――わたしには、忘れられない一夜がある。

遠い意識のなかで、娘は思う。
共寝したわけでも、口づけをかわしたわけでもない。
そんなものなくとも、忘れられない男性(ひと)はいるのだ。

『顔をどうした』

心配してくれる、ぬくもりに満ちた声は、あれからずっと耳に響いている。
こころが、とろりとろけて。
思い出すだけで、ほほがゆるんでしまう。
・・・ああ。
いま気がついた。
彼はわたしの希望なのだ。
逢えなくても、この世界のどこかで生きているだけで、わたしを幸福にしてくれる。
そっけなくて、冷酷な仮面を貼り付けていても。中身はとってもあたたかくて素敵。

一緒に過ごした時間は短い。だから、わたしが見たのはあなたのほんの一部なのだろう。
それでも、わたしはその一部に〈恋〉をした。
生まれてはじめて、〈幸せ〉という感覚を知った。
知ってしまったから。
もう、もとには戻れない。
あなたを、貪欲にもとめてしまう。
あなたはたった一言で、霧を払うように雨空を押しのけて。生きる喜びを、教えてくれた。

――もう一度、獏さまに逢いたい。

出会った瞬間から、気がついたら生きることばかり考えるようになっていた。

そばにいさせて。
あなたの一部を、もっとたくさん見ていたい。


その活力が、娘を死の淵からよみがえらせた。



寝台の上で、娘はぱちりと目を開けた。
ずっと息が止まっていたような感じがする。肺に酸素がたりず、大きく口を開けて息を吸い込んだ。それから、新鮮な空気で激しくむせる。