残寒の二月は、見渡す世間の所々に次の季節の萌芽が香り始める時期でもある。
 僕は今月に入って、ようやく新しいバイトを見つけ、数日前から自宅近くのチェーンの和食屋で働くようになった。映画館の仕事とは勝手がまったく違っていて、なかなか慣れるまでには時間がかかりそうだが、廃人と化していた先月までの自分を思うと、なんとか頑張れそうな気がしてくる。なにより、そこの店長が映画好きだったことが幸いだった。
「へー、シネマ・グリュックで働いてたんだ。私もよく行くよ、あそこ」
 店長は――――四十代の男性なのだが、面接の時、僕の履歴書を見て、真っ先にそのことを話題にした。
「はい、三年ほど」
「あそこ、良い映画流すよねぇ。映画館の雰囲気も良いしねぇ」
「はい、僕もそう思います。最高なんです、シネマ・グリュックは」
「ふふ、いいね。柏葉くん、あれ観た? グリュックで上映してた――――」
「ああ、もちろん観ました。あれって――――」
 と、そんな雑談をしばらくしているうちに、いつの間にか即日採用になっていたのだ。昔の僕であれば、いくら面接とはいえ、初対面の人とこんなに長話を続けられるなんて、考えられないことである。
 月半ばになり、僕は久しぶりに新宿にある図書館に足を運んだ。今年に入ってはじめての図書館だった。先月の頭は外出する気力すらなかったし、鹿児島から東京に帰ってきてからも、大学の後期テストの勉強やらなにやらで、時間がなかなか取れずにいたのだ。
 いつものように数冊本を手に取り、空いている席に座った。平日の昼過ぎだからか、利用者の数はほとんどない。土日になると絵本を漁る子供たちの声で賑わうが、今日は平穏そのものだ。日に焼けた本を一ページずつめくるたび、紙の表面がサラサラと音を立てるのが心地良かった。
 すると、何気なく読んでいた本の中に、アメリカという文字が出てきて、僕はふと代田のことを思い出した。留年が決まったのを機に大学を休学すると決意し、春からアメリカに行くと豪語していた、あの代田だ。
 当初は僕も半信半疑だったが、あれから代田は、その持ち前の思い切りの良さでパスポートの申請やらビザの取得やらと、着々と出国の準備を進めていた。
 そして今日、そんな代田がいよいよ日本を出発するのだという。そのため僕はこのあと三時にはここを出て、新宿駅のバスターミナルに向かわなければならなかった。なんだかんだで大学では一番仲の良かったその友人を、成田空港まで見送るためだ。
『明日の三時半、新宿のバスターミナル集合な』
 と、代田から連絡が来たのは、つい昨日のことだ。それどころか僕は、彼がアメリカに出発する日取りさえも、その連絡ではじめて知った。彼はどこまでも底抜けに奔放な男だった。
『なんで僕も成田まで行くの』
 僕の家から成田空港までは、明日行こうと急に言われて気軽に行ける距離ではない。
『バカ、隼人、親友の門出だぞ? 夢への第一歩だ。涙の万歳三唱で見送ってくれよ』
『留年の末の現実逃避でしょ』
『そうとも言うな』
『そうとしか言わない』
『まぁ、なんでもいいけど。とにかく明日の三時半、新宿のバスターミナルな!』
 と、そんな具合に、結局は口達者な代田に言い包められて、僕は渋々ながらも成田行きを引き受けた。新宿のバスターミナルから出る三時四十五分発のリムジンバス。二人分の乗車券はすでに代田が購入済みだった。
 僕が頑として断っていたらどうするつもりだったのかと考えてみるが、しかしまぁ、彼のことだから断られる想定なんてしていなかったに違いない。



 館内の時計を見ると、時刻はすでに三時になろうとしていた。僕は慌てて荷物を片付け、席を立ち、持ち出した本の中から一冊だけ選んで、貸出カウンターに向かった。
 スマホで時間を気にしながら、図書館の利用者カードと、借りていく本をカウンターに置く。それを対面にいる図書館員が引き取り、備え付けのパソコンで貸出処理を進めていく。
「貸出ですか?」
「はい、お願いします」
「少々、お待ちください」
 あれ、と僕は思った。その声に聞き覚えがあった。スマホ越しにチラリと見える図書館員の手にも見覚えがある。白くて細い手だった。
「え――――」
 僕は声を翻した。にわかには信じられず、跳ね上がるように視線を前にやる。ドキッと胸が弾む。頭の中が混乱する。打ち上げ花火のような爆発音が聞こえた。すぐにそれが自分の心臓の音だと分かった。
「本日は一点の貸出…で…… ――――」
 少し遅れて図書館員も僕に気が付き、ハッと声を止めた。
 僕たちの目と目が重なり合う。視線が透明の螺旋を描いて混じり合う。周りの景色が図書館の受付カウンターから、たちまちシネマ・グリュックの狭い事務室の中に変貌する。
 その瞬間、一度は枯れ落ちた花がまた春になって咲き誇るように、僕は、一年前にも抱いた直感的な感情と、寸分違わず、まったく同じ感情を胸に抱いた。
「は、春香さん……? なんで、ここに…」
 僕は訊ねた。すると、春香さんは戸惑いをごまかすように、少し伸びた髪の毛を耳にかけながら答えた。
「えっと、その、先月から、ここでバイトしてるんです」
「そうじゃなくて……、なんで、図書館……?」
「別に、ただ本当に偶然で……」
 春香さんが言うには、シネマ・グリュックを辞めるにあたって、新しいバイト先を探していたところ、ネットの求人サイトの一番上に出てきたのが、この図書館のバイトだったらしい。
「偶然……」
「はい、偶然……」
「そうなんだ…」
「はい…」
 会話が途絶え、深閑とした空気が僕たちの世界を包み込む。ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。僕と春香さん、どちらが出した音かは判然としない。目元がピクピクと微震し、唇が乾く。自分が今、どんな表情をしているのかも分からない。
「あの……、元気、だった?」
 春香さんに伝えたいことは山ほどあるのに、いざこうして彼女を目の前にすると、そのうちの一つも出てこない。脳と口とを繋ぐ神経回路が断絶されてしまったかのように、頭に浮かんだ言葉が自分の声に変換されないのだ。
「はい、一応…、隼人さんは?」
「僕は…、僕は…」
 久しぶりに聞く、僕の名前を呼ぶ春香さんの声。言葉にならない想いが全身から溢れて、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「だ、大丈夫ですか?」
 よろける僕に、春香さんが手を差し伸べる。彼女の手が肩に触れ、体が熱くなっていくのが自分でも分かる。
 と、そこに別の図書館員の男性がやってきて、怪訝な目を僕の方に向けながら、春香さんに声をかけた。
「高尾さん、知り合いの方?」
 たしかにはたから見れば、僕たちの様子は明らかに不自然だ。もしかすると、僕が春香さんを口説こうとしているように見えたのかもしれない。
「あ、はい…、前のバイト先の先輩で、その…、はい、先輩なんです」
「そう、それならいいけど」
 男性はなおも僕を不審そうに見ながら、その場を離れていった。
 スマホの時間を見ると、すでに三時を回っていた。早く行かないと、代田との待ち合わせに遅れてしまう。
 だけど、このままなにも言わずに行ってしまったら、必ず僕はまた後悔する。それは確かだった。
「あの、春香さん」
 と、決死の覚悟で口を開く。
「はい」
「あの、また、今度、連絡しても、いいかな」
 これが、臆病で気弱な男に今できる精一杯。最大限に振り絞った勇気だった。勢いに任せて、ヨリを戻そうだなんて、頭の片隅にも浮かばなかった。
「はいっ、待ってます」
 春香さんはギュッと破顔して、頷いてくれた。



 バスターミナルに到着すると、代田はすでに乗り場前のベンチに座って、僕を待ち構えていた。時刻は三時四十四分。出発まではあと一分。僕たち以外の乗客はとっくにバスに乗り込んでいる。
「遅えよ、隼人。ギリギリだぞ」
「ごめんごめん、行こう早く」
「行こう早くって、お前待ちだよ、バカ」
 急いでバスに乗り込み、空いている座席に腰を下ろす。まるで車体が「待ちくたびれたよ」と息をつくかのように、扉がプシューと音を立てて閉まる。運転手が出発のアナウンスをして、リムジンバスか動き出す。
「ふぅ、間に合ってよかった」
 座席シートに深く背中をもたれて、息をつく。図書館からバスターミナルまで全力で走ったせいで、二月だというのに汗だくだ。羽織っていたダウンジャケットを脱ぐと、内側がぬるりと湿っていた。
「お前、走ってきたの?」
「うん、ちょうどいい時間の電車がなくて」
「……なんだよ、お前、なにかあった?」
 代田は鋭く目を細めた。
「え、なんで?」
「だってお前、今めちゃくちゃ気持ち悪い顔してるから」
「マジか」
 車窓に映る自分の表情を確認する。口元はだらしなく緩み、目元もトロンと垂れ落ち、たしかに気持ち悪い。絵に描いたようなニヤケ面だ。別に隠す必要もないので、「実はね」と直前の奇跡を打ち明けると、僕と春香さんについて大体のことはすでに把握している代田は、目を丸めて驚いた。
「すげぇな、それ。よかったじゃん。それで?」
 嬉しそうに訊ねる代田に、僕はキョトンと首を傾げる。
「それでって、それだけ」
「はぁ? ヨリを戻そうとか、そういう話にはならなかったのか?」
「全然。また連絡するねって言って、それで別れた」
「お前、本当にバカだな。そんな奇跡が起きたってのに、それだけかよ。その流れで告白してりゃ、絶対に復縁できたのに」
 代田が表情を翻して、今度は咎めるように口を尖らせる。とはいえ、それに関しては一応の言い分がある僕も負けじと言い返す。
「だって、早く行かないとバスに乗り遅れそうだったんだもん。誰かさんを成田で見送らなきゃいけないから、急がざるをえなかったんだ」
「俺のせいかよ」
「時間があればもっと話せたのに」
「……まぁ、また連絡するって伝えたのなら、それでいいか」代田は自分に非があると分かると、すぐに笑ってごまかした。「それにしても、いやぁ、よかったなぁ。隼人、ずっと悩んでたもんなぁ」
 その変わり身の早さに、僕は呆れて溜息を漏らす。
「いい加減だなぁ、君は」
「いい加減なくらいが、ちょうどいいんだよ」
「そうなのかもしれないなぁ」
 外の景色を眺めながら、ぼんやりと相槌を打つ。



 新宿を出発してから約一時間半をかけ、バスは成田空港に到着した。
 はじめての海外ということもあり、さすがの代田も乗り遅れを恐れたのだろう、出発の時刻まで、まだかなりの余裕があった。仕方がないから、僕たちは空港内にある適当なカフェに入って、それまでの時間を潰すことにした。
「で、結局、なにをしにアメリカに行くの」
 僕はホットコーヒーをちびちびと啜りながら訊ねた。向かい合う代田はおいしそうにカフェオレを飲んでいる。
「そういうのは、向こうに行って、金を稼ぎながら決めるよ」
「あっちで働くってこと?」
「そういうこと」
「英語は?」
「この半年でかなり上達したぞ」
「ふぅん」
 改めて僕は、代田という人間が羨ましいなぁと思った。「思い立ったが吉日」を地で行く彼は、他の誰よりも人生を謳歌しているように見える。
 出された飲み物を飲み終えたところで、代田が急に、「せっかくだからメシも食おう」と言い出した。「明日から、しばらくは隼人とも飯を食うことはないからな」
「奢ってくれるの?」
「んなわけあるか」代田は眉根を絞る。「割り勘に決まってんだろ」
 近くにいた店員を呼び、僕はサンドウィッチを注文した。
 すると代田は、なにを血迷ったのか、カルボナーラにグラタン、マルゲリータ、さらにはチーズケーキとガトーショコラまで、一気に捲し立てるように注文した。
「そんなにお腹空いてたの?」
「いや、別に。けど、日本で食べる最後の晩餐だからな。思い残すことのないように、食い溜めしておこうと思って」
「最後の晩餐がカルボナーラとかグラタンでいいの? せっかくなら別の、たとえば寿司とか蕎麦とか、もっと日本らしいのを食べた方がいいんじゃないの」
「……あっ、たしかに!」僕の指摘に、代田は手を叩いて笑った。「なんだよ、気付いてんなら、もっと早く言えよ!」
「そんなこと言われましても」
「…でも、まぁ、いっか。寿司も蕎麦も、日本に帰ってきてからのお楽しみってことで」
「……いつごろ帰ってくるの?」
 僕はふと不安になって訊ねた。
「さぁな」
「てか、帰ってくるの?」
「さぁ」
 代田は首を捻って曖昧に濁す。その姿に僕はそこはかとない寂しさを感じた。本当に今日のこの食事が僕たち二人の最後の晩餐になる、ような気がしたのだ。
 そんな、不意に心に生まれた嫌な予感を紛らわすように、僕は手元のサンドウィッチからスライストマトを一枚抜いて、それを代田のプレートにヒタッと置いた。
「それ、あげるよ。僕からの餞別」
「ふざけんな、単にお前がトマト嫌いなだけだろ」
 代田が平たいトマトを指でつまんで、僕のプレートに突き返す。それを僕が再び代田のプレートに戻す。二度三度、同じことを繰り返す。
「正真正銘、感謝の印だよ。代田にはほら、世話になったから」
「世話なんてしてねぇよ。トマトも食えない男なんて、女からモテないぞ」
「うるさいな、食べ物で遊ぶなって」
「お前が言うな、バカ」
 なんて、くだらないやり取りをしているあいだにも時間は刻々と過ぎてゆき、食事を終える頃には、代田の乗る飛行機の搭乗案内が始まった。
「くー…、そろそろ時間だ」
 代田が腕を屈伸しながら、立ち上がる。
「乗り遅れたら面白いのに」
 会計は割り勘と言ってはいたけれど、ここは全額、僕が払うことにした。それは決して見栄や格好つけから来るものではなく、今度こそ正真正銘、餞別と、感謝の印のつもりだった。
 店を出る。保安検査場の手前のロビーに着いたところで、代田は一度立ち止まり、隣を歩く僕の方にくるりと体を向けた。奥に見えるゲートをくぐれば、もう引き返せない。僕たちがこの距離で話していられるのも、ここまでだ。
「じゃあ、ここでお別れだな」
「うん、まぁ、元気で」
 別れの言葉が多ければ多いほど、それだけ名残惜しくもなるものだ。またいつか近いうちに、会える。直前のカフェで抱いた不吉な予感を振り払い、僕は短い別れの言葉にささやかな願いを託した。
「隼人も頑張れよ」
「うん」
「アメリカで金髪美女の彼女ができたら、連絡するわ」
「代田ならすぐにできるよ、きっと」
「はは、だろうな」
 代田は笑って、そのまま航空券を片手に、保安検査場の中へと入っていった。ゲートをくぐり、預けていた荷物を受け取る。そこで再びロビーの方に向き直り、すっかり遠く離れた僕に向かって、彼は恥ずかしげもなく声を張り上げた。
「おい、隼人!」
(どうした?)
 と、僕は表情だけで返事をする。
「仕事も恋愛も、人生、チャンスがあるなら、絶対にためらうなよ! 周りを蹴落としてでも突き進め! それが俺たち若者に与えられた、特権だ!」
 それだけを言い残し、代田は搭乗ゲートに向かって姿を消した。彼の残した余韻の中には、クスクスと周りにいた人たちの嘲笑が混じって聞こえたけれど、それでも僕の心は恥ずかしさよりも誇らしさに満たされていた。
 すでに姿の見えなくなった親友に向かって、僕は負けじと大きな声で叫び返した。
「ありがとう! アメリカでビッグになれよ!」
 遠くの方から小さな声で、
「大きな声を出すな、恥ずかしい」
 と、そう言って顔をしかめる代田の調子のいい声が聞こえたような、そんな気がした。



「わはははは」
 僕が和食屋で働き始めた話をしてからというもの、向かいに座る布田さんは、ずっとこの調子で笑っている。
 場所は新宿の外れにある定食屋。彼女とこうして会うのは、昨年末に行われたシネマ・グリュックのお別れ会以来のことだった。
 愉快そうに笑いながら、サバの塩焼き定食を頬張る布田さんの隣では、彼女の夫のドイツ人男性が唐揚げ定食を食べている。名前はマキシミリアン・グリュンフェルト。言いにくいからと、布田さんはいつも彼のことはマキと呼んでいるらしい。
「マキシ…マキシミリ……、グリュン……」
 この日が初対面だった僕がフルネームで言おうとすると、日本でドイツ語の先生をしている彼は流暢な日本語で、
「隼人くんも、マキでいいよ」
 と彫りの深い目を優しく絞った。
「なんでそんな笑うんですか」
 いつまでも笑い続ける布田さんを、僕は睨む。
「だって、隼人が和食屋って、ウケる」
 と、それでも彼女はゲラゲラと笑うばかりで、なにがそんなに面白いのか、笑いすぎて咳き込む始末だ。胸の辺りをトントンと叩いて、少し落ち着こうと、コップの水に口をつける。(ふち)についた口紅を、さりげなく親指で拭う。
 時刻は夜の七時だ。僕はふと、おやっと思った。そういえば、無類の酒好きで知られる布田さんが、今日はまだ一滴も酒を飲んでいない。不思議に思って、店のメニュー表を見てみると、そこにはしっかりと某有名メーカーの瓶ビールの名前がある。
「布田さん、ビール飲まないんですか?」
「今はね、ちょっと控えてるの」
 布田さんは肩を浮かせて、着ている厚手の土色ニットを指差した。その指先が彼女のお腹に向いていると気付くのにしばらく時間がかかったのは、それがあまりにも想定外のことすぎたからだ。
「え?」はじめ僕は首を傾げ、数秒経って、ようやくその意味を理解し、もう一度、今度はさらに大きな声で、「えええ?」と言った、というより、叫んだ。
「うるさいよ、隼人」
「え、に、妊娠、ですか?」
 僕は思いも寄らず前のめりになっている。
「まぁね」
「い、いつからですか?」
「いつからって…、妊娠が分かったのは…、先月の終わりくらい?」
 布田さんが隣に顔を向けると、マキはうんうんと頷き、
「そうだね、先月の終わりくらいだったね」
 と彼女のお腹を優しく撫でた。
「マジですか」
「マジマジ」
 布田さんはあっけらかんと首肯する。
「マジマジ」
 マキも布田さんの真似をする。
「マジですか……、それは…、マジか……」
 驚きのあまり語彙を失ってしまう。水面に餌を求める魚のように、口が言葉を求めてパクパクと震える。すると、なかなか出てこない言葉に業を煮やした涙腺が、僕の目尻から一筋の涙を流した。
「ははは、なんで隼人が泣いてんのよ」
「分かりません……、けど、なんか…嬉しくて……」
 涙声を振り絞りながら、僕はハッと思い出して、足元のバッグの中に手を突っ込んだ。そこから長方形の小さな箱を取り出す。二日前がちょうど布田さんの誕生日だったのを偶然、というより、ほとんど強迫観念のように覚えていたので、前もってプレゼントを買っておいたのだ。
「それなに?」
 布田さんが、僕が取り出した箱を目で差す。
「ほら、布田さん、一昨日が誕生日だったでしょ。だから、そのプレゼント。中身は布田さんとマキさん用の箸置きなんですけど……。そっか、子供かぁ…。だったら一人分、足りなかったですね」
「へぇ、隼人にしては気が効くじゃん」
 布田さんは相変わらず意地悪な姉目線だが、嬉しそうに目を三日月にして、僕からのプレゼントを受け取ってくれた。
「ワォ、ありがとう、隼人くん。Danke(ダンケ) schön(シェーン)!」
 マキがドイツ語で「ありがとう」と唸る。僕もまだ辛うじて覚えているドイツ語で、
「えーっと、び、ビッテ…ビッテ、シェーン」
 とぎこちなく言い返す。ビッテシェーンは「どういたしまして」という意味だ。スペルまでは覚えていない。
「あ、そうだ!」
 突然、布田さんが、おつかいの品を一つ買い忘れていたのを思い出したかのように眉を広げて、手を叩いた。
「どうしたんですか、急に」
「そういえば隼人、この前さ、マキになにか訊きたいことがあるって言ってなかった?」
「訊きたいこと? って、なんでしたっけ?」
「ほら、なんか、ドイツ語で分からないところがあるとかなんとか」
「……ああ! リーベンとフェアリーベン!」
 半年以上前に自習で少し触れただけのドイツ語を咄嗟に思い出した自分にも驚きではあるけれど、それ以上に、半年以上前に僕が何気なく口にした疑問を、当時へべれけだった布田さんが今でも覚えていたことに僕は驚いた。
 去年、大学の第二外国語の授業でドイツ語を履修していた僕は、大学構内のスタディルームで代田と共に前期テストの勉強をしていた際、「lieben(リーベン)」と「verlieben(フェアリーベン)」という二つのドイツ語を知った。前者が「愛する」という意味で、後者が「恋をする」という意味の動詞である。
 するとその時、代田が突然、どうして「愛する」のlieben に「ver(フェア)」がつくと、「恋をする」になるのかという、ほとんど八つ当たりに近い疑問を言い出した。違う意味の言葉なのだから、もっと分かりやすく区別してくれよ、ということらしい。
 半年越しの疑問、もとい八つ当たりを、僕は代田に代わってマキにぶつけた。するとマキはドイツ語教師としてのプライドが疼いたのか、口に手を押し当て、渋面を浮かべ、しばらくジッと黙り込んでしまった。
 奥の厨房から聞こえる包丁の音が、悩む彼の背中を無理に急かすように、タンタンタンと忙しなく鳴り響く。
 やがてマキは熟考の末、うーんと眉間に皺を作りながら言った。
「verlieben は lieben と違って、状態の変化を表す動詞なんだ。『愛する』はすでにもう愛している状態。だけど、『恋をする』って言葉の中には、まだ恋をしていない状態から、恋をしている状態に変化していく、その経過を含んでいる。分かる? ver という言葉には、『変化』や『流れ』のニュアンスがあるってわけ」
「分かるような、分からないような」
 僕は素直に首を傾げた。
「あとそれから、普段の会話で verlieben を使う時は大抵、そのあとに『sich(ズィヒ)』という再帰代名詞がくっついてくるんだけど、この sich は前の動詞の影響を自分自身に向ける性質があるんだ。だから、lieben と verlieben の違いは、そこに変化や流れのニュアンスが含まれているかどうかという点と、あともう一つ、話し手の気持ちの向きにあるんじゃないかな」
「はぁ……」
 マキはできるだけ簡単に、噛み砕いて説明してくれているのだろうけど、そもそもドイツ語に理解のない僕には、彼の言っていることのすべてが、自分から訊いておいて本当に申し訳ないのだが、さっぱり分からなかった。
「つまり」と、さらにマキは辛抱強く続けた。「verlieben は、相手にではなく、自分自身に恋をしているということなんだと思う。たとえば、『Ich verliebe (イッヒ フェアリーべ)mich in dich(ミッヒ イン ディッヒ)』を直訳すると、『私は君の中にいる私に恋をしている』っていう意味になるわけ。あ、ここに出てくる mich(ミッヒ) は、sich が主格の ich(私)によって格変化したものなんだけどね。もちろんこれは直訳の話であって、日常的に訳せば、『私は君に恋をしている』になるわけだけど」
「ズィヒ…ミヒ…イヒ……」
「ごめんね、分かりにくいよね」
 マキが申し訳なさそうに苦笑する。
「いや、すいません、僕の頭が悪いだけです、多分」
 すると、マキの隣で頬杖をついて、退屈そうに自分のネイルをいじっていた布田さんが、急に僕たちの会話に口を挟んで、こう言った。
「だけど、私はその、verlieben って言葉、結構好きだな。だってさ、それってつまり、誰かのことを想うことによって、誰かの目を通して見ることによって、自分のことを好きになれるってことでしょ? それってかなり、ステキなことじゃない?」
「おお、良いこと言うね!」
 マキは感心するように声を弾ませた。
「相手を想うことで…、自分を……」
 僕も布田さんの言葉をぶつぶつと繰り返す。誰かのことを想うことによって、自分のことを好きになれる。それが、フェアリーベン。
 彼女がさりげなく口にしたその一言は、静謐な暗闇の中で一滴の雫がピチャンとしたたるように、僕の心に豁然とした響きと決意をもたらした。
「そうか、そうだったのか……」
 と、なにかに急き立てられるように、再びバッグの中を漁り始める。
「なにしてんの、隼人」布田さんが訝る。
「今、やっと分かったんです」僕は答える。
「分かったって、なにが」
「僕はずっと、フェアリーベンだったんです」
「はぁ? なにそれ、どういうこと?」
「彼女はずっと、僕にフェアリーベンをくれていたんです!」
 バッグの中からようやくスマホを見つけ、その勢いのまま、LINEのアプリを開いた。逸る気持ちをなんとか抑えて、一文字一文字、自分の言葉を丁寧に打ち込んでいく。宛先はもちろん、春香さんだ。
 もう一度、彼女に直接会って、この想いを伝えたい。

 できるだけ早く、今すぐにでも。

 そんな気持ちをうんと込めて、その一心で、文字を、打ち込んだ。