾に付けたりしている。挙句の果てには、筒状にして脇に抱えていた新しいポスターを地面に落としてしまう始末だ。
 そもそもこういった地道な作業は、元はバイトの人間の仕事だった。ところが今年から始まった営業規模の縮小に伴い、バイトを失い、その皺寄せとして、本来しなくてもいい仕事を、支配人自らがしなければならなくなっているのだ。
 コロコロと風に飛ばされたポスターが、僕たちの足元に転がってきた。溜息混じりに飛田さんがこちらに向かって近付いてくる。
「おお、隼人! 春香さんも、久しぶりだなぁ」
 と、そこでようやく僕たちの姿に気が付き、驚いたように顔を広げた。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
 足元のポスターを拾い上げ、飛田さんに手渡す。飛田さんはそれを受け取り、苦い笑みを浮かべた。
「元気、とは言えないかもなぁ。やっぱり、客はほとんどすっからかんだ」
 数ヶ月ぶりに見る飛田さんの姿は、相変わらずくたびれていた。去年の秋から冬にかけての混沌が尾を引いているのだろう、顔色が悪く、岩のように勇ましかった背中は頼りなく湾曲している。
「大変ですね……」
 僕は途端に寂しさを感じた。胸の中に渦巻いているのは、当たり前にあった「なにか」が少しずつ消えてなくなっていく、子供の頃に通った駄菓子屋がガソリンスタンドに変わっていた時のような虚無感だ。思い出を時間という名の怪物に蹂躙されたかのような喪失感だ。
「大丈夫ですよ、飛田さん」春香さんが毅然と言った。「この映画館は必ず盛り返します。だって、こんなに素敵な映画館、世界中どこを探したってないですもん。だから大丈夫です」
「そうだよな。ありがとうな」
 飛田さんは彼女の言葉を噛み締めるように、何度も小刻みに頷いた。
「そのポスター、今度ここで上映するやつですか?」僕は訊ねた。
「ああ、今年のシネマ・グリュック、イチオシの映画だ」
「面白い?」
「そうでなくては困る」
 飛田さんは自信を持った目をしてそう言うと、それじゃあ俺は仕事があるからと、手にしたポスターを掲げて、僕たちのもとを離れていった。



 飛田さんと別れたあと、僕たちは近くにあった全国チェーンのファミレスで昼食を取ることにした。
「そういえば春香さん、ゴーヤは食べられるようになった?」
 案内された椅子に座りながら、僕は昔の会話を思い出して訊ねた。窓際の二人席だ。丸テーブルの上に、高級感のある純白のテーブルクロスが敷かれている。
「全然。克服する努力を、そもそもしてません」
 春香さんが演技っぽく肩をすくめる。
「ダメだよ、努力はしないと」
「隼人さんこそ、グリンピースとしいたけは食べられるようになったんですか?」
「まったく」
「ダメじゃないですか。努力しないと」
「努力してまで、苦手なものを食べる必要なんてない」
「言ってること、もうめちゃくちゃだ」
 春香さんは笑いながら、呆れるように溜息をついた。大袈裟に困った顔をする彼女が可笑しくて、僕も笑った。

 するとそこでふと、微笑みの余韻を残して、しばしの沈黙が訪れた。お互いが会話のキッカケを探して、押し黙る。

 僕は心の中で何度も自分の尻を叩いた。今日わざわざ春香さんを呼び出したのは、就職活動の進捗具合を報告するためでもなければ、食べ物の好き嫌いの話をするためでもないのだ。
 僕が今、春香さんのことをどう想っているのか。去年の四月からなに一つ変わらない僕の想いを、彼女に直接、伝えたい。それだけだった。
 向かいに座る春香さんをチラリと見る。彼女も伏し目になって、口を揉んでいる。なにを言おうとしているのだろう。彼女も僕に言いたいことがあるのだろうか。
 心臓の高鳴る音が聞こえた。これは僕の心臓の音なのか、それとも春香さんの音なのか。あるいは二人の鼓動が重なり合って、一つになったのかもしれない。
 やがて沈黙は破られた。僕たちは同時に声を出した。
「あの」
「あの」
――――カタンッ。
 テーブルに、ガラス製のなにかが当たる音がした。
「お待たせしましたー」
 呑気な声がそれに続く。ハッとして、顔を横に向けると、若い男性の店員がトレイを持って立っていた。どうやら水を運んできてくれたらしい。悪気はないのは分かるが、それにしたって間が悪い。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンを押してお呼びください」
「はい…、ありがとうございます…」
 店員が去る。春香さんに向き直る。なまじなにかを言いかけたことによって、余計に気まずくなってしまった。
「あの」
「あの」
 再び声が一緒になる。
「あの、なに?」
 僕は手のひらを上に向けて差し出し、先にどうぞと促した。春香さんは少し物怖じするように体をよじらせながら、数秒経って、口を開いた。
「あの…、私、ずっと謝りたかったんです。隼人さんはなにも悪くないのに、私が勝手に隼人さんから逃げて、そのせいで隼人さんを傷つけてしまって」
 春香さんは喉から声を押し出すようにして言った。その瞳には、ほんの少しだけ涙が滲んでいるように見えた。
「謝らないといけないのは僕の方だよ。だって、春香さん、なにも悪くないでしょ。全部、僕の臆病で屈折した心が招いたことなんだ。だから、春香さん、僕のせいで辛い思いをさせて、本当にごめんね」
 自然と目頭に浮かんできた水滴を指先で拭い、頭を下げる。僕も泣いてしまいそうだった。顔を下に傾けたまま、一度大きく深呼吸をする。彼女が泣くのを我慢しているのに、僕だけメソメソと泣くわけにはいかない。
「あの、なんですか?」
 と、今度は春香さんが僕に訊ねた。
 彼女は僕に言いたかったことを言ってくれた。次は僕の番だ。僕は覚悟を決めて、ゴクリと唾を飲み込んだ。顔を上げる。涙はもう、出ていない。背中に冷たい汗が伝う。じんわりと体が熱い。頑張れ、隼人。自分で自分を奮い立たせる。
 と、その時だった。
 僕は、春香さんの背中に故郷の景色を見たような気がした。払暁の錦江湾。影になった桜島から、朝陽の光芒が線になって広がっている。
 昧爽(まいそう)の空を、一羽のハヤブサが飛んでいる。明媚(めいび)な空を優雅に帆翔するあのハヤブサは、僕自身だ。
――――翔ぶのだ、隼人!
 耳の内側から誰かの声が幾重にもなって鳴り響く。
――――全身全霊を込めて、目の前の空を翔べ、ハヤブサ! 
 鳴り響く声がフッと消えると、目に映る景色も元に戻った。錦江湾も桜島もない。
 ここは新宿にあるファミリーレストラン。目の前にいるのは、春香さんだ。
 僕は、目に力を溜めて、言った。
「春香さん、好きだよ」
「はい……」
 春香さんは頷く代わりに、ゆっくりと瞬きをした。
「ずっと好きだったよ」
「はい…」
「春香さんのことはもう考えないようにするなんて、あんなの大嘘。あの日からもずっと春香さんのことを考えてた。出逢った日から、ずっとずっと」
「はい」
「だから…、だから僕ともう一度、付き合ってくれないかな」
「はい!」
 僕と春香さん、二人で一緒に涙を流し、二人で一緒に笑い合った。まだ食べるものも決めていないし、水にも口をつけていないのに、それなのに僕の心は、きっと春香さんの心も、幸せに満たされていた。
「はぁ…、よかったぁ……」
 僕は椅子の背中に深く体をもたれて、天井を見上げた。店のシーリングファンが単調なテンポでクルクルと回っている。視線を前に戻すと、春香さんが少し心配そうな表情で口元をポリポリと掻いていた。
「でも、隼人さん、きっとこの先、私に幻滅すると思います」
「幻滅?」
「だって、私って結構面倒くさいし、ガサツだし、間抜けなところあるし……」
「そんなこと言ったら、僕だって卑屈だし、臆病だし、イビキもうるさい」
「イビキ、うるさいんですか?」春香さんは意外そうに眉を上げた。「全然そんな風には見えないけど」
「うるさいよ。怪獣の足音くらいうるさい」
「ふふ、まだまだ私たち、お互いに知らないことだらけですね」
「これから時間をかけて知っていけばいい。きっと僕は、春香さんのことを知れば知るほど好きになると思うから」
「そうだといいけど」
「そうだよ、絶対」
 その時、脱力して覚束なくなった僕の手がテーブルに当たり、そこに置いていたスマホが音を立てて床に落下した。慌てて腰を屈めて拾い、立ち上がる。
 あれ、と僕はうろたえた。春香さんがいなくなっていた。今の今まで春香さんが座っていた席に、春香さんがいない。
 どうして? なんで? いよいよ僕に愛想を尽かして帰ってしまった? それとも今まで僕が見ていた彼女はすべて、僕が作り上げた妄想だった?
 しかし、よく見てみると、椅子の背もたれには彼女が着ていた空色のトレンチコートがかかり、テーブルの上には彼女が愛用している赤色のハンカチが置かれている。
 よかった、間違いなくそこは春香さんの席だ。僕はホッと胸を撫で下ろす。
 すると今度は、テーブルの下からガタンと音が聞こえた。怪訝に思い、もう一度床に膝をついて、純白のテーブルクロスをひらりとめくる。
 そこに、身を隠すようにして四つ足になる春香さんの姿があった。同じような体勢になって向かい合う僕の目を、じっと見つめている。
「なにしてるの?」
 僕は困惑して訊ねた。
「ボンジョルノ、プリンチペッサ!」
 彼女は少女のような無垢な笑顔で言った。
「……だから、それだと僕がお姫様になっちゃ… ――――」
 釣られて笑みをこぼして口にしかけた僕の言葉は、春香さんの少し火照った、その赤い唇に遮られて消えた。