「・・・〈住んでいる〉とはすこし違う気もします。わたしは、家を持つことを禁じられていますから。家に帰るというのが、どんな感覚なのかもわかりません」
「馬鹿な質問で悪いが、家出ではなさそうだな」
「奴婢、ですから。母の代からずっとなんです」
じわり、涙がにじんだような気がして、男はあわてて話題を変えた。
「ここの土地神は誰だ」
〈土地神〉とは、その土地の守り神である。
人間が間違いを犯せば罰せねばならない。奴隷制度など、許してはならないのだ。
娘はええと、と麓の村から隣の山へ指さした。
「あそこの岩山の洞穴(どうけつ)に眠っておられる大蛇(おろち)さまです。五年に一度、生贄(いけにえ)を求めるこわい水神様ですよ。若い女の血肉がお好みだそうで・・・。あ、今年は五年目だったかしら」
けろりと教えられ、男は目を丸くする。
「おい、そなたは大丈夫なのか?」
「問題ありませんよ。大蛇さまは舌が肥えていらっしゃいますから、白羽の矢が立つのは美人ばかりです。――わたしは見ての通りの格好ですし、眼中にありませんよ」
「・・・だと、いいが」
男はしばし、心配そうに視線をおくったが、それ以上追求しなかった。
彼女は出逢ったばかりの赤の他人だ。
その私生活にまで介入するほど、お人好しではない。
祭り囃子の音が近づく。
やがて、環濠(かんごう)と柵に囲まれた集落の入口までたどり着いた。娘はまるで泥棒のように、木の陰でこそこそと湧き水の入った壺を受け取る。
「ここまででいいのか?」
男は釈然としなかったが、娘は強くうなずいた。
「はい。あなたのような尊い方のご厄介になったと知れれば、わたしぶたれますから」
「殴られているのか」
「・・・ときどき、ですよ。お怒りに触れることは、生きていればどうしてもあることなので」
淡々と、「それでは」と娘は深々と頭を下げた。
ふと、立ち止まる。
「あの、ご恩を忘れたくないのでお名前をうかがってもよいですか。わたしは・・・名のる名前そのものを許されていないので、申し訳ないのですが」
男は、「名前もないのか」となにやら口の中で繰り返していたが、名乗った。
「私の名は、獏だ」
娘は瞬いた。
倭では聞かない発音の名前だ。
「ばくさま、ですね。・・・けっして忘れませんよ」
娘は、ほほえんだ。
その顔に名残惜しさを見つけ、獏はかすかに目を見開く。
「馬鹿な質問で悪いが、家出ではなさそうだな」
「奴婢、ですから。母の代からずっとなんです」
じわり、涙がにじんだような気がして、男はあわてて話題を変えた。
「ここの土地神は誰だ」
〈土地神〉とは、その土地の守り神である。
人間が間違いを犯せば罰せねばならない。奴隷制度など、許してはならないのだ。
娘はええと、と麓の村から隣の山へ指さした。
「あそこの岩山の洞穴(どうけつ)に眠っておられる大蛇(おろち)さまです。五年に一度、生贄(いけにえ)を求めるこわい水神様ですよ。若い女の血肉がお好みだそうで・・・。あ、今年は五年目だったかしら」
けろりと教えられ、男は目を丸くする。
「おい、そなたは大丈夫なのか?」
「問題ありませんよ。大蛇さまは舌が肥えていらっしゃいますから、白羽の矢が立つのは美人ばかりです。――わたしは見ての通りの格好ですし、眼中にありませんよ」
「・・・だと、いいが」
男はしばし、心配そうに視線をおくったが、それ以上追求しなかった。
彼女は出逢ったばかりの赤の他人だ。
その私生活にまで介入するほど、お人好しではない。
祭り囃子の音が近づく。
やがて、環濠(かんごう)と柵に囲まれた集落の入口までたどり着いた。娘はまるで泥棒のように、木の陰でこそこそと湧き水の入った壺を受け取る。
「ここまででいいのか?」
男は釈然としなかったが、娘は強くうなずいた。
「はい。あなたのような尊い方のご厄介になったと知れれば、わたしぶたれますから」
「殴られているのか」
「・・・ときどき、ですよ。お怒りに触れることは、生きていればどうしてもあることなので」
淡々と、「それでは」と娘は深々と頭を下げた。
ふと、立ち止まる。
「あの、ご恩を忘れたくないのでお名前をうかがってもよいですか。わたしは・・・名のる名前そのものを許されていないので、申し訳ないのですが」
男は、「名前もないのか」となにやら口の中で繰り返していたが、名乗った。
「私の名は、獏だ」
娘は瞬いた。
倭では聞かない発音の名前だ。
「ばくさま、ですね。・・・けっして忘れませんよ」
娘は、ほほえんだ。
その顔に名残惜しさを見つけ、獏はかすかに目を見開く。

