病院の廊下は、ねっとりとした空気が漂っており、息を吸う度にそれが喉に貼り付くかのような心地だった。

 なんで母さんが。
 今朝はあんなに元気そうだったのに。
 なんで?どうして?

 誰に向けるべきなのかさえ分からない疑問と怒りを心の中で吐き捨てるように呟き、廊下に設けられているベンチに腰を下ろした。

 美空は今頃学校に着いた頃だろうか?
 きっと誰よりも優しい美空のことだ、俺のことを心配して教室にいても、うわの空になっているんじゃないだろうか。

 美空には心配をかけたくなった。
 いや、悲しみで押し潰されそうになっている自分を見せたくなかったが、正しいのかもしれない。

 だから、「私も一緒に病院に行く!」と何度も食い下がる美空を、俺は必死に説き伏せた。

 美空と別れたあと、いつもとは反対方面の電車に乗り、そこから先は病院へと直結しているバスに乗り継ぎ、病院に辿り着いた。

 バスの小窓からみえた景色やどんな客層で、自分はどの位置に座っていたのか、道中の記憶がほとんどない。きっと気が動転して、何も考えれなくなっていたのだろう。

 病院には、母が倒れた際にその場にいた父と弟が既に落ち着かない様子で廊下に立っており、意識のない母は救急処置室に運ばれたと聞いた。

 「じゃあ…何か状況が変わったら呼んで。上にいるから…。」

 精一杯の声を、振り絞るように放ったその声を、弟に向けた。

 その後、踵を返し、ひんやりとした廊下を進み一段ずつゆっくり階段を登った。まるで膝上まで水で浸かってるような心地になり、いつもより何倍も持ち上げる足に重さを感じた。

 ようやく階段を登りきると、廊下には小さなベンチがあり、そこに今、俺は腰を下ろしていた。

 もし、このまま母さんが目を開けなかったら。
 今朝、玄関で交わした言葉が、最期になってしまったら。

 そう思うと、途端に怖くなった。
 小刻みに震え始めた左手を抱きしめるように右手で包み、そっと瞼を閉じた。

 どれくらいの間、そうしていたのだろう。

 緊張と不安に心が耐えきれなくなったのか、気付けば意識を手放していた。

 目が覚めたのは、誰かに頭を撫でられた気がしたからだった。

 だが、ゆっくりと持ち上げた瞼の先には誰もいない。無機質な廊下が広がり、ねっとりとした空気が満ちているだけだった。

 寝ぼけていたのか、と心の中でぽつりと呟き、壁に預けていた身体を起こした時、勢いよく階段を駆け上がってくる音が鼓膜に触れた。

 青ざめた顔をして、目一杯に涙を浮かべた弟をみて、俺は全てを悟ってしまった。

 母さんは、ついさっきこの世を旅立ったのだと。