五十年前。譲葉が危篤になったあの晩。
獏は鋏を持って〈夢糸の庭園〉へ向かった。
――君を護るために。生かすために。
そのとき、譲葉は這うようにして出てきたのだ。
「まって、獏! 待ちなさい!」
獏は驚きに息を呑む。
「譲葉、危篤状態だったのでは・・・っ」
彼女は身に迫る別れを悟ったようだった。死の淵から、気力だけで戻ってきた。
譲葉はうしろから飛び込むように抱きついてきた。
「わたしなら、大丈夫。天女だもの、回復する方法ならいくらでもあるはず」
獏はだらりと腕を下げた。脱力した顔は諦めの色が濃かった。
「ない。ほかに、方法なんて」
火喰の診察を受けた。他の神仙たちの力も借り、あらゆる方法を模索した。
しかし、結論は変わらなかった。
譲葉を蝕み、寿命を喰らっているのは、病ではなく、無理に結んだ夢の糸が原因だと。
獏の背中から譲葉は悟る。
獏を無理やりふりむかせると、涙声で叫ぶ。
「なんで諦めるの。わたしはあなたを、あきらめたくないのに!」
ぼろぼろと、涙がこぼれる。
「それとも、もう、わたしのこと・・・」
愛してない?
そう問う唇を、獏は体ごと抱きしめて黙らせた。
「好きじゃないわけないだろう。手放したいわけないだろう」
震える手で獏はやわらかい髪を掻き抱く。
「君がこの世で一番大切だから、君を救いたいから」
獏は言い聞かせる。譲葉の髪に顔をうずめる。髪を濡らすしずくを、みっともない顔を、彼女に見せたくなかった。
「こんな方法でしか、きみを救えない、無力なわたしを許してくれ・・・!」
譲葉は腕の中で激しくもがく。泣きながら首を振る。
「嫌っ。だめよ。そんなことしたら、わたし、絶対あなたをゆるさない」
譲葉はやがてもがくのをやめると、獏の胸に顔を擦り寄せた。
「いいえ。違うの。――本当は、こわい。胸が痛い。いたいの。痛くてたまらないの・・・!!」
わかっている。
獏は目をつぶる。
だって自分も同じだから。同じ気持ちだから。
ハサミを持つことしかできないこの右手を、切り落としたい。
情けなくて。惨めで。
胸が張り裂けそうなくらい、痛い。
でも。
獏はそのまま、抱きしめたまま片手を伸ばし、鋏を開く。
この決断は、間違っていないと信じている。
「譲葉。ひとつだけ、約束してくれ」
獏は小さな赤らんだ耳に唇を寄せた。
――必ず、私がいなくても。ひとりでも幸せになると。約束してくれ。
返事を待たずに、糸は、切られた。