朝から雨が降り出しそうな嫌な天気だった。ベッドに体を起こして、テレビの電源をつけると、お天気キャスターの可愛らしい女性が晴れ晴れとした顔で、
『今日は一日、傘を忘れずに』
 と言っている。なんだかそれが妙に腹立たしくて、僕はすぐにテレビを消した。暗くなった液晶画面に、悲壮感の漂う僕の表情がぼんやりと滲むように映っている。
 中途半端に伸びた前髪を掻き上げ、深々と中身のない溜息をつく。立ち上がり、洗面所に移って顔を洗う。歯を磨いて、寝癖を直して、ワンルームの狭い部屋に戻ると、ついさっき吐き出した溜息が、まだそこにじっとりと残っているような気がした。僕はそこにもう一つ溜息を落として、傘を手に取り、家を出た。
 アルバイト先の映画館に向かうために最寄りの駅から電車に乗って、新宿駅で降車した。南口から地上に出て、そのまま三丁目の方に向かっていく。
 向かいから歩いてくる人の肩がぶつかりそうになり、慌てて体を逸らして避けた。すると、今度は後ろから来ていた人に肩がぶつかった。チッと舌打ちをされ、僕はボソリと謝罪する。ごめんなさい。なにに対して謝っているのかは、正直分からない。
 新宿の人混みが天気に左右されることはないと知ったのは二年前、大学進学を機に上京してきてすぐのことだった。
 土砂降りの雨の日だろうが、皮膚を溶かすような灼熱の日だろうが、新宿はいつも多くの人で溢れかえっていて、そして僕はいつまで経っても、その喧騒に馴染めずにいる。
 しばらくビルに挟まれた大通り沿いを歩いていると、左手側に煤けた看板が現れる。『シネマ・グリュック』と書かれたその看板は見るからに古びていて、開業した五十年前からずっと同じものを使っているらしい。
 十一階建てビルの地下一階が、シネマ・グリュックのフロアになっている。以前は同じ新宿内でも少し外れのところに劇場を構えていたそうだが、使っていた建物の取り壊しに伴い、十数年前にここに移転してきた。
 小さなスクリーンが二つあるだけのこぢんまりとした劇場だが、大手シネコンにはない老舗ならではの不思議な趣があって、僕はそれが気に入っている。
 グリュックというのはドイツ語で「幸運」という意味らしい。なんでも、この劇場の初代支配人が、「映画を見にきてくれた人たち全員に幸せになってもらいたい」という願いを込めて、その名を付けたのだそうだ。

 入り口の自動ドアを抜けて、正面右手に受付カウンターがある。そこではチケットとパンフレットしか売っておらず、フードやドリンクの販売もないので、中のスペースはかなり狭い。
 そこで作業をしている朝番のバイト仲間に黙礼をしてから、その奥に隣接している事務室に向かう。引き戸のドアノブは冬の余韻を残していて、触れるとまだ少しひんやりとした。
 ゆっくりとドアを開いていく。ロビーに灯る淡いオレンジ色の照明から一転して、無機質な青白い蛍光灯の光が線になって射し込んでくる。片目を瞑り、口を捻り、顔を歪めながら、さらに押し開く。
 事務室の中に入ると、目の前に見知らぬ女性が立っていた。肩まで伸びた黒髪を空調になびかせ、光をたたえた大きな瞳をこちらにくるりと向ける。
「あ、こんにちは、私、高尾春香(たかおはるか)といいます。今日からここでアルバイトをさせてもらうことになりました。よろしくお願いします」
「あ……、あっ、僕は、柏葉隼人(かしわばはやと)です。よろしくお願いします」
 春は出逢いの季節だなんて、そんなのはただのロマンチストの戯言(ざれごと)だと思っていた。単なる時期的な必然が小さな偶然を巻き込んで起きた結果じゃないか、と。
 だけどこの時、冷たい事務室のドアを開いたその瞬間、僕は、彼女に運命を感じた。ロマンチストの戯言じゃない。春は、やはり出逢いの季節だった。単なる時期的な必然が小さな偶然を巻き込んで起きた結果を、時に人は運命と呼ぶのだ。
「がはは、なんだよ隼人、緊張してんのか」
 彼女の後ろから、水面を打つ滝のような笑い声が聞こえた。この劇場の現支配人、飛田(とびた)さんの声だった。大きな岩を三つ積み上げたような体をしていて、上背も横幅も普通の人よりも倍はあるから、その姿は彼女越しにでもよく見える。
「うるさいな、飛田さん、別に緊張とかしてないですから」
「まぁまぁ、ちょうど今日は、お前とシフトの入り時間が一緒なんだ。映画館の仕事について、この子に色々と教えてやってくれよ」
 飛田さんは言うと、自分のデスクにドカッと腰を下ろして、不器用な手つきでノートパソコンと格闘を始めた。最近やたらと目が悪くなって、パソコンの文字が見えづらいんだよ、というのが、還暦を過ぎて久しい彼のもっぱらの悩みらしい。
「分からないことばかりで、足を引っ張ると思いますけど、よろしくお願いします」
 彼女が再び僕に向き直って、くしゃりと笑った。その邪のない緊張混じりの微笑みは、この時の僕にとっては、まさしく冬に凍えた身体に吹きつける暖かい春の訪れそのものだった。
「はは、大丈夫だよ、そんな大した仕事があるわけじゃないから」
 僕も彼女の笑みに釣られて思わず笑った。なんだか、自分の笑い声を聞くのは随分と久しぶりのような気がした。



 この劇場でのバイトスタッフの仕事の九割がチケットの販売になる。受付カウンターに来た客に観る映画のタイトルを訊き、席を指定してもらい、料金をもらって、チケットを渡す。それだけ。パンフレットの販売もそれと同じような流れで、受付の後ろに設置された棚の中から注文の品を取り出し、料金をもらって、商品と交換する。それだけ。
 僕と彼女が受付カウンターに入った時間は、ちょうど映画の上映が始まった直後のタイミングだったため、ロビーはがらんどうの状態だった。
「ちょうどお客さんいないし、カウンター作業の流れ、ちょっとやってみる?」
 受付カウンターには背中合わせになった二対のパソコンが備え付けられ、受付側と客側が連動して同じ画面を映すようになっている。受付側のパソコンはタッチパネル式になっていて、客側から操作することはできない。
「受付のレジは一つだけなんですか?」
 胸に研修中の札をつけた彼女が、僕の後ろに立って、訊ねた。
「まぁ、小さな劇場だからね。馬鹿みたいに混み合うことも、そんなにないし」
 そんなにない、というより、ほとんどない。まったく、に限りなく近い、ほとんどだ。
「そっか、なるほど」
「まずはお客さんがここに来たら、観たい映画を言ってもらって、その映画のタイトルを、こういう風に指でタッチする。タッチしたら、ほら、こんな感じで画面が変わるから、今度はお客さんに料金区分を訊く」
「区分?」
「お客さんが一般なのか、学生なのか、シニアなのかってこと」
 パソコンの画面に羅列された上映中の映画タイトルのうち、どれか一つをタッチすると、画面が切り替わり、区分選択を求められる。
 映画料金の相場はどの劇場も大体同じで、ここシネマ・グリュックでも他の劇場と変わらない料金設定を取っている。一般が1900円、学生が1600円、シニアが1200円、中学生以下だと1000円。
「株主優待とか、障がい者割とか、結構細かいんですね、区分」
「そうそう。そこらへんはまた、あとでゆっくりと教えるよ」
 料金区分を選択すると、今度は、スクリーン内の座席図が表示される。白色が空いている席で、すでに埋まっている席はグレーに塗られている。対面の客に口頭で希望の席を選んでもらい、その席を受付側の画面でタッチすれば、そこが白色から赤色に変わる。ここがあなたの席ですよ、の赤だ。
「席が赤色になったら、お客さんに、その座席番号を口で伝える。これはマストね。たとえばBの13を選んだとしたら、『赤くなったBの13をお取りしました。お間違いはないでしょうか。発券後のキャンセルはできかねますので、ご了承ください』みたいな感じで、確認するの」
「あ、キャンセルできないんですね」
「うん。それを必ず伝えないと……」
「伝えないと?」
「あとあと面倒なことになる、ことがある」
「なるほど」
 彼女は分かったような分からないような、微妙なニュアンスで小さくコクンと頷いた。
 チケットを購入したあと、自分の席についてから、「やっぱり席を変更したい」と申し出てくる客も稀にいる。いや、時々いる。しょっちゅういる。
 とはいえ、座席変更を求めてくる客のすべてに対応していたらキリがないし、他の客とのトラブル、たとえば席の取り合いとかも起こりかねないため、この劇場では一律でキャンセル不可の対応を取っている。
 だからこそ、チケット発券前のアナウンスは必要不可欠なのだ。事前にキャンセルができないことを伝えておけば、大抵の良識ある客は納得してくれる。
 と、受付時のパソコンの操作方法をひと通り彼女に伝え終えると、僕たちの後ろから突然、欠伸混じりの眠たそうな女性の声が割り込んできた。
「そんなの、テキトーでいいんだよ、テキトーで」
「テキトーじゃ駄目でしょ、布田(ふだ)さん」
 この日、朝番のシフトで受付に入っていた布田さんは三十路手前のあっけらかんとした女性で、ここでのバイト歴も僕より長い。人見知りの激しい僕が気を許せる数少ない知り合いの一人でもあった。
「だってさ、いくらこっちが懇切丁寧に接客しても、怒る人は理不尽に怒るでしょ。私なんてこの前、なんだその丁寧すぎる喋り方は! 客を馬鹿にしてんのか! って言われたよ。だからさ、そういう奴らは勝手に怒らせておけばいいの。こっちは知らんぷりでいいの」
「そうなんですか?」
 布田さんの言葉を真に受けた彼女が、琥珀のような艶めいた栗色の目を向けてくる。彼女のその至って真剣な眼差しが、僕の心をいちいち惑わせる。
「この人の言うことは聞かなくていいから」
 揺れ動く自分の感情から目を背けるように、僕は布田さんに視線を逸らして嫌味を言った。布田さんは一瞬、細く整えた眉を逆立て、ムッとしたが、すぐに僕の気持ちを見透かしたかのように目尻を絞って、真っ赤な唇に意地悪な微笑を浮かべた。
「ははーん、隼人、あ、そういうこと」
「なんですかそれ、やめてくださいよ、もう」
 布田さんの射るような眼光から逃れるように、再び視線を逸らす。逸らした先に、彼女の優しい表情があった。二重のくっきりとした彼女の目と、僕の目が、ふと見えない螺旋を描いて混じり合う。
「そういうことって、どういうことですか?」
 彼女が無垢な顔で訊ねてくるので、僕は慌てて首を捻って、
「さぁ、僕にもさっぱり」
 と言ってごまかした。



 それからしばらく経って、
「あの」
 と彼女がなにかを僕に言いかけたところで、劇場の入り口の自動ドアが鈍重な音を立ててゆっくりと開いた。地上から階段を降りてやってきたのは常連の中年男性。僕が受付カウンターに立ち、彼女には僕の後ろに回ってもらった。
 あとから聞けば、彼女は今年の春、つまり今月の頭に大学に進学したばかりで、アルバイトをするのもこの劇場が人生で初めてとのことだった。
「どちらの映画をご覧になられますか?」
 僕が訊ね、客が答える。区分を選び、席を指定してもらう。途中、背後で彼女に話しかける布田さんの声がボソボソと聞こえた。
「高尾さん、あ、やっぱり春香ちゃんの方がいい? 春香ちゃんでいいよね。そっちの方が親しみやすいし。春香ちゃんはさ、いま彼氏とかいるの?」
 合コンの男かよ。合コンなんて一度も行ったことはないけど。心の中でそう呟きつつ、意識を前方に戻して、金額を提示する。2000円を受け取り、100円を返す。
「いないいない、いないですよ」
 彼女が恥ずかしそうに顔の前で手のひらを振るのが視野の隅っこに見えた。
 それにしても、初対面の人間に対して彼氏がどうとか、そんな不躾な質問をすれば、大抵の場合は相手を不快にさせてしまうというのに、布田さんのその無遠慮には、どこか周りを和ませる不思議があった。
「そうなんだ、春香ちゃん、可愛いのに」
 と、その言葉に嘘がないのもよく分かる。
「可愛くないですよ、私なんて全然」
 カウンターの会計が終わる。チケットを受け取った男性は、そのまま再び自動ドアをくぐって地上に戻っていった。購入した映画の上映開始時刻まではまだ一時間近くもある。遅めの昼食か、あるいは早めの夕食をとりに行ったのかもしれない。僕が後ろを振り向くと、布田さんがニヤニヤした目を浮かべていた。
「ね、隼人、春香ちゃん、可愛いよね」
「あ、えっと…、はい……」つい言い淀む。「だけど僕は、あんまりそういうの、よく分からないですけと……」
 布田さんはしどろもどろになる僕を見て愉快そうに笑うと、再び彼女に視線を戻し、さらに訊ねた。
「じゃあ、今まで彼氏がいたことは?」
「いたことはありますけと…」
「へー、じゃあ隼人よりは上だね」と、そう言って今度は僕を指差す。なにを言い出すかと思えば、「隼人、こう見えて、今まで彼女いたことないんだよ」
「え、本当ですか?」
「そうそう、顔は良いのに、恋愛にはとことん奥手なの」
「どっ…、どうでもいいじゃないですか、そんなこと。高尾さんも、ごめんね、あんまり気にしないで」
「あ、柏葉さんも良ければ私のこと、下の名前で呼んでください。なんだか苗字で呼ばれると私が山になっちゃったみたいで、実は少し恥ずかしくって」
「じゃあ…、えっと、春香…さん……?」
 僕はぎこちなく唇を震わせながら、彼女の名前を口にした。春香さん。この音の響きが、僕のぼやけた恋心に確かな輪郭を描いていく。
「はい、ぜひそれで!」
「春香ちゃんもさ、隼人のことは、隼人でいいよ。だってほら、柏葉さんだと、隼人が山みたいに… 」
「それは、ない」
 いちいち余計なことを言う布田さんを、僕は声で制した。
「隼人さん。うん、たしかに柏葉さんより少しだけ言いやすいかも。漢字はどんな字を書くんですか?」
「隼はハヤブサの隼で、人はヒトの人」
「ハヤブサ」
「そう、僕は飛べないハヤブサなんだ」
「飛べない、ですか」
 彼女、春香さんは、筋の通った鼻先に指を鉤にして当て、小さく破顔した。彼女のその笑顔が、輪郭の生まれた僕の恋心に、今度は鮮やかな彩りを付け足していく。
 久しく感じたことのなかった、この高揚感。胸が弾み、心臓の奥深くのところがジクジクと疼いた。



「そういえば、あの、なに?」
 さっき春香さんが言いかけた「あの」の続きが気になって、僕は訊ねた。ところが彼女はキョトンとした顔になって、
「え?」
 と小首を傾げた。
「いや、ほら、さっきなにかを言いかけたから」
「あれ、そうでしたっけ」
「覚えてないのなら、別にいいけど」
 なんとなく、今の反応で彼女にとっての僕の存在価値の低さが透けて見えた、ような気がした。
 もちろんそれは僕の単なる思い過ごしで、彼女にそんなつもりは微塵もないのだろうけれど、僕みたいに卑屈で、女性経験に乏しい男は、女性からの評価を過度に気にして、女性が発する一言一句を深読みし、勘違いしてしまう生き物なのだ。そのたびに僕は深い自己嫌悪に陥り、つい嫌な記憶を思い出してしまう。
『隼人くんのこと、知れば知るほど嫌いになっちゃう』
 布田さんは、これまで僕には彼女がいたことがないと言ったけれど、正確には、こんな僕にも一度だけ彼女がいた時期があった。
 今からおよそ六年前、中学三年生の頃だ。たった一週間の恋人生活。相手は同じクラスの女の子で、告白してきたのは彼女の方だった。
 その頃は学校全体がどこか色気づいていて、彼氏彼女を作るのが、ある種のブームになっていた。相手の女の子もその流行りに乗ろうとしたのだろう。急に放課後に呼び出され、前々から隼人くんのこと良いと思ってたの、と言われた。
 初めて異性から好意を伝えられた僕は、当然のように舞い上がり、有頂天になり、告白もすぐに了承した。一瞬で、彼女のことが好きになった。
 交際した一週間のうち、デートは一度もなかった。親の携帯電話を借りて、メールのやり取りはしていたが、五日目あたりからそれもなくなった。そして来たる七日目の朝。その恋人に別辞の言葉として告げられたのが、
『隼人くんのこと、知れば知るほど嫌いになっちゃう』
 嫌われるようなことをした覚えはなかった。メールの文言も細心の注意を払っていたつもりだった。けれど、そう言われた。なにがいけなかったのかは今でも分からない。しかし彼女のその一言が、今の僕の人格の一部を、つまり女性恐怖症の部分を作り上げてしまっているのは間違いない。これがいわゆるトラウマというやつなのだろう。
「あれ、隼人って今、何歳だっけ?」
 と、布田さんが唐突に僕に訊ねた。
「え? あぁ、僕は今年の九月で二十一歳です」
 二十一歳。今はまだ二十歳。大学三年の年。あれから六年もの月日が流れたというのに、僕は未だに当時の失恋を引きずり、布田さん以外の女性とまともに仲良くなれずにいる。心を開くという作業に、どうしてもためらいを覚えてしまうのだ。
「春香ちゃんは?」
「今はまだ十八歳で、あと少しで十九になります」
「うげっ! 私と十個も歳離れてんの? こーわっ!」
 大袈裟に目を丸々と広げて慄く布田さんに、僕が反撃とばかりに、「布田さん、今年で三十ですもんね」とからかうと、布田さんはさらに大袈裟な身振りを交えて、
「違う違う! まだ二十九!」
 とムキになった。
「同じようなものじゃないですか」
「全然違うから。女の二十九と三十は、男の成人と還暦くらい違うから」
「でも」と春香さんが言った。「布田さん、素敵だと思います。だって、十年後の自分を想像した時、私、布田さんみたいに溌剌としている自信、ないですもん」
「あれ、それ褒めてる? けなしてる?」
「もちろん褒めてます!」
 すっかり姉妹のように意気投合した二人を見ながら、ふと僕の頭の中にありきたりな質問が浮かんだ。
「あ、そういえば」
 と言いかけたところで、再び入り口の自動ドアが重たく開いた。中に客が入ってくる。二人組の若い女性だった。
「いらっしゃいませー」
 布田さんがカウンターに立って、対応する。そのあいだ僕と春香さんは後ろに下がって、パンフレットを保管している木製の棚に背中をもたれた。
「そういえば、なんですか?」
 と、春香さんが僕を少し見上げるように顔を傾げた。不意打ちの上目遣い。僕は露骨に動揺した。
「……えっ? ごめん、なんて?」
「隼人さん、今なにか言おうとしてませんでした?」
「そうだっけ?」
 ごまかしているわけではなく、本当にこの瞬間だけ、直前に自分がなにを言おうとしていたのか忘れてしまっていた。
「覚えてないなら、いいですけど」
 春香さんはそう言って、さっきの僕を真似するように、わざとらしく肩を浮かせた。



 その日の夜、十時半過ぎに帰宅した僕は、部屋の電気もつけずに、ベッドの上に仰向けになって、しばらく物思いにふけっていた。
 あ、そういえば。数時間前に言いかけた僕の言葉は、あのあとすぐに思い出した。「あ、そういえば、春香さんは好きな映画とかあるの?」たったそれだけの質問だった。それなのに結局、僕はその質問を二度と口にしないまま、シフトを終え、退勤カードを切り、春香さんとは映画館の前で別れた。
「もっと話したかったなぁ……」
 部屋に誰もいないのをいいことに、僕は心の本音を声に出して言ってみた。すると、自分の胸の内に芽生えた感情を初めて吐露したことで、輪郭が生まれ、彩りが与えられて尚、自ら確信しきれずにいた僕の恋心が、ようやく確固たるものに変わった。
 一目惚れなんて信じない。運命なんてありえない。六年間、自分自身にずっとそう言い聞かせてきたはずのこの僕が、こうも簡単に一目惚れをしてしまうなんて。初めて会った女性に運命を感じてしまうなんて。
 あの子が好きだ――――。
 ボソリと呟く。窓から線になって射し込む外の車のヘッドライトが、悶々とする僕の声をさらっていく。
 あの子が好きだ――――。
 繰り返し言うと、決まってヘッドライトが部屋の中を駆け抜ける。
 あの子が好きだ――――。
 僕が言う。ヘッドライトが走り去る。その連続に僕は、浜辺に築いた砂の塔が押し寄せる波に呑まれて崩れていくような、そんな寥々とした切なさを感じた。
 春香さんのことを好きと思えば思うほど、それに反して、すっかり心に染みついてしまった厭世的(えんせいてき)な思考が、僕のその想いを無情に刈り取っていくのだ。
 僕みたいな人間が、人を好きになってはいけない――――。
 雨雲のように淀んだ灰色の天井にはもう、ヘッドライトは流れなかった。
 と、その時、枕元に投げていたスマホのライトが煌々と光り、ほの暗い部屋を局所的に明るく照らした。
 目をすぼめて液晶画面を確認すると、地元に離れて暮らす母さんからのLINEが一件、届いていた。
『元気?』
 と、たったそれだけ。あまりに簡素なその文面に、僕は自然と笑みを漏らした。母さんらしいなと、そう思った。
 僕の実家は九州は鹿児島の永吉という小さな町にある。錦江湾のど真ん中にそびえる桜島の火山灰にさらされながら、高校を卒業するまでの十八年をそこで過ごした。
 錦江湾というのは、正式には鹿児島湾といって、鹿児島を二分する薩摩半島と大隈半島に挟まれた円形の入り海のことだ。その中心に昂然と屹立する桜島の、その威風堂々とした佇まいは、一度見たら二度と忘れない強烈な印象があり、地元の人間にとっては心に息づく原風景のようなものだった。
 高校卒業と同時に上京した僕は、大学では日本文学を専攻した。大学に進学した理由は特にはない。強いて言うなら、母親を安心させるため、だろうか。いや、実際は母親を安心させたい僕自身を安心させるためだったのかもしれない。日本文学を選んだのも、ただ単純に僕の偏差値で行ける学部がそこしかなかっただけのことだった。昔から読書家だった父の影響で本を読むのは好きだったから、ちょうどよかった。
『僕は元気だよ。母さんは?』
 メールを返すと、すぐに返信が来た。
『私も元気。季節の変わり目だから、風邪には要注意』
 母さんのLINEはいつもこう。いつも短文。元気? とか、寒くなってきたから気をつけて、とか。
 実際に会うとかなり陽気な女性なのだが、スマホのデジタル文字になると途端に乾いた文面になる。
 けれど、母さんからのその短い便りを受け取るたびに、僕はいつも、小さな貝殻に耳を押し当て、広大な海の胎動を聞くかのような、無限にも思える母の愛情と安心を感じるのだった。
『母さんも、体調には気をつけてね』
 スマホを枕元に戻して、目を閉じる。今日一日、高鳴りっぱなしで心臓も疲れていたのだろう、意識はすぐに遠のいた。



「隼人さんって、出身はどちらなんですか?」
 春香さんが僕にそう訊ねてきたのは、初日の出逢いから三日が経った、二度目のシフト被りの日。この日は朝の九時から夕方の五時までのシフトだった。
 指でつまんだゴムを伸ばせば伸ばすほど、それを離した時の威力が増すのと同じで、三日間の会えない日々と、三日ぶりに見る彼女の姿は、僕の中にある恋の確信をさらに強めた。
 映画館自体の開場時間は週によってまちまちで、今週は朝の九時半が一階のガラス扉を開けるタイミングになっていた。
 それまでに九時出勤のバイトと社員が一緒になって、まずは劇場全体のコンピューターを起動させ、レジを起こす。それから物販の在庫チェックや、昨日からの申し送り事項を確認し、ロビーの自動ドアをオンにする。大体すべての作業を完了するのに二十分程度かかり、余った残りの十分間は、開場するまでの小休止タイムになる。
「鹿児島だよ」開場準備を終えて、ひと息ついたところで、僕は答えた。「大学進学で上京してきて、今年でもう三年目かな。春香さんは? 出身はこっち?」
「はい、生まれも育ちも東京です」
 春香さんは、なぜか嫌そうな顔をして言った。
「え、嫌いなの? 東京」
「別に嫌いではないですけど、ただ、なんだか味気ないよなぁとは思います。東京の人間からしたら、地方に故郷があるのって結構、憧れなんですよ」
「あー、たしかに僕も、こっちに来てすぐの頃は、大学の人によく言われたなぁ。地方っていいよな、帰省が羨ましい、みたいな感じで」
「そうそう。帰省って素敵ですよね。なんか、こう、帰省っていう音の響きが、もうそれだけで胸が躍るというか……。鹿児島、私もいつか行ってみたいです」
「んー…、行ったら行ったで、火山灰は降るわ、遊ぶ場所はないわで、すぐに飽きちゃうと思うけどね。結局、東京が一番いいって思うよ、きっと」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだよ」
「でも私、あれ食べてみたいです。本場のさつま揚げ。やっぱり東京で食べるのより、全然違うんじゃないですか?」
「さつま揚げか。こっちで食べたことないから分からないけど、どうなんだろ」
「鹿児島ではつけ揚げって言うんでしたっけ?」
「そう、つけ揚げ。もっと言うと、つっきゃげ」
「へー、つっきゃげ。ふふふ、いいですね、なんだかついつい口に出して言いたくなる。つっきゃげ」
 と、そんな話をしているうちに時間は経ち、そろそろ一階のガラス扉を開けようかといったところで、不意に春香さんが思い出したように手を叩いた。
「そういえば隼人さんって、好きな映画とかあるんですか?」
「……え?」
 僕は、またもや自分の心臓がぐらぐらと揺れ動くのを感じた。三日前、僕が彼女に訊こうと思って訊けなかった質問。まさか彼女の方から訊いてくるなんて。
「映画館で働いてる人って、結構ディープな映画が好きだったりするイメージなんで、隼人さんもそうなのかなぁって」
「いや、でも、僕は正直、あんまり映画は詳しくないよ」
 映画はもちろん好きだけど、決して詳しいわけではない。この劇場でアルバイトをするようになったのも、たまたまここの求人広告をスマホで見つけたのがキッカケだった。
「じゃあ、好きな映画はスターウォーズ? ハリーポッター?」
「ふふ、どっちとも好きだけど、一番はやっぱり、ライフ・イズ・ビューティフルかな。春香さんも知ってるんじゃないかな。昔の有名なイタリア映画なんだけど」
「あ、名前は知ってます。あれですよね、父親と小さな息子がナチスの強制収容所に連れていかれてしまう、戦争のお話」
「要約すると、まさにそんな感じ。でも僕が好きなのはそこじゃなくて、いや、そこも好きなんだけど、一番好きなのは、その父親と母親が出逢って、結婚するまでの前半部分なんだよね。ラブコメみたいで、とにかく面白くて、笑えるの」
「戦争映画なのに、ラブコメ?」
「まぁ、そういう趣旨で作られたのかは分からないけど」
 映画の前半は、春香さんの言うように、戦争を扱った映画とは思えないほど軽妙なテンポで展開していく。主人公であるイタリア系ユダヤ人のグイドという男が、ドーラという一人の女性に一目惚れをして、何度もアプローチを仕掛けていくだけのストーリー。
 ドーラにはすでに婚約者がいたが、それでもグイドは諦めず、あの手この手を使って自分をアピールする。最終的にはドーラもそんなグイドに恋をして、二人は晴れて結ばれるのだった。
「それ、婚約者の男からしたら、堪ったもんじゃないですね」
「たしかに、それもそうだよね」
 グイドは特別なユーモアの持ち主だった。雨が降ろうが、車が壊れようが、服が破けて下着が見えようが、そのすべてを笑いに変えた。ドーラはきっと、どんな状況でも驚きと笑いと感動を与えてくれるグイドのその人柄に、次第に惹かれていったのだろう。
 偶然にもグイドは、ドーラの婚約パーティの会場で給仕として働いていた。婚約者を連れて現れたドーラの姿に動揺を隠せないグイドは、呆然とするあまり足をつまずき、トレイに乗せて運んでいたお菓子のビーンズを床にばら撒いてしまう。
 ビーンズは純白のクロスが掛かった主賓席の下にまで散乱してしまっていて、慌てたグイドはそれを四つ足になって掻き集めようとする。
 すると、それに気付いたドーラが、同じく四つ足になって、テーブルの下のグイドのもとにやってくる。そこで二人は見つめ合い、キスをする。
 やがて駆け落ちした二人は、ジョズエという可愛い息子を授かることになる。
 しかし彼らは時代の激流に巻き込まれ、グイドとジョズエはユダヤの血を引いているという理由で、ある日突然、ナチス軍に連行されてしまう。幸せに満ちた温かい日常は、一転して冷たくて重たい恐怖に包まれていく。
 愛と可笑しみにあふれた映画前半のラブコメディは、のちに訪れる戦争の悲劇を引き立てるための、いわば前フリなのだが、僕はその前フリ部分が大好きだった。
 愛に突き動かされたグイドの人並外れた行動力は、それとは対極の位置にいる僕にとっては、決して手の届かない憧れそのものだったのだ。
「とまぁ、大体こんな感じ」
 僕が説明を終えると、春香さんは興味深そうに何度も頷き、
「へぇ、いいですね。今度、借りて観てみますね」
 と、そう言って近くにあった紙切れに映画のタイトルを書き留めた。それはただの社交辞令なのかもしれないけれど、しかし彼女のその優しさが、僕には堪らなく嬉しいのだった。

 開場時間の九時半になった。一階のガラス扉を開けて、地下の受付カウンターで待機していると、やがて入り口の自動ドアが、まるで微睡みながら寝起きの欠伸をするかのように、のんびりと開き、外から一人目の客を迎え入れた。
「いらっしゃいませ!」
 彼女との会話の余韻で、表情を緩めたまま発した僕の第一声は、心なしかいつになく、自分でも驚くほどに朗々と弾んでいた、ような気がした。