一年の始まりは惨憺たるものだった。誰とも会わず、ほとんどなにも食べず、部屋の電気もつけず、スマホも見ずに、寝ているのか起きているのかさえ分からないまま、いつの間にか三が日が終わっていた。
 四日になって、ようやく部屋に電気が灯り、五日ではじめて風呂に入った。髪も乾かぬうちに身支度を済ませ、小ぶりのキャリーケースを片手に部屋を出る。鹿児島行きの飛行機のチケットは去年の十一月に予約していた。
 帰省の時期を少し後ろ倒しにしたのは、年明けまでには春香さんとの仲も回復しているだろうと期待していたからだ。二人で初詣に行き、夜ご飯も一緒に食べて、明日も遊ぼうねって約束をして……。今となっては、そんな妄想をしていたひと月前の自分が恥ずかしい。

 自宅からまず電車で新宿に出て、そこから品川を経由し、羽田空港へ向かう。電車を二度乗り継いで、およそ一時間強の道のりである。ピークは過ぎているとはいえ、やはり時期が時期なだけに、空港行きの電車はかなり混み合っていた。
 空港に到着すると、搭乗時刻まではまだしばらく時間が空いていたので、出発ロビーに並ぶ土産売り場を、なにかを物色するでもなく、ブラブラとうろついて回った。
 ふと、店の前を歩く若い男女の姿に気が付いた。思わず男の方を二度見してしまう。何度見ても、間違いなく、僕の高校の同級生だった。
 大学で東京に出てきていることは知っていたが、もちろん話したことはほとんどない。当時、彼はバスケ部のキャプテンで、教室の隅でジッとしているタイプの僕とは正反対の、絵に描いたような陽キャラだった。
「あー、絶対この年末年始で太ったわ」
「今日から二人でダイエットだね」
 隣の女は彼の恋人だろうか。旅行にでも行っていたのか、大きなキャリーケースをガラガラと引いて、幸せそうに笑い合っている。
 僕は相手に気付かれないように店の中を大回りして、逃げ込むように隣の土産売り場に移動した。
 が、よくよく思い直してみれば、学生時代に特別絡みのなかった僕を相手が認識しているとは考えにくく、逃げるだけ無駄だったような気もして、情けなくなった。
 足音だけで幸福を奏でる彼らの後ろ姿が消えていくのを見届けたあとに、不意に視線を床に落とすと、光沢のあるタイルに映る自分の影が、ひどく濁って見えた。



 鹿児島までは約一時間半のフライトで、三時ちょうどに到着した。
 今回は兄の拓磨は仕事で都合がつかず、かといって母さんにここまで迎えにきてもらうのも忍びなかったので、僕は空港入り口のバス乗り場から、鹿児島中央駅行きのバスに乗った。
 駅に着くまでのおよそ三十分、少し背の高いバスの車窓から見知った景色を眺めて過ごした。空にはどんよりとした雨雲が広がり、桜島がまた噴火したのか、ほんの少しだけ空気には硫黄の匂いが混じっていた。
 中央駅でバスを降り、実家に向かって歩いている道中、時折、自転車に乗った緑のブレザー姿の高校生たちが僕の横を颯爽と走り過ぎていった。緑のブレザーは僕の母校のトレードマークだった。
 塾に向かっているのか、学校の補習授業か、受験生と思しき僕の後輩たちの、徐々に小さくなっていくその後ろ姿に、僕は思わず学生時代の自分と重ね合わせてしまう。
 蘇るのは、高校を卒業する日に当時の担任だった男が言った、この言葉。
『人生の岐路にぶつかった時、郷愁は古いボートになる。上手に使いこなせば対岸にまで辿り着けるが、操舵を誤ると、たちまち海の底へと沈んでしまう』
 要するに、過去に囚われ過ぎずに未来へ突き進め、といったメッセージだったのだろう。たしかに良い言葉ではあるとは思うが、今の僕にとってそれは、あまりに身につまされる言葉で、思わず歩きながら失笑をこぼした。
 年末の失恋以来、僕の脳裏には、なにをするにしても、その余韻に春香さんの笑顔がよぎった。そしてその笑顔は、浮かんだ直後に溶けるようにただれて、安次さんの下品な笑みへと変わるのだ。
 まさに今、見慣れた故郷の道を歩く僕が、その郷愁という名の古いボートの上にいるのだとしたら、そのボートは僕をどこへ運んでくれるのだろう。
 とても対岸に辿り着けるとは思えない。行き着く先は、ひたすらに深い海の底だけだ。



 実家に辿り着いて、玄関を開けると、中で待ち構えていた母さんが両手を広げて、勢い良く僕の体に抱きついてきた。また少し身長が縮んだ気もするけれど、数ヶ月ぶりに全身で感じる母親の温もりは健在だった。
「ただいま、母さん」
「おかえり、待ってたよ」
「元気だった?」
「まぁ、ボチボチってとこかな」
 抱きつかれた勢いで視線が足元に下る。八月にはあったメダカの水槽がなくなっていた。代わりに空のプランターか数個、寂しげに重ねて置かれている。
「あれ、メダカは?」
「あぁ、メダカ」母さんの顔が一瞬、曇る。「死んじゃったの、先月。多分、近所の猫にイタズラされたのかもね」
「ふぅん…」
 僕は声を溜めるように押し黙る。たかがメダカ、されどメダカ。メダカは癌を克服した母さんにとっては、新しい生き甲斐の一つだったに違いない。安直な慰めの言葉は選びたくはなかった。
「あっ、そうだ!」と、しかし母さんはすぐにまた明るい声になって、「隼人に見せたいものがあるの。こっち来て」と言った。
「なになに」
「いいから、こっち来て」
 無理やり腕を引っ張られ、引きずり込まれるようにリビングに入る。そこで母さんは壁にかけていた額縁を一つ手に取り、まるでわんぱくな子供が運動会の金メダルを親に見せびらかすように、僕の前にジャーンと突き出した。
 額縁の中には一枚の水彩画が飾られていた。一人の女性と、その傍らに豚とフクロウが一匹ずつ描かれた優しい絵だった。
「なに、これ」と僕は首を捻った。
「なにって、見たら分かるでしょ。絵だよ絵。私が描いたの」
「え、これを? 母さんが?」
 突き出された絵を、もう一度ゆっくり舐めるように見る。画家さながらの巧さがあるわけではもちろんないけれど、素人にしてはかなりのレベルで、これまで芸術とは無縁だったはずの母さんが描いたものとは到底、思えなかった。
「高校生の時、美術部だったからね、結構うまいでしょ」
「え、母さん、美術部だったの?」
「そうだよ。言ったことなかったっけ」
「ない。初耳だよ、そんなの」
 母さんにも僕の母さんになる前の時代があったのだと改めて思うと、なんだか急に胸がむず痒くなった。
「それでね、最近、西洋絵画の本を読んだのよ。そしたら、アトリビュートっていうの? そういうのが面白くってね。だからちょっと、それを真似して描いてみたの」
 西洋絵画におけるアトリビュートとは、たとえば聖母マリアは赤と青の衣を纏った女性で描くといった具合に、神話や宗教上の登場人物を、なにか別の人や物に置き換え、象徴的に表す技法のことを言う、らしい。
 母さんの水彩画に描かれた女性も赤青の衣を纏い、部屋のベッドに横になって本を読んでいる。そんな彼女の腕の中で安息の表情を浮かべる豚とフクロウ。彼らがいる部屋の床にはサラサラと流れ落ちる砂時計が置かれ、鮮やかな金色に輝く光の輪っかが、そこに肩をもたれている。
 母さんの説明によると、赤青の衣の女性が母さん自身で、豚とフクロウが僕と拓磨のアトリビュートなのだという。豚とフクロウはそれぞれ幸福と賢者の象徴で、砂時計は時間の有限性を、光輪は時間の無限性を表しているらしい。
 自分を聖母マリアに見立てたのは、単なる洒落だと母さんは笑った。豚とフクロウはどっちが僕でどっちが拓磨なのか少し気にはなったが、それをわざわざ訊ねてしまうのも、なんだか野暮な気がした。
「でも、なんで絵?」
「メダカも死んじゃって、暇だったからさ。なにか新しい趣味が欲しいなって、ずっと思っていたのよ」
「でもほら、母さんには歌があるじゃん」
 昔から母さんは地元の合唱団に所属するほど歌うのが大好きで、家の中でも、外出中でも、寝ている時でさえ、常になにかの歌を口ずさんでいた。
「あ、たしかに。だけど、ハマっちゃったんだから、しょうがないでしょ。それに、歌を歌うのだって、絵を描くのだって、自分を表現するという意味では一緒なんじゃない? 手段が違うだけで、本質はどっちとも内なる愛の叫びなんだよ」
 母さんはわざとらしく気取った口ぶりでそう言うと、額縁を壁に戻し、キッチンへ向かった。お湯を沸かして、コーヒーを淹れる準備をする。夕食は、部屋に漂う匂いですぐにカレーだと分かった。
「拓磨は?」と訊ねる。
「今日は遅くなるって」
「あ、そう」
 拓磨は現在、地元の小さな出版社で働いている。仕事始めの時期ということもあってか、色々と仕事に忙殺されているようだ。
「明日、早起きできるよね?」
 キッチンから母さんがひょこっと顔を覗かせる。
「できるけど、なんで?」
「ほら、お父さんの。お墓参り、行くでしょ?」
「そっか、そうだね。うん、分かった。ちゃんと起きるよ」
 頷きながら、リビングのドアに手をかける。ひとまず拓磨の部屋に荷物を置いて、手を洗おう。顔も洗って、トイレにも行きたい。
「あ、待って、隼人」
 母さんは行こうとする僕を呼び止めた。
「どうした?」
「あけましておめでとう。そういえば、まだ直接言ってなかったから」
「あぁ、うん、あけまして、おめでとう」



 夜の十一時を超え、兄の拓磨が帰ってきた。すでに母さんは寝室のベッドで寝静まっている。拓磨は、まだ起きていた僕を珍しく晩酌に誘い、僕も珍しくそれに付き合った。
「まさかお前と一緒に酒を飲む日が来るなんてな」
 拓磨は缶ビールをコップに移して飲みながら、しみじみと、歳上の定型文のような台詞を口にした。
 とはいえ、拓磨と僕は歳が十個も離れているから、二人で一緒に酒を酌み交わすことなんて、今まで一度もしてこなかったのも、また事実ではあった。
「まぁ、拓磨が二十歳の時、僕はまだ十歳だったからね」
「そうだよ。その時はもう俺も東京に行っていたから、俺にとってお前は、まだまだ小学生のままだ」
「それは言い過ぎ」僕は苦笑する。
「大学はどうだ、楽しいか?」
「まぁ、それなりに」
「そうか。それならよかった」
「なに、急に父親ぶって」
「俺はお前の兄であり、父親でもあるんだ」
「それは、いくらなんでも背負いすぎだって」
 拓磨はおどけるように言ってはいるが、父さんが死んで以降、拓磨にのしかかった長男としてのプレッシャーは、僕の想像を遥かに超えるものだったに違いない。僕の想像以上のものを、拓磨はこれまでずっと背負って生きてきたのだ。
「そうかな? それにしても、父さんが死んでから、もう十五年近くが経つのか」
 拓磨は記憶を遡るように、天井に顔の角度を傾けた。
「早いねぇ」
 と僕も同じように上を仰ぐ。
 すると、拓磨がそこでしばらく押し黙り、顔を見上げたまま、言おうか言うまいか悩むように口を揉んで、「あのな」と結局は言った。「母さんの手術の前の日な、病室で母さんが俺に言ったんだよ。後悔はしてないか、って」
「後悔?」僕は聞き返す。
「俺が東京から鹿児島に戻ったことを言ってるんだろうと思った。だけど俺は、母さんのこととか、隼人のこととかは関係なしに、完全に自分の意思で鹿児島に戻ったから、だから後悔なんてしてないよって答えた。そしたら母さん、ホッとした顔になって、言ったんだ」
「なんて言ったの?」
「よかった。あんたたちが後悔してしまうのが、私のなによりの後悔だから。って」
「……母さんらしいね」
「だから、隼人」
 拓磨がようやく視線を僕に戻す。
「なに?」
「改めて、今度は俺がお前に言う。後悔はするなよ。お前が後悔するのが、俺や母さんのなによりの後悔になる。きっと、父さんもそうだ」
「……なにそれ、酔っ払いすぎだって」
 僕は涙をごまかすように伏し目になって、すっかり炭酸の抜けた、ただ苦いだけのビールをひと口、飲んだ。



 一夜が明け、僕たちは拓磨の運転で父さんの墓参りに出かけた。
 時刻はまだ早朝の六時半。僕は後部座席にぐったりと座って、睡魔と戦っている。起きてからコーヒーを一杯飲んだが、なんの効果もないようだ。
「そういえば、新しいバイト、見つかりそう?」
 助手席から母さんがフロントミラー越しに僕に訊ねた。あまり自分のことは話さない僕だけど、映画館のバイトを辞めたことだけは、一応やんわりと伝えてはいた。
「まぁ、ボチボチかな」
 僕は曖昧に答えてはぐらかす。新しいバイトどころか、小説を書くという夢さえ半ば忘れて、就活にもまだなにも手をつけていないなんて、言えるわけがない。ましてその原因が失恋だなんて、口が裂けても言えない。
 それなのに、僕のそんな個人的な事情なんて知る由もないはずの母さんは、なにもかも汲み取ったかのように肩を浮かせた。
「ふぅん。まぁ、自由にやんなさい。ただし、自由には責任も伴うってこと、忘れないようにね。それだけ分かってたら、大丈夫よ」
「うん…、分かってる」
 車窓の桟に頬杖をついて、外の景色に視線を逃しながら、僕は小さく頷いた。
 城山の麓にある駐車場に車を停め、霊園入り口の老舗の花屋で花を買った。そこで一緒にバケツと柄杓も借りて、山肌を削って作られた急勾配の坂道を登っていく。父さんの眠る墓は山の中腹にあるのだ。
 墓の前に到着し、枯れ切った仏花を新しいものと取り替える。昨日の雨に流されたのか、墓石の汚れ自体はそうひどくはないが、やはり所々に火山灰が薄く積もっている。それを水で洗い流すと、墓石が気持ち良さそうに水遊びをする子供のように、ピチャピチャと音を立てた。
「やっぱり水で洗うと、私たちも気持ちが良いよね」
 キラキラと艶めく墓石を見上げて、母さんが満足そうに言う。
「うん、父さんも喜んでるよ、きっと」
 それぞれ線香に火をつけ、僕たちは墓前に立って、手を合わせた。長い合掌を終え、ようやくそこでひと息つく。
 それにしても、麓からこの墓までの急勾配を登り切るのは、僕や拓磨であってもかなりの体力を使うというのに、年長の母さんは三人のうちの誰よりもピンピンしていた。持て余した力を発散するかのように屈伸しながら、
「さて、君たち、今日の予定は?」
「今から仕事」
 墓の仕切りのコンクリートブロックに腰を下ろしてへばる拓磨が、弱々と片手を上げて、嘆息する。
「隼人は?」
「日中はなにもないけど、夜はタツと会う」
「あぁ、タツくん。相変わらず仲良いね」母さんは声を弾ませ、嬉しそうだ。「それじゃあ昼は家にいるんだね。せっかくだから、拓磨には内緒で、おいしいものでも食べに行こうか」
「そうだね。拓磨には内緒で、天ぷらでも」
「あんたら、内緒って言葉の意味、知ってる?」
 拓磨が羨ましそうに顔をすぼめる。
 僕たちはひとしきり冗談を言い合い、三人で仲良く並んで来た道を下った。
 坂道を歩きながら後ろを振り返ると、桜島の上にかぶっていた鈍色の厚雲が、ゆっくりとではあるが、風に流され始めていた。
「ねぇねぇ二人とも、知ってる?」
 いつの間にか僕と同じように後ろを振り向いていた母さんが、空を目で差して言った。
「なに?」
 僕と拓磨が同時に反応する。母さんはニコッと笑った。
「昔からこの地方には言い伝えがあってね、桜島の頭に雨雲がかぶると次の日は雨だけど、その雨雲が桜島から流れ始めると、次の日は必ず晴れるんだよ」



 その日の夜、親友のタツが指定した店は、酒好きの彼にしては珍しく、二十四時間営業のファミレスだった。高校の頃、二人でよく学校帰りに立ち寄った、馴染みのある店だ。学校帰りとは言っても、タツは野球部で僕は帰宅部だったから、せいぜいテスト期間中くらいしかその機会はなかったけれど、そのたびに僕たちはここのファミレスに寄って、勉強するでもなく、くだらないことをただダラダラと話し続けた。
「お酒、いいの?」
 ファミレスのメニュー表には、申し訳程度のアルコール類が載っている。値段もそう高くはない。しかしタツはかぶりを振って、
「今日は親の車で来てるから」
 僕たちのいる窓際のテーブルからは外の駐車場が見えていて、その一角に、夜の外灯に照らされた一台の国産車が停まっていた。タツの両親が昔から愛用している車で、僕も学生の頃に何度も世話になったミニバンだ。
 時刻はすでに夜中の十二時を回っていた。僕としてはもっと早い時間での集合を想定していたのだが、タツがどうしてもと言って、この時間になった。
「なんで車で来たの?」
「今日は朝まで大丈夫やろ? 明け方にさ、隼人と一緒に行きたいところがあるんだよ」
「どこ?」
「それは行ってからのお楽しみだ」
「なんよ、それ」
 親友のその意味深な言い方に、僕は怪訝に眉を寄せる。
 すると、そこでタツが急に顔つきを真面目に変えて、「あ、そうだ」と言った。「話は変わるけど、俺さ、今後就活が順調に終わったら、彼女と同棲するかも。てか、結婚する」
「え、彼女って、香奈ちゃん?」
「他に誰がいんのよ」
「いないけど、それ本気?」
「本気だよ」
「でも…、いくらなんでも早くない? 僕たちまだ二十一だよ?」
「どうせいつかは香奈と結婚するんだから、早い方がいいだろ」
「不安は? ないの?」
「あるに決まってるだろ。だけどまぁ、なんとかなるだろ」
「そんな悠長な……」
 呆れる僕に、タツはさらに言った。
「隼人はどうなの」と、その目はすでにすべてを見透かしている。「最近なにかあったんじゃないのか? そうだろ?」
「な、なんのこと?」
「そのくらい、お前の顔見りゃ分かるんだよ。親友ナメんな」
「……僕は」
 僕は観念して、去年の暮れになにが起きたのかを正直に打ち明けた。
 春香さんと付き合うことになったこと、しかしそれも長くは続かなかったこと。春香さんが僕に見せた涙の理由、そして失恋。十二月三十日の夜に春香さんに「さようなら」のLINEを送って以来、彼女からの返信はないままだった。
 僕の話をすべて聞き終えてから、タツは口を開いた。
「隼人はさ、その二人の関係を知って、彼女のことが嫌いになったん?」
「別にそういうわけじゃないけど……、でも、あの涙の理由を知ってしまったら、もうどうしようもないよ。お互いに、前みたいな関係には戻れない」
「なんで」
「なんでって……」
 僕にはその答えすら分からない。
「一度は好き同士になって、付き合ったんだろ? なんでそんな簡単に諦めるんだよ」
「いや、今となっては早い段階で別れてよかったよ。もっとあとになって、そのことを聞いていたらと思うとゾッとする。深みにハマる前でよかったんだよ」
「とっくに深みにはハマってるだろ。ハマってるから、今もそうやって引きずってるんだ」
「引きずってないよ」
 嘘だ。引きずっているから、まだまだ春香さんのことが好きだからこそ、年が明けてから今日に至るまで、僕はずっと落ち込んでいるのだ。
「いーや、誰がどう見たって、引きずってる。顔に未練タラタラって書いてある」
「でも…、いいんだよ、もう。所詮、あの子との出逢いは偶然で、運命だなんて、僕が勝手に思い上がっていただけなんだ」
 去年の四月、はじめて春香さんと顔を合わせた、あの日のことを思い出す。
 いつものようにシネマ・グリュックの事務室のドアを開けると、彼女がいた。あの瞬間、僕たちの視線はたしかに一つに重なり合った。
 だけど、そこに特別な意味なんてなにもなかった。あの時、胸に感じた心が溶けていくような感覚も、決して運命のどよめきなんかではなく、ただの恥じらいと緊張から来る生理現象でしかなかったのだ。
「どんな運命も、元を辿ればなんてことない偶然なんだよ。運命は偶然の積み重ねによって生まれるものなんだ」
 タツのその、どうせただの思いつきであろう言葉に、しかし僕は妙な説得力を感じて、黙り込むしかなかった。
「まぁいいや。とにかくなんか食おうぜ。腹減ったよ、俺」
 タツは気持ちを切り替えるようにソファの背もたれに体を委ね、空腹にいじける子供のように、お腹をさすった。
 その後、僕たちは時間も忘れて、昔よく二人で食べていたファミレスのメニューを食い漁った。ハンバーグ定食に始まり、明太子パスタ、大盛りフライドポテト、デザートにティラミスまで。ドリンクバーも何往復もし、まるで今だけ食べ盛りの高校生に戻ったかのようだった。



 ふとスマホの時計を見ると、時刻はすでに朝の六時を過ぎていた。
「そろそろ行くか」
 と、そこでようやくタツが思い出したように溜息をひとつこぼして、席を立った。
 僕も満腹の胃を支えるようにして立ち上がり、会計を済ませる。欠伸が繰り返し止まらなかった。
 ファミレスから足を一歩外に踏み出すと、途端に体がブルッと震えた。改めて今が冬であることを体の髄から思い知る。その寒さから逃れるように、タツの車の助手席に飛び乗った。運転席のタツがキーを差し込み、捻る。ようやく出番が来たと意気込むミニバンが、いきり立つようにエンジンをふかす。
「どこに行くの?」
「だから、それは行ってからのお楽しみだって」
 車が重々しく動き出す。タツが慣れた手つきでハンドルを回す。次第に車内の暖房が効き始め、モヤがかったフロントガラスに黄色のまま明滅する信号機が霞んで見える。
「お楽しみって言ったって、まだ夜も明けてないのに」
「でも、もうじき朝だ」
 出発から十数分、遠くの空が次第に白んできた頃、タツが突然、車を路肩に駐車した。外に出ると、冷たい風が鼻に当たった。海岸沿いの大通りだ。目の前にいくつか堤防が伸び、さらにその奥に鹿児島を薩摩と大隅の二つに分かつ錦江湾と、そのど真ん中にそびえる桜島が見える。
「ここだよ、お前と来たかったんだ」
 タツが堤防の突端まで歩いていく。
「ここって…、別にただの堤ぼ… ――――」
 瞬間、僕は、思わず息を呑み込んだ。
 目の前に広がる薄らいだ水平線から、晴れ渡る空に向かって、朝陽の光芒が射している。その壮麗な輝きに見惚れている間に、太陽は桜島の背中を昇って、放射状の美しい薄明光線を空に描き始める。影になった桜島に見守られながら波打つ群青の海は、まるで大地が胎動しているかのようにも見えた。
 刹那に渾然となった明暗が、自然の悠久と、その連続性を雄弁に語るのを、僕は心に感じずにはいられなかった。
「綺麗だ……」
 僕は自分でも無意識に感嘆していた。
「なぁ、隼人」
 タツが冷たい朝風に声を乗せた。
「なに?」
「俺と香奈はさ、付き合ってもう五年になるけど、昔からずっと、お互いの価値観はまるっきり違うんだ」
「価値観?」
「たとえばさ、俺はドライブ中に道に迷ったら、すぐにカーナビをつけてしまうけど、香奈はいつも、せっかくだから知らない道を探検しようって言うんだ。俺は将来、いっぱい金を稼いで、でっかい家を建てて、高い車を買いたいけど、それを言うと香奈はいつも、高価なものなんてなにも要らないって言い返してくるんだ」
「…つまり、どういうこと?」
 視線を桜島から横にずらして、訊き返す。朝陽にかざされた親友の目が、優しく笑ったように細まっている。
「結局のところ、俺も香奈も元は赤の他人なんだ。ほら、有名な曲でもあるだろ? 育った環境も、食べてきたものも違うんだから、お互いの価値観が完全に合うなんて、そんなのありえないんだよ。そもそもな。だからさ、大事なのはさ、お互いの価値観を合わせることじゃなくて、それぞれの価値観をお互いに理解し合って、受け入れることなんじゃないのかな」
「……うん、そうだね」
 タツがなにを言いたいのか、よく分かった。そして、彼の言っていることは真に正しいとも思った。その通りだ。自分の価値観が正義であるのなら、相手の価値観もまた正義なのだ。それを理解しようとせずに押し付け合うから、そこに軋轢や誤解が生まれてしまうのだ。
「なぁ、隼人」と、タツは錦江湾に浮かぶ桜島を目で捉えて、再び言った。「高校の卒業式の日に、担任が言ったあの言葉、覚えてるか?」
「もちろん、覚えてる」
 ちょうど昨日、思い出していたところだ。
「人生の岐路にぶつかった時、郷愁は古いボートになる。上手に使いこなせば対岸にまで辿り着けるが、操舵を誤ると、たちまち海の底へと沈んでしまう。どうだ、今ならあそこに見える対岸にまで、漕いで行けるような気がしてこないか?」
「うん……、する」
 僕は消え入るような声で言って、頷いた。錦江湾の潮のざわめきが、胸の鼓動と共鳴する。空を仰ぐと、昧爽の空を一羽の鳥が優雅に帆翔するのが遠くに見えた。