それなのに。彼のこととなると、こうも取り乱す。
よろけ、壁に背を預ける娘。獏はまったく変わらぬ足取りですり抜けた。
瞬きのような短い瞬間。
でも、娘には時が止まったようにゆっくりと見えた。
無視したわけではない。
気づいてすら、いなかったのだ。
次の瞬間、娘はハッとして、振り向いた。
我に返ったときには、すでに獏の背中は消えていた。
獏は塞ぎ込んだ。娘と廊下ですれ違っていらい、自室にこもりきりだ。
食事は取らずとも生きて行ける幻獣は、書斎でただただ、朦朧としていた。
生きながら死んでいるような日々だ。譲葉のことばかり脳裏によぎる。
ただただ、呆然と日がのぼり、日が沈んでゆく。
それでも毎日かかさず、女中頭の狐牡丹は食事を運んできた。
「いらん」
獏はそう言って遠ざける。引きこもってから一転してまずい料理になったのは、女中たちがたるんでいるからだろうか。・・・ますます食欲がなくなる。
「お召し上がりください。食は生きる基本ですよ」
「私は生物ではない」
「揚げ足を取るとお世話しませんよ」
「む・・・」
獏は顔をしかめた。
古くから仕える狐牡丹には逆らえない。
女中たちは皆キツネだ。報酬と引き換えに、獏はメギツネたちを雇っていた。報酬とは、幻を魅せる妖力を分け与えること。
人を化かす妖狐にとって、これほどおいしい職業はない。
獏は妖狐の気迫に負けて、しぶしぶ箸を取る。
「・・・この粥、うすすぎる。それに出汁もじゅうぶんにとれていない。誰が作った?」
指摘すると、
「職人は怪我をして寝込んでおります。新人が作ったのです」
と、しゃあしゃあと狐牡丹は言った。
「お前が作れば良いのではないか」
「私の仕事を、これ以上増やす気ですか」
妖狐は一喝した。
獏は眉を寄せ、嫌々まずい粥を口に運ぶ。
味の才能はいまいちだが、食材は極めて新鮮なものだった。肉も、魚も、山菜にいたるまで、今しがた仕入れてきたような。それ自体は悪い気はしない。
忙しいと言うわりに、狐牡丹は食べ終わるまで見張っているつもりらしかった。
・・・あまりゴネるのも、大人げない。
獏は腹をくくり、すべてたいらげた。
妖狐はうなずくと、満足げに退室した。
人間と幻獣は、時間の感覚が違う。
気づけば、夏は終わっていた。
壁代わりの布をゆらし、ひんやりと涼しい風が運ばれてくる。
よろけ、壁に背を預ける娘。獏はまったく変わらぬ足取りですり抜けた。
瞬きのような短い瞬間。
でも、娘には時が止まったようにゆっくりと見えた。
無視したわけではない。
気づいてすら、いなかったのだ。
次の瞬間、娘はハッとして、振り向いた。
我に返ったときには、すでに獏の背中は消えていた。
獏は塞ぎ込んだ。娘と廊下ですれ違っていらい、自室にこもりきりだ。
食事は取らずとも生きて行ける幻獣は、書斎でただただ、朦朧としていた。
生きながら死んでいるような日々だ。譲葉のことばかり脳裏によぎる。
ただただ、呆然と日がのぼり、日が沈んでゆく。
それでも毎日かかさず、女中頭の狐牡丹は食事を運んできた。
「いらん」
獏はそう言って遠ざける。引きこもってから一転してまずい料理になったのは、女中たちがたるんでいるからだろうか。・・・ますます食欲がなくなる。
「お召し上がりください。食は生きる基本ですよ」
「私は生物ではない」
「揚げ足を取るとお世話しませんよ」
「む・・・」
獏は顔をしかめた。
古くから仕える狐牡丹には逆らえない。
女中たちは皆キツネだ。報酬と引き換えに、獏はメギツネたちを雇っていた。報酬とは、幻を魅せる妖力を分け与えること。
人を化かす妖狐にとって、これほどおいしい職業はない。
獏は妖狐の気迫に負けて、しぶしぶ箸を取る。
「・・・この粥、うすすぎる。それに出汁もじゅうぶんにとれていない。誰が作った?」
指摘すると、
「職人は怪我をして寝込んでおります。新人が作ったのです」
と、しゃあしゃあと狐牡丹は言った。
「お前が作れば良いのではないか」
「私の仕事を、これ以上増やす気ですか」
妖狐は一喝した。
獏は眉を寄せ、嫌々まずい粥を口に運ぶ。
味の才能はいまいちだが、食材は極めて新鮮なものだった。肉も、魚も、山菜にいたるまで、今しがた仕入れてきたような。それ自体は悪い気はしない。
忙しいと言うわりに、狐牡丹は食べ終わるまで見張っているつもりらしかった。
・・・あまりゴネるのも、大人げない。
獏は腹をくくり、すべてたいらげた。
妖狐はうなずくと、満足げに退室した。
人間と幻獣は、時間の感覚が違う。
気づけば、夏は終わっていた。
壁代わりの布をゆらし、ひんやりと涼しい風が運ばれてくる。

